関ヶ原の戦い(1)

豊臣政権は秀吉という一人の独裁者が君臨した軍事政権。
強力な専制君主が采配する事で国の統治を行う単純なものであった。
故に、鎌倉幕府や室町幕府であったような職制が定められていなかったため
統治機構や政務指針と言えるものがなく、秀吉が没した後は弱体化の一途を辿る。
また、後の江戸幕府が親藩・譜代・外様の家格を分け、それに応じて
幕政の人事を策定したのと異なり、五大老や五奉行の制も“家柄”ではなく
“その大名個人の資質”に頼る面が大きく、人事制度として不安定であった。
こうした弱点を巧みに利用した家康は「政権簒奪」と批判されるであろうが
この時期、彼が亡き秀吉に代わり専制を確立した(それが可能であった)のは
至極当然の事だったのである。しかし、あくまでも
「豊臣家が政権の中心」という建前にこだわった三成は、
何としても家康を排除しようと策謀を巡らせていく。
家康と三成、その対決の時が近づいていた。


会津征伐 〜 三成の作戦は家康の狙い通り
家康を除く三大老が各々の領国へ帰国していた1600年、両者の対決は近づいていた。
諸大名へ降誘の書状を乱発し、自勢力へ取り込もうとする家康と三成。それと共に、
相手の出方を見計らい、戦端を開くための契機を伺っていく。
そのための策を練ったのが三成方。家康と戦う軍事動員を行うには、まず家康を政権中枢の
京・大坂から遠ざけ、自軍が自由に動ける環境を整える必要がある。加えて、三成の行動が
「豊臣家お墨付き」のものとして正当性を得るため、秀頼や淀殿を手中に収めたい。
そう考えた三成は会津の上杉景勝と謀り、家康の腰を上げさせる作戦を発動させた。
景勝が領国・会津の各地に城や砦をわざと多数築き、“軍事的脅威”を高めるアピールを
行ったのだ(どっかの国がやれ核実験だ何だと騒ぎ立てたようなものである)。
当然、政務執行の役にある家康は同年4月、景勝に詰問する。何ゆえ必要以上に城砦を築き、
周辺の諸大名に不安を与えるような行動をとったのか、大坂へ来て申し開きせよと。
これに対し景勝は翌5月、家康の上坂命令を真っ向拒否。曰く、武人であるからには常日頃から
有事に備えてあらゆる手を尽くすのが当然。城を築くのに何で咎めを受ける必要があるのか。
そんなに疑念があるのなら、家康自らが会津へ来て見聞するが良い。こちらとしては、
てぐすね引いてお待ちしている、と。明らかな挑発だ。「直江状」と呼ばれる上杉方からの
この返書は、その名の通り上杉景勝の側近にして知略の切れ者として有名な直江山城守
兼続(なおえかねつぐ)がしたためた文章で、天下の大権を握りつつあった家康を
臆せず痛烈に批判した“天下の名文”としてよく知られている。
この挑戦状を受け取るや、家康は「景勝に謀反の意図あり」と処断し会津征伐を宣言。
政務を司る大老筆頭の意向を無視し、来るなら来いと言い放った所業は、天下に対する
反逆行為だったからだ。6月16日に大坂城を出た家康はいったん伏見城へ入り、さらに18日に
伏見を発って本拠地の江戸へ向かった。これに伴い諸大名にも出陣を命じ、家康の
進軍ルート上にある東海道沿いの諸大名や、大坂で兵力を待機させていた細川忠興・黒田長政
福島正則・大谷吉継(おおたによしつぐ)らが同行する事になった。
さて、まんまと三成方の作戦に引っかかったような家康であるが、然に有らず。家康もまた
三成との決定的対戦の場を望んでいたわけで、三成が挙兵するのを見越してわざと大坂を
留守にする一手を選んだのだ。景勝が会津で家康を罵倒したのも天下への反逆であるし、
家康の留守中に三成が兵を挙げればそれもまた泥棒猫のように大老の権力を排除せんとした
反逆行為。いずれも、家康に非は無い事になり、腹は痛まない。要は、三成の姑息な策略など
百戦錬磨の家康からすればすべてお見通し、むしろ家康の方が三成にこの作戦を取らせるような
