★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#20 母校が史跡になりました (^^;
 




2014年11月21日に行われた文化審議会の答申に基づき、去る2015年3月10日
わたくしの卒業した高校が国の史跡に指定されました。と言っても、
例えば開智学校(長野県松本市)のように、昔から残る校舎そのものが
文化財としての価値を認められたとか、あるいは足利学校(栃木県足利市)など
旧来から学校が置かれていた場所として確認が取れているとか、さもなくば
何か凄い歴史的な収蔵品を持っているとかではなく… (^^;
高校敷地の地下に、古代の遺跡が埋まっているという事による史跡指定なので
別段、学校自体が歴史的にどうこうという話ではないんですわな(爆)
ところが、これが原因で色々と問題が!!!
国登録有形文化財 飯田市立追手町小学校校舎
追手町小学校校舎の文化財登録標
国登録有形文化財
飯田市立追手町小学校校舎


長野県飯田市にある
追手町小学校の校舎は
1929年、つまり昭和4年竣工の
鉄筋コンクリート建築。
飯田市は大火によって
市街地の大半を焼失する災害に
見舞われた事がありますが
この建築はそれをものともせず
現在にまで堂々と聳え立ち、
2005年(平成17年)12月26日
国の登録有形文化財となりました。
このように、近代の学校建築も
文化財になる時代となって
いるのですが、我が母校の校舎は
別にそういう年代物でもなく…
今回の史跡指定とは、全く
関係ない建物だった訳で (^^;


県立高校ですので、この場所を管理(所有)しているのは神奈川県。
神奈川県は過去の「ベビーブーム世代」(私はまさにその世代だったんですが)で
生徒数が増大する事を睨み、県立高校を大量生産(笑) 一時期、神奈川には
私立高校なども含めて県内に200校(!)を超える高校が設置されており
当然、全国的に見ても圧倒的な多さを誇っておりました。今では削減傾向に
あるようですが、最盛期には高校野球の予選大会が全国一の試合数に及び
(北海道と東京は2分なので、200校以上を勝ち上がるのは神奈川だけ)
当時の甲子園優勝常連校である◎L学園とか、中◆大とかが、仮に
神奈川の高校なら、果たして甲子園にさえ辿り着いたのかどうか?と
密かに思っていたりするんですが…まぁそれは脱線話なので置いておいて。

1964年(昭和39年)に開校した我が校ですが、経年劣化や耐震基準変更などで
21世紀に入る直前あたりから、校舎の建て替え問題が浮上しておりました。
実際、オイラが通っていた頃から結構ボロい 古びた校舎でしたしw
で、校舎建て替えに先んじて敷地の埋蔵文化財調査を行ったところ、どうやら
古代の大遺跡が眠っている…という発見があった(という事にされている)
急遽、この建て替えを凍結して史跡整備を行うべきではないかという議論に。
茅ヶ崎市としては、史跡整備を行って文化財保護を行いたかった意向で
(湘南海岸だけじゃなく、何か観光の目玉を…という狙いでしょうか?)
学校の移転を県側に要望。しかし一方の神奈川県としては、早く新校舎を
建ててしまいたいという方針。一応、地域の進学校である上にその頃から
学習指導要綱の転換があったりしたもんだから、学校数縮小の風潮ながら
廃校にする事はできなかった訳で。という事で県は、史跡なんか関係なく
一刻も早く新しい校舎を造りたかったご様子。斯くして我が校の敷地を巡り、
市vs県(+それを取り巻くモロモロ)のバトルが
10年近く続く事になったのでありました。

で、ここからは個人的意見を少々。
やっぱり自分の出身校ですから(実は嫁さんも同校)
廃校にされてしまうのは何としても避けて欲しかったところ。
とりあえず、市は移転を希望していたし
県はそのままの場所で新校舎を建てるつもりだったから
無くなってしまう事はなさそうだったので一安心でした。
しかしそうすると、学校をどのように存続させるのか?という問題が。
耐震基準に合わなくなった旧校舎は使用できなくなり、
仮設校舎を元とは違う場所に建てて2006年から授業を継続していますが
恒久的な新校舎はどこに建てるのかという議論が決着せず…。
いち卒業生として、また歴史愛好家としては、今後50年100年の先まで考えりゃ
史跡を潰して県が建築を強行し「ここには重要な遺跡があったのに…」と
後ろ指差されるような学校存続はして欲しくなかったんですよね。
教育現場が史跡破壊するって、そもそもどーなのよ!って感じでw
かと言って市の言うような代替地が簡単に見つかる筈もなく…。
ちょうど史跡問題が浮上した頃、高校から少し離れた場所に
大規模な分譲墓地が造成されたんですけどね、県が現状維持に拘らず
とっととこういう所を先に押さえておけば良かったんじゃない?と
常々思ってるんですけどねぇ。まぁ、これはあくまで個人的意見です。ハイ。
結局、未だに代替地は決定されておりませんです。

