江戸幕府開闢

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、西軍の残党を狩り
京極高次が守りきった大津城を経て、大坂城へ入城。
この間、三成の居城であった佐和山城は9月17日に攻め落とされている。
敵対派を実力でねじ伏せた家康は、戦後処理に着手する。
その先には、豊臣政権に代わる新たな政治体制が見えてきた。


西軍処罰 〜 石田三成、刑場の露と消ゆ
戦場離脱後、行方の知れなかった三成であったが、近江山中で潜伏していた所を9月21日に
田中吉政の部隊に発見され、捕縛される。小西行長、安国寺恵瓊といった面々もそれぞれ
隠れていたところを捕らえられ、西軍の首脳はほとんどが確保される。敗軍の責を問われ、
家康の処断を受けた彼ら。10月1日、京都六条河原の刑場で斬首されたのである。
この時の三成の言動は有名であろう。刑の執行前、最後に望むものはあるかと訊かれた彼は
喉が渇いたので水が欲しいと答える。しかし、近くには水を用意できる所がなかったため、
たまたまあった干し柿ではどうかと訊ねられるや、柿は胆の毒なので要らぬと返事をする。
もう刑死するのが決まった身なのに、身体の心配をしても仕方あるまいと周囲はいぶかったが
武士ならば最後の最後まで全力を尽くすのが本分だと言い放ったのである。
さて、その他の西軍武将はどうなったのか。五奉行として大坂城に詰め、三成の肩を持った
増田長盛は所領没収の上、高野山へ蟄居。前田玄以は家康に内通していたため罪に
問われなかったが、関ヶ原へ出張った長束正家は、敗走し居城の水口(みなくち)城へ戻るも、
城を東軍に包囲され自刃。立花宗茂、丹羽長重は改易。毛利家は広家の尽力により取り潰しは
免れたが、西軍総大将の地位にあり徳川家を脅かした事から所領を大幅に削られ、中国地方
9ヶ国121万石から周防・長門2国37万石に減封となってしまった。家康に味方しなかった
常陸国の佐竹家も、水戸55万石から秋田21万石への左遷人事を食らった。上杉家も同様。
会津120万石の大封を失い、家老・直江兼続の城であった米沢30万石のみを残されただけだ。
2度までも徳川家の顔に泥を塗った真田昌幸とその次男・信繁については、もはや死罪が
決定的と見られていたが、東軍に味方した長男・信幸の命乞いと本多忠勝の取り成しにより
所領没収の上、高野山へ幽閉という線で落ち着いた。一方、対応を誤った例として特筆すべきは
土佐の長宗我部盛親だろう。東軍に就くのを諦め、西軍に就いても軍功を挙げず、土佐に
逃げ帰った盛親。その兄で、かつては家督相続の対立候補だった津野親忠(つのちかただ)は、
家康のお気に入りであった藤堂高虎を通じて何とか盛親の赦免を取り付けようと交渉していた。
(長兄・信親戦死後、家督は弟3人の中で争われた経緯があった)ところが長宗我部家臣の
久武親直(ひさたけちかなお)は、事もあろうに「親忠は家督を乗っ取ろうとしている」と讒言。
兄の心弟知らず、この妄言を間に受けた盛親は何と親忠を殺してしまう。事の次第を知った
家康は激怒し、長宗我部家を取り潰したのである。親直は以前より盛親に媚びへつらい、
自身の私欲でのみ動く奸臣として知られていたが、遂に家を潰す所業まで残したのであった。
所領も家臣も失った盛親は、浪人となり寺子屋の師匠に身をやつした。その一方、諸悪の根源
久武親直は、とっとと他家へ鞍替えし再仕官してしまったという。何とも皮肉な話だ。
ところで敵中突破を果たした島津義弘は、兄・義久共々家康に詫びを入れた事でお咎めなし。
あの突撃が心胆を寒からしめたのか、もともと島津家に遺恨はなかったのか、家康の心や如何に?
最後に、西軍最大の兵力を擁した宇喜多秀家であるが―――戦後に逃亡して行方知れず。
安否は謎のままであった。

