南北朝合一

足利義満は卓越した政治感覚と強大な軍事力を行使して
各地で勢力を付けた守護大名らを制圧していく。
もはや何者も抗えない権力を有するに至った義満は
最大の難問、南北朝の争いに終止符を打つ。


義満の昇官 〜 武家と公家の頂点へ
室町御所は義満の入居後も工事が続けられていたが、1381年3月に完成する。
これを祝い、3月11日に北朝の後円融天皇を招いて落慶供養(完成式典)を執り行った。
天皇は7日ほど室町御所に滞在し管弦や蹴鞠といった宴で接待されたが、
帝が御所から出て武将の邸宅に行幸する事は重要な意味を持っていた。
つまり、義満の権威は天皇に並ぶものである事を証明したのだ。
同年6月、義満が従二位・内大臣に任命される。足利氏が内大臣に任じられたのは初めてで
義満の統治がいかに強力なものであるかがわかる。更に1382年には正ニ位・左大臣へ昇格。
後円融天皇が退位し、幹仁親王(もとひとしんのう)後小松天皇として即位した
1382年4月には、後円融上皇の院政における院の別当になり、
征夷大将軍たる義満は、同時に公家政権の最重要職にも上り詰めたのであった。
義満が発行する公文書には、二通りの花押(かおう、名を表すサインの事)が使われた。
一つは武家用、もう一つは公家用の花押で、武家政権と公家朝廷の両方において
義満の権力が浸透している証である。
幕府と朝廷を掌握する事で、義満の政権基盤は揺るぎないものになっていった。

守護大名 〜 領国統治で力を蓄えし大名
ところで、幕府は地方支配の為に有力武将を守護に任命していたが、
南北朝の争乱が激しかった1352年7月、足利尊氏は軍役の兵糧米を調達する制度として
公領や荘園の年貢を守護が半分得られる命令、半済令(はんぜいれい)を発しており
これによって守護の経済力は向上した。尊氏の半済令(観応の半済令)は1年限りとし、
近江・美濃・尾張国に限ったものであったはずだが、南朝諸将の寝返りを促したい幕府は
この制度を全国へ広げ、継続する事を黙認。幕府に従い守護になれば
領国の半分を私有地化できるという餌を撒いたのである。
しかし、この餌は思わぬ弊害を引き起こした。兵糧米の調達のみならず、
守護は領国に独自の支配権を確立し、半分どころかさらに大きな土地を私有するようになり、
荘園制度を破壊していったのだ。本来は幕府の地方役人に過ぎなかった守護が
半済を認められた事により莫大な利益を挙げ、土地の支配を広げたために
領国で巨大な力を持つようになってしまった。これが守護大名(しゅごだいみょう)の起こりである。
あまりの横暴に歯止めをかけようとした幕府は、1355年8月には山城国をはじめとする
係争中の国に限って半済を認め、その半済も年貢以外のものは禁止するように改定。
次いで1357年9月に土地の折半は幕府の許可を必要とし、義満将軍就任直前の1368年6月には
応安の半済令を発した。皇室・摂関家や地頭の置かれていない寺社領については
半済を停止したのである。しかし、この半済令ではそれ以外の所領についての禁止規定が無く
一般の公家や寺社領については半済が継続され、荘園を侵略され続けていった。
こうして力を蓄えていく守護大名は、次第に幕府にとっても危険な存在となったのである。
主な守護大名当時の主な守護大名