布石を打っていたのだ。ともあれ、これで両者がいよいよ軍事作戦に向けた方針を打ち出した。
天下分け目の大戦が、現実化してきたのである。

ガラシャ、自決 〜 三成初手から大失態を演ずる
遂に大坂を明け渡した家康。即座に三成は動き、佐和山から復帰する機を狙った。しかし
その前にやる事があった。家康に従い行軍しつつあった大谷吉継を味方に引き入れるのだ。
実は三成と吉継は親友の仲。在りし日の秀吉は「刑部(吉継)に100万の兵を指揮させてみたい」と
評したほどの軍略家であり、彼を味方に引き入れるのは三成にとって必須事項であった。
ところが吉継は当初、三成への加担を良しとしなかった。軍事的才幹に欠ける三成の作戦は甘く、
「とてもこれでは勝てるものではない」と断言していたからだ。親友ならでは、三成に直言を以って
敗北を予告した吉継。が、それでも三成は諦めず、「豊臣の世のため」と吉継を説得、
遂に翻意させた。そこで吉継が提案したのが「総大将は三成ではなく毛利輝元にせよ」。
はっきり言って三成には人望が全く無い。他の大名から嫌われているほどである。そんな三成が
何を言っても、諸将の統制は取れないだろう。故に、トップに相応しい人物を他から求め
結束を固めなければならないという意見だ。これまた、親友だからこそ言える苦言であった。
これに基づき、三成は輝元を(名目上の)大将に迎え入れる。次いで7月13日、諸大名が
大坂屋敷に残した妻子を強制的に人質として収容、自軍の将の裏切りを防止すると共に、
徳川方に与した大名に対しても脅しをかけようとしたのだ。戦国時代ならば当然の策ではあるが、
太閤秀吉が天下を平定して既に10年、世の中は変わり、こうした“卑劣な”作戦は敵味方の
反感を買った。しかも加藤清正ら反三成派の大名は機転を利かせて既に妻子を退去させていた。
こうした状況の中、特筆すべき話題は細川忠興の妻・玉子の死であろう。本能寺の変により
いったんは夫婦の仲を裂かれた忠興と玉子であったが、不遇な時代を耐え、秀吉の許しを得て
2人は復縁していた。この間、精神的支えをキリスト教の教えに求めた玉子は洗礼を受け
細川ガラシャと名を変えていた。彼女は“反逆者(明智光秀)の娘”という孤独に耐えながら
献身的に夫への忠義を貫こうとしていた訳だが、そこへ三成が人質に取ろうと手を伸ばしたのだ。
夫・忠興は家康に随伴し徳川方へ味方する手筈になっている。もし自分が人質にされれば
必ずや足手まといになる事は明白だ。されどここで逃亡してしまっては、“やはり反逆者の娘は
恥も外聞も無く逃げ出した”と謗られ、夫の体面にも関わる。捕まる事も逃げる事も許されぬ彼女は
進退窮まり、自ら屋敷に火をかけ、三成の手の者を寄せ付けぬようにする。キリシタンになった
彼女は教義から自害は許されず、家臣に命じて自分を殺させる事が最期の抵抗であった。
斯くして、細川忠興夫人・ガラシャは業火の中で昇天してしまったのだが、これは三成にとって
痛恨の事態であった。人質収容に失敗したどころか、まだ戦が始まる前に殺してしまっては
明らかに三成の非道が指弾される上、敵である徳川方の諸将はますます“三成憎し”の念を
増大させる事になるからだ。以後、三成は強引な人質収容を控えたが時既に遅く、
案の定、徳川方の諸大名は「反三成」の一点で頑強な結束を固めてしまった。また、淀殿も
ミスを犯した三成に(心情的には反徳川の立場であったものの)味方する事ができなくなる。
1600年 関ヶ原合戦当時の主な大名配置図
1600年 関ヶ原合戦当時の主な大名配置図

青字で示したのは東軍の武将
赤字で示したのは西軍の武将
紫字で示したのは西軍から東軍へ寝返った武将
緑字で示したのは中立武将

関ヶ原前哨戦(1)伏見城陥落 〜 元忠奮戦し武辺の意地を見せる
7月17日、西軍総大将として毛利輝元が大坂城へ入城。ここで付け加えておくが、以後は
通説に基づいて三成方を西軍、家康方を東軍と呼称する。もちろん、当時このように呼ばれた
