太閤薨去

天下を統一した覇者・豊臣秀吉。
信長没後の混乱を収束させ、西は九州、東は関東・東北までを平定。
兵農分離を推進し、日本の歴史を中世から近世へと向かわせた立役者であったが
その反面、晩年の政策には愚策が多く
千利休や豊臣秀次の粛清、キリスト教禁教に端を発する苛烈な抑圧、
子飼いの気に入った武将だけを優遇する偏った人事・行賞、
征服志向の外交とそれに反する貿易利潤の独占、そして何よりも
無辜の民の命を奪う朝鮮出兵は“独裁者の暴政”に他ならない。
そんな秀吉が世を去る事で、戦国史は急展開を迎えるのである。


秀吉死す 〜 なにわのこともゆめのまたゆめ
異国の地で加藤清正らが慶長の役を戦い抜いている頃、秀吉は老衰していき病の床に伏す。
余命少ないと悟った彼は、全てを愛児・秀頼に与えんがためにあらゆる手立てを施した。
先年から大坂城の三ノ丸・外郭造成工事を行わせ、大坂の守りを固めさせると共に
諸大名には秀頼への忠誠を誓わせる誓紙を出させ、豊臣家の安泰を図ろうとした。
たった6歳の幼児に対し、政軍両面から徹底した防備の鍵をかけた訳だが、それもこれも
秀吉の後継者が秀頼しか居ないという事に端を発していると言えよう。もし秀長や秀次が
存命ならば、ここまで苦慮せねばならない事態にはならなかった事だろう。何より、
子供を溺愛するばかりに城の拡張や諸大名との交渉を行う事自体、耄碌した権力者の
哀れな最期の姿であり、豊臣政権の基盤が必ずしも磐石ではないという証明でもあるのだ。
秀吉が没すれば、政務を行える指導者が居なくなるのを秀吉自身が知っていたと言える。
ともあれ、秀吉の病状は日に日に悪化。1598年8月5日、五大老五奉行(下記)を伏見城に
呼び寄せた秀吉は、彼らに遺言状を残し後事を託す。その文面を以下に記そう。
「秀より事なりたち候やうに、此かきつけしゆとしてたのみ申候。なに事も此ほかにわ
 おもひのこす事なく候、かしく。返々、秀より事たのみ申候。五人のしゆたのみ申上候ゝ。
 いさい五人の物に申わたし候。なごりおしく候。以上。 八月五日 秀吉 判」
意味を訳せば以下の通りだ。
「秀頼が無事に成長できるよう、この書き付けを衆(大老・奉行ら)に託す。何事もこの他には
 思い残す事ないのでお願いする。返す返すも秀頼の事をお頼み申し上げる。
 五人の衆(五大老)、お頼み申し上げる。委細は五人の者(五奉行)に申し渡す。名残惜しい」
子の行く末を案じる父の愛情に溢れた文章ではあるが、国政を司る指導者としての文面ではない。
朝鮮での戦い、明・朝鮮・西南蛮諸国との外交、国内統治や民政に関しては何も指示されて
いないのだ。もはや秀吉にとってそれらはどうでも良く、ただただ秀頼の成長だけが
不安だったのだろう。この遺言の後、秀吉は危篤に陥り、回復せぬまま同月18日に永眠。
太閤秀吉、享年62歳。遅すぎた後継者の将来を悩みつつの死は如何ばかりであったのか。
辞世の句は次のものであった。
つゆ(露)と落ち つゆと消えにし わがみ(我が身)かな
 なにわの事も ゆめの又ゆめ
朝鮮で戦う将兵らは忘れ去られたまま、政権トップは没していった。いや、朝鮮問題だけでなく
国内を治めるべきリーダーが居なくなってしまったのである。今まで秀吉という
“唯一無二の権力者”が思いのままに政治を動かしていた豊臣政権であるからこそ、
彼の死は一気に政治的空白を招いたのだ。そうは言っても、統治を遅滞する事は許されず、
しかも朝鮮での戦いをどう収束させるかという重要な局面でもあり、今後の政権運営が
どうなるのか、淀殿・朝廷・諸大名らが各々の思いを巡らせ始めた。

五大老五奉行 〜 秀吉没後の政権運営
秀吉の死により朝鮮で戦う意味はなくなり、この年の10月から撤退が開始される。
