関ヶ原の戦い(2)

ここで余談の話を一つ。
関ヶ原に集結した軍勢は東西両軍あわせておよそ15万。
当時の火器装備率は約30%といわれるため、単純計算で
4万5000丁の鉄砲がこの戦場に投入された事になる。
無論、計算上の数値なので多少の誤差はあるだろうが、
鉄砲を開発したヨーロッパ諸国の戦争でさえ、これだけの数の鉄砲が
1ヶ所の戦いに用いられた事はまだなかった。日本に鉄砲が伝来して
60年弱にして、世界一の鉄砲生産国になったという事である。
天下分け目の関ヶ原合戦は、世界最大の銃撃戦でもあったのだ。


関ヶ原の戦い(1) 〜 濃霧の朝、天下分け目の決戦始まる
9月15日、新暦ならば10月21日なので秋真っ只中という季節。山深い美濃西部の盆地・関ヶ原は
かなり冷え込んでいたに違いない。早暁、この地にはかなり深い霧が立ち込めていた。盆地北西端
笹尾山の麓に石田三成が布陣し、その南に島津義弘・小西行長・宇喜多秀家・大谷吉継が列を成して
陣を構えた。吉継の南側、盆地南端を塞ぐ松尾山の頂には小早川秀秋が関ヶ原全体を睥睨する。
対する東軍は、桃配山の麓に徳川家康が構え、その前衛に黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・福島正則。
家康の背後は山内一豊・浅野幸長・池田輝政が固め、西軍の毛利勢・長宗我部勢と睨み合っていた。
霧が全く晴れない中、午前8時頃に戦闘開始。当初、東軍の先鋒は福島正則が務める事になっていたが
(武功派筆頭の正則なので、先陣を果たすと言って聞かなかったのである)家康の4男・松平忠吉
目付役の井伊直政(いいなおまさ、徳川四天王の1人を伴い、20名程度の少兵を率いて最前線に
陣取ろうとする。正則の家臣が「先鋒は福島軍ゆえ、何人たりとも通すわけには行かぬ」と前進を
阻止すべく引き止めたものの、直政が「家康公の御子息が敵陣を検分するのを引き止めるな」と大喝し
忠吉部隊は首尾良く最前列へ。と、そこでいきなり鉄砲を発砲。主力の秀忠部隊3万8000が到着せぬ折
形の上だけでも“徳川家が主導する戦い”である事を明確にするため、家康の子である忠吉が戦闘の
火蓋を切ったのだ。先駆けの功を奪われた事に激怒した正則であったが、兎にも角にもこの銃撃を合図に
一斉に戦闘が開始される。福島勢が前進し西軍・宇喜多秀家勢と交戦、同じように黒田長政・細川忠興は
三成配下武将の島勝猛・蒲生郷舎(がもうさといえ、勝猛同様三成に見込まれて召抱えられた猛将
干戈を交える。藤堂高虎や小西行長の部隊も加わり、最前列は混戦模様になった。
関ヶ原合戦 9月15日開戦当初の布陣関ヶ原合戦 9月15日開戦当初の布陣
東軍 約7万5000人
西軍 約8万2000人
寝返軍
(西軍攻撃)
内応軍
(戦闘不参加)
傍観軍
(不参戦西軍)
積極的交戦軍
徳川家康 松平忠吉 井伊直政
本多忠勝 本多正純 藤堂高虎
黒田長政 福島正則 細川忠興
池田輝政 浅野幸長 加藤嘉明
平野長泰 京極高知 生駒一正
山内一豊 金森長近 中村一忠
坂崎直盛 寺沢広高 筒井定次
有馬則頼 田中吉政 亀井茲矩
蜂須賀至鎮 織田有楽斎 ほか
小早川秀秋
朽木元綱
脇坂安治
赤座直保
小川祐忠
ほか
吉川広家
毛利秀元
安国寺恵瓊
長束正家
長宗我部盛親
石田三成 蒲生郷舎
島勝猛 宇喜多秀家
明石全登 小西行長
島津義弘 島津豊久
大谷吉継 木下頼継
戸田重政 戸田勝成
糟屋武則 平塚為広
織田信高 伊藤盛正
宗義智 ほか
関ヶ原合戦 東西両軍の内訳
一方、主戦場の東側・南宮山(なんぐうさん)に陣を張った毛利勢は全く動かない。安国寺恵瓊は
三成と気脈を通じ、毛利家の西軍参戦を強硬に推進した中心人物であり、大坂城に詰めた毛利輝元の
名代として指揮を執った毛利秀元(輝元の養子)も戦いの時を待っていたのだが、その前、先鋒を
引き受け南宮山の麓に当たる位置に構えた吉川広家(亡き元長の弟でこの時点の吉川家当主)は
呑気に陣中で食事を摂っている有様。いや、実は呑気に見せかけた作戦で、広家は秀元や恵瓊の
軍勢を絶対に前へ出さぬ任を帯びていたのだ。恵瓊に乗せられ、毛利家当主の輝元は西軍首領に
担ぎ出されてしまったが、時勢を見た広家は東軍の勝利を確信し、毛利家の滅亡を回避するため
裏で家康と密約を結んでいた。毛利家は西軍に与したが、広家が食い止めて絶対に攻撃の参加は
行わない。その代わり、戦後も毛利家に一切咎め立てはしないものとする、と約束した広家と家康。
これに基づき、広家は陣を動かさなかった。攻撃参加を狙う恵瓊から、早く前進しろと催促されるが
毛利勢の先陣は吉川軍の担当ゆえ、我々の食事が終わるまで後続軍は待機せよと使者を追い返す。
吉川軍の目は、前に居る東軍ではなく後ろに控える恵瓊・秀元の陣に向けられていたのだ。結局、
広家が時間稼ぎをした為、毛利軍は戦闘終結まで動かなかった。家中の総意に反し、孤独に耐えつつ
西軍を裏切った広家であったが、その目は大戦後の行く末、恵瓊の魂胆よりも先を見据えていた。
毛利軍が動かない状況下、そのさらに後方で陣を敷いた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
長束正家も動きを控える。正家も三成の采配には疑念を抱いていたようで、それほど積極的に
戦おうとは考えていなかったらしい。加えて、長宗我部勢は成り行きで西軍に加担したもの。元々、
盛親は東軍に就こうとしていたのだが、家康への密使が西軍方の関所を突破できず諦めてしまい
結局西軍に引き込まれたのである。本意ではない参戦に、戦闘意欲はなかったのだろう。ただ、
東軍参加に万全の策を執らず、西軍に参加しても去就決めかねる態度は、後々に禍根を残す。