義満、諸国巡行 〜 将軍自ら全国を視察
各地で守護大名が勢力を広げる中、義満は諸国への遊覧を盛んに行うようになった。
1385年8月に奈良の春日大社へ参拝、1386年10月には丹後国の天橋立を観覧、
1388年9月には駿河国で富士を眺め、1389年3月には四国へ渡った。
将軍が全国へ足を伸ばす事で室町幕府の権威を示すと共に
義満自らがつぶさに諸国を視察し諸大名の動向を把握しようとしたのであった。
細川氏の領地である四国へ赴いた義満は、懐かしき頼之と再会し
そのまま2人で安芸国の厳島神社へ参拝した。が、神社参拝は表向きの事で
力を付けすぎて幕府にとって危険になった守護大名をどう統制するかを
話し合っていたのだった。この方策によって翌1390年、美濃国の守護大名
土岐康行(ときやすゆき)が幕府軍によって討伐された。
この兵乱を土岐康行の乱という。
さらに1391年4月、頼之は上洛し再び義満の政務を取り仕切るようになった。
このため斯波義将は管領を辞職し領国へ帰国、新管領には頼之の養子である
細川頼元(ほそかわよりもと)が任命される。
義満と頼之・頼元親子は協力し、次なるターゲットを絞っていた。

明徳の乱 〜 “六分の一衆”山名氏の粛清
次の狙いとされたのは、山陰や紀伊半島に領国を持つ山名一族であった。
南朝討伐の軍功により勢力を拡大した山名氏は、
1389年には11ヶ国の守護を兼ねるようになっていて
その実力は“六分の一衆”と呼ばれるほどに成長していた。
全国66ヶ国のうち11ヶ国を領有していたためにつけられた称号である。
これほどの力を持つ事は幕府にとって危険極まりない事で
義満らは山名氏の勢力を削ぐ手立てを検討していたのだ。
ちょうどその頃、山名一族は氏清(うじきよ)満幸(みつゆき)に分裂し
内紛をおこしつつあった。これに乗じた義満らは内紛に介入、
幕府に対して反乱を起こすように仕向けた。斯くして策略は見事に成功、
挑発にかかった山名一族は幕府への兵を挙げて進軍を開始する。
1391年12月、氏清は和泉国から、満幸は丹波国から京へ侵攻し
幕府軍は内野(京都市上京区)でこれを迎え撃った。
この兵乱を明徳の乱(めいとくのらん)という。激戦を制したのはやはり幕府軍、
氏清は討死し満幸は逃亡する結果に終わった。これ以後、山名氏は勢力が衰え
山名一族の領地は幕府方の武将に分け与えられた。
もはや義満の力に逆らえるものは誰も居なくなったのである。

南北朝合一 〜 60年に渡る皇統分立に幕
危険な守護大名を制した義満にとって、最後に残された問題は南北朝の対立である。
もはや力を失った南朝など恐れるに足りなかったが、その命脈を絶ち北朝の皇統に
皇位の象徴である三種の神器が返還されなければ、再び内乱の火が蘇ってしまう。
こうして、かつては南朝に与した事もある守護大名、大内義弘(おおうちよしひろ)を交渉役にし
南北朝和平の会談が開始される。従来「北朝打倒」にこだわり続けた南朝の面目に配慮し
形式上、北朝が南朝に従うような和平条件が提示された。その内容は

1.南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する事によって三種の神器を北朝へ返還
2.以後、南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)が交互に即位
3.諸国の国衙領(こくがりょう、国司が管理する土地)は南朝のものとする
4.皇室領のうち、長講堂領(ちょうこうどうりょう、各地の皇室領で最大のもの)は北朝が支配

とするものであった。「正統の南朝」から「京の北朝」へ位を譲り
国衙領も南朝のものと認める内容に、南朝方は理解を示した。
(というか、南朝に反論する実力はもはや無かった)
斯くして、1392年の末に後亀山天皇は京都へ還幸、後小松天皇へ三種の神器が譲られた。
南朝と北朝は一つになり、約60年に渡る皇統分立の時代が終わったのである。
しかし、和平の条件は履行されず、大覚寺統はそのまま打ち棄てられ
持明院統のみが皇位を継承していき、南朝方へ皇室領は与えられなかった。
北朝へ神器を戻して体裁を整える事が目的の和平であるからして
最初から守られるはずが無い和睦条件だったのだ。
また、それに反対しようにも、既に軍事力を失った南朝が義満の打倒などできるわけがない。
皇統の対立に破れし南朝は、時代の片隅に消えていったのであった。



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