★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#44 【続・母校が史跡になりました (^^;】 本日開催「下寺尾遺跡文化祭!」
 





下寺尾遺跡文化祭レポート

この記事は、2015年の続編です。

当時の記事を読んでいなくても楽しめますが、
いちおう目を通していると、よりいっそう理解できます。

記事をご覧頂いた事のある方も、いま一度思い返して、
あの懐かしい内容を思い出しておくことをお勧めします。



↑分かる人にだけ分かる前口上w


コロナ禍も収まった?2023年の秋!
我が郷土・茅ヶ崎は色々とお祭り騒ぎが続いておりました。
何と言っても今年はサザンオールスターズ結成45周年!
それを記念して、茅ヶ崎公園野球場では9月27日・28日・30日そして10月1日の4日にわたってSASのライブが!!
更に機を同じくして10月1日にはコミュニティFM局「茅ヶ崎FM」 EBOSHI RADIO STATION 通称“エボラジ”も開局!!!
(EBOSHI、のネーミングは当然ですが茅ヶ崎の象徴・烏帽子岩から…え、烏帽子岩って何って?そりゃ茅ヶ崎の地図見て下さい)
オイラはネット以前の世紀に中高生だった世代…ラジオ好きな人間としては、ようやく地元FM局が開設され
待ちに待っていた、念願叶った秋になりました。なにせ藤沢や平塚にはコミュニティ局があるのに
なんで茅ヶ崎にだけFM局が無いんだ!と、前々から苦々しく思っておりましたので。
まぁ、一市町村の小ラジオですから、番組らしい番組は僅かな時間しか用意されておらず、1日の大半は
ただ音楽を流すばかり…まるで有線放送?なんですが、そこは茅ヶ崎。かかる曲は全て桑田佳祐!
いや、むしろこれで良い。他に余計なモノは要らない!SASチャンネルだ!!サザン万歳〜!!!(笑)
(サイマル放送もやってますので、SASファンの方は是非BGM代わりに流してみて下さい♪)

…って、コレがどう表題に繋がるのでせうか? (^ ^;;;

開局以来、ほぼ毎日何かしら耳に入れているエボラジですが、その「僅かに組まれている番組」にて
“来たる10月22日、下寺尾の遺跡でお祭りが開催される”との情報。下寺尾の遺跡と言えば、まさか?
焔硝蔵の#20話で取り上げた、「下寺尾(しもてらお)官衙(かんが)遺跡群」か!!
ちょっと気になって市のHPなどを検索してみたら、地域のイベントではあるものの
去年、新しく開館した茅ヶ崎市博物館(これについては焔硝蔵の#40話で)とも連動して
何かしら遺跡の説明的なネタも用意されている感じ。
おぉ、そう言えば10月22日はオフ会の予備日として空けておいたっけ。
(結局、そのオフ会は先週無事に終わったので、22日は全くの空白日になりました)
それならば、遺跡のお祭りとやらに行ってみるか!と思い立ちました。

当日、お祭りの会場には駐車場も用意されるとの話だったんですが、果たして何台入れられるのか?
そもそもあの場所は民家の奥の狭い路地で行き着く場所だから、混雑する中であそこへ乗り入れるのはヤバそう…と
地元ならではの直感で、車で行くのには大いなる懸念が。そうするとバスで行くか…と思ったものの
これまた、自宅から現地へ行くバスは時刻表を見る限り良いタイミングの便が見込めない。
いっそ歩いて行く…のは流石に遠い。どーすんだコレ?と悩んでいたら、市のHPの片隅に
「当日のみ、博物館から現地まで無料送迎バスを運行します」の一文が。これだ!
博物館まで車で行き、そこから送迎バスに乗れば丁度良い時間で現地に到着できる!
と言う事で、まずは開館時刻に合わせて市の博物館へ向かいました。
茅ヶ崎市博物館
茅ヶ崎市博物館

てなワケで、まずは博物館を見学。
バス待ちの為だけに寄った訳じゃ無く
ちゃんとこの展示も見てから現地へ行こうと思っての事ですw
で、開館直後の博物館は…さすがにガラガラ。誰も居ない。
あれ?もしかして時間関係なしに普段からこんなもんなのか?
いや、そんな事は無い…と、信じたい (- -;
略年表
略年表