明・朝鮮連合軍が追撃する中の撤退戦は壮絶を極め、李舜臣率いる朝鮮水軍の海峡封鎖も
相変わらず激しいものであった。最後まで朝鮮に踏み止まり殿軍を引き受けた小西行長は
陸海から敵軍に囲まれ順天城に籠城せねばならなくなった程だが、これを救出すべく11月18日
島津義弘の水軍が李舜臣の軍船と激突、その隙にようやく小西軍は離脱を図り、日本側全軍の
撤退が完了した有様であった。ちなみに、この最後の戦いで李舜臣は戦死。不幸な戦いの中
侵略者を撃退した凱旋になるべき時に落命した舜臣、惜しまれる人材であった。
さて、話を国内に戻そう。秀吉最晩年に政務運営組織として五大老・五奉行の制が整えられた。
秀吉の政務を輔弼する大老衆と、行政実務を執り行う奉行を設置したものである。大老は
有力大名の中から選出され奉行の顧問となり、奉行は秀吉子飼いの武将の中から選ばれ
一般行政を処理する事が職務となっている。一説によれば中老職も制定されていたと言われるが
これには明確な裏づけがなく、信憑性に疑問が残る。また、表の中に奉行の主職掌があるものの
これもあまりしっかりとした区分けがあった訳ではないという説がある。
五大老
徳川家康
前田利家
宇喜多秀家
毛利輝元
小早川隆景 → 上杉景勝
五奉行
主職掌
浅野長政
司法
石田三成
行政
増田長盛
土木
長束正家
財政
前田玄以
宗教
五大老は当初、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景の5名であったが
ほどなく隆景が病死したため、上杉景勝に変更された。いずれの大名も豊臣政権下で広大な
領地を有し、また秀吉に近しい存在として政権内部に大きな影響力を持つ大名たちである。
(大老は当初6名で、隆景が欠けて五大老制になったとも言われる)
秀吉が没した後、秀頼が成人するまでの間はこの五大老に政権運営が託された。
一方の五奉行は、秀吉直臣の中でも事務に優れた者たちを選抜し諸職務を行わせたもの。
豊臣政権の運営は、実際のところ彼らが行っていたと言っても良い。当然、彼らのもとに
様々な権益が集中し、必然的に五奉行は政権内の有力者になっていた。
しかし、浅野長政を除く4名はいわゆる“事務方”の武将。行政実務を行う奉行なので
当たり前といえば当たり前だが、戦国の世にあっては“武功もないのに権力を持った”として
周囲からの評判は芳しくなかった。特に三成は先の忍城攻撃の失敗が尾を引き、
“実戦で使えない人物”と悪評が先行しつつも、自らは“豊臣政権一の実務運営者”と自負し
他大名に対して高圧的態度をとる事をはばからなかった。こうした性格は様々な確執を呼び
中でも朝鮮で戦っていた加藤清正、福島正則らの武功派大名たちからは大いに嫌われていた。
計算ばかりの三成が権力を得たのに対し、命を削って戦った彼らには何も地位がないからだ。
これまでは秀吉という主君がこうした対立をカリスマ性で押さえ込んでいたものの、
その秀吉が死んだ事でこれらの懸案も表面化、政権内の問題を一層複雑なものにしていく。

家康と三成 〜 利家没し導火線に火が付く
秀吉に後を託され政務を執る事になった五大老。その中でも筆頭にあったのが徳川家康であり
事実上、家康が政権運営にあたるようになっていく。かつては秀吉に敵対し、小牧・長久手合戦で
豊臣軍を粉砕し、豊臣政権の下に組み込まれた後も関東で250万石の石高を有した家康は
秀吉亡き今、誰が何と言おうが文句なしに天下第一の実力者であった。しかし慎重な家康は
それでもまだ自身の権力基盤を増大させるべく、他の大名家と積極的に縁組を行っていく。
一例を挙げると、伊達政宗の娘・五郎八(いろは)姫を家康の6男・松平忠輝(ただてる)
