県立高校ですので、この場所を管理(所有)しているのは神奈川県。
神奈川県は過去の「ベビーブーム世代」(私はまさにその世代だったんですが)で
生徒数が増大する事を睨み、県立高校を大量生産(笑) 一時期、神奈川には
私立高校なども含めて県内に200校(!)を超える高校が設置されており
当然、全国的に見ても圧倒的な多さを誇っておりました。今では削減傾向に
あるようですが、最盛期には高校野球の予選大会が全国一の試合数に及び
(北海道と東京は2分なので、200校以上を勝ち上がるのは神奈川だけ)
当時の甲子園優勝常連校である◎L学園とか、中◆大とかが、仮に
神奈川の高校なら、果たして甲子園にさえ辿り着いたのかどうか?と
密かに思っていたりするんですが…まぁそれは脱線話なので置いておいて。
1964年(昭和39年)に開校した我が校ですが、経年劣化や耐震基準変更などで
21世紀に入る直前あたりから、校舎の建て替え問題が浮上しておりました。
実際、オイラが通っていた頃から結構ボロい 古びた校舎でしたしw
で、校舎建て替えに先んじて敷地の埋蔵文化財調査を行ったところ、どうやら
古代の大遺跡が眠っている…という発見があった(という事にされている)為
急遽、この建て替えを凍結して史跡整備を行うべきではないかという議論に。
茅ヶ崎市としては、史跡整備を行って文化財保護を行いたかった意向で
(湘南海岸だけじゃなく、何か観光の目玉を…という狙いでしょうか?)
学校の移転を県側に要望。しかし一方の神奈川県としては、早く新校舎を
建ててしまいたいという方針。一応、地域の進学校である上にその頃から
学習指導要綱の転換があったりしたもんだから、学校数縮小の風潮ながら
廃校にする事はできなかった訳で。という事で県は、史跡なんか関係なく
一刻も早く新しい校舎を造りたかったご様子。斯くして我が校の敷地を巡り、
市vs県(+それを取り巻くモロモロ)のバトルが
10年近く続く事になったのでありました。
で、ここからは個人的意見を少々。
やっぱり自分の出身校ですから(実は嫁さんも同校)
廃校にされてしまうのは何としても避けて欲しかったところ。
とりあえず、市は移転を希望していたし
県はそのままの場所で新校舎を建てるつもりだったから
無くなってしまう事はなさそうだったので一安心でした。
しかしそうすると、学校をどのように存続させるのか?という問題が。
耐震基準に合わなくなった旧校舎は使用できなくなり、
仮設校舎を元とは違う場所に建てて2006年から授業を継続していますが
恒久的な新校舎はどこに建てるのかという議論が決着せず…。
いち卒業生として、また歴史愛好家としては、今後50年100年の先まで考えりゃ
史跡を潰して県が建築を強行し「ここには重要な遺跡があったのに…」と
後ろ指差されるような学校存続はして欲しくなかったんですよね。
教育現場が史跡破壊するって、そもそもどーなのよ!って感じでw
かと言って市の言うような代替地が簡単に見つかる筈もなく…。
ちょうど史跡問題が浮上した頃、高校から少し離れた場所に
大規模な分譲墓地が造成されたんですけどね、県が現状維持に拘らず
とっととこういう所を先に押さえておけば良かったんじゃない?と
常々思ってるんですけどねぇ。まぁ、これはあくまで個人的意見です。ハイ。
結局、未だに代替地は決定されておりませんです。
こうした状況を見てか見ずか、冒頭に記した通り2014年の秋
文化庁が我が校の敷地を「下寺尾(しもてらお)官衙(かんが)遺跡群」として
国の史跡に指定する事を決定。個人的推測ですが、市と県の対立に
国が「史跡にしろ」という判断を下して決着させたのではないか?と (^^;
史跡指定に先立ち、旗色が悪くなったのを感じた県もどうやら諦めたようで
「この場所は県のものだ!」という目印代わりに残していた旧校舎も取り壊され
更地になっております。う〜ん、これはこれでチョット寂しいかも(苦笑)

少々見難い写真で恐縮ですが、木立の向こうにある校舎が
綺麗サッパリ取り壊されてしまいました。
これこの通り、体育館だけ残して校舎跡は全くの空き地。
昔はここに本館・中館・北館の3棟や部室棟なんかが
固まって建ってたんですが…思い出はもはや遠い昔の事 (^^;
というのが凡そ一般的に公表されている経緯なんですがね。
ところが、オイラが学校に通っていた当時から実は生徒教師の間で
ここには凄ェ遺跡が埋まってる!と周知の事実 !!!