東軍恩賞 〜 豊臣武功派、大封を得るも遠国へ
西軍に加担した武将が軒並み減封された分、当然東軍武将は恩賞を得た。まず関ヶ原先陣の功、
福島正則は清洲20万石から広島50万石へ。黒田長政は中津18万石から福岡52万石、丹後宮津
18万石の細川忠興は小倉40万石、甲府16万石の浅野幸長は和歌山38万石。そして家康の娘婿である
池田輝政は三河吉田15万石から姫路52万石への転進、いずれも大大名への大幅加増である。
在国ながら西軍の抑えを果たした前田利長は84万石から120万石へ、熊本の加藤清正も同様に
肥後半国25万石から肥後一国52万石へ。激闘を耐え抜いた山形の最上義光は24万石から57万石。
加藤嘉明は伊予国松前(まさき)10万石が倍増、松山20万石になっており、藤堂高虎は宇和島
8万石が今治20万石に。これもかなりの躍進であろう。そして何と言っても東軍勝利の立役者?
小早川秀秋は筑前名島36万石から、旧主・宇喜多秀家が失踪した岡山51万石に入府している。
一方、出羽の戦闘で最上義光と共に戦った伊達政宗であるが、59万石から62万石へわずか
2万石あまりの加増に留まった。実は政宗、東軍に加担しながら一方で領土北辺の南部領において
またも一揆の煽動を行い、東北地方の混乱を狙っていたのだ。一揆の争乱に乗じ、南部氏の
領土を掠め取ろうという作戦であったが、家康の知るところとなり100万石のお墨付きは反故に。
結局、上杉氏と戦った白石周辺のみを自領に組み込むだけに終わった。策士、策に溺れたのだ。
さて、妻君の機転で家康の心を掴んだ山内一豊は、掛川7万石から長宗我部氏が改易された
土佐一国20万石に移封。しかし旧主・長宗我部氏の時代を懐かしむ一領具足の国人衆は、一豊の
土佐入国を拒んだ。家康から土佐統治を期待された一豊は毅然とした態度でこれに臨み、遂には
反抗する国人衆を殲滅する。浦戸一揆と呼ばれたこの争乱で敗北した在地の武士は、以後
山内家の支配体制の中、“郷士(ごうし)”と呼ばれる下級武士として扱われるようになり、藩政への
参画が許されぬ厳しい身分統制の下に置かれた。もちろん、上士(じょうし、藩政中枢の上級武士)と
郷士の身分秩序は他国でもあったのだが、土佐のそれは桁違いの厳しさで、郷士は壮絶な圧迫の中
生きていくしかなかった。浦戸一揆に端を発する土佐の郷士制度は、幕末まで延々と継続されている。
浦戸一揆供養六地蔵尊浦戸一揆供養六地蔵尊(高知県高知市)