訳ではなく、「東軍」「西軍」というのは後の世に制定された言葉なのは当然の事である。
話を戻す。この日、三成は三奉行と連署した“家康弾劾状”を発し諸国の大名に西軍への参加を
求める。さらに翌18日、家康の留守居役として鳥居元忠が守っていた伏見城の攻撃を開始する。
この戦闘には宇喜多秀家や島津義弘らの軍勢が参加し猛攻を加え、対する守将の鳥居元忠も
老練な戦上手という事もあって壮絶な戦いが繰り広げられた。
実はこの戦いには前置きになる話がある。家康はもともと、島津義弘と誼を通じていて
大坂・伏見に変事があった場合、協力を依頼していたと言う。その家康が会津へ向かったため
義弘はかねてからの約束通り、伏見城の守備を引き受けようとした。ところが連絡ミスがあったのか
伏見城留守居役を仰せ付かった元忠は、島津軍の入城を拒んでしまった。剛毅な事で知られる
元忠は、島津軍が信頼できなかったのか、あるいは、三成が真っ先にこの伏見城を攻撃するのは
確実であり、落城必至の状況に追い込まれる事が予想されるため、わざわざ“死に戦”に義弘を
巻き込む訳にいかないと遠慮したのか、諸説様々だ。ともかく、せっかく援軍に駆けつけたのに
追い返された義弘は激怒し、家康方から三成方に鞍替えし、元忠に恨みを晴らすべく伏見城の
総攻撃に参加したのである。
さて、こうして開戦された伏見城攻防戦であるが、攻城側4万超という膨大な人数に対し
守城側はわずかに1600(1800とも)という寡少兵力。しかし、太閤秀吉が最期の城として
築いた伏見の城は、兵力差を覆すだけの複雑な構造で防備を固めていた。加えて、家康から
留守を託された鳥居元忠は三河時代から徳川家に付き従い、東海甲信各地の戦を生き抜いてきた
百戦錬磨の剛将にして、絶対に主君を裏切らない“三河武士”の典型である。頑強な抵抗を続け
いかなる調略にも屈する事なく籠城戦を戦い抜き、予想をはるかに超えて14日間も西軍兵力を
釘付けにした。衆寡敵せず、惜しくも8月1日に落城し元忠以下の将兵は戦死したものの
彼らの奮戦は西軍の出足を鈍らせ、江戸で東北出征準備を進めていた家康に時間を与える。
確かに伏見城は落ちたが、歴史家の間では西軍の失策として評価されているのだ。

関ヶ原前哨戦(2)田辺城攻防戦 〜 幽斎、朝廷をも巻き込んで不敗の戦略を誇る
家康が大坂を発って以来、畿内は軍事的空白地になっていた。この間に三成は軍備を整え
反家康の連合軍を動かす予定であった。が、わずかに残された家康方の兵力が伏見城の
鳥居元忠。そしてもう1ヶ所、三成に従わぬ武将の籠もる城があった。細川幽斎の田辺城だ。
ガラシャの死に記した通り、細川家は一貫して家康支持で動いており、忠興の父・幽斎もまた
それに連動していた。目障りな幽斎の城を排除すべく、三成は味方の織田信包・小野木公郷
(おのぎきみさと)らを派遣。これを察知した幽斎は、自らの隠居城であった宮津城では敵を
防ぎきれないと判断し、即座に田辺城へと移った。斯くして7月19日、幽斎以下500の兵が
籠もる田辺城を西軍方1万5000が包囲し、戦端が開かれる。
25倍の敵を迎え撃った伏見城に対し、田辺城では30倍。どう考えても、籠城方に勝ち目は無い。
しかし幽斎は、知略に長けた名将にして室町管領細川家の血筋という名門の出自。古今東西の
有職に通じ、その知識を惜しむ声は高く、攻城側もおいそれとは手が出せなかった。よって、
田辺城の攻撃は決定打に欠け、なかなか攻略しきれない状況に陥る。もちろん幽斎もそれを知って
駆け引きを続けた訳だし、仮に力攻めをかけられても軍略を駆使して凌ぐ算段があった。
その結果、田辺城の攻防戦は延々と長引き8月に入っても終わらない。しかも、事態は朝廷を
動かす事にまで発展した。なぜなら、細川幽斎は古今伝授の正統継承者であったからだ。
古今和歌集の故実や解釈を秘事口伝で受け継いでいく古今伝授は、古来から伝わる由緒正しき