(上段で「という事にされている」と記したのはこのため)
この場所に高校を建てる時点(つまり昭和39年開校の前段階)から既に
史跡がある事は確認済みで、にも係らず建てちまってた訳ですやね(核爆)
高度成長期の「列島改造計画」で邁進していた時代ですから、その当時は
史跡の上からガンガン建てちまっても、誰も何も言わなかったでしょうが
平成の世の中ではそういう訳にも行かないってのは、むしろ当然の流れ。
故に、県教委は建て替え問題以前から史跡の存在を知っていながら
上手い事すっとぼけて新校舎建てちゃえ〜★と狙っていた可能性が…。
(まぁ、当時の資料が全然引き継がれなかっただけなんでしょうけど)
#だからさぁ、県は後手後手になる前から新校舎云々の時点で
移築の可能性も視野に入れて準備すべきだったと
裏事情を知っている方からすれば苦々しく思うんだよねー (ー゙ー;
個人的に今回の騒動は「はァ?何を今更?!?!」っていう感じでして。
兎にも角にも、国が史跡指定したからにはもう同じ場所に鉄筋コンクリの校舎を
地盤エグッて建てる事は不可能になった訳で、遠からず移転決定となるでしょう。
一時は「木造の」新校舎をその場に建てて御茶を濁そうとしていた案も
あったんですが、それも現実的ではなく結局お流れになったし…。
で、肝心の下寺尾官衙遺跡群とは何ぞや?というお話ですが。
とりあえず、件の「文化審議会の答申」に記されているのは(以下引用)
下寺尾官衙遺跡群【神奈川県茅ヶ崎市】
郡庁、正倉、郡寺といった地方官衙を構成する諸施設が
比較的狭い範囲に密集しており、官衙遺跡群の全体像が把握できるとともに、
その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる稀有な遺跡。
地方官衙の構造や立地を知る上でも重要。高座(たかくら)郡家(ぐうけ)(郡衙)と
考えられる遺跡。郡家の全体像とその変遷が判明した稀有な遺跡。(引用ここまで)
となっている。何のこっちゃ?と思われる方もいらっしゃるでしょうから
地図と併せてご覧頂くのが一番かと…。
※ちなみに、高座郡(たかくらぐん)と言うのは
現在の行政区分では寒川町1町だけになってしまった高座郡(こうざぐん)の古語読みで、
遡れば藤沢市(の一部)・茅ヶ崎市から綾瀬市・大和市の付近までを占めた
古代行政郡域の事です。藤沢市に「高倉(たかくら)」という地名がありまして
本来はそこから採られた「高倉郡」という名称であったものが、いつの間にか
「高座」の字を充てるようになり、更に時代を経て読み方も「こうざ」に変化した訳ですが
遺跡として出た官衙の時代はまさにそうした変革期だった為「高座(たかくら)郡」と
表記表音されるもの、という事になります。この「高座郡」の役所(つまり郡衙)が
我が母校(所在地が茅ヶ崎市下寺尾)の地下に埋まっているワケ。
という事で、地図です!

画面のほぼ中央、撮影時にはちょうど取り壊し中(!)の校舎付近一帯が
我が母校、つまり高座郡衙跡。そこから西側へ行き、河際にあるのが
西方(にしかた)貝塚。さらに少し南には、通称“七堂伽藍(しちどうがらん)”と
呼ばれている下寺尾廃寺跡が並びます。学校校舎の位置を鮮明にする為
航空写真を使った事で逆にやや分かり辛いかもしれませんが、この場所
小出川の河岸段丘を形成しています。西方貝塚の標高は海抜10.7m、
小出川の河畔は5mしかないので、ここには5m以上の高低差があり…
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