大坂城包囲網

江戸幕府の成立により、徳川氏の時代が到来。
しかし大坂に豊臣氏は健在であり、特に口うるさい淀殿は
常に豊臣家が主家であると主張し、徳川幕府に従うそぶりを見せない。
世論は家康の死後、再び動乱があるのではないかと疑っている。
徳川の世を磐石な物にするためには―――家康の決意が、形になっていく。


家康、駿府へ 〜 江戸と駿府、二元政治
1606年4月、宇喜多秀家が八丈島へ流罪となった。関ヶ原以後、姿をくらませていた秀家は
実は薩摩国で潜伏し島津氏の庇護下に置かれていたのだが、江戸幕府の成立によりもはや
勢力回復の機会なしと観念。1603年、島津家が秀家の身柄を幕府に差し出していた。
関ヶ原西軍首脳の1人として極刑は免れない状況であったが、島津家や秀家の妻・豪姫の実家
加賀前田家から助命の嘆願が為され、何とか命は助けられたものの、一族共々八丈島へ流され
ここに宇喜多家は滅亡したのである。ちなみに秀家の家系は八丈島で脈々と生き永らえ、
その間、加賀前田家から支援が行われていたため明治維新まで残っている。
さて、将軍職を引退した家康は江戸を2代将軍・秀忠に任せ、自身は隠居所となる駿府城へ
移った。もともと、今川家の本拠であった駿府であるが、豊臣政権時代に城が改修されている。
今回家康が駿府で隠居するに当たり、その城が新規築城と呼べるほどの大改造工事を施された。
これには東海地方ほか5ヶ国の大名が動員され、築城工事の分担が為されている。
家康が入居した事により、幕府政治は江戸と駿府の二元化となる。とかく、二元政治の場合
互いの権力者が権勢の独占を図り争乱の元となるのが常だが、江戸の秀忠は従順に父・家康の
命に従う賢君であったため、今回はそのような事にはなっていない。むしろ、江戸と駿府で
相互補完する関係になったほどで、成立したばかりの江戸幕府の権能がより一層強化されたと
言うべきだろう(ただし、江戸と駿府で意見の対立が全くなかったという訳ではない)。江戸で
秀忠を補佐したのが切れ者の官僚・本多正信、忠勤の老臣・大久保忠隣(おおくぼただちか)ら。
駿府で家康に近侍したのが正信の息子・本多正純(ほんだまさずみ)であった。
それよりもこの時代の二元政治と言うならば、江戸幕府と大坂の豊臣氏の争いが問題となる。
宇喜多や島津が観念し、既にほとんどの大名が徳川氏に服従、全国の支配体制が江戸幕府により
固められたにもかかわらず、淀殿や大坂城内の武将は秀頼の成人により豊臣氏の時代が
復活すると信じていた。65万石の一大名に転落し、豊臣氏が政権を担う世が過ぎ去った事に
気付く者はごく少数しか居なかったのである。

★この時代の城郭 ――― 天下普請
江戸城に引き続き、駿府城の工事も行った徳川幕府。その工事は諸大名に負担させ
豪壮巨大な城郭が次々と誕生していった。天下人(今回の場合、江戸幕府)が
絶対的な権勢を楯に築城の賦役を諸大名に課す事を「天下普請」という。
政権者は、命令に従わせる事によって諸大名の忠誠度を見極めると同時に、彼らに
経済的・労力的負担を負わせ、その勢力を削ぐ狙いがあった。一方、大名にとっては
政権者に対して忠誠を示すまたとない機会であり、(好むと好まざるとに関わらず)
積極的に参加する必要があったと言える。幕府の指示に反する事は、即ち反逆を意味し
討伐の対象となってしまう。彼らは戦々恐々としながら築城に従事したに違いない。
こうした普請事業は、主に土木面での作業がメインであった。敷地を造成し、堀を掘削し
土塁を盛り、石垣を築く。最も重労働で費用のかかる部分が諸大名に割り振られたのだ。
事業に参加した諸大名は、自らの功績を主張し忠誠の証としたのだが、特に顕著なのが
石垣の構築だ。如何に高く、如何に見事な石垣を築いたかはその大名の“技術力の高さ”を
披露する事に繋がる。と同時に、石材には刻印を残せるので「これが我々の成果だ」と示すに
うってつけの場所だったのである。天下普請で築かれた城の石垣には、こうした刻印が
数多く残されているので、城跡を見て歩く際、探してみるのも良いだろう。
江戸城田安門石垣刻印江戸城田安門石垣刻印(東京都千代田区)