展示されている略年表の中、
本日の“主題”と言えるのがこの辺りの記載。
「役所と寺院」あぁ、これが官衙遺跡の事ね。
それから「南関東最大級の環濠集落」
う〜む、何となく中途半端なスケール感?(笑)
これについては後述www
下寺尾官衙遺跡群の紹介
下寺尾官衙遺跡群の紹介

詳しい話は焔硝蔵#20話や#40話を見て頂きたいのですが
こんな感じで、件の遺跡からは色々なモノが出土しています。
これを見る限り、なかなかのポテンシャルを秘めた(←なんだこの表現)
遺跡のように思えるんですが、果たして今後の発掘成果はどうなるのかな?
浜降祭!
浜降祭!

余談になりますがこちらは里山にある下寺尾とは正反対、海の話。
展示替えで登場した、茅ヶ崎の大祭・浜降祭(はまおりさい)の紹介。
サザンが今年出した新曲「歌えニッポンの空」の中にも
「騒ぐ潮風に乗って 『浜降り』の音が あゝ響く場所(ところ)」と
謡われております。まぁ、初見でこの歌詞の情景が理解る人は
茅ヶ崎市民くらいのものだと思うのですが(苦笑)
さすが桑田さん、よくぞ取り上げて下さった!
(→そして冒頭のサザン賛美に戻る)
えーっと、それにしても相変わらず大岡家の話は出て来ないなぁ… (ー゙ー;
あ、もちろん博物館展示の撮影は許可されておりますので念のため。

と、一通り博物館展示を見た所で送迎バスの出発時刻が迫って来ました。
バス乗り場へ、いそいそと移動してみると…
送迎バス 送迎バス案内

無料(タダ)で乗せて貰えるとはありがたい〜!
あれ?でも他に誰も乗る人いないの?貸し切り状態??
本当にイベントやってるのか、何だか不安になってきた…(汗)
送迎バス車内

現地到着 いやいや、現地に着けばちゃんとイベントやってました!(良かった〜w)


では改めて、本日の“お祭り”というモノの御紹介。
「下寺尾遺跡文化祭」と題して、まぁ遺跡現場を会場にして
地域コミュニティの手作り祭りのような感じで開催されたイベントでした。
実は今回が3回目だそうなんですが、初回の開催後からコロナ禍に突入してしまい
なかなか満足に開けず、ようやくコロナ明けとなった今年に大々的な宣伝を行えるようになったそうで。
メイン会場?
メイン会場?

まぁ、そうは云うても“地域のイベント”ですから
何万人と押し寄せるサザンのライブとは違って
せいぜい100人単位のささやかなお祭り。
「メイン会場」も畑の中…ではありますが
この広場こそ、下寺尾官衙遺跡群の構成要素「下寺尾廃寺跡」です。
この地下に凄い遺跡が埋まっているのは確実なのですが
如何せん、発掘調査もコロナで停滞していたので進展せず。
イベントの様子 イベントの様子
地域のお祭りについては、あまり詳しい紹介は省かせて頂きますが
土器作り体験
太鼓演奏
土器作りや火おこし体験など
「遺跡っぽい」体験教室や
伝統芸能の太鼓演奏、加えて地元協力の
証と言えるような消防団協賛…とか。
消防団降臨!
火おこし体験
この他、キッチンカーも数台。ほのぼのとした光景が垣間見えました★
いちおう、市のHPに乗っていたチラシもご覧頂ければ! (←クリックするとPDFファイルが開きます)


で、せっかく遺跡の現場に居る訳ですからそれについての話を(むしろここからがメインの話)。
下寺尾廃寺 講堂跡
下寺尾廃寺 講堂跡

赤いカラーコーンの列と、
緑のコーンの列。この並び
講堂の柱跡を示していて
講堂解説図
模式図にある、建物本体の
柱の列が赤、屋根庇を支える
外側の柱列が緑の列だそうで。
(当時の建物としては)デカい!
ちなみに、コーンの先にある社宅のような2棟の長屋建物が
官衙跡から立ち退いた我が母校の「仮校舎」…“仮”と言いつつ、この場所に居座って早ン年w
今では私の次男もここに通っております(あぁ、歳月の経つのが早いこと早いこと…)