★この時代の城郭 ――― 慶長の築城ブーム
関ヶ原論功により発生した大規模な国替え。その大半は、かつて西軍武将が治めていた土地に
新たに東軍武将が国主として入った状況にある。以前より記していたが、大名が拠点を移し
一から統治体制を確立するのは非常に危険を伴うものである。ましてや、旧主を懐かしむ風潮の中
昨日までの敵であった武将が今日からその土地を支配すると言っても、そんなに簡単な事ではない。
国人衆の反乱、隣国との安全保障体制、それらを考慮し新領主が防備を固めるとなれば
壮大堅固な城を築いて、国内・国外に対して存在をアピールする必要があった。言うまでもなく
現代に生きる我々は関ヶ原以後大きな戦いがなくなったと知っているが、その当時の状況は
天下分け目の大戦直後で政治状況は先行き不透明、いつまた次の大戦が起きるかわからない
一触即発といった感じのものだったのである。このため関ヶ原以降、“慶長の築城ブーム”と
呼ばれるほどに全国で新規築城が相続いた。
秀吉の朝鮮出兵において、強靭な防備力を備える倭城を築いた理論を応用し、また、丁度この時期に
開発された新たな建築・土木技術をフル活用した事により、慶長築城ブームの時代に造られた城は
いずれも名城・堅城として現代にまで知られているものばかり。一例を挙げれば、加藤清正の熊本城
細川忠興の小倉城、山内一豊の高知城、加藤嘉明の松山城、それに池田輝政の姫路城。どれも
丘陵部を全て城郭用地として活用した平山城にして、城内には櫓が林立、巨大な天守が城下を睥睨し
縄張りは複雑極まるほどに技巧的・実戦的なものである。こうした巨城が、新領主の本拠となり
最も効率的かつ戦略的に統治基盤を成立せしめたのだ。
また、大名の本拠となる城郭だけでなく領国内の警戒網を整備する為に様々な支城も造られた。
有名なものが黒田氏による筑前六端城や蜂須賀氏による阿波九城と言ったもの。あるいは、
福島正則が安芸国西端に築いた亀居城(広島県大竹市)だ。正則が新たな領地として与えられたのは
西軍総大将・毛利輝元の領地。その毛利氏は、安芸の隣である周防国・長門国でくすぶっている。
わずかな隙を見せれば、旧領奪還に向けて毛利対福島の戦いが発生する危険性は十分にあった。
これを防ぐ為、正則は亀居城を築いたのである。地図を見ればわかるが、広島県大竹市は県境の市。
すぐ隣は山口県岩国市だ。つまり、亀居城の目と鼻の先は毛利領・岩国城のテリトリーなのである。
毛利軍の侵攻に即応できるよう、正則は城を築くと同時に街道の付け替えまで行い、軍船も亀居城下の
港に結集させた。それほどまでに“慶長築城ブーム”の時代は危険性を孕んでいたのである。
城郭愛好家の目で見れば、数多くの名城が生み出された事は喜ばしい事でもあるのだが、
改めて、城郭とは戦争に直結した凶器であると考えさせられる社会情勢だったのだ。

一豊の隣国であった駿府の中村氏は伯耆国米子17万5000石へ加増転封、同様に堀尾氏も出雲国
富田24万石になった。これにより、江戸〜駿府〜掛川〜吉田〜清洲という東海道沿いの領地は
すべて空白地となる。ではそこに誰が入府したかと言えば、徳川譜代家臣団であった。
駿府には内藤信成(家康の異母弟)が4万石、掛川は松平定勝(家康の異父弟)、浜松に松平(桜井)
忠頼、吉田には松平(竹谷)家清、岡崎に本多康重、清洲は家康4男の松平忠吉といった具合。
さらにその先へ進めば、岐阜(加納)に奥平信昌、彦根に井伊直政が入府している。清洲52万石の
松平忠吉は別格として、これらはいずれも小領であったが(最大でも井伊直政の彦根18万石)
江戸から京都まで、東海道沿いの要地は全て徳川氏の支配下に入ったという事だ。関ヶ原で
戦功のあった豊臣武功派には恩賞として十分な領地を与え、しかし西国に遠ざける。一方、今後の
徳川家支配体制を強固なものとするために戦略的重要拠点は一門に独占させながらも、個別の
領地は敢えて小規模なものとして、他家の非難・追求は巧みに逸らす。秀吉の“子飼い大事”という
偏重した人事と異なり、家康のそれは「名と実」を上手く勘案しながら「表と裏」を織り交ぜる
政略的意図を秘めていたのだ。
何より、徳川家康自身の本領は従来の250万石から400万石に激増。その一方で、大坂の秀頼は
家臣に領土を分配する名目で削られ、摂津・河内・和泉国内65万石に抑えられてしまった。天下分け目の
大戦に勝利した家康が、その実力を以って全国を支配する時代がいよいよ到来したのである。

