三河国 石橋城

石橋城跡 石橋山慈昌院

 所在地:愛知県新城市作手清岳寺屋敷
 (旧 愛知県南設楽郡作手村清岳寺屋敷)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
■■■■



道の駅の真っ正面にある寺が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は市町村合併で新城市域になった旧作手村、清岳(きよおか)寺屋敷にある臨済宗石橋山慈昌院という寺が城址。
道の駅「つくで手作り村」のすぐ西側にあり、そこに車を停めれば簡単に見学できる。寺の境内一帯が周囲よりも5mほど
高く隆起しており(写真)、その内部がおよそ40m四方の単郭の縄張になっている。外周は高さ約2mの土塁が囲い、その
外側には空堀が周回。如何にも地方武士の居館という感じで、実に分かり易い作りである。■■■■■■■■■■■■
正確な築城年は不明。応永年間(1394年〜1428年)に亀山城(下記)主・奥平出羽守貞久の2男である久勝が築いたと
され、当地の地名(旧来は“石橋”であった)から石橋氏を称した。改姓した石橋弾正久勝は、以後は奥平家の臣下となり
貞久の嫡男・貞昌に従う。その久勝が没した後、石橋家の跡を継いだ弾正繁昌は主家である奥平貞勝(貞昌の子)に対し
謀叛を企むが、露見して逆に貞勝の命を受けた土佐定雄(さだかつ、貞久の5男・和田出雲守貞盛の2男)から攻撃され
落城。石橋家の郎党40名ほどが討死し、彼らの遺骸は一箇所に埋められ、そこは奥平弾正宮と呼ばれており、現在でも
城址西側土塁の辺りに石祠を置いて供養してござる。その事跡は奥平家の家譜「中津藩史」貞勝公の条に記されており
「奥平弾正(繁昌)は公(貞勝)の若年なるに乗じて、不軌を図らんとす。公之を知るや、土佐定雄をして其の居館を■■■
 急襲せしむ。定雄賜う所の長槍を揮うて弾正を倒す」とある。この謀叛劇は1537年(天文6年)9月22日の事であった。
斯くして石橋氏は滅亡、石橋城も廃城となったが、後に徳岩明(とくがんみょう)和尚が弾正繁昌と一族の死を哀れみ、
貞勝に願い出てこの屋敷地を拝領、慈昌院を建立した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初代城主・久勝の官職名「弾正」に因んで「弾正屋敷」の別名がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群







三河国 亀山城

三河亀山城跡

 所在地:愛知県新城市作手清岳シロヤシキ・作手清岳シロヤマ
 (旧 愛知県南設楽郡作手村清岳シロヤシキ・清岳シロヤマ)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