関ヶ原の戦い(2) 〜 家康の策に松尾山雪崩を起こす
毛利軍の停滞はともかく、霧が晴れるにつれ前線では激しい戦闘が繰り広げられていた。こうした最中、
最前線に突撃した島勝猛や蒲生郷舎は乱戦に討死する(異説あり)。三成が勝てるとは思っていなかった
両名は、せめてここで死に様を見せつけ味方を奮起させ、何とか攻勢に出る契機を創ろうとしたのだろう。
その甲斐あってか、拮抗している戦況は徐々に西軍有利となっていく。残された西軍の大戦略家
大谷吉継が押し出すと共に、東軍の陣は少しずつ後退していった。時刻はちょうど正午頃。
勝猛・郷舎という股肱の臣を失った三成は、今こそ総攻撃をかけて東軍を総崩れにせんと決意。
いまだ動いていなかった松尾山の小早川秀秋に向け、攻撃開始の狼煙を挙げる。ここで小早川軍が
側面から東軍を圧し包めば、確実に西軍が勝利するはずであった。しかし―――。
秀秋は動かない。実は小早川秀秋も徳川家康と密約を結んでいたのだ。朝鮮出兵時の戦術について
秀秋は三成から叱責を受けていた恨みがあり、しかも小早川家へ養子に出され、豊臣家後嗣の座が
完全に断たれた立場にあっては、西軍に義理立てする意味もなかったからだ。豊臣家縁戚の中で唯一
頼みとした北政所からは、実力者・家康を中心に国家運営するのが望ましいと諭され、これら複雑な
しがらみの中、秀秋は家康に従うようになっていた。その一方、三成からは、戦後の恩賞として
秀秋が勝利に貢献すれば、秀頼が成人するまで関白の位を与えると約束されていた。これはこれで
魅力的な話である。元来弱腰な秀秋は、戦いの真っ只中でもまだどちらを選ぶか決められずにいた。
不審に思ったのは家康である。秀秋からは裏切りの確約を得ている。しかし、現状で小早川軍が
東軍に味方する気配は見えない。それどころか、三成から狼煙が挙げられる事態に至った。もし
このまま秀秋が西軍に属し続けて東軍に攻撃を仕掛けてくる事があったら、敗北は必至だ。
家康は秀秋の動向に注目した。裏切ると言いつつ裏切らない。まさか、それすらも家康を欺く裏切りの
計略だったのでは?いぶかる家康。遂に待ちきれず、徳川隊は小早川軍に向けて鉄砲を放った。
いい加減動くならさっさと動け、という威嚇射撃である。この恫喝に、弱腰な秀秋は焦った。
…家康が怒っている!
恐怖した秀秋は、遂に下知を下した。「これより東軍に味方する!敵は大谷吉継!!」山は動いたのだ。
松尾山から軍が下りてくるのを見て、三成は安心したに違いない。ところがその軍勢は、何と味方に
突撃を開始したのだ。「小早川が裏切った!」三成が激怒するも、時既に遅し。形勢逆転の一打に、
つられて脇坂安治や朽木元綱らの軍勢までが寝返った。大谷吉継は優柔不断な小早川を信頼せず
常に裏切る可能性を予測していたというが、他の部隊までが同調し総攻撃を食らった事でさすがに
支えきれなくなり、壊滅。最期を覚悟した吉継は自害し、首級を獲られぬよう、家臣に命じてその首を
いずこかに隠したという。なおも突撃を敢行する小早川勢はそのまま西軍の奥深くに切り込んで行き
黒田・細川・福島ら東軍も押し返していく。事ここに至り、西軍は敗北が決定的になり宇喜多・小西らが
戦場を離脱。観念した三成も、午後2時頃に撤兵を開始した。これにて関ヶ原という大戦は、たった1日で
東軍の大勝利が確定したのであった。