徳川御三家の成立 〜 当初は尾張・駿府・水戸の3家
徳川家の家督は3男の秀忠が相続したが、家康には他にも多くの子がいた。長男・信康と2男
秀康については前頁で示したが、他の子はどうであったか。御落胤が何人かいたようだが
とりあえずそれは除外し、一門として認められた者を記していく。まず7男・松千代と8男
仙千代は幼くして没した為、とりたてて記載する事はない。滅亡した甲斐武田家を復興する為
家名を譲り受けた5男は武田信吉(のぶよし)という。関ヶ原合戦後の国替えで水戸25万石を
得ている。同様に4男・松平忠吉が清洲52万石の太守になった事は先に記した通り。6男は
伊達政宗の娘・五郎八姫と縁組した松平忠輝。幼少の頃からの暴れん坊で知られ、武芸に
秀でていると言えば聞こえが良いものの、常に反抗的な態度が家康や兄・秀忠から嫌われていた。
関ヶ原前、徳川氏の勢力拡大を狙った婚姻政策により伊達家と縁戚になったが、江戸幕府が
開かれた今となっては、奥州最強の武将・政宗と近い存在はむしろ危険であった。政宗が
義理の息子である忠輝を担ぎ上げ、幕府の乗っ取りを図る可能性があったからだ。このため
忠輝は危険視され、一門の中でも最も所領が少なかった。
さて、家康の男子はこれだけではない。関ヶ原の後にも生まれた子がいる。つまり、家康が
還暦近くになって生した子である。9男は義直(よしなお)、10男は頼宣(よりのぶ)、11男は
頼房(よりふさ)という。この3兄弟は特に家康に可愛がられたようだ。性格を表し
義直は「剛」、頼宣は「勇」、頼房は「才」と評されている。他に女子も多数。
しかし、これだけ多くの子がいた家康だが、親に先立つものもいた。元々病弱だった5男の信吉は
幕府の成立した1603年に死去。関ヶ原で果敢に戦った4男の忠吉も、その傷が元で1607年死亡。
空白となった水戸と清洲に入ったのは、3兄弟のうち2人であった。1607年、義直が清洲領を貰い
1609年には頼房が水戸25万石を得ている。後年、家康は徳川家の相続に優先順位を定め、
それによれば「徳川宗家は原則長男を嫡男とし、それが絶えた時は義直・頼宣の家系から後嗣を
選出し、頼房の家系がこれを補佐する」としている。つまり、義直・頼宣・頼房の家は徳川将軍家を
バックアップするものとして特別扱いされるようになったのだ。このため、3兄弟の家系は
御三家と呼ばれ、徳川一門の中でも特に重要視された。なお、頼宣は駿府の家康が預かって
いたため、初期の御三家は尾張・駿府・水戸に居を構えていた事になる。また、頼房は補佐の任で
あったため、この頃は「徳川宗家・尾張家・駿府家」を御三家と認識していたとも言われる。

