道の駅の真っ正面にある寺が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は市町村合併で新城市域になった旧作手村、清岳(きよおか)寺屋敷にある臨済宗石橋山慈昌院という寺が城址。
道の駅「つくで手作り村」のすぐ西側にあり、そこに車を停めれば簡単に見学できる。寺の境内一帯が周囲よりも5mほど
高く隆起しており(写真)、その内部がおよそ40m四方の単郭の縄張になっている。外周は高さ約2mの土塁が囲い、その
外側には空堀が周回。如何にも地方武士の居館という感じで、実に分かり易い作りである。■■■■■■■■■■■■
正確な築城年は不明。応永年間(1394年〜1428年)に亀山城(下記)主・奥平出羽守貞久の2男である久勝が築いたと
され、当地の地名(旧来は“石橋”であった)から石橋氏を称した。改姓した石橋弾正久勝は、以後は奥平家の臣下となり
貞久の嫡男・貞昌に従う。その久勝が没した後、石橋家の跡を継いだ弾正繁昌は主家である奥平貞勝(貞昌の子)に対し
謀叛を企むが、露見して逆に貞勝の命を受けた土佐定雄(さだかつ、貞久の5男・和田出雲守貞盛の2男)から攻撃され
落城。石橋家の郎党40名ほどが討死し、彼らの遺骸は一箇所に埋められ、そこは奥平弾正宮と呼ばれており、現在でも
城址西側土塁の辺りに石祠を置いて供養してござる。その事跡は奥平家の家譜「中津藩史」貞勝公の条に記されており
「奥平弾正(繁昌)は公(貞勝)の若年なるに乗じて、不軌を図らんとす。公之を知るや、土佐定雄をして其の居館を■■■
急襲せしむ。定雄賜う所の長槍を揮うて弾正を倒す」とある。この謀叛劇は1537年(天文6年)9月22日の事であった。
斯くして石橋氏は滅亡、石橋城も廃城となったが、後に徳岩明(とくがんみょう)和尚が弾正繁昌と一族の死を哀れみ、
貞勝に願い出てこの屋敷地を拝領、慈昌院を建立した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初代城主・久勝の官職名「弾正」に因んで「弾正屋敷」の別名がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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