伝統芸能であり(東山文化の項にて解説)、東常縁から飯尾宗祗、そこから更に三条西実隆へ
伝えられ、実隆から幽斎に伝達されていた。この当時、幽斎は後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王
(はちじょうのみやとしひとしんのう)にその秘伝を伝授している途中であり、もし仮に幽斎が
戦死してしまったら、伝授は不完全に終わってしまう。これを恐れた朝廷が、戦闘終結にむけて
(珍しく)積極的に動き、勅命を以って両軍に停戦命令を発したのだった。斯くして、田辺城の
攻防戦は9月6日になってようやく終結。攻城軍は力攻めで落城させられなかったばかりか、
三成が家康と決戦に及んだ関ヶ原合戦(9月15日)に参加する事も出来なかった。
いにしへも 今もかはらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉
籠城中に幽斎が詠んだ歌である。明らかに古今伝授を意識した内容であり、朝廷が田辺城に
停戦命令を発する事を計算に入れていた幽斎の知略が読み取れる。1ヶ月半にも及ぶ籠城を
戦い抜き、その結果、包囲軍を足止めして関ヶ原本戦に間に合わせなかったのだから、
これはもう幽斎の戦略的大勝利である。大谷吉継が予告した通り、西軍の行動は
足並みが揃わず、家康と対決する前から早くも各地で失敗を繰り返していた。
田辺(舞鶴)城跡田辺(舞鶴)城跡(京都府舞鶴市)

小山の軍議 〜 東軍反転し決戦の地へ赴く
大坂で三成が挙兵に及んだ頃、家康は本拠地・江戸を発ち東北方面へ進出しようとしていた。
7月19日、嫡男・徳川秀忠(家康3男)に率いさせた先発隊が江戸を出発、21日には家康自身も
江戸を発している。が、考えてみれば家康が大坂を出たのが6月16日。1ヶ月以上経ってもまだ
江戸に逗留していたというのはどう見ても遅すぎる行軍であろう。やはり家康は“見せ掛け”だけの
会津征伐で大坂を空にし、三成の挙兵を待っていたのだ。24日、家康・秀忠率いる徳川軍と
その追従軍は下野国小山(栃木県小山市)に到着し、ここでようやく三成の挙兵が報じられた。
伏見城が攻められた事を知るや否や、家康は会津征伐の中止を表明。西軍と対決する事を
同行の諸大名に告げた。しかし、彼らの妻子は三成の人質になっている。家康と共に戦えば
妻子が危険に晒されよう。そこで家康は、ここより先は家康に追従せず三成に与しようとも
何ら恨みは抱かぬ故、各々が自由に動いて構わぬと宣言した。
ところが、福島正則をはじめとする諸将はその場で家康に従う事を約し、ともに三成を倒すべく
一致団結した。家康が諸将の判断に任せると言ったのは所詮ポーズに過ぎないだろうが、
その配慮に心打たれた上、さらには三成が卑劣にも人質を取ったりする作戦に出た事で
東軍諸大名は固い結束を示したのである。元々、正則らは三成を憎んでいた事もある訳で
人質作戦は火に油を注ぎ、家康の気配りはその炎を十分に煽ったのであった。斯くして、
小山の軍議により東北を目指していたはずの東軍は反転、一路東海道を西へ上る。その陣容は
福島正則・細川忠興・黒田長政・池田輝政・浅野幸長(あさのよしなが、長政の子山内一豊
(やまうちかつとよやまのうちかずとよとも・藤堂高虎といった名将揃い。徳川秀忠が率いる
徳川家直属の部隊を後日の備えとして宇都宮に残し、彼ら武断派武将たちの連合軍は一路
打倒三成の念に燃え、決戦に赴くのであった。
余談だが、ここで特筆するべきは山内一豊とその妻の行動だろう。後年、未亡人となり出家し
見性院(けんしょういん)と称する事になる一豊の妻は本名は不明ながら千代という通称が有名。
嫁入りの際に持参した支度金で名馬を買い、夫の出世に役立てたという美談が残るも、これは
信憑性に欠け、後日の講談として流布したもののようだが、関ヶ原に際した夫婦の作戦は