七堂伽藍(下寺尾廃寺)については他に金堂の跡も確認されています。
残るは仏塔(三重塔もしくは五重塔かも?)が出ると想定されているので、今後に期待!
まだ掘っていない所があるそうで、そこに目星が付けられているとの事ですが
そこは「仮校舎」の敷地内だから掘れないそうで、早く校舎の正式移転をしないと…。
あ゙ー、だから県教委はとっとと移転先を確保しろ!!! (▼▼メ

えぇ、#20話で説明した高校の移転、まだ全然進展しておりませんとも(涙)
卒業生&在校生父母としては“ナマ殺し”のままの状態が延々と続いているのであります…。

官衙遺跡での発掘結果紹介
官衙遺跡での発掘結果紹介

この他、高校旧校舎があった官衙遺跡での発掘結果を紹介して下さった講話も。
敷地内で現状、どの位置にどのような建物があったか、他の遺跡での例も交え
分かり易く説明して下さいました。この図説で示した建物跡(黄色に塗られている)は
弥生時代ではなく後の時代の竪穴式住居だったと思われ、排煙設備を伴った構造が
確認されたとの事。なお、説明している方は高校の元教頭先生(発掘時の)。
私が直接面識のある先生ではありませんが、発掘当時に携わっていた方ですから
自然と話に重みがあるというもの(笑)

さて、イベントとしての“文化祭”は何となく堪能したので博物館へと戻ります。
あ、これで話は終わり―――ではありませんよ(博物館に続きます)
「七堂伽藍跡」石碑
「七堂伽藍跡」石碑

官衙遺跡群の構成要素である下寺尾廃寺を顕彰した石碑。
寺は台地の麓側にあったので、崖を背にした位置に立っています。
国史跡 下寺尾官衙遺跡
国史跡 下寺尾官衙遺跡

一方、官衙遺跡の現状はこんな感じ。
私が通っていた当時、この場所に校舎が3連で並んでいたんですが
その旧校舎は既に取り壊され、しかし新しい何かが建つでもなく
全くの野っ原になっています。でも折々で発掘調査が行われ
間違いなくここは「国史跡」としての歩みを進んでいます。

再び送迎バスに乗り、博物館に戻ったのが11:25。で、11:30からは博物館で
下寺尾官衙遺跡群についての学芸員解説があるので、それを拝聴します。





それでは、ここから下寺尾官衙遺跡群についての概略を。
学芸員さんの話を丸写し…と云う訳にはいかないので、あくまで概説ですが。


(細かい地形の話などは#20話を御覧頂いた上でお読み下さい)
川っ淵の高台に郡衙の痕跡、その高台の末端部には貝塚、高台の麓に廃寺跡が確認されているこの遺跡群。
歴史を紐解けば、縄文時代前期に貝塚が形成された訳ですが
当時は「縄文海進」と呼ばれる温暖期にあり、海岸線は現在より内陸に及んでおり
即ちこの高台が「海のキワ」だったと云う事。そこに川が流れ込んでいて汽水域を生み出していたそうです。
「海進」だったらもっと奥まで海だった可能性は?と思われる方も居るかと思いますが
ここの貝塚から出土した貝には、海水・淡水そして汽水域でのみ生息する貝がそれぞれ含まれているので
間違いなくここが「海と川の結節点」だった事が証明できる訳です。のみならず、汽水域がそれなりに
広がっていた(そういう貝が大量に繁殖していた)のであれば、砂州が入り組んだ内湖も存在した可能性も?
実際、茅ヶ崎周辺は鎌倉時代に「懐島(ふところじま)」つまり河口域に島が点在し
「入り江の懐にある島々」と呼ばれていた訳ですから、それは十分にあり得る話でしょうな。

