武蔵国 深谷城

深谷城址公園の模擬建築

 所在地:埼玉県深谷市本住町・仲町・深谷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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「庁鼻和」読めませんよ普通は…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町時代中期の1456年(康正2年)上杉右馬助房憲(ふさのり)の築城と伝わる城。以降、戦国期から江戸時代前期まで用いられ
それに応じて城郭の整備拡張が続けられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関東管領(室町職制における東国の統治実務者)を世襲した山内(やまのうち)上杉一族の中、上杉蔵人大夫憲英(のりふさ)は
深谷市内にある庁鼻和(こばなわ)城を築いて拠点とした。憲英の曾孫に当たる房憲が当主となった頃、関東地方では鎌倉公方
(東国の最高権力者)と幕府との間で対立が激化し、遂に武力衝突へと発展する。この乱を年号から享徳の乱と呼ぶが、戦闘に
対処するため房憲が新たに築いた城郭こそ深谷城だったのである。これにより、憲英から始まる一族を遡って深谷上杉氏と呼び
(それまでは庁鼻和上杉氏と称される)房憲は深谷上杉家4代目(5代目とする説も)当主にあたる。■■■■■■■■■■■■
房憲の後、三郎憲清(のりきよ)―次郎憲賢(のりかた)―左兵衛佐憲盛(のりもり)と代を重ねるが、この頃になると戦国争乱は
激しさを増し、関東の“旧勢力”であった山内上杉家の勢力は衰退、代わって南関東から“新興勢力”の小田原後北条氏が急伸
してくる。同族だった事から深谷上杉氏は宗家である山内上杉氏に従っていたものの、1546年(天文15年)4月20日に行われた
いわゆる「河越夜戦」において上杉方が大敗北を喫すると、もはや山内上杉氏は領国を支えられなくなり、当主・山内上杉憲政
(のりまさ)は越後国の長尾景虎を頼り遁走した。一方で深谷上杉氏は旧領に残り、それを堅守する道を模索する。このため、
後北条氏との誼を通じるようになり、上杉一門にありながら親北条路線を選択したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■
ところが逃亡した憲政は、戦の天才と謳われる景虎に領国の奪回を依頼。こうした経緯によって1560年(永禄3年)末〜翌1561年
(永禄4年)にかけて長尾軍が大挙して関東へと襲来した。景虎の“越山”により、それまで後北条方へとなびいていた関東地方の
諸将は再び上杉方へと去就を転じる。深谷上杉氏も同様の態度を見せたものの結局のところ景虎は後北条氏の本拠・小田原城
(神奈川県小田原市)を攻めきれず、山内上杉の家督と関東管領職を継承しただけで自国の越後へと帰還してしまった。斯くして
誕生したのが上杉謙信であるが、即ちこれは後北条の復権を意味した為、上杉軍に協力した関東諸勢力はまたもや後北条方に
帰参。深谷上杉憲盛もそういった身の振り方を選んだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが謙信は関東攻略を諦めた訳ではなく、以後数度に渡って関東侵攻を繰り返す。関東諸将はその都度、上杉と後北条の間で
揺れ動き、業を煮やした謙信は1563年(永禄6年)従属する成田下総守氏長(忍城(埼玉県行田市)主)に深谷城を攻めさせた。
関東を巡る流動的な情勢は以後も続き、後北条・上杉そして甲斐(現在の山梨県)武田氏までもが深谷城周辺を攻撃する事が
しばしばあったようだ。結局、憲盛の子である五郎氏憲(うじのり)が家督を継いだ時点で後北条氏への臣従が確定し、鉢形衆
(鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)主・北条安房守氏邦(うじくに)隷下の後北条氏地方軍)の一員に位置付けられた。深谷城主も
氏邦とされ、氏憲は城代だったとする見方もある。なお氏憲の「氏」の字は、時の後北条氏当主・左京大夫氏政(うじまさ)からの
片諱である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭としても使われるが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、その後北条氏は全関東攻略を目標として版図を広げていく訳だが、次第に天下人・豊臣秀吉との軋轢を強めていく。遂に
1590年(天正18年)秀吉は後北条氏討伐を決定、全国の諸大名に小田原攻撃を命令した。一方の後北条氏は領土に総動員を
かけ、小田原城の集中防衛と領国内諸城におけるゲリラ的足止め作戦を展開。これにより氏憲は兵を引き連れ小田原城へと
参集したのである。深谷城の留守を任されたのは、深谷上杉氏の家臣である杉田因幡と秋元越中守長朝(ながとも)であった。
彼らは良く城を守ったが、怒涛の攻略を進める秀吉軍に対し関東の諸城はほぼ総てが落とされていく状況にあり、深谷城にも
前田又左衛門利家・浅野弾正少弼長政率いる軍勢が押し寄せて来た為、状況の不利を悟った杉田・秋元の両名は無血開城を
選択。ここに134年の深谷上杉氏時代は終焉を迎え、深谷城は豊臣軍に接収された。程なくして後北条氏自体も降伏し、関東の
太守は秀吉の国替によって徳川家康と定められた。深谷上杉氏憲は国を失い浪人となり、一方で隠棲した秋元長朝は家康に
召し出されて徳川家臣に加えられる。秋元家は徳川譜代大名として江戸幕府成立後に老中を輩出する名家となっていくのだが
これは深谷城を開城し無益な戦闘を避けた事が評価された為と言われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
深谷城に話を戻す。徳川氏が関東を治めるに際し、長沢松平家の松平源七郎康直(やすなお)が1万石で入封。康直は家康の
甥に当たる人物だ。ところが1593年(文禄2年)10月29日わずか25歳の若さで病死してしまう。家康は自身の7男・松千代を彼の
養子として長沢松平家を継がせ深谷城主とするが、その松千代も1599年(慶長4年)1月12日たった6歳で病没。すると、今度は
6男・忠輝(松千代の同母兄)を後嗣とした。伊達右近衛権少将政宗の娘婿として知られるあの上総介忠輝だ。■■■■■■
1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦で勝利した事で徳川家康は天下の主となり、1602年(慶長7年)12月に忠輝は下総国
佐倉(千葉県佐倉市)5万石へと加増転封。1610年(慶長15年)7月には桜井松平家の松平大膳亮忠重(ただしげ)が8000石で
入封するも1622年(元和8年)10月1万5000石に加増された事で上総国佐貫(千葉県富津市佐貫)へ移転。替わって深谷城主と
なったのが酒井讃岐守忠勝。元来、下総国内に3000石を持っていた忠勝は、深谷領7000石を加増され合計1万石の大名に。
彼は徳川譜代の重鎮・酒井氏の嫡流である雅楽頭(うたのかみ)家に生まれ、頭脳明晰の逸材として期待されていた。1624年
(寛永元年)8月、前年に将軍職を継いだばかりの徳川家光に随伴して上洛し、その功で武蔵・上総・下総の3国にて2万石を
加増を受け、同年11月から老中に就任する。そして1627年(寛永4年)11月14日に父・備後守忠利(ただとし)が死去し遺領を
相続、8万石の大名として武蔵国川越(埼玉県川越市)へと転封している。後年、忠勝は大老にまで昇進した人物であるが、
彼の移封により深谷城は城主不在となり、1634年(寛永11年)に廃城となってしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■