こうした状況を見てか見ずか、冒頭に記した通り2014年の秋
文化庁が我が校の敷地を「下寺尾(しもてらお)官衙(かんが)遺跡群」として
国の史跡に指定する事を決定。個人的推測ですが、市と県の対立に
国が「史跡にしろ」という判断を下して決着させたのではないか?と (^^;
史跡指定に先立ち、旗色が悪くなったのを感じた県もどうやら諦めたようで
「この場所は県のものだ!」という目印代わりに残していた旧校舎も取り壊され
更地になっております。う〜ん、これはこれでチョット寂しいかも(苦笑)
2008年撮影2015年撮影
少々見難い写真で恐縮ですが、木立の向こうにある校舎が
綺麗サッパリ取り壊されてしまいました。

体育館だけ…
これこの通り、体育館だけ残して校舎跡は全くの空き地。
昔はここに本館・中館・北館の3棟や部室棟なんかが
固まって建ってたんですが…思い出はもはや遠い昔の事 (^^;




というのが凡そ一般的に公表されている経緯なんですがね。
ところが、オイラが学校に通っていた当時から実は生徒教師の間で
ここには凄ェ遺跡が埋まってる!周知の事実 !!!
(上段で「という事にされている」と記したのはこのため)
この場所に高校を建てる時点(つまり昭和39年開校の前段階)から既に
史跡がある事は確認済みで、にも係らず建てちまってた訳ですやね(核爆)
高度成長期の「列島改造計画」で邁進していた時代ですから、その当時は
史跡の上からガンガン建てちまっても、誰も何も言わなかったでしょうが
平成の世の中ではそういう訳にも行かないってのは、むしろ当然の流れ。
故に、県教委は建て替え問題以前から史跡の存在を知っていながら
上手い事すっとぼけて新校舎建てちゃえ〜★と狙っていた可能性が…。
(まぁ、当時の資料が全然引き継がれなかっただけなんでしょうけど)

#だからさぁ、県は後手後手になる前から新校舎云々の時点で
  移築の可能性も視野に入れて準備すべきだったと
  裏事情を知っている方からすれば苦々しく思うんだよねー (ー゙ー;
  個人的に今回の騒動は「はァ?何を今更?!?!」っていう感じでして。


兎にも角にも、国が史跡指定したからにはもう同じ場所に鉄筋コンクリの校舎を
地盤エグッて建てる事は不可能になった訳で、遠からず移転決定となるでしょう。
一時は「木造の」新校舎をその場に建てて御茶を濁そうとしていた案も
あったんですが、それも現実的ではなく結局お流れになったし…。



で、肝心の下寺尾官衙遺跡群とは何ぞや?というお話ですが。
とりあえず、件の「文化審議会の答申」に記されているのは(以下引用)
下寺尾官衙遺跡群【神奈川県茅ヶ崎市】
郡庁、正倉、郡寺といった地方官衙を構成する諸施設が
比較的狭い範囲に密集しており、官衙遺跡群の全体像が把握できるとともに、
その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる稀有な遺跡。
地方官衙の構造や立地を知る上でも重要。高座
(たかくら)郡家(ぐうけ)(郡衙)と
考えられる遺跡。郡家の全体像とその変遷が判明した稀有な遺跡。
(引用ここまで)
となっている。何のこっちゃ?と思われる方もいらっしゃるでしょうから
地図と併せてご覧頂くのが一番かと…。