徳川氏系図

徳川氏系図(赤字は女性)
―は親子関係 =は婚姻関係 数字は将軍継承順

大坂城包囲網 〜 天下普請の城、豊臣氏を包囲す
秀頼の舅・秀忠が将軍職を襲職する際であっても、徳川の天下は認めぬとして祝儀を拒んだ
淀殿。未だ豊臣氏が天下の主と信じている彼女は、65万石の一大名に転落した事に気付かず
公然と徳川家との対決姿勢を取っていた。このまま放置していては、秀頼が成人した際
淀殿が反徳川の兵を挙げるかもしれない。淀殿が挙兵せずとも、かつて豊臣に臣従した
大名が同様の事をする危険性もある。事実、福島正則や加藤清正は江戸幕府成立後も
大坂城の秀頼を第一として考えている態度が見受けられた。万が一、大坂方が挙兵するような
事のないよう、厳重な防備策を採る事が江戸幕府の施政方針となっていく。これに基づき、
幕府は畿内を取り囲む城郭を次々に築く事を決定した。
幕府の本拠・江戸城、家康の隠居城・駿府城、三成旧領を払拭した彦根城については先述したが
その他、結城秀康居城となる福井城(福井県福井市)、松平忠輝居城の高田城(新潟県上越市)
岐阜城に代わる美濃の要・加納城(岐阜県岐阜市)、琵琶湖水運の要衝・膳所(ぜぜ)城
(滋賀県大津市)、京都後背地を固める丹波亀山城(京都府亀岡市)、鉄壁の縄張りを誇った
丹波篠山城(兵庫県篠山市)などが造られた。これらはいずれも、天下普請の城郭。高田城は
忠輝の舅・伊達政宗が普請総奉行を務め、丹波篠山城は城作りの達人・藤堂高虎による縄張り。
どれも歴戦の勇将が趣向を凝らした堅城揃いである。加えて、家康の女婿・池田輝政の姫路城や
徳川幕府に忠勤を誓った藤堂高虎の津城(三重県津市)・伊賀上野城(三重県伊賀市)なども
大坂城包囲網の一端を担っている。加えて、もし大坂方と戦になる場合、幕府の総司令部となる城が
二条城(京都府京都市)であった。斯くして、大坂と西国諸大名の連携は不可能となっていく。
そして大坂城包囲網の総仕上げとなる城郭が名古屋城(愛知県名古屋市)であった。尾張国は
亡き松平忠吉に代わり徳川義直へ与えられたが、家康は清洲城の防備や発展性に限界を感じ
義直の為に巨大な新城が必要と判断、1609年11月、かつての那古野城跡地に名古屋新城を
築くと決定したのである。この城の普請には西国諸大名20家が動員され、その中には加藤清正や
福島正則も含まれていた。1610年閏2月に着工した工事は突貫で推し進められ、1614年に一応の
完成を見たが、その勇姿は現代でも金の鯱を戴く大天守の姿で良く知られていよう(ただし現在の
名古屋城天守は昭和復興天守)。こうした“大坂城包囲網”の城郭を用いるシナリオは、姫路城・
丹波篠山城で東進してくる西国勢を食い止め、膳所城や伊賀上野城あたりを第二段の構えとし、
もしそれも突破された場合、名古屋城で最終決戦に及ぶものと想定される。こうした筋書きが
現実のものとなる事はなかったが、徳川幕府が用心に用心を重ねていた状況は良く窺える。
それほどまでに、豊臣秀頼の存在には危険な求心力があったのだろう。