道の駅の真裏にある丘が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらは「つくで手作り村」のすぐ東側にある城郭。石橋城との距離は僅か250mほど、指呼の距離に聳える奥平氏の
本城でござる(この超至近距離で謀叛を企んだ石橋繁昌って一体…)。別名で作手城。この地域の中心となっていた
証であろう。近年、道の駅の駐車場が拡充されて城跡の直近に車を停められるようになった。そこから階段を登れば
すぐに城の主要部に入る事ができ、更に内部も丁寧に整備されていて非常に散策が楽な山城跡である。■■■■■
1424年(応永31年)作手奥平氏初代となる八郎左衛門貞俊が築城。奥平氏は遡ると赤松氏(室町幕府四職の重鎮)の
分流と言う名族であり、その赤松氏を遡ると村上天皇に行き当たる村上源氏の名門。元来、上野国甘楽郡奥平郷を領し
彼の地から奥平姓を名乗った。奥平郷には始祖の城である奥平城址(群馬県高崎市吉井町)が残っている。南北朝期に
南朝方の新田氏(上野国の古豪、南朝の主勢力)に属していた奥平氏は、室町幕府(北朝方)の全国支配完成に伴って
故地での存続が成り立たなくなり、三河国作手の領主・山崎三郎左衛門高元を頼って鴨ヶ谷甘泉寺(下記)に寓居した。
天授年間(1375年〜1381年)の事と言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
作手に根を下ろした貞俊は瞬く間に人望を得て川尻城(下記)を築くが、勢力拡大に伴って手狭となり新たな城を清岳に
構えた。これが亀山城でござる。以後、貞久―貞昌―貞勝―貞能(さだよし、定能とも)と続く。この間、作手奥平氏は
作手36ヶ村と宝飯郡の一部に渡る地域の郷人を従属させ“郷主”となり、700貫文を領する有力国衆に成り上がるが、
しかしこの地域は今川・松平(徳川)・武田ら強豪大名の係争地でもあった為、時勢に応じてこれらの大名間を渡り歩く
事にもなり申した。3代・貞昌(出家して道閑と号す)は駿遠の太守・今川氏親に従っていたが、氏親が没し三河の有力
国人・松平次郎三郎清康(徳川家康の祖父)が台頭してくるとそちらに鞍替え。ところがその清康が不慮の死を迎えると
4代・監物貞勝は今川方へと戻る。だが織田信長が調略の手を伸ばし、一旦は今川家に叛旗を翻すも征伐されて再度
服属。その信長が桶狭間合戦で今川義元を敗死させ、今川家が急激に衰退すると復活した松平家あらため徳川家への
転向を考えるが、その頃には甲信から武田信玄が奥三河へと勢力を伸ばしてきていた。亀山城の眼前に強大な軍事
要塞である古宮(ふるみや)城(下記)を築かれ、抵抗が困難と見た貞勝は武田氏への服従を決意する。亀山城は
武田軍の三河侵攻拠点として用いられるようになったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田と徳川の挟間で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1573年(元亀4年)4月12日、信玄は遠征中に陣没。その死は秘匿されたものの、情報は一部に漏れて関係各氏は
動揺する。既に隠居の身であった貞勝は猶も武田家への臣従を続けるつもりでいたが、5代・監物丞貞能や貞能の嫡男
貞昌らは徳川家への転属を主張。近隣の長篠城(新城市内)を守っていた武田方の菅沼新九郎正貞は徳川軍に攻められ
早々に城を落とされていた。武田軍の後詰もなく簡単に長篠城が失われた事で、貞能・貞昌は武田の落日を敏感に読み
取ったのである。無論、これは武田方にとっては由々しき裏切りであった。斯くして同年(改元して天正元年)8月20日、
貞能・貞昌ら徳川派は家臣郎党を引き連れ亀山城を退去し、家康の下へ奔らんとする。不穏な動きを察知した古宮城の
武田軍は追跡して攻撃を試みるが、奥平勢は石堂ヶ根や田原坂(たばらざか)で交戦し古宮城への逆襲を思わせる
陽動作戦を展開、武田勢を引き返させた。こうして翌21日に一行は家康の保護下に入ったのでござる。この時、貞昌の
妻や弟は武田家への人質として甲府(山梨県甲府市)に抑留されていたが、寝返りを知った勝頼(信玄後継)は激怒して
その人質を9月21日に全員処刑している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、亀山城に残ったのは貞勝だけであった。子の貞能、孫の貞昌は家康から見込まれ徳川領の要衝・長篠城を守備。
そして怒りに燃える武田勝頼が来攻、1575年(天正3年)5月21日の長篠・設楽原合戦に至るのだ。御存知の通り、この
戦いで武田軍は大敗。これで徳川方の優勢は確定的になり、奥三河一帯は徳川軍によって浸食されていった。果たして
貞勝は城を守る見込みが無くなり、勝頼を頼って甲斐へ逃亡。長篠合戦の戦功を激賞され、信長から「信」の字を与え
られた貞昌あらため信昌が亀山城を奪回する。しかし新たな奥平家の本拠として新城城(新城市内)を構築しており、
既に亀山城の重要性は薄れていた。このため城は荒廃、更に1590年(天正18年)豊臣秀吉の天下統一に伴って家康は
三河を離れて関東へと移封、信昌もそれに従って上野国甘楽郡宮崎(現在は群馬県富岡市)3万石に領地替えとなり
亀山城は役割を終える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世初頭に廃城、それがそのまま保全され…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、徳川家康が天下を掌握すると信昌の4男・松平下総守忠明(家康の養子となり松平姓を下賜される)が作手に
所領を与えられ、1万7000石で作手藩を立藩。1602年(慶長7年)9月の事で、ここで再び亀山城が本拠とされ申したが
1610年(慶長15年)7月27日、伊勢国亀山(三重県亀山市)へと5万石で加須転封。これにて完全に三河亀山城は廃城と
された。なお忠明は大坂夏の陣直後に大坂城主を任じられ、史上唯一の“大坂藩主”として大坂の町の復興を果たした
人物として有名だ。一方、作手亀山の地は天領となり代官支配が行われ、一時的に三河代官の小川又左衛門氏綱が
亀山城址に在住したとする説もあるが、彼が去った後は山林へと姿を変えていったのでござる。■■■■■■■■■■
現在の城跡は定期的な整備の手が入っているようで、見学もし易く遺構の保存状態も非常に良い。比高30mほど、長径
約230m×短径およそ110mの楕円形をした小山の中を、最高所に同様の楕円形をした大きな主郭を構え、その北東側
下段に二ノ郭を置く。それら主要曲輪を取り囲むように帯曲輪・腰曲輪と横堀が回され、主郭の東・南・西にそれぞれ
東曲輪・南曲輪・西曲輪が構えられている。各曲輪の外周は土塁が固め、なかなか壮観な風景だ。されども各虎口は
平虎口かせいぜい食い違い虎口で、枡形を構えるような堅固さはない。このあたりが戦国前期の築城形態をそのまま
踏襲している様子を物語っており、亀山城の“古さ”を見て取れる。武田家が進駐した城ながら丸馬出も作られておらず
(西曲輪が主郭の前を塞ぐ丸馬出にも見えるが、他の武田系城郭ほど強固な構えではない)、亀山城は特段の改修は
受けていなかったという証拠になろう。征服地の城をことごとく改造する武田軍とは言え、流石に三河作手は甲斐から
最遠地域に当たり、また信玄死没の混乱期にも重なった事でそこまで手が回らなかったのか?だとすると、武田軍の
「攻勢限界」を体現する城と言う事にもなり、奥平信昌が見切りをつける一因にもなったと推測するのも面白うござろう。
兎にも角にも、遺構の綺麗な名城。公共交通機関で行くのは難しい地域だが、是非ともオススメしたい一城だ。■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群