※ちなみに、高座郡(たかくらぐん)と言うのは
現在の行政区分では寒川町1町だけになってしまった高座郡(こうざぐん)の古語読みで、
遡れば藤沢市(の一部)・茅ヶ崎市から綾瀬市・大和市の付近までを占めた
古代行政郡域の事です。藤沢市に「高倉(たかくら)」という地名がありまして
本来はそこから採られた「高倉郡」という名称であったものが、いつの間にか
「高座」の字を充てるようになり、更に時代を経て読み方も「こうざ」に変化した訳ですが
遺跡として出た官衙の時代はまさにそうした変革期だった為「高座(たかくら)郡」と
表記表音されるもの、という事になります。この「高座郡」の役所(つまり郡衙)が
我が母校(所在地が茅ヶ崎市下寺尾)の地下に埋まっているワケ。



という事で、地図です!
空撮写真地図
画面のほぼ中央、撮影時にはちょうど取り壊し中(!)の校舎付近一帯が
我が母校、つまり高座郡衙跡。そこから西側へ行き、河際にあるのが
西方(にしかた)貝塚。さらに少し南には、通称“七堂伽藍(しちどうがらん)”と
呼ばれている下寺尾廃寺跡が並びます。学校校舎の位置を鮮明にする為
航空写真を使った事で逆にやや分かり辛いかもしれませんが、この場所
小出川の河岸段丘を形成しています。西方貝塚の標高は海抜10.7m、
小出川の河畔は5mしかないので、ここには5m以上の高低差があり…
西方貝塚から西側を眺む
西方貝塚から西側を眺めれば
結構急な坂道を下って
水田地帯の平野部へ至るのですが…。
(晴れた日だと彼方に富士山が見えます)
写真だと高さがイマイチ分かり辛いかな?
走って来る車の屋根が丸見えという点で
撮影位置が一段高いのだと
感じて頂きたいのですが。

その逆のアングル
逆に田圃側から貝塚を仰ぎ見た写真も。
車道がグイっと登っている様子が
分かりますでしょうか?
川面からだと5mを超える高さで
斜面がそそり立ちます。往時は
護岸工事もなく、急流で
川幅も広かった事でしょう。

つまりこの位置、適度な規模の河川に面した高台なので
眺望が良く、水利に恵まれ、狩猟や耕作に適した立地。
貝塚の存在からして、先史時代から人類が生活を営んでいた場所だと
一目瞭然な訳です。ちなみに、古代においては相模湾や相模川が
複雑に入り組んでいた為、現在は内陸地にあるこの場所は
海の恵みも享受できたと推測できます(だから貝塚があるのね)。
西方貝塚についても簡単にご説明しますと…(以下、現地案内板から抜粋編集)
西方貝塚
昭和38年・39年の発掘調査で縄文時代前期の貝塚と竪穴式住居跡を
検出。貝層は廃棄された竪穴式住居内に堆積したもので、魚骨や獣骨
石器類も出土。竪穴式住居は縦長台形の平面を成し、この時期特有の
住居形態。昭和61年には新たな竪穴式住居がここから120m東方でも
発見され、集落の広がりが明らかになった。また平成14年には小出川の
土手の発掘調査で焦石や焼土などと共に大量の土器や石器が出土。

とまぁ、郡衙どころかそれより遥か昔からここに人が定住していた訳。

#高校在学中に部活動の一環で西方貝塚の発掘やって、土器片を
  いくつも拾った覚えがあります(市教委が小出川の調査する前です)。
  あれ、拓本とって文化祭の折に部誌として刊行したんだけど…
  それを1冊保管しておいたんだが、家の中どこ探しても見つからない
  本当はここでその拓本画像も解説資料として
  掲載するつもりだったのに〜!! (TヘT)ヂグジョー どこ行ったー!