★この時代の城郭 ――― 徳川系城郭
前の頁で、“慶長築城ブーム”に作られた外様大名の新城は「縄張りは複雑極まる」と記した。
これに反するような縄張りを多用したのが徳川氏の城郭である。丹波篠山城、名古屋城など
徳川氏の城郭は単純極まりない縄張り。方形の曲輪を組み合わせるのが基本形で、登城の導線は
ほとんど一本道のような構造。姫路城や熊本城がまるで迷路のような縄張りなのに、徳川系城郭は
あっさり単純明快なルートでしかないのだ。
しかしこれこそ、新時代の城郭なのである。朝鮮出兵の戦訓を活かした豊臣系大名の城は
敵味方入り乱れる乱戦を念頭において迷路のような城を築いた。一方、徳川系城郭は朝鮮出兵より
さらに後、つまり関ヶ原合戦においての戦訓をベースにしている。大津城や伏見城の攻防戦だ。
大津や伏見の城(つまり、織豊系城郭)は確かに技巧的縄張りであったが、攻防戦に討ち負けた。
この時代、大砲や鉄砲を用いた攻城戦が主流になってきており、縄張り以前の問題として城の防衛線の
外から物量に任せた砲撃を食らったため、城内の構造物が破損し防備を果たさないという状態に
陥ったのである。これを防ぐ為には、縄張りを大型化して攻城軍が大砲を放つ場所を確保させず
加えて、城方から反撃するための射撃散布界を明確にする必要があった。つまり、白兵戦時に
敵を惑わせる“一点防御”的な縄張りよりも、火砲を有効に活用するための“面を確保する”縄張りが
重視されたのである。“点”の城から“面”の城へ。これこそが、徳川系城郭の根幹であった。
城内のルートが単調なのも、“敵を入れさせない”事よりも“城内の兵や砲が移動しやすい”ように
したからなのである。何より、将軍家の城であるから「大兵力を収容できる曲輪」が必須であった。
また、高層建築物を少なめに抑えるのも特徴。敵から射撃を受ける目標物となり、命中し崩壊した場合
かえって被害を増やすからだ。撤去しようにも、3重櫓ともなると簡単にはできない。邪魔な櫓を
増やすより、最初から作らないようにしたのである。名古屋城は敵の射程範囲に入らない位置に
司令塔となる5層の大天守を造り(無論、当時の火砲の性能を計算した縄張りなのだ)、それ以外は
2重櫓や多聞櫓を多く用いていたため、3重櫓の数は多くない。丹波篠山城の場合、あまりに縄張りが
堅固だった為、もはや天守や櫓も不要とされほとんど設置されなかった。しかし高層建築物を減らした分、
堀の幅や石垣の高さが重要視され、敵兵が取り付けず城方が十分な射界を確保できるように工夫。
織豊系城郭の強さを残しつつトータルバランスで敵と戦う、それが徳川系城郭の戦略であった。


二条城の対面 〜 果たして、家康の目に映った若者は―――
1611年3月27日、後陽成天皇が退位し後水尾天皇が即位した。4月12日に宮中で即位の礼が
行われ、絢爛豪華な式典が催されたのだが、無論、これは徳川幕府による政治的儀式の一環である。
絶対的な武力と全国を掌握した権力で、宮中までもコントロールする勢力を広く喧伝したのだ。
それに関連して、二条城で3月28日に徳川家康と豊臣秀頼の会談が行われた。これまで秀頼が
大坂城から出た事は一度も無く、今回が初めて(そして生涯唯一)城外へ出たのである。秀忠
将軍即位の際も祝賀参詣を断り、その後も徳川幕府との交渉を拒否していた豊臣家であったが、
度重なる家康からの会談要求に、ようやく重い腰を上げた。実はこれには裏話があり、秀頼大事と
信奉する加藤清正と福島正則が、これ以上徳川家と対立するのは得策に非ずと淀殿を説得し、
秀頼の身の安全を約束する条件で会談を認めさせたのであった。このため、福島正則は大坂城で待機し、
加藤清正は秀頼に随伴し片時もそばを離れず、二条城まで同行している。清正は家康の前であっても
懐に短剣を忍ばせ、もし万が一秀頼に危害を加えるような事があったら刺し違える覚悟だった。
さて家康であるが、二条城で対面した秀頼を見て何を思ったか。関ヶ原から約10年、立派な偉丈夫に
成長した若武者・秀頼。一説によれば、秀頼は父・秀吉に似ず、母の血を受け継ぎかなりの巨躯で
あったという。目前に控えた秀頼は、将来有望な武将の風格をたたえていたのかもしれない。
そんな秀頼を前に、家康は遠慮を見せ“豊臣家・徳川家を同格とする着座”を勧めた。ところが
秀頼は、家康の下座で会談する事を選んだ。これにより、秀頼が徳川家の家臣としての立場を
認めた事になる。かつて家康が大坂城へ赴き、秀吉との会談で臣下になった事があったが、それから
約25年の歳月を経て、同じ事例が二条城で再現されたのである。これにて天下は安定となるはず…。
しかし、家康の思いはそんな簡単ではなかった。凛々しい武将となった秀頼が(頑なな淀殿と違い)
賢明にも豊臣家の立場を慮った振舞いを見せる。つまりそれは、秀頼の将来が有能である事を
示していた。となれば、家康が高齢で没した後、やはり天下を脅かす存在になるはずである。
二条城の会見は一見天下を治めるための平和的会談であったはずだが、その実、家康が内心で
秀頼を(自分の存命中に)抹殺せねばならないと決心する引き金になってしまったのである。