関ヶ原の戦い(3) 〜 島津勢敵中突破に活路を見出す
しかし西軍の中にあって最後まで動かなかった部隊がいる。義弘・豊久(義弘の甥)率いる島津勢だ。
伏見城攻防戦の項で記した通り、もともと島津家は東軍派に属しており、行き掛かり上やむを得ず
西軍に加わった訳だが、元来家康と真っ向から事を構えようと考えていなかったため、率いた兵力は
1600程度と少ない。無論、三流の小大名に比べれば多い数ではあるが、三成(3800)や行長(4000)
秀家(1万7000)秀秋(1万6000)などに比較して圧倒的な寡兵であった。武功派の義弘としては
そもそも三成の“建前一点張り”の戦略など納得していなかったし、少ない兵を可能な限り温存する
ためには、自ら主体的に戦闘を行う事は控えていたのである。このため、毛利勢同様に開戦時点から
全く動かず、三成の出陣要請も黙殺していたのだった。無闇に動く事を嫌った島津勢であったが、
しかし西軍が総崩れになった今に至っては、戦線離脱の機会も逸してしまう。周りは既に東軍部隊で
埋め尽くされ、大坂方面への退路も断たれたのだ。
普通の武将ならば、ここで降伏するか自害するかのいずれかだろう。更に戦下手ならば、無理な退却で
討死するのがオチである。ところが戦巧者の義弘は違った。死中に活路を見出したのである。既に戦の
大勢が決した中にあっては、東軍は西軍の残党狩り程度に動き、もはや積極的に戦おうという者はいない。
いまさら大きな戦いを始めた所で、戦局が左右される訳ではなく単に無駄な損害を増やすだけだからだ。
これを見越した義弘は、大胆にも東軍の敵中突破を試みて突撃を開始した。案の定、福島正則らは
自軍の兵が損耗する事を避けるため、島津軍の道を開けた。義弘の読みは当たったのである。
ところがそのまま突き進んだ為、徳川家康軍の前まで出てしまう。東軍総帥である家康は、さすがに
眼前を敵が無傷で通り過ぎていく事を許さなかった。総大将の面目にかけ、島津軍への攻撃を譜代の
家臣である井伊直政・本多忠勝らに命じる。忠勇無比の徳川家臣は、主の命に従い島津軍を追撃。
追われる立場の島津軍は見る見る後ろから切り崩されていく。一方、豪胆なる薩摩隼人も武辺の
意地を見せた。ただ斬られるだけでなく振り返りざまに果敢な迎撃を行い、何と発砲した銃弾は直政の
右腕に命中、重傷を負わせたのである。しかし戦局は覆せず、義弘の身代わりとして豊久が戦死。
主君・義弘を落ち延びさせる為、島津軍の兵卒は後列から順に敵の楯となり斬り倒されていった。
トカゲの尻尾切りに例えられる“ステガマリ戦法”により辛くも義弘は逃げ切ったが、伊勢街道を
南進して戦場を離脱した頃、最初に1600いた兵は80程度まで減っていた。
帰国後、義弘は自らの蔵入地を削ってその忠義に報いたという。