続いて七堂伽藍についてもご説明しなくては…。
「伽藍」というのは寺院の建築における堂宇やその配列・構成の事。
いわゆる“本堂”とか“経堂”とか“仏塔”などの建築物をどのように
配置するかという表現な訳ですが、七堂伽藍という名の通り主要建築物を
七堂も構えていた壮大な寺院がここにあったという事になります。
明日香や奈良といった、首都(当時の)にあった寺院ならいざ知らず
その頃においては辺境の極致と言える関東地方において、七堂の伽藍を
擁した寺というのは、もう有り得ないような巨大寺院だったというワケ。
七堂伽藍跡石碑
今では石碑が1本立つだけで
想像すらできない状態ですが
ここにはそれだけの大寺院がありました。
ちなみに、この石碑の土台になっている石は
発掘調査によって検出された
堂宇建築の礎石を活用しています。
なお、写真をご覧頂けばわかりますが
この寺院跡は、小出川河岸段丘の麓側。
(裏手の住宅が一段高い位置に建ってます)
下寺尾寺院(七堂伽藍)跡
この辺りは昔から七堂伽藍と呼ばれ、周辺からは布目瓦や土器が出土し
建物を支える礎石も多数発見されている。「上正寺(じょうしょうじ)略縁起」によると
昔、この地に「海円院(かいえんいん)」と言う寺院があり、寿永・文治の頃
(1182年〜1190年)兵火によって焼け落ちたと記されている。昭和53年7月に
行われた確認調査の結果、瓦の破片や灯明皿として使われた大量の
土師器(はじき)などが出土、古代寺院の跡である事が明らかになった。
平成12年度から行われた詳細調査では、寺院の主体である伽藍域を囲む
大型柱穴列などの区画遺構が発見された事から、1辺約80mに及ぶと
推定される方形区画の伽藍域を中心に、7世紀の終わり頃に創建された
寺院である事が分かってきた。この伽藍域の中では、丁寧に版築された
「掘り込み地業(ぢぎょう)」と呼ばれる土地造成遺構が確認され、この部分に
礎石建ちの主要な建物があった事が明らかになっている。また、銅匙・軸端
墨書土器・香炉など寺院に関連する遺物も出土している。
(現地案内板から抜粋編集)
つまり7世紀末頃、海円院という大寺院がここに建てられ
源平合戦の頃、兵乱によって焼け落ちて廃寺になったという事です。
律令制の時代と言えば、国家鎮護の要として仏教が尊ばれ
政教分離の現代とは全く逆で、国政と寺院は切っても切れない間柄。
仏の教えで全国をあまねく照らし出し、民の平穏安寧を祈願するべく
各地には官営の寺が建立されており、海円院もそうした寺院の1つとして
隆盛した訳。郡衙付随の寺であるから「郡寺」とされ、この地方の民心を
安んじるべく、祈祷や祭祀を執り行っていた大寺だったんですな。


んで、真打。問題の高座郡衙についても簡単な説明をば。
茅ヶ崎市の広報資料から引用しますと(以下引用)
郡庁は7世紀末から8世紀前半に成立し、四面廂付(しめんひさしつき)
掘立柱建物である正殿と、脇殿(わきでん)、後殿(こうでん)からなっていたものが
8世紀中頃に改変され9世紀前半に廃絶する。正倉は、郡庁後殿から
約100mの空閑地を挟み、台地の北縁に沿って4棟検出されているが
8世紀中頃には廃絶している。
(引用ここまで)
この郡衙は7世紀末〜8世紀前半に設置されたとの事で、それはまさしく
日本史上において律令制国家体制が成立する頃の話であり、平城遷都で
奈良時代が始まる年代と一致します。当時まだ東北地方は大和朝廷の
支配下にはなかったので、関東地方は朝廷支配地域の“最果て”だった
事でしょう。辺境地ゆえこそ、支配拠点は強固なものが求められ
相模国府(律令制国の首府。現在に置き換えるならば神奈川県庁)の
下部組織に過ぎない高座郡衙でさえ、1300年経た後にも明瞭な遺構が
検出できる規模と設備を備えていた訳。余談ですが海老名市にあった
相模国分寺には五重塔どころか七重塔が建てられていたそうな。
七堂伽藍と同じく、相模国府従属組織である国分寺には
奈良の都と同等の最先端建築が導入されていたと思われる…。
これぞ間違う事なき権威の象徴!
縮小復元されている国分寺七重塔(海老名中央公園内)
その七重塔、こんな感じ?
海老名中央公園内に置かれた模型です。
これは縮小復元されたもので
本来はこの3倍の大きさが
あったらしいッス!
3倍だと…めちゃめちゃデケぇ (x x)
で、高座郡衙に話を戻しますが。広大な敷地の中に大きく3つの庁舎と
少し離れた場所に4棟の穀倉が構えられ、高座郡の統治・税務・軍役を
担っていたと推定されます。ところが9世紀頃、つまり荘園制度による
私領が国衙領を侵食し経営を成り立たせなくなった時期に至った事で
この郡衙は廃絶の憂き目を見る…。即ち、高座郡衙は古代律令制の
成立〜発展〜衰退と全く連動する形でその興亡を体現した史跡なワケ。
実際、郡衙廃止後から在地武士団である大庭氏が当地の開拓と
大庭御厨(おおばみくりや)と呼ばれる荘園経営に乗り出していて、高座郡の
衰亡と後の武家政権成立に大きな影響を与えていたんですな。