三河国 古宮城

古宮城跡 白鳥神社

 所在地:愛知県新城市

作手清岳宮山・作手清岳道合・作手清岳郷ノ根
作手高里塚前・作手高里郷ノ根
 (旧 愛知県南設楽郡作手村清岳・高里 各所)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★
★★★■■



山をカチ割った作り込み!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
道の駅「つくで手作り村」から国道301号線を丁度1km北上、愛知県道436号線(作手清岳玖老勢線)へ右折すると
すぐ左手にある白鳥神社(写真)の小山が城跡。作手郵便局の南東150m程にある森、と言えば分かり易いか。
東西約250m×南北およそ200mある楕円形をしたこの山は、何と全山に人為的な地形改変が行われ、山が丸ごと
城として機能するように作り替えられてござる。まず特筆すべきは山の真ん中を南北に貫通する堀切。山裾まで
延びるので、当然それは竪堀としても用いられている訳だが、とにかく「何なんだこれは?」と思わせる程、山を
真っ二つに切り分けている。竪堀の北側裾野には井戸跡と2.5aの溜池があったとされ、城の水ノ手となっていた
ようだ。堀切の全長は約140m。勿論、山頂には主郭がある訳だが、その主郭さえ東西に分断され、この堀切は
主郭を繋ぐ土橋だけが唯一の掘り残し部分となっている。斯くして山頂部には東主郭と西主郭に分かれ、更に
それぞれ内部に中仕切りとなる土塁が南北に走っており、西主郭―西二郭/東主郭―東二郭と言った具合に
区分けされた状態。即ち、東西2つの主郭が並立する“一城別郭”という構造を人工的に作り出して耐久性を高め
(片側が失陥してもまだ戦える)、各主郭は前衛となる二郭が火点として機能し鉄壁の防御力を誇っている。■■