★この時代の城郭 ――― おあむ物語
大戦が終結した関ヶ原では、西軍の落ち武者狩りが始まった。それと同時に、東軍は西軍の
追撃に移り西軍武将の所領への侵攻が行われる。さしあたり、関ヶ原から最も近い所にあった
西軍の拠点・大垣城への猛攻が開始されたのだが、その時の様子が「おあむ物語」という書物に
残されている。この物語は、大垣城内に籠城していたおあむ(お安?とも。本名かは不明なる
女性が晩年になって当時の話を語り、それを聞き記したものとされている。女性の生活を語った
国語文法資料としても有名なものだが、当然ながら籠城時の状況を、しかも非戦闘員の目から
見たものとして注目できる。
おあむの父は山田去歴(やまだきょれき)という三成家臣で、300石取りだったという。
三成が主戦場として美濃を睨んだ際、佐和山城下から家臣の家族も引き連れ、戦闘の補助に
駆り出したらしい。こうして大垣城に入ったおあむは、城内で給仕や鉄砲玉の製作を行った。
ところが西軍の敗北により、城は東軍から猛攻を受けるようになる。昼夜を問わぬ銃撃に、
おあむの弟は撃たれてしまい「ひりひりとして」死んだと記されている。家族の死を目の当たりにし
おあむと父母、それに兄、合計4人は密かに城を棄てて逃亡する道を選んだ。城の狭間から
身を乗り出し、たらい船で堀を渡って城外へ出た一行。何とか無事に脱出したものの、逃避行中
おあむの母が産気づき、田の水で産湯を摂ったという生々しい話が残されている。
兎角、戦いの史料と言うと武士の目から見た猛々しいものが想像されてしまうのだが、こうして
女性の目から語った史料も残されている。この貴重な史料は、戦いの過酷さを物語っており
現実の籠城戦がいかに辛いものであるかを想像させてくれるのである。


関ヶ原地方戦(1)慶長出羽合戦 〜 政宗涙を飲んで部下の進言を容れる
一方、本来家康と戦うはずだった上杉氏。小山で転進しなければ、東軍は北上し白河口や
会津で激戦が繰り広げられた事だろう。無論、上杉方はそれに備え兵や武器、兵糧を蓄えて
即戦体制を敷いていた。ところが実際には家康が西上してしまったため、上杉軍は当面の敵が
いなくなってしまった。ここで上杉方が取るべき戦略はただ一つ。家康が再び軍を率いて来る前に
領国・会津周辺で東軍に味方する勢力を駆逐し、より強固な防衛体制を整える事である。
駄文を承知で記しておくが、どこぞのドラマであったような「上杉は後ろから斬りかかる不義は
せぬ」などと言う生ぬるい話ではない。家康の軍を追いかけるとなれば、少なくとも関東か
東海まで遠征しなくてはならないが、兵站や装備の面からして上杉軍にそんな長征能力はない。
ましてや、上杉軍が南下したならばその後ろの敵から自分たちが斬りかかられるだけの事。
家康という南から迫る脅威が無くなった間に、他の敵を片付けるのが現実の選択肢なのだ。
このため上杉軍は9月8日から山形の最上氏へ戦いを仕掛けた。上杉氏は国替えにより越後から
会津に移封されていたが、旧領のうち庄内地方だけはそのまま領有が認められていた。
これを地図上で確認すると、飛び地となった庄内と本領の会津を分断しているのが最上領という
事になる。逆に言えば、最上氏は上杉領に挟まれた形になるのだ。最上氏と上杉氏は領土をめぐって
常に一触即発の状態にあり、上杉氏は親三成派、最上氏は親家康派という政治志向の違いも
あった事から、今回の開戦に至った。ちなみに開戦以前、兵力に劣る最上氏は極力武力衝突を
避けようと上杉氏を懐柔する外交戦略もとっていたが、裏で秋田氏との軍事同盟締結も進行させて
いたため、これを看破した上杉方が最上家との断絶を決定、今回の手切れに至ったのだった。
庄内と会津から同時に最上領へ侵攻した上杉軍は、総兵力2万5000にもおよぶ大軍。一方、劣勢の
最上軍は7000程度の動員兵力しかなかったため、必然的に籠城戦で抵抗するしかなかった。
それでも地の利を活かして果敢に防戦、上山城では4000の敵を相手に500の城兵が健闘し、
9月17日に敵の首級400を挙げたという。また、最大の激戦地となった長谷堂(はせどう)城では
16日、何と城方から討って出て敵兵250を倒す。さらに17日にも、攻めかかってきた上杉軍を
返り討ちにし、最上軍の意地を見せ付けたのであった。