★この時代の城郭 ――― “落ちない天守のお引越し”彦根築城
東海道沿いの城もまた、“慶長の築城ブーム”に合わせて手が加えられている。しかし、質素篤実を
旨とする三河武士団はもともとある城を改修する事を主眼に置き、新規築城をした例は少ない。
そんな中、特筆すべきは井伊家の彦根城が新造された事だろう。
直政に与えられた彦根領―――即ち、石田三成の旧領・佐和山領である。西軍総帥は誠実な領主で
その威光は領民に染み渡っていた。加えて、京・大坂に程近く琵琶湖を望む水運の要地。三成の
治世を払底し、交通の要衝を万全に確保する必要があった徳川政権は、配下四天王の一人にして
関ヶ原で先陣を切った猛将・井伊直政にそれを委ねたのである。この統治方針を叶えるため、
三成の居城であった佐和山城を廃し、新たに彦根城を築いたのであった。旧主の城を亡きものにし
新しい城を築く事で新時代の到来を万民に見せ付ける。現在では“史跡”“観光遺産”と捉えられる
城郭であるが、その当時としては“統治拠点”“政権者の喧伝装置”であった事の証だ。
現代風に「市庁舎の移転・新築」「市町村合併」果ては「首都機能移転」と言えば、それなりに大きな
イベントである事が想像できるだろうか。
さて、直政はほどなく関ヶ原の戦傷(島津軍による銃創)がもとで没してしまう。そのため、
彦根築城の施政方針は継子・井伊直継(直勝ともに引き継がれた。畿内における徳川政権の
核となるこの築城事業は、新政権の凄さを見せ付けるため大々的に行われる。築城用地となった
金亀(こんき)山を徹底改造。旧安土城から石垣の石材を調達し、旧小谷城から西ノ丸三重櫓
(伝旧小谷城天守)を移築。天秤櫓は長浜城大手門を持ってきたと言われ、太鼓門櫓は佐和山城の
城門だったそうな。つまり、彦根城は「周辺諸城を全て統合した一大巨城」という心象を領民に
植えつけたのである。その極みと言えるのが天守建築であろう。この天守、関ヶ原前哨戦において
壮烈な攻撃を受けながら、最後まで落ちずに残った大津城天守を移築したものなのである。現在、
国宝に指定されている彦根城天守は、3層という小規模な物ながら破風や華頭窓などの装飾を凝らし
実に濃密な外観を誇っているが、それもそのはず、本来5層天守であった大津城の建物を
彦根城の立地に合わせて3層に凝縮したからなのだ。加えて、武家政権の象徴となる天守建築が
「猛攻を受けても生き残った天守」であるならばこれほど縁起の良いものはない。ド派手な外観で
見る者の目を惹き、戦時の強靭さも兼ね備えた彦根城の新築事業。徳川政権の成立において、
大坂の豊臣氏(つまり旧政権)を睨むに当たって非常に効果的な戦略であったに違いない。


江戸幕府開設 〜 徳川家康、二条城にて将軍宣下
大規模な国替えを命じ、自らに都合の良い勢力地図を築き上げた徳川家康。もはや誰の目にも
天下の実権は彼が握ったという事が明らかであった。しかし家康は、あくまでも豊臣政権の大老として
こうした統制を行ったに過ぎない。幼少の秀頼に政治力はなく、事実上の天下人となった家康だが
形の上では、いまだに“豊臣政権の一臣下”でしかなかったからだ。敵対派を一掃し、自ら政治運営を
行うにあたっての障害を取り除きながら、形が伴わないのは不自然であった。このままで家康が政権を
動かすとならば、せっかく関ヶ原で味方に取り込んだ加藤清正・福島正則ら“豊臣恩顧の武功派”が
三成と同じように「家康の政権簒奪」を訴える危険性があり、何より秀頼が成人してしまっては
再び「豊臣家の天下」に復してしまう。家康以外の実力者がいない今のうちに、徳川家が政治の
中心となるべき「大義名分」を具える必要があったのだ。このため家康は、表面上で平静を保ちつつ
裏で積極的に政治工作を行った。伏見城(関ヶ原戦役後再建)という当時の“武家政権の本拠”に陣取り
京の朝廷、大坂の豊臣氏を睨みつける。朝廷には援助と恫喝(無論、あくまでも内意としてだが)を併用し
左近衛大将、源氏長者という必要な格式を認めさせ、関ヶ原から3年の空白を経て1603年、家康は
征夷大将軍という「武家の頂点」の位を手に入れた。2月21日、伏見城で朝廷の勅使を迎え将軍就任の
意向を伝えられた彼は3月21日二条城(信長の二条城とは異なる徳川二条城)で正式な将軍宣下を受け、
25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。こうして家康は、源頼朝や足利尊氏と同様に将軍となり
江戸に幕府を開設するに至ったのである。豊臣秀吉は源氏血統を手に入れられず、関白職に頼り
朝廷内の序列の中で政権を維持するしかなかったが、家康は征夷大将軍となった事で、朝廷権威とは
一線を画して「独立した武家政権」を樹立する事に成功したのだ。これにより、全国の統治は
征夷大将軍である徳川家康と、その幕下機構である江戸幕府が掌握する正当性を得た。他大名も
今後は「武家の棟梁」である家康に従わねばならなくなったのである。
当然、不満を持ったのは大坂の淀殿である。家康は豊臣家の臣下ではなかったのか?その臣下が
主家とは別に、勝手に政権を築いた。将軍宣下とは如何なる意向か?2代将軍の位は秀頼に
譲るべきではないのか?今後の国政は?さまざまな疑念が次の疑念を呼び、江戸の幕府と大坂の
豊臣政権は徐々に対立の構図を深めていく。