呆れる程の多重防御■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
主郭から下、山の斜面でも造作が施されているが、これは山の東西で趣きが異なる。東半分は斜面を幾重にも
帯曲輪状に削平し、段曲輪を構成。これら平坦地は兵士の駐屯地として使われたようだ。他方、西半分は圧巻の
“戦闘区画”。西主郭から下は都合5重もの横堀が山の斜面をぐるりと削り込み、徹底して侵入者を阻む。現在の
城山は南端部に白鳥神社があって(よって、神社境内一帯だけは後世の改変を受けていると思われる)あたかも
そこが登城口のように思えるものの、当時の城山は北〜東〜南が全て大野原湿原と呼ばれた沼沢地になっており
人が近づける地形ではなく、唯一西側だけが陸地と接する山だった。故に山の西半分こそが戦闘正面になる訳で、
これら5重の堀は登城路としての堀底道を兼ねていた。当然、城を攻める軍勢は否応なくこの堀底道を通らねば
ならず、攻め手の動きを封殺する構造だったのである。言わずもがな、この多重横堀は頭上の西主郭・西二郭から
掌握され、侵入者に強烈な銃撃を降り注がせる。現地案内板に拠れば西主郭群は4.2aあるそうだが、そこからは
下段斜面が丸見え。余りにもしつこい堀の作り込みに「ここまでする必要ある?」と少々呆れる程(褒め言葉)だが
これこそが“一点防御”で鉄壁の守りを固める武田流築城術の真骨頂だ。丸い山を利用し、全体的に丸い曲輪の
造成や三日月堀を巡らすのに最適の立地だと云うのも、まさに「武田の城を築く為の山」なのだろう。そう、5重の
横堀は即ち武田流お得意である三日月堀の集合体と言える訳だ。だとすれば、三日月堀の中に納まっている
西主郭群は巨大な丸馬出としての役割を持っている。考えてみれば、山の西半分が戦闘区画、東半分が駐屯
区画であり、堀切で分断し土橋のみで結節する構造は、戦時に於いては東主郭群に対する丸馬出が西主郭群に
なると考えられよう。3.8aある東主郭は西主郭群よりも一段高く、仮に西曲輪へ敵が侵入してもその上段から
攻撃が可能なのである。加えて、東主郭へ入る土橋の脇には櫓台と思しき高まりや枡形を思わせる閉鎖空間も。
古宮城は取り立てて大きな城ではない為、城内をこのように細分化し各所ごとに機能を振り分ける事で継戦性を
持たせている訳だ。さすが築城の名手・馬場美濃守信房の縄張と伝わるだけの事はある名城でござる。■■■
城内南東部には馬場があったとされる。古宮城のすぐ傍には巴川水系の分水嶺があるものの、この地点では
水運を期待できるような河川交通網は発達していなかったので、陸路での往来が重視されていたのだろう。
城の大手(つまり西側)は作手街道(即ち現在の国道301号線)に面していた。■■■■■■■■■■■■■■