★この時代の城郭 ――― 南会津の長塁
家康の北上に備え、景勝は領内防衛ラインの策定をした節があり、それに基づいて
街道を封鎖するような長塁を造成している。長塁、読んで字の如く長い土塁の事で
たとえば中国・万里の長城のような累々たる防御壁を想像して頂くのが宜しかろう。
無論、土塁という「構造物」なので、城壁と呼べるような「建造物」ではない。また、
通常、城郭や砦ならばその土塁で空間を仕切り、曲輪を構成するのだが、あくまでも
長塁は防御壁のみであり、特に陣地を造成してはいない。しかし、街道封鎖の土塁は
周辺を完全に閉ざし、その塁を街道が貫通する部分において虎口のような形状を為す。
加えて、その塁はただ一直線に伸びているのではなく、所々に折れ曲がりをつけていて
さながら曲輪の横矢掛かりと同じような効果を発揮するようになっているのだ。
例えば戦国期小田原城の大外郭や、秀吉が造成した京都御土居といった大突堤を
街道封鎖に用いた構築物、それが長塁であり、これも城郭類型の一つと呼べるだろう。
上杉領内の長塁
上杉領内の長塁

で示したのは上杉景勝領
で示したのは最上義光領
で示したのは伊達政宗領
緑線は当時の主要街道

もし家康が北上し続けた場合想定される侵攻路は
白河口の石阿弥陀か会津西街道の鶴ヶ淵。
それが支えきれない場合は、絶対防衛圏と呼べる
馬入峠で食い止める算段だった。
現在確認されているだけで、こうした長塁は三箇所を数える。白河口の石阿弥陀、
会津西街道の鶴ヶ淵、それから猪苗代湖南西の要衝・馬入峠だ。とは言え、こうした
長塁は上杉家だけが作った訳ではない。上杉討伐に赴いた徳川家康も、本能寺の変直後
小田原後北条家と甲信地域の領有を巡って対陣した際、本陣を置いた能見(のうけん)城の
周辺に長塁を築いた経歴がある。また、遡れば古代山城の時代に九州・大宰府防衛のため
築かれた水城(みずき)も、長塁の一形態と言えよう。“拠点”としての城郭ではなく、
街道や盆地を封鎖する“面を制圧”するための城郭、それが長塁であり、時代を問わず
必要性に応じて造られてきたものだったのだ。しかし結局、家康は北進せず、上杉家の
長塁は実戦を経験せぬまま放棄された。