そして弥生時代になると、高台に環濠集落が営まれるようになりました。
数々の竪穴式住居跡が確認されているこの遺跡ですが、環濠の存在も確実となり
城好きな人間としては「おっ!吉野ヶ里遺跡のような“原初の城”がここに?!」と期待してしまうのであります(笑)
#20話の時点では郡衙と廃寺を併せた「官衙遺跡群」として国史跡に指定された話だったんですが
この環濠が明らかになった事で、新たに2019年(平成31年)2月26日この環濠遺跡部分が
「下寺尾西方(にしかた)遺跡」として国史跡に指定されました。西方遺跡の大半が
郡衙遺跡の敷地と重なっているので、場所としてはほぼ同じ位置ではあるのですが
「官衙遺跡群」と「西方遺跡」は別の遺跡(時代や内容が違う)として区分されています。
発掘調査時の写真(箱堀) 発掘調査時の写真(薬研堀)
ちなみに、堀は部分部分によって断面形状が違うとの事。箱堀だったり、薬研堀だったり。
薬研堀の最底部だけが毛抜堀のように丸い断面のものもあったそうで。何で違うの?とお訊きしたら
明確な事は分からないけど、単純に土質の違い(つまり掘り易さ)じゃないかとのお答え。
掘った時期などでの相違という訳では無いようです。ただ、ここの環濠は2重の堀(!)になっており
それは内側の堀内だけでは手狭になり、後に外側へ拡張したものではないかと云う話でした。
(城で例えると、本丸の隣に二ノ丸を広げたような感じ)
台地の周囲には川が取り巻いていたので、それも防御阻塞と考えれば都合3重堀の環濠集落!って他にある?!?! Σ( ̄□ ̄;;;
そもそも台地の突端部に、城で云うなら「横堀」を巡らせている環濠集落って…何で崖っぷちに堀を回す必要があったのか?

奈良時代になると郡衙や郡寺が造営されるように…と云う話は#20話で御紹介した通り。
「高座郡」と書いて「たかくらぐん」と読む話も御紹介しましたが、記録上には「太加久良」との記述があり
「たかくら」の読みの裏付けがある事を今回教えて頂きました。で、まずは郡衙跡について。
高校の旧校舎敷地内、ちょうど校門があったあたりに郡衙政庁があった事が確認され
その奥(敷地北端)には正倉が並んでいたのが確実視されていました。しかしコロナ禍で発掘作業は中断。
昨年から再開し、今まで掘っていなかった校舎中庭跡(これは卒業生なので場所がすぐ分かるw)で試掘した所
今までに見た事もない巨大な柱跡を発見。その時はそれ以上分からず、一旦埋め戻したものの
今年、その続きとして敷地を拡大し掘ってみたら、本当に規格外の大きさを見る柱穴である事を確認。
長方形をしたその柱穴痕は、長辺2.1m×短辺1.6mもあったそうで。えーっと、冷蔵庫を2つ3つ並べた感じ?デカっ!
試掘前から、恐らくここには「館(たち)」か「厨(くりや)」つまり駐留居館か食堂(厨房)があるだろうと見当を付けていたそうですが
(郡衙設備として正殿(政庁)・正倉と館・厨が必ず存在するので)
この巨大柱穴を有する建物の脇から「厨」の字が記された墨書土器が出たそうで…ほぼビンゴですな。
建物の内部から出た訳ではないそうで、そこだけが確証の持てない点のようですが。
それにしても厨で異常な大きさの柱って―――いったい何なんでしょう?やっぱり古代史は謎に満ちている…。
逆に厨の内部からは円面硯(当時の形状の硯)の破片も出たとか。厨に硯って必要?やっぱり古代史は謎に(以下略)