★この時代の城郭 ――― 江戸城(1):“三度目の正直”家康の江戸築城
家康が浜松から江戸に移ったのは1590年、秀吉の命によるものだ。もともと江戸には太田道灌が整備し
後北条氏が用いた城があったものの、家康が入城した当時は寂びれ、荒れ城のような状態だった。
本来ならば、新領地の統治拠点として真っ先に城の整備を行うべき所である。ところが家康は
民心の鎮撫や広大な領国の把握を優先とし、自らの住まいを建て直す事を後回しにした。
江戸に入った当時の家康は、思うように居城の整備を行える状況ではなかったのである。
それから2年後、1592年になってようやく江戸城の修築に取り掛かったのだが、秀吉が朝鮮へ出兵する
意向を示し、全国の諸大名に兵の供出を命じたため、止む無く城の工事は中止。結局、家康は
豊臣政権中第一の実力を持ちながら自身の居城を満足なものにできないまま過ごしていたのだ。
今回、関ヶ原合戦で勝利した事でようやく城普請の妨げになるものはなくなった。満を持して
江戸城の改修に着手した家康は、天下人として壮大な城の構築を計画。全国の諸大名に命じて
手伝い普請を行わせるに至ったのである。
この当時、江戸の町は大きな入り江に食い込まれていた。現在の日比谷公園あたりまで江戸湾が
入り込み、東京駅の駅前一帯は海の中である。その一方、町の北側には神田山がそびえ、
町の有効面積を著しく減少させていた。加えて、利根川が江戸湾に流れ込み、土地を大きく分断。
家康はまず利根川の流路を変更し房総方面へ流した上、神田山を切り崩しその残土で日比谷入江を
埋め立てる。こうして町を平坦化し、中心に巨大な江戸城を築いたのである。
家康の江戸築城は、江戸の町を作る事と一体になって進められていった。