ところで、上杉と最上の戦いに深く関わった人物がもう一人いる。独眼竜、伊達政宗だ。
政宗は伯父・義光と同様に家康と盟約を結んでいた。家康もまた、猛々しい政宗の戦力を
上杉家攻略に用いようと計算し、勝利の暁には100万石を約束する書面も送っている。
最上と上杉が開戦する前、7月の時点で政宗は白石に攻め込み、同月25日には白石城を
陥落すらさせていた。ところが挟撃する予定であった家康が小山で引き返してしまった為、
伊達軍は上杉攻略を一時中断、停戦。徳川と伊達が鉾を収めた事から、上杉は安心して最上に
攻め込んだのである。しかし政宗はこれで戦いを終わらせるつもりではなかった。時節を
見計らいつつ再戦の機を窺い、上杉と最上が開戦するや、伊達家も戦いに参加しようとしたのだ。
9月、出陣の意向を固めた政宗。果敢な抵抗を見せたとは言え最上家は兵力に劣り、徐々に圧され
このままでは持ち堪えられなくなる。手遅れになる前に、最上家が伊達家の助力を求めたからだ。
ところがこれに待ったをかける家臣がいた。伊達家の軍師、片倉小十郎景綱である。曰く、
「山形城は見捨てるべし」。現在激戦が続いている上杉と最上の間に割って入っても、3方が
共倒れになるだけである。それよりも、最上家が倒れるギリギリまで待った所で参戦すれば、
最上家に売る恩は大きくなるし上杉軍の損耗もより大きくなっていて、伊達家の勝算が高まるからだ。
この提案に、政宗は悩んだ。
山形城には母・義姫がいる。命を狙われ追放したのはもう10年も前の事。既に親子の確執よりも、
思慕の念に駆られるようになっていた。何より、老いた母を見捨て敵に攻められる様子を傍観するのは
人としての道に外れよう。しかし、多くの家臣を抱える大名としては、より確実な勝利を狙い
可能な限りの方策を練らねばならない。景綱の意見は、戦争の駆け引きとして正論であった。
このため、涙を呑んで思い留まった政宗。出陣時期を遅らせ、9月21日になってようやく軍を発した。
待ちに待った援軍に沸き立つ最上勢は、かろうじて山形城を死守。伊達軍は同時に上杉領も侵犯し
長谷堂城の最上勢は29日に大攻勢までかけている。時を同じくして、関ヶ原で西軍大敗北の報が
奥羽までもたらされた為、形勢は逆転。上杉軍はこれ以上の攻勢が不可能となり、
撤兵を余儀なくされた。ここに東北の関ヶ原・慶長出羽合戦は終幕を迎えたのである。

関ヶ原地方戦(2)黒田如水の九州席捲 〜 “第三の男”如水の大戦略
一方、こちらは西の果て・九州。筑前の小早川秀秋、筑後の立花宗茂、肥後の小西行長、
薩摩の島津義弘ら、主に西軍が多い地域であったが、彼らはみな兵を率いて関ヶ原に参陣、
国元は僅かな守備兵しか残っていなかった。東軍に属したのは在国中の加藤清正くらいであったが
遥か遠国の地では思うように動けぬ状態。このため、九州内では目立った動きがなかったのだが、
これに反する男が1人いた。稀代の策士、豊前国にいた黒田如水である。
息子・長政が家康と行動を共にし、如水の行動も結果的に東軍を援けるものになったため一般には
東軍勢力として語られる事が多いのだが、彼の働きは必ずしも徳川に与するものとは言えない。
どうやら、家康でも三成でもない“第三の男”として動いた節が見受けられる。以下に記す。
当時、黒田家の居城であった中津城に蓄えた金銀を放出し浪人ら3500もの兵力を調達した如水。
現役を退いていた如水が、この軍勢を率いて出陣したのは9月9日の事。この時、豊後国の旧主
大友氏の残党が東西両軍の激突に乗じて挙兵したのだが、如水は難なくこれを撃破しその兵力も
吸収した。豊前から南下し豊後を制圧した如水の軍勢は、一転して北上し今度は筑前の小早川領へ
侵入、名島城(当時の小早川氏の居城)下を蹂躙し、次は筑後へ。西軍諸将が国を空け留守に
しているのを良い事に、九州北半分を荒らしまわったのである。
最終的に如水は島津領も抑え、九州を独立国化させる魂胆だったようだ。そして九州から四国、
中国地方を制圧していき、畿内へ達する頃、東西の勝者と“関ヶ原第2戦”を展開し天下を掌握する
野望だったと思われる。ところが、東西の大激突であった筈の関ヶ原はわずか1日で決着。如水は
東西の戦いが長期化すると見込み、その隙に九州征服を為す目論見だったようだが、敢え無く
計画は頓挫した。しかも、東軍が勝利する原動力となったのが息子・長政の活躍だったのだから
如水としては息子に野望を挫かれたようなものである。期待した混乱もなく9月15日以後、全国は
徳川家康の威光により鎮撫され、九州にも停戦令が発せられた。このため如水の軍勢は島津攻めが
できぬまま、兵を引くしかなかった。
戦後に長政と如水が対面した際の逸話が全てを物語っていよう。「家康公は我が右手を取り、
『この手が勝利の元となった』と褒めて下さいました」と喜んで報告した長政に対し、如水は
「その時、お主の左手は何をしていたのだ(何故隙を見て左手で家康を刺し殺さなかったのだ)」と反論。
馬鹿正直な息子が家康に従わなければ、私が天下を手にしたのに―――如水の本音であろう。
長政も良将ではあったが、如水の才知と気迫はその上を行っていた。




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る