郡衙遺跡群のもう1つの構成要素、本日のイベント会場ともなった廃寺跡については
#20話で軽く記した「掘り込み地業(ぢぎょう)」の詳細を教えて頂きました。金堂の敷地跡で確認された
地盤強化工事の痕跡の事で、もともとあった地盤を一旦掘り下げ、そこに土や粘土を入れて突き固め
版築の要領で地盤を重ね上げていく工法だったとか。発掘時の写真を見ると、版築の地層がハッキリと見て取れます。
こぼれ話ですがこの版築地盤、発掘調査時に金属のシャベルで叩いてみると
見事に金属音が鳴り響く、メチャクチャ強固なものだったとのお話。
掘り込み地業の写真 ほら見てコレ、凄いっしょ?
何でこんなに穴を掘って地盤を埋め直す作業を行ったかと言えば、廃寺があった場所は台地の麓…と云う事は
先に記した
「縄文海進」の頃には、ここは海辺だったから。つまり一面の砂地だった訳ですよ。
当時の寺、特に金堂のような主要建築には瓦が葺かれていましたが
(現代のように瓦は一般的ではなく、特権的建物にしか使われない)
瓦が何千枚と葺かれている=重量建築物を支えるには、とても砂地では不可能。なのでわざわざ砂を退かし
これだけ困難な地盤改良工事を行わなければならなかったと言う話だそうです。なるほど…と当時の技術に感心する一方
郡衙附帯施設である郡寺を作るというのは、やっぱり権力の象徴でもあった訳ですな。そして縄文の地形が
奈良時代や平安時代にも影響を及ぼす事にも、感慨ひとしお。やっぱり歴史は繋がっている! (^ー^)b


西方貝塚や西方遺跡と郡衙遺跡が有機的に繋がっている事を再確認し、学芸員さんのお話は終了。
縄文期の貝塚+環濠集落+祭祀場や川津(船着場)まで一体化した郡衙遺跡と言うのは
他に無いそうで、この点については下寺尾官衙遺跡群は日本唯一の存在と言って良いもの。
その環濠集落についても、冒頭の博物館展示で「南関東最大級の環濠集落」と書いていましたが
本当は「関東最大」と言っても良いくらいなんだそうですけど、大風呂敷を広げる確証が持てないので
敢えて「南関東最大級」とのビミョーな表現を使ったと仰ってました。うん、新発見で日々塗り替わる歴史学の中
断言するのはなかなか難しいですからねぇ。御苦労が偲ばれます(苦笑)

なお、中段に示した「七堂伽藍跡」の石碑は、まだ発掘調査など行っておらず
あくまでもここに寺があった「はず」という頃に「伝承を信じて」立てられたもの。
碑の裏側には「将来、ここが調査され真実が明らかになる事を託す」と言う趣旨の文章が書かれていますが
まさに今、それが現実のものとなりました。発掘調査って重要ですよねぇ。そして民間伝承ってバカにならない。
静岡県の二俣城でも、あそこに石垣がある「はず」と言う地元の伝承を頼りに発掘したら
見事に凄い石垣が出土したという事例がありますし。何だか最近の歴史学は「一次史料」しか信じない風潮で
確かにそれは重要でしょうが、そればかりという偏りもよろしからずと思うのですが…いや、単なるひとり言です(爆)

ともあれ、「新発見で日々塗り替わる」現場がまさしくこの下寺尾官衙遺跡群である事も事実。
巨大柱穴然り、環濠跡然り。2015年に国史跡となった官衙遺跡は2018年に追加指定も受けていますし。
将来的には吉野ヶ里遺跡や三内丸山遺跡のように、史跡公園となる事を目指しているようですけど
まだまだ発掘は道半ば。取り急ぎ、廃寺の仏塔を見つけるのが喫緊の課題かと思われますが
それには…我が母校が一刻も早く移転先を見つけないと orz そこかよw
果たして史跡整備が完了するのは50年後?100年後?もはやオイラが生きているうちは無理かも(無念)
ただ、国史跡としての保全・維持を受けるには地域住民の理解や協力が不可欠だそうで
今回開かれたイベント「下寺尾遺跡文化祭」と言うのも、その一環なんですって。地元消防団とかも来てましたしねぇ。
一朝一夕に史跡公園は作れないでしょうけど、こうした地道な努力がいつか実を結ぶ
その日まで、いやその後まで「文化祭」が続きますように…。まぁでもこのイベントが
吉野ヶ里や三内丸山での催事よりもビッグな行事になるとは思えないけどね (^ ^;;;

やっぱり最後は頼りない〆になってしまいましたが、
兎にも角にも、今後きちんとした史跡整備をして
誇りある母校跡地が、誇りある貴重な史跡として繁栄していって欲しいと
思う訳でございます。だから新校舎建設を速やかに解決してくれ〜!!!!! (T_T)
(2023年10月22日 23:30校了)




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