★この時代の城郭 ――― 築城名人列伝(1):加藤清正
世に築城名人と評される人物は数多く、時代ごとに色々な人が挙げられる。例えば戦国初期の
太田道灌、多聞櫓の発祥を為した松永久秀、武田流築城術の名手・馬場信房、大坂築城の
立役者にして秀吉の知恵袋・黒田如水などがいるが、慶長築城期は築城数に比例して特に多い。
その中でまず挙げるべきは加藤清正であろう。
堅城・熊本城を作った事で有名な清正。その真骨頂は“清正流(せいしょうりゅう)石垣”と
呼ばれる石垣作りにあると言っても過言ではない。この石垣は、最下段で接地する部分は
比較的なだらかで一見すると登れそうな雰囲気でありながら、頂上部ではまるで反り返るかの
如く急峻に切り立っており、忍び返しの石垣とも呼ばれるもの。高さも並みの石垣とは
比べ物にならないほどで、清正が如何に高度な技術を持っていたかが窺える。こうした堅固な
石垣を活用したため、見事な縄張りの堅城が作り得たのである。
清正が初めて城作りに従事したのは秀吉の大坂城構築の際だったと言われる。いきなり
天下無双の巨大城郭の製作に立ち会ったのだから、嫌が応にも城作りのノウハウは
蓄積されるというもの。続いて名護屋城の築城では普請奉行に任じられ、秀吉の国策を
具現化する大城を完成させた。さらに出兵先の朝鮮でいくつもの倭城を作り上げ、それらの
戦術データを活用した集大成として、名城・熊本城を完成させたのである。
徳川氏の時代になった後、清正は各地の徳川系城郭の石垣作りにも参加。名古屋城には
「清正石」と呼ばれる巨石が本丸東面を固めている。ところが、その石垣作りを担当したのは
加藤家ではなく黒田家であった。黒田家の持ち場でありながら、清正石なる石があるのは
不可解な話である。要するに、これだけ見事な石を運び込むのは清正の技術無くては無理だと
後世に誤って伝わってしまい、清正石の名が付けられてしまったのである。そうした伝説が
生まれるほど、清正の技術は抜きん出ていたという証明であろう。
さて、秀頼が家康と二条城で対面した際に付き添った清正。豊臣・徳川の関係が好転した事を
見届け領国の熊本へ帰国したのだが、その直後に急病を発して6月24日に死去。あまりに突然の
死は“秀頼親衛隊”である清正を排除しようとした幕府の陰謀という説もある。それはさて置き、
清正が死の床に就いた熊本城の本丸御殿には、最深部に“昭君の間”と呼ばれる貴賓室があった。
もし万が一、秀頼が大坂から落ち延びるような事があったなら、ここに迎え入れて匿うつもりで
あったと言う。無論、この説は歴史を面白おかしく盛り上げようとする邪推に過ぎないし
何ら根拠となる文献もない訳だが、もしこれが事実であれば(清正の心情としてはありえなくも
ない話である)熊本城は清正だけの城ではなく秀頼のための城でもあったのだ。だからこそ、
過剰なまでの防備で固めたのかもしれないが、昭君の間に秀頼が入る事は遂に無かった。
熊本城本丸御殿昭君の間熊本城本丸御殿昭君の間 [(C)NHK]




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