※大庭氏と大庭御厨
平安時代前期から、関東地方には桓武天皇から分派した
臣籍降下の武士団が開拓に入った。いわゆる桓武平氏である。この家系は更に
地方ごとに分家していき、特に有名な8家が「坂東八平氏」とされる。大庭氏は
この中の1家に含まれ、鎌倉郡〜高座郡周辺を私領化していった。そして
領地を伊勢神宮の社領として寄進する事にして荘園化させたのが大庭御厨である。



先史の頃から人が定住し貝塚を形成していた集落に、その発展性や
立地の良さから律令時代となって国の出先機関である郡衙が置かれ
郡寺の海円院も併設してこの地方の中心地域となっていく。写真に載せた
小出川の橋の地点は当時の舟渡場だった為、交通・経済の大動脈でもあり
また海円院に関連し宗教的祭祀も活発に行われたのが確実だが、次第に
荘園制度が侵食する事で衰退。遂に郡衙は消滅し、残された大寺も
源平合戦の兵火によって消え去った。このような歴史的事象を
明瞭に残す遺構が半径200m程度の範囲内に密集していた…というのが
下寺尾官衙遺跡群の意義という事になるんですよ。
下寺尾官衙遺跡群周辺模式図
概ね上に記した航空写真のエリアと合致するよう、遺跡周辺の状況を
模式図にしてみました。まぁ、当時の川の流れとか街道筋、細かい地形の
起伏なんかまで正確にトレースした訳ではないし、郡衙や郡寺の
詳細な位置を把握している訳でもなく、ましてや田圃の割り振りなんかは
完全に“雰囲気だけ”の代物でございますが
(一応、条里制の半折(はおり)型地割ふうに田圃を区切ってみましたw)
何となくは全体像を掴んでいるのではないかな、と (^^;;;
郡衙敷地中、オレンジ色で示した部分が中枢部である正殿・脇殿・後殿の
並んでいた部分で、ここがまさに我が校の校舎が建っていた近辺。
黄色で示した区域の、特に小出川寄りにあたる崖っぷち(つまり北端)には
正倉(米蔵)が東西方向に並んで4棟あったと推測されています。
郡衙敷地の四周は塀で囲われ、出入口には門があった模様。これ即ち
国府と同様の構造を成していたワケですな。そして台地の南麓に
ある程度の平野部があった為、そこには郡寺とされる海円院。
これまた推定される敷地は結構な広さが。寺の西側には祭祀場も。
台地突先部が西方貝塚跡で、その西側直下が渡船場だったとの状況。
祭祀場周辺や西方貝塚のあたり、或いは海円院の
東側(この模式図で一番下端の付近)には住居が点在し、
集落を形成していたと考えられているようです。こうして見ると、
往時としては結構栄えてた場所だったんですねぇココって!
(↑だから史跡に指定されたんだろっちゅーねん!w)



漏れ聞くところに拠れば?どうやら「郡衙」としての遺構が
確実だと断言できるのは日本全国でここだけらしいッス。
という事は、きちんと史跡整備して歴史公園とかにすれば
“全国唯一”のとんでもない名所に化ける可能性があるって事かも??
国の特別史跡に指定された佐賀県の吉野ヶ里遺跡も
元々は工業団地の造成地域として開発の手が入ったところ
あの遺構が出てきた為、計画を全面撤回して史跡公園化したとの事。
今では「佐賀県と言えば吉野ヶ里」という程の観光名所になっているし
(っつーか、一般的に佐賀県の観光名所って他に思い当たらんよね?)
もしかして…下寺尾官衙遺跡群も…上手くいけば?それなりに
メジャーな史跡になってくれる………と、いいなぁ (^^;自信薄
だいたい、高校が移転したとて周囲には他にも民家がいっぱい
建ってるから、そんな簡単に決着できるモンでもないしねぇ(爆)


何だか最後は頼りない〆になってしまいましたが、
兎にも角にも、今後きちんとした史跡整備をして
誇りある母校跡地が、誇りある貴重な史跡として繁栄していって欲しいと
思う訳でございます。もちろん、新校舎建設も速やかに解決して、ね (^^)
(2015年3月31日 校了)




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