事実のようだ(もちろん、これも否定する向きがある)。その話とは、三成から一豊に宛てられた
西軍参加を呼びかける書状を千代が受け取った際、その封を切らぬまま夫へ回送した上、
添え状に「この書状は封をしたまま家康殿にお見せ下さい」としたためたと言うのだ。
受け取った一豊はその指示に従い、三成からの書状を未開封のまま家康に差し出す。
これを見た家康は、一豊が絶対に三成に同心しない決意と受け取ると共に、三成の書状を
直に目にする事で大坂方面の情勢や三成の出方を確認できたのである。この功績により、
戦後、山内家は大幅な加増を受け国持大名にまで出世。賢妻の機転が夫の功名に貢献したのだ。

関ヶ原前哨戦(3)岐阜城陥落 〜 東軍、一気呵成に堅城を落としめる
8月に入り、東海道を上る東軍は続々と集結、福島正則の居城・清洲城に入った。しかし、
肝心の盟主・家康は江戸城から出ず、清洲城の軍勢は前線に放り出された格好になってしまう。
実はこの時、家康は各地の大名と連携するべく多数の書状を発して連絡を密に取っており
まだまだ江戸を発つ状況になかった。と同時に、進発させた福島・黒田・浅野らの将が
本当に家康に従うのか、それとも寝返る危険性があるのかを見極めようとしていたのだ。
家康の本心を知るべく、彼らは独断で行動する。自ら率先して西軍を叩き、二心なき事を示し
それでもまだ家康が動かないのかどうか。彼らとしても、家康の考えを見極める必要があった。
こうして清洲城を出陣した東軍は、8月22日に木曽川を渡り西軍と激突、翌日には目下の敵である
岐阜城に襲いかかった。この時岐阜城を守っていたのは織田秀信、あの三法師である。
福島正則、黒田長政といった戦上手に攻められ、さしもの堅城・岐阜城も長くは持ち堪えられず
敢え無く落城の憂き目を見た。敗北に際し、秀信は配下武将の身の振り方を案じ、わざわざ
今後の仕官の口添えとなる書状をしたためたという。秀吉の天下獲りの道具にされた上、
今次の戦闘では律儀にもその秀吉に義理を立てて(そう思うのが謎だが)西軍に加担し、更に
落城時に自分の事を他所に部下の心配までするとは、いやはや何とも人が好いと言うか、
間が抜けていると言うか…。良かれ悪かれ、秀信という人物は戦国時代に向かない
人物だったのだろう。清洲会議に続き、岐阜城陥落という話題で出てくる名は、いずれも
幸薄きものだったと言わざるを得ない。ともあれ、重要拠点である岐阜城が落ちた事で
東軍は勢いづき、西軍はまたも戦略が揺らぐ。また、この報に接した家康はようやく江戸を
進発する意を固め、自ら約3万の兵を率いて東海道を西に進み始めた。加えて、嫡子・秀忠には
3万8000という徳川軍主力兵を与え、中山道を進むよう命令。家康が動き始めた事で、東軍は
決戦を迎える体制が整い始めたのであった。一方、西軍は細かい綻びを抱えつつ、それでも
打倒家康の一念で三成が邁進、何とか他の武将を牽引しようと奔走する。
なお、岐阜城の戦いに先立つ7月末〜8月中旬には北陸でも前哨戦が発生。こちらは大谷吉継が
さすがの軍略で前田利長の軍勢を翻弄した。もともと、前田家は当主・利長が家康に服従し
東軍寄りであったものの、利長の弟にして能登七尾城主であった前田利政(としまさ)
西軍に内通しており、足並みが揃っていない状態。孤軍奮闘を迫られた利長に対し、吉継は
味方の丹羽長重(にわながしげ、長秀後嗣らと連携して謀略戦を仕掛け、前田軍を閉塞させたのだ。
斯くして、西軍も負けてばかりはいられないとばかりに前田家の東軍主力合流を阻止。この他、伊勢や
四国でも同様の戦闘が発生しており、全国規模で東西両軍の小競り合いが行われていたのである。

関ヶ原前哨戦(4)激闘大津城 〜 西軍も負けじと城攻めに力を入れるが…
東軍が岐阜城を落としたのに対し、西軍は大津城の攻撃を9月7日から開始。大津城主であった
京極高次は当初西軍に属していたが、その実、裏で家康と手を組んでいて西軍の動きを