武田領国の“最突端”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、これだけの強固な備えを見せつける名城でありながら古宮城の来歴はそれほど詳しく分からない。何せ
古宮城に関して記された書物が「三河国二葉松(ふたばまつ、1740年(元文5年)編纂の地元地誌)」か、先述の
「中津藩史」くらいしか存在しないからだ。よって、状況証拠や周辺情勢から城の歴史が紐解かれ通説を作り
上げてござれば、以下にそれを記載する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1570年(元亀元年)秋山伯耆守信友(武田家の猛将)の進出によって奥三河は武田氏に服属。1571年(元亀2年)
信玄は重臣の馬場信房に命じてこの城を築かせたと云うのが築城由緒だ。上に記した通り、作手の「郷主」で
あったのは奥平氏だが、彼らは今川や織田、徳川など奉公先を次々と変えていた為、全幅の信頼を置く訳には
いかなかった。奥平氏の亀山城を掣肘・監視し、もし彼らが寝返った際に武田本国から後詰が来るまで持ち
堪えられるだけの強力な抗戦陣地となり得る城として、重防備の古宮城が作られたのである。「二葉松」では
小幡又兵衛(昌盛?)・甘利左右衛門(信康?)・大熊備前守(朝秀?)が在番したと記され、信濃から三河へ
抜ける作手街道の要衝として重要視されたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが信玄が没するや、途端に奥平貞昌らが武田家を見限ったのは上記亀山城の項で記した通り。作手を
離れる貞昌らを追撃する古宮城兵であったが、奥平軍が古宮城への逆襲を行うように見せかけた事で彼らは
城に戻り、貞昌らを捕らえる事はできなかった。然るに奥平軍は徳川勢と共同で古宮城の攻撃を行い、城は
焼け落ちて廃城になったとする説がある。他方、1575年の長篠合戦までは使われていたとする向きもあるが、
いずれにせよ勝頼の敗退によって程なく放棄され、廃された城でござる。結局、長くとも10年以内しか用いられ
なかった悲劇の名城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

祝!続百名城選出!!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、城址は現代に至るまで眠りに就く。見事な遺構が残るのはそのお陰げだが、しかし発掘・測量など詳細な
調査も行われておらず、古宮城の来歴や構造の“真の姿”はまだ分からない。近年は城ブームで全国各地の
隠れた城が再評価されており、学説が覆る事も多い為あるいは古宮城でも今後どうなるかは未知数だ。ともあれ
これだけ秀逸な史跡である古宮城の評価は従前から非常に高く、2017年(平成29年)4月6日に財団法人日本
城郭協会から続日本百名城に選定された。それに伴い2018年(平成30年)9月27日に新城市指定史跡とされる。
史跡指定範囲は1万6775.81u。漏れ聞く所に因ると、百名城に入選するには管理団体を明確にし必要な史跡
整備が施される事が条件との噂で、古宮城も(後付け的ではあるが)市史跡になったようだが、むしろこれ程の
名城が今まで何ら史跡指定されていなかったというのが驚き(個人的には国史跡級だと思う)でござる。なお
1994年(平成6年)〜1995年(平成7年)頃に東主郭の北東側帯曲輪内で土師器の破片が、2013年(平成25年)
頃には北側虎口付近で瀬戸・美濃焼と思われる16世紀中頃の陶器皿が出土している。■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡







三河国 川尻城

川尻城跡 模擬門

 所在地:愛知県新城市作手高里城山
 (旧 愛知県南設楽郡作手村高里城山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



「村の公園」になっている山が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古宮城から北北東へ1km、新城有教館高校作手校舎の北東500mにある小山が城跡。最頂部の標高573m、
周囲との比高約40m程の楕円形…と言うか北東に尖った涙滴型をした敷地の城山は、南の最高所を主郭とし、
先に細った尾根が延びる北に向かい下段の二郭、突先の三郭が構えられた縄張。各曲輪は随所に土塁を築き
守りを固め、更に主郭の麓に当たる位置で帯曲輪を造成。現在はこの山に登る車道が南から山頂へ向かって
走っているが、恐らく往時は北から南へと上がる(つまり三郭→二郭を経て主郭への)順路を辿って行く様態を
成していただろう。城山の長径(北東〜南西)は200m程度、短径(北西〜南東)は130m程でござった。その中で
主郭の長径(東西方向)は75m×短径(南北方向)32mという楕円形をしていた。■■■■■■■■■■■■■
築城者は亀山城の項で記した通り(上記)上州から移り住んだ奥平貞俊で、1424年3月の事とされる。しかし
川尻城は規模が小さかったため直ぐに亀山城への移転を決定し、この城が貞俊の本拠として機能したのは
たった8ヶ月程しかなかったと言う。その後は亀山城の支城として用いられたらしい。それにしても、上州を
追われた上にこれほど小さな城で守りを固めて周辺大大名の顔色を窺っていた小豪族の奥平氏が、天下人
徳川家康と知己を得て江戸時代には中津藩(大分県中津市)10万石の大名になるのだから、縁とは何とも
不思議なものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は「創造の森城山公園」の名で周囲の山林と共に自然公園として整備・開放されている。公園化されて
いるので誰でも簡単に訪れる事ができ、模擬冠木門(写真)なども建てられ雰囲気を味わえる。城跡各所は
曲輪の跡や切岸が残され、城好きならばウケそうな保存具合だ。特に三郭北側に並ぶ土塁とその下にある
切岸が見どころと言えようか。公園駐車場も城山の南東麓に用意され、車で来訪するのも簡単。但し、そこへ
通じる車道は細く曲がっているので運転には注意が必要でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群