嫁に迎える約束をし、同様に自分の養女を福島正則の嫡男・正之や蜂須賀家政の嫡男
至鎮(よししげ)に娶わせている。大名同士の婚姻には大老・奉行への届けが必要というのが
秀吉の遺命であったが、家康はそれと関係なくこうした縁組を進め、自身の権力拡大を図った。
これに真っ向から反対したのが石田三成である。家康が“事実上の”権力者として政務を
動かそうとしたのに対し、三成はあくまでも豊臣家こそ天下の主であり、家康は単に配下の
一大名に過ぎぬという“建前”を押し立てて家康の専横を断罪しようとした。このため三成は
他の四大老に進言し家康の詰問を行ったのである。これに対し家康は、確かに届けなく婚姻を
結ぼうとした非を認め謝罪。四大老全員が敵に回っては、流石の家康と言えども分が悪かった。
が、家康には計算があった。四大老のうち最長老の前田利家はこの時病を得ており、余命
いくばくもない状況に陥っていたのだ。とりあえずこの場さえ凌いでしまえば、程なく利家が
没してしまうだろう。そうすれば他の三大老は家康から見れば格下の者たちに過ぎず、
再び家康が思うままに政務を執り行えるのだ。何より、家康にして見れば他家との婚姻は
今後の布石に過ぎず、急いで今政権を奪おうと言う意図ではなかった。現状の地固めと
これに反対し家康の敵対者になる可能性のある者をいぶり出し確認すれば十分だったのだ。
まさに三成や四大老はこの作戦に引っかかった訳で、全ては家康の掌で踊らされたようなもの。
1599年2月、家康は四大老五奉行と和睦し体裁を繕うが、予測通り約1ヵ月後の閏3月3日に
利家が病没し、家康に対抗できる最後の実力者が消え去った。秀吉無二の親友であった利家は、
秀吉亡き後、秀頼の後見人として豊臣家の行く末を案じると共に政権内で不和が起こらぬよう
調整役に徹していたのだが、彼が死したことでこうした役割を担うものが居なくなってしまった。
以後、家康と三成の対立は水面下のものから直接対決に激化していく。

三成襲撃未遂事件 〜 三成逼塞するも智謀で切り抜ける
秀吉の親友にして加賀太守という重鎮であった利家が消え去った効果は大きかった。太閤没し、
加藤清正・福島正則ら“武断派”の猛将と、石田三成・小西行長ら“文吏派”の対立はひとえに
利家の人徳によって抑えられていたのだが、その箍(たが)が外れるのは予想以上に早かった。
利家が亡くなった翌日、1599年閏3月4日に加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・池田輝政
加藤嘉明・蜂須賀家政の7将が「三成憎し」の一念から決起し、石田邸の襲撃を行ったのだ。
これを事前に察知した三成は辛くも邸宅を脱出し逃亡。秀吉死後の政治的空白期だからこそ、
本来ならば豊臣家臣団は団結し家康を倒さねばならないのに、利家も死した今、内部対立は
現実の争乱として爆発してしまい、さぞかし三成は無念であっただろう。ところが、そんな三成は
知恵を働かせ、逃亡先を何と徳川家康邸に求めた。犬猿の仲である家康に庇護を求めても、
普通ならばそこで斬られるのがオチである。しかし、家康としても今ここで三成を殺してしまっては
三成を恨む者たちが心を鎮めてしまい不都合であった。わざと三成を生かし、清正ら武辺の者らの
敵愾心を煽り続け、徳川方の協力者に取り込み来るべき決戦の時に活用した方が得策なのである。
これを見抜いた三成だからこそ、敢えて敵の中心である家康の懐に飛び込んだのだ。家康も、
“切れ者”三成の智謀を見せ付けられつつも己の計算に役立てるため、三成を保護すると共に
血気に逸る清正らの短慮を抑え込んだのである。
とは言ったものの、三成が無事で済まされるのも問題があった。7将が三成を倒そうとしたのは