千姫の輿入れ 〜 徳川・豊臣の融和?時間稼ぎ?
徳川と豊臣の溝が深まる中にありながら、同年千姫が豊臣秀頼の正室として輿入れした。
千姫は徳川秀忠の娘、家康の孫だ。そして母は小督の方である。さてはて、賤ヶ岳の合戦の項で
小督は佐治一成に嫁いだと記したはずだ。ところが今や、徳川家に…。
小督が一成に嫁いで後に起きたのが小牧・長久手の戦い。織田家に恩を受けていた知多半島の
名族・佐治家の当主であった一成は、織田家を踏み台にして勢力を伸ばす秀吉を良しとせず、
織田の後嗣である信雄と徳川家康の連合軍に与した。そのため秀吉は怒り、佐治家の所領を没収し
小督とも離別させたのである。その後、秀吉は自身の猶子・秀勝(関白秀次の弟)と小督を娶わせ
2人の間には完子(さだこ)が生まれるものの、秀勝は朝鮮出兵中に病没してしまう。
天下人・秀吉の意向によって2度結婚させられ、離別を経験した小督。もはや良縁には遠い年齢に
達した彼女であったが、再々婚で秀忠と結ばれ、徳川家に入った。誠実篤実な秀忠は、年上の
小督を大切にし慈しんだ。ようやく安住の地を得た小督は、秀忠との間に千姫をもうけたのである。
さて、豊臣家に嫁いだ千姫。夫・秀頼とは母の血縁上で従兄弟同士という事になる。この結婚は
秀吉存命中に約束されたもので、本来ならば豊臣と徳川の縁を深めるものであった。ところが、
今や両家は主従関係のこじれる間柄。その後の豊臣家の運命から逆算すると、この婚姻は両家の
対立関係に注がれた“焼け石に水”といった感じなのだが、それでも約束を果たした家康は
まだこの時、本気で豊臣家と事を構えるつもりはなかったのだろうか?歴史の不可解な謎である。
ともあれ、約束を履行した事でいくばくか両家の間柄は(一時的ながら)好転した。特に秀頼は
幼い嫁を大切にし、夫婦の仲は睦まじかったと言う。
余談だが、小督が秀忠に嫁いだ際、完子は淀殿に引き取られ豊臣家の猶子になっている。後に
完子は関白・九条忠栄(ただひで)に嫁いだため、徳川家は小督を通じて摂関家とも縁を結んだ
事になる。忠栄と完子の夫婦は、徳川家が朝廷と折衝する際の重要なパイプ役になったのである。

将軍職継承 〜 2代将軍は秀頼に非ず、秀忠なり
家康はわずか2年で将軍職を引退。それを引き継ぎ2代将軍になったのは嫡男・秀忠であった。
秀忠は家康の3男である。家康の長男・松平信康は織田信長との確執で落命、小牧・長久手合戦の
和平条件として秀吉の養子(人質としての性格を帯びていた)になった2男・於義丸は、長じた後
結城家(北関東の名族)に再度養子として出され結城秀康と改名。2度も養子に出た事で
徳川本家を相続すべき正当性が薄まり、結果として3男の秀忠が家督を継ぐ事になったのである。
関ヶ原の折、真田勢に苦しめられ本戦に遅参した秀忠は武将としての器量を疑われ、ようやく家康に
追いついた大津城で対面を許されなかった過去がある。一時は家督相続を白紙撤回し、他の息子を
相続候補とするための再考まで行われたと言うが、実直篤実な性格は“戦乱の時代”が終わった後の
“統治の時代”に向くと判断され、2代将軍の座を得たのだった。
家康がたった2年で将軍職を退いたのにはもちろん理由がある。別に健康上の問題とか、朝廷に
官位の返上を命じられたとかではない。早期に秀忠へ将軍位を譲る事で、今後徳川家が代々に渡り
将軍職を世襲していくという表明である。もちろん、豊臣家などに政権の座は渡さない。徳川家が
政権の中心にあることを慣例化し、淀殿が大坂城で何をわめこうが封殺する為の処置である。
将軍の位を譲ったとは言え、実質的な権力は家康が握っていた。それは秀忠も承知していた事で
(彼は決して無能ではなく、自分の立場をわきまえた聡明な君主であった)退位した将軍、即ち
“大御所”の家康がまだまだ政治の舵取りを行う時代が続くのである。家康の目の黒いうちは
徳川家の世が安泰である事は(大坂城内を除いて)誰の目にも明白であった。
しかし逆に言えば、もし家康が没したならばどう転ぶかわからないという事でもある。まだ
政治実績のない秀忠に対し、“関白秀吉の息子”という箔がついた秀頼は、政権を得るだけの
カリスマ性があった。徳川の世と豊臣の世、綱引き次第では逆転がなくもない。これを揶揄した
落首が、いつの間にか京の都で囁かれるほどであった。
御所柿は ひとり熟して 落ちにけり
 木の下に居て 拾う秀頼

[意味] 大御所家康が老齢で没すれば、自然に秀頼の世になるだろう。
  豊臣家の旧姓・木下や秀頼の幼名・拾丸もかけた句。



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