三河国 文殊山城

文殊山城 切岸と模擬物見櫓

 所在地:愛知県新城市

作手高里市作ノ入・作手清岳ケントク
作手清岳コンボウソレ
 (旧 愛知県南設楽郡作手村 各所)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
★★■■■



武田に催促されて作った一夜の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
奥平氏が一夜にして作ったとの伝承がある事から「一夜城」とも。道の駅「つくで手作り村」から北西方向へと
直線距離820m程の位置にある標高661m地点の文殊山頂が城跡。ここには文殊菩薩を祀る祠があり、その
台座には「西須山村 東市場村」と刻まれ、2つの村の境界であった。山頂の住所表示が色々と入り組んで
いるのは、このように村々の入会地だった事が由来と考えられる(中世〜近世には良くある事)が、そもそも
この菩薩像は江戸時代に建立されたものなので、元来の山の名が「文殊山」だったかどうかは分からない。
ともあれ、現代ではこの城を文殊山城と呼ぶのが通例なので、特段それには異を唱えずに解説いたす。■■
この山の頂を長径(東西方向)50m×短径(南北方向)30mほどの楕円形に曲輪取りして削平、これが主郭で
現在は断片的に残るだけだが、当時は外周が全て土塁で囲われてござった。基本的にそれだけの単郭式
城郭であるが、主郭の下段にもぐるりと一周する帯曲輪が取り囲む縄張。山の北東側に尾根が続く為、この
帯曲輪はそこを登城路としており、その一点には堀切が穿たれて分断し防備を固めている。公園化されては
いるものの全体的に切岸が綺麗に残り、その堀切や土塁の残欠も見て取れるのでなかなか良い城跡だ。
現在、帯曲輪部分には駐車場があり麓から車で上がって来られる。ちなみにここへ繋がる道は、山の北側へ
大きく回り込み、新城市役所作手総合支所(旧作手村役場)の裏から細い山道へ入る経路。この山道は車で
上がる事が出来る(だから駐車場がある)のだが、途中で未舗装路になるので少々心細い。されども慎重に
運転すれば確実に山頂まで至るので、勇気を持って登るべし。話を戻すと、主郭内には高さ7m程の模擬櫓
(写真)も建てられていて見事な眺望を楽しめた…のだが、昨今は老朽化によってこの模擬櫓には登れなく
なってしまい残念。無論、当時もこうした物見櫓が建てられていたであろうから(と言うか、その為の城だろう)
今と然程変わらぬ見晴らしが望めた訳だが、何とこの物見櫓からは眼下にある亀山城が丸見えだ。余りにも
綺麗に監視できるので、当然ながら亀山城にとっては大いなる脅威だった。しかし、亀山城主は文殊山城を
築いた奥平氏。それが脅威になるとはいったいどういう意味か?それは当城の来歴に大きく関係する。■■
上記で何度も記した通り、1570年頃に奥三河へ武田家が進出し奥平氏はそれに臣従する事となった訳だが
その和約に於いて、奥平氏はこの文殊山に城を築くという取り決めが行われた。しかし奥平氏はなかなか
城を築かず、約束を履行しようとはしなかった為、武田方から強談を受けたと云う。その為、奥平氏が一夜に
して城を築いた…と言うのが築城の伝承。一夜城の別名もこれが由来だ。■■■■■■■■■■■■■■
つまり(史料的な裏付けはないが)「武田軍が奥平氏の本拠である亀山城を監視する為の城」として、この
文殊山城を“奥平氏に築かせた”と解釈するのが妥当な所だろう。敵対する勢力同士が和議を結ぶ場合は
勿論、このように在地勢力を他国から侵攻した新領主が服属させた証として「旧来の城を破却する」とか
「相手の為の城を築城する」という事は往々にしてあったのが戦国の習い。文殊山城も、和約とは形式上で
実質的に征服された奥平氏が、武田氏に築かせられたというものだったのではなかろうか。だが奥平氏は
「何でわざわざ武田の為の城を、しかも我が亀山城が丸見えの場所に築かねばならんのだ」と反発し築城を
反故にしようとしたのだろう。業を煮やした武田側は恫喝、仕方なく築城する事になった訳だが、今度は
「どうせ作るならあっという間に」「この程度の物見砦は直ぐ作れる」「地方領主だからって馬鹿にするな」と
半ば逆ギレ的に一夜で作って見せた…と考えるのは邪推でござろうか? (^ ^;■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群