市街地化により遺構埋没■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
残された史料に拠れば、最終的な深谷城の縄張りは東西南北それぞれ600m四方に広がる広大な敷地であったと推測され、
中心の本丸を囲うようにいくつもの曲輪が取り巻く渦郭式の構造だったようだ。現在の地図に置き換えると、本丸は深谷市立
図書館あたり。その東側にある深谷城址公園は東曲輪、図書館の北にある深谷市産業会館や深谷市体育館一帯が北曲輪、
西側の深谷市立深谷小学校が二ノ丸となる。二ノ丸の南面、深谷市深谷400番台の折れ曲がった町域は掃門曲輪〜西丸の
縄張り、埼玉県警北部機動センターの辺りが大手の馬出に相当する。深谷城の別名は木瓜(ぼけ)城との雅号であるが、この
ように大きく広がる縄張を花びらを幾重に重ねる木瓜の花に例えての事であろうか?城域の東端にある富士浅間(せんげん)
神社は、深谷上杉氏時代に勧進された城内鎮守を酒井忠勝が再興して現在に至るという。■■■■■■■■■■■■■■
ところが廃城以来、特に明治以降の近代化によってこれらの敷地は完全に市街地化されてしまい、現在では明確な縄張が
分からない状態となっている。城址公園とされている場所も単なる市民公園になっているので城跡としての遺構はなく、模擬
石垣や塀を模した建物(写真)が設置されているものの、これも旧来のものを踏襲した訳ではない。ごくごく断片的に、しかも
非常に判りづらい状態で堀跡が残ると言われ、それは1958年(昭和33年)11月3日に深谷市指定史跡になっているが、これも
よほど目の肥えた人でないと判別できないもののようだ。但し、城址の各所において数度に渡り発掘調査が行われ、障子堀
遺構をはじめとする様々な遺物が検出されている。深谷市の中心部には、今なおかつての大城郭が埋もれ、永遠の眠りに
就いているという事でござろう…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁等
堀跡は市指定史跡




杉山城周辺諸城郭  岩槻城周辺諸城館