阻害すべく、頃合を見計らって大津城に引きこもり籠城を始めたのだ。三成ら主力は既に
美濃・大垣城に入っていた西軍だが、後続軍を畿内から合流させようにも大津城が反旗を
翻したとなると簡単には行かない。大垣と大坂は大津で分断され、これを取り除かねば
西軍の動きを封殺されかねない状況になった。そのため西軍は、伊勢方面攻略軍にあった
立花宗茂(九州大友氏配下・高橋紹運の実子にして立花道雪の養子となった猛将)の兵など
1万5000を大津城へ差し向ける。亡き秀吉から「東国随一の将は本多忠勝、西国無双の将は
立花宗茂」とまで評され、小早川隆景は「立花の兵3000は1万に匹敵する」と称えた豪腕の将
宗茂は果敢に大津城を攻め立てた。しかし大津城も名城、そう簡単には落ちない。結局、戦況は
一進一退であったが、それでも数に勝る攻城方が少しずつ圧して行き、城内の曲輪は一つ一つ
落とされていった。高次も粘りに粘ったが、戦闘開始から7日を過ぎとうとう本丸を残すのみとなる。
もはや大津城の陥落は時間の問題となった所で、新たな動きは大坂から発せられた。何と、
淀殿が大津城の守備隊に開城を勧告したのだ。実は大津城には淀殿の妹・初が籠城していた。
初は高次に嫁いでいたため、夫婦揃って城内に籠もり戦い続けていたのだが、妹の命が危ないと
知った淀殿が、最後の最後で落城・戦死を回避する為に開城命令を出したのである。かつて
小谷城・北ノ庄城と2度の落城を経験し、辛酸を舐めた浅井三姉妹は、もうこれ以上の落城を
味わう事は受け容れ難かったに違いない。妹を慮った姉・淀殿の命により宗茂は攻撃を止め、
高次も15日に城を明け渡し、高野山へ蟄居。初の命は間一髪の所で救われた。
しかし、城が明け渡された15日は関ヶ原本戦の日。当然、宗茂の軍勢は大津で足止めされたまま
決戦に赴く事ができなかったのだ。大津城攻防戦も、局地戦で見れば攻城方の勝利であったが
大局的に見れば、西軍の敗北である。田辺城の幽斎、大津城の高次により、西軍の軍勢は都合
3万が主戦場から脱落したのだ。何より、西国無双の将・立花宗茂が釘付けにされ関ヶ原まで出て
来られなかったというのは、東軍にとって大いなる幸運だったと言えよう。それを承知していた
家康は、戦後の論功行賞で京極氏に大加増を行っている。と同時に、宗茂の武勇を惜しみ
領土を取り上げたものの死罪は与えずいったん放逐するに留め、ほとぼりが冷めた頃に
再び大名として復活させている。関ヶ原で取り潰された大名家のうち、その後に再度封を
与えられたのは築城名人の丹羽長重と誠実実直の人として知られた宗茂だけであった。

関ヶ原前哨戦(5)第二次上田城攻防戦 〜 徳川軍、またも昌幸にしてやられる
小山評定で三成打倒を決した東軍であったが、必ずしも全員が同意した訳ではない。中には家康と
袂を分かち、西軍に与した者もいた。その代表といえるのが真田昌幸であろう。真田家は上杉討伐に
父・昌幸と長男・信幸、次男・信繁の3人が参加する予定で出陣していたのだが、三成の挙兵が
報じられるや、その去就は紛議した。家康の養女(実父は本多忠勝)を娶った信幸は、実力第一の舅
家康こそ天下の主に相応しいと主張。一方、昌幸と信繁は三成の筋を立てて豊臣家を盛り上げるべきと
決意。両者の話し合いは結局折り合いが付かず、何と父・弟と兄が独自に行動、親兄弟が敵味方に
分かれて戦う事態に至ったのである。これにより昌幸と信繁は居城・上田城へ帰参してしまった。
これには裏の真意があり、東軍・西軍のどちらが勝っても真田家を存続させる戦略だという説もある。
さて徳川軍は兵力を二手に分けて西上。家康は江戸から3万の兵を率いて東海道を進んだが、嫡男
秀忠は宇都宮から中山道を進軍。秀忠軍には徳川主力の精兵3万8000が付けられていた。中山道を
進む途上には真田昌幸の籠もる上田城がある。小牧・長久手直後の合戦で泥を塗られ、今回再び
