★この時代の城郭 ――― 慶長の築城ブーム
関ヶ原論功により発生した大規模な国替え。その大半は、かつて西軍武将が治めていた土地に
新たに東軍武将が国主として入った状況にある。以前より記していたが、大名が拠点を移し
一から統治体制を確立するのは非常に危険を伴うものである。ましてや、旧主を懐かしむ風潮の中
昨日までの敵であった武将が今日からその土地を支配すると言っても、そんなに簡単な事ではない。
国人衆の反乱、隣国との安全保障体制、それらを考慮し新領主が防備を固めるとなれば
壮大堅固な城を築いて、国内・国外に対して存在をアピールする必要があった。言うまでもなく
現代に生きる我々は関ヶ原以後大きな戦いがなくなったと知っているが、その当時の状況は
天下分け目の大戦直後で政治状況は先行き不透明、いつまた次の大戦が起きるかわからない
一触即発といった感じのものだったのである。このため関ヶ原以降、“慶長の築城ブーム”と
呼ばれるほどに全国で新規築城が相続いた。
秀吉の朝鮮出兵において、強靭な防備力を備える倭城を築いた理論を応用し、また、丁度この時期に
開発された新たな建築・土木技術をフル活用した事により、慶長築城ブームの時代に造られた城は
いずれも名城・堅城として現代にまで知られているものばかり。一例を挙げれば、加藤清正の熊本城
細川忠興の小倉城、山内一豊の高知城、加藤嘉明の松山城、それに池田輝政の姫路城。どれも
丘陵部を全て城郭用地として活用した平山城にして、城内には櫓が林立、巨大な天守が城下を睥睨し
縄張りは複雑極まるほどに技巧的・実戦的なものである。こうした巨城が、新領主の本拠となり
最も効率的かつ戦略的に統治基盤を成立せしめたのだ。
また、大名の本拠となる城郭だけでなく領国内の警戒網を整備する為に様々な支城も造られた。
有名なものが黒田氏による筑前六端城や蜂須賀氏による阿波九城と言ったもの。あるいは、
福島正則が安芸国西端に築いた亀居城(広島県大竹市)だ。正則が新たな領地として与えられたのは
西軍総大将・毛利輝元の領地。その毛利氏は、安芸の隣である周防国・長門国でくすぶっている。
わずかな隙を見せれば、旧領奪還に向けて毛利対福島の戦いが発生する危険性は十分にあった。
これを防ぐ為、正則は亀居城を築いたのである。地図を見ればわかるが、広島県大竹市は県境の市。
すぐ隣は山口県岩国市だ。つまり、亀居城の目と鼻の先は毛利領・岩国城のテリトリーなのである。
毛利軍の侵攻に即応できるよう、正則は城を築くと同時に街道の付け替えまで行い、軍船も亀居城下の
港に結集させた。それほどまでに“慶長築城ブーム”の時代は危険性を孕んでいたのである。
城郭愛好家の目で見れば、数多くの名城が生み出された事は喜ばしい事でもあるのだが、
改めて、城郭とは戦争に直結した凶器であると考えさせられる社会情勢だったのだ。
|