三河国 鴨ヶ谷古屋敷

鴨ヶ谷古屋敷跡 臨済宗翔龍山甘泉寺(鳥居強右衛門勝商墓所)

 所在地:愛知県新城市作手鴨ヶ谷門前
 (旧 愛知県南設楽郡作手村鴨ヶ谷門前)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
■■■■



奥平貞俊、上州より来たりて居を構ふ?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
亀山城の項で記した通り、上野国から流れて来た奥平貞俊が仮居とした臨済宗翔龍山甘泉寺が通称で鴨ヶ谷
古屋敷とされている。貞俊が頼った山崎高元なる人物は、貞俊の父・奥平定家の妻の縁者であったと言う。
鴨ヶ谷古屋敷については他に加藤源左衛門という武士の居館であったとの伝承があるものの、詳細は不明。
城館としての明確な遺構はないが、甘泉寺の立地は急峻な山の斜面を利用して数段に及ぶ階段状の敷地を
造成しており、確かに城館としての雰囲気は感じられ申す。場所は作手鴨ヶ谷、古宮城の前を通る愛知県道
436号線を東へ進むと、白鳥神社から1.2km程の地点に「甘泉寺入口」の立看板があるのでそこを左折すれば
ほぼ道なりで辿り着ける。広大な駐車場も完備されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甘泉寺についてはむしろ鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)の墓所として有名でござろう。寺の
創建は1370年(建徳元年・応安3年)9月、臨済正宗20世・弥天永釈(みてんえいしゃく)大和尚が開山し、時の
将軍である足利義満からも帰依された。そのため御朱印高48石・山林境内20余町歩の寄進があったとか。
長篠合戦において伝令役を果たし壮絶な最期を遂げた勝商は、その死を織田信長から大いに悼まれて丁重に
葬るよう命じられた。1575年6月16日に本葬が行われ、当初は喜船庵(現在は曹洞宗興国山新昌寺と改称)に
埋葬されたが、勝商の子・信商が亀山城主となった松平忠明の家臣に加わった事から1603年(慶長8年)ここ
甘泉寺に改葬されたものである。勝商の妻も甘泉寺にて勝商の隣に葬られているが、この妻の出身が作手で
あった事が墓所移転の縁であったと言う一方、信長が命じた墓所が甘泉寺だったする説もある。■■■■■
なお、新昌寺の所在地は新城市有海稲場。勝商が磔刑に処せられた場所から程近い場所だが、その墓地は
改葬後廃墟と化していたものを江戸時代中期の1763年(宝暦13年)に復興したとの事。毎年4月、新昌寺では
「鳥居祭」が催されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





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