徳川家の統制から離脱した真田を許さじと決意した秀忠は、家康に合流する際の手土産とすべく
上田城の攻略を決意。2000の籠城兵に対し、徳川軍は3万8000。楽勝を気取った徳川軍は、信幸を
使者にして開城の勧告を行った。これに対して老獪な昌幸は「開城の準備が整い次第降伏する」と
回答するも、それは単なる時間稼ぎに過ぎなかった。日を費やし昌幸に欺かれた事に気付いた秀忠は
激怒して上田城の力攻めを決定。参謀として同行していた歴戦の将・榊原康政や知略に長けた
本多正信らは、昌幸に関わるよりも先を急ぐべきだと主張したが、血気に逸った秀忠はそれを退け
ここに第二次上田城攻防戦が開始された。が、やはり昌幸の戦略は緻密なもので、開戦当初は
小規模な小競り合い程度の戦いだったものが、いつしか主力を投入する総力戦に引きずり込まれ
徳川軍は統制を失っていったのである。はたと気が付いた時には、上田城の攻略に6日も過ぎており
なおかつそれでも城は健在な状態。家康から美濃へ急行すべしと催促する使者が到着し、ようやく
我に返った秀忠は、結局上田城を落とせぬまま西進する途に就いた。しかしその先でも、大雨による
川止めなどで大幅に時間を食い、最終的に9月15日の関ヶ原本戦には間に合わなかったのだ。
西軍が田辺城や大津城で演じた失態を、東軍では徳川主力部隊の秀忠が為してしまい、家康は
関ヶ原本戦を豊臣家武闘派の戦力に頼らざるを得なくなった。これは政治的敗北に近いもので
(ただし、主力温存のためにわざと行軍歩調をずらしたと見る向きもある)家康はまたしても
真田昌幸に手痛い一撃を食らわされたと言えよう。やはり昌幸は“家康の天敵”だったのだ。

関ヶ原前哨戦(6)杭瀬川の戦い 〜 島左近、さすがの武略で東軍の鼻っ柱をへし折る
東西両軍は美濃国大垣周辺で睨み合っていた。三成ほか西軍主力は大垣城に入り、東軍の集結状況を
確認・分析していた。一方、岐阜城を落とした東軍はその大垣城を包囲するため、近隣の赤坂宿に
駐屯。このまま行くと、いずれ大垣城の攻防戦に発展する可能性があった。そうした最中の9月14日
東軍総帥の徳川家康が赤坂に着陣。秀忠軍は未だ木曽山中であったが、とりあえず東軍は総攻撃の
態勢が整ったのである。家康自らが大垣城包囲の軍勢に加わった状況を見た西軍の兵士は動揺、
士気は多いに下がったと言われる。この状況を打破し、家康に目に物見せてくれようと奮い立った
島勝猛は、手勢を率いて赤坂への痛撃を企図する。まず兵をいくつかの小部隊に分散した勝猛は
赤坂宿の手前を流れる杭瀬川沿いに伏兵部隊を配置。その上、囮部隊を率いて渡河し、東軍方の
中村一栄隊の目の前で刈田を始めた。ここで言う刈田とは、馬の食料とする草を刈り取る行為で
敵兵の眼前でそれを行うのはこれ以上ない侮辱行為である。斯くして挑発された一栄は激怒し
雪崩を打って勝猛の部隊に襲い掛かった。無論、勝猛は囮を演じているのだからほどほどに
戦った所で敗走(のように見せかけた)。追撃する一栄や釣られた有馬豊氏が勢い込んで勝猛の
逃走方向へ突進、杭瀬川を渡った。その途端、伏兵が一斉に銃撃を開始し中村・有馬両隊は
大混乱に。そこへ西軍方から明石全登(あかしたけのり、宇喜多秀家の軍師である猛将
援軍に駆けつけ、中村・有馬隊は総崩れになった。島勝猛の武略が冴え渡り、家康着陣直後の戦いは
西軍が圧勝、大いに士気を回復したと言われる。これを見た家康は敵兵を侮る事なく細心の注意を払い
大垣城を攻め立てるよりも得意の野戦で雌雄を決する必要があると判断した。よって同日深夜、家康は
わざと西軍へ情報を流しつつ赤坂から大坂方面へ軍を動かす。これを知った三成は、大垣城を素通りし
東軍が大坂城を攻めるような事態になっては一大事と慌て、家康の計略に乗る形で城を出た。
東軍の先を塞ごうと回り込んだ西軍。夜が明けて9月15日早朝、東西両軍が対峙し戦場に選んだのは
近江国との国境を間近に控えた盆地、関ヶ原であった。