朝鮮戦役での論功行賞(三成が差配)に不満を持ち、功労が報われない不平を募らせたからである。
騒動の原因はやはり三成にあった事から、家康は三成に奉行の引退を勧告。これにより、
三成は大坂を退去し、居城の佐和山城に蟄居せざるを得なかった。
蛇足ながら、佐和山城についても記しておこう。現在の滋賀県彦根市郊外にあった佐和山城は
石田家19万石の城砦であり、その規模は壮大なものであった。あまりに大きな城は三成に
不相応なほどと揶揄され、狂歌に歌われたほどである。
三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城
さらに付け加えて、島左近について。島左近こと島勝猛(かつたけ)は、もともと筒井家の家臣。
本能寺の変の後、洞ヶ峠日和見の話に出た、筒井順慶の筒井家だ。勝猛はその筒井家の中で
飛び抜けた才覚を持った文武両道の名将で、同じく筒井家中の有力者であった
松倉右近重信と共に「筒井家の右近左近」と並び評された程。筒井家を辞した後、
羽柴秀長に仕えるようになった勝猛であったが、しかしその秀長が没した事で隠棲してしまう。
勝猛の才能を惜しんだ三成は、自らの所領(当時の三成の所領は4万石と言われる)のうち半分を
彼に与え、配下に加えた。三成に負けない智謀、そして三成をはるかに越える兵術を備えた勝猛は
以来、石田家の家老として抜群の働きを為し、惜し気もなく所領の半分を与えてくれた三成の
恩義に報いようと無私の忠勤を約束していた。
島左近と佐和山城、狂歌に出てくる2つの“過ぎたるもの”を抱えた三成は、
引退の苦渋を舐めつつも、打倒家康の念を叶えんと密かに策を巡らせていく。

家康、大坂城西ノ丸へ 〜 伏見城占拠に続く独断専行、その目的は…
家康と唯一張り合えたはずの前田利家が没し、都合よく石田三成の権力も剥奪できた事で
当面、徳川家の障壁となる存在は消え去った。この時を逃さず、家康は閏3月13日に秀吉亡き後の
伏見城へ入城。太閤秀吉が政務を行っていた城を接収する事は、家康が秀吉に代わり天下を
動かす事の宣言でもあった。さらに9月28日には大坂城西ノ丸へ移居。それまで、大坂城の
西ノ丸には秀吉未亡人・寧子(剃髪して高台院と称す)が住んでいたが、9月26日に京都へ移り
無人となっていたのだ。伏見城に続き大坂城を手にした事には、即ち淀殿と秀頼に対して
天下の主導権争いで圧迫をかける意図が見受けられる。と同時に、諸大名に対して
「大坂城の主(=天下の主)は秀頼か、家康か」というアピールを行い、家康に与するのか
それとも敵対するのか、と問いかけた意味をも持つ。この時点で家康ははっきりと天下獲りを
意識したと言えよう。豊臣家恩顧の大名たち(特に三成)や淀殿は「家康の政権簒奪」として
事の外激怒したに違いない。しかし戦国の気風消え去らぬ時勢、特に秀吉没後で権力の空白が
生じている時ならば、実力ある者が政権を担うのは当然であった。考えてみれば、秀吉とて
信長亡き後、三法師を楯に織田政権を乗っ取って天下人となったのである。今また秀吉が死に
その後継者が不在(秀頼に実質的統治能力などまだ無い)になったのだから、実力者が政権の
表舞台に立つ事が国家安泰の一番近道であっただろう。また、それを望む諸大名が数多くいた事も
事実である。無論「家康の天下獲りに協力する事で自分の勢力拡大に繋げよう」という打算で
動いていた者もいただろうが、ともあれ、名将たる細川幽斎・忠興親子や黒田如水・長政親子、
独眼竜・伊達政宗や天下形勢を読むに敏な藤堂高虎らは早い段階から家康支持を示している。
これらはいずれも後世まで家名を残し、広大な領土を守りきった家柄ばかり。家康に従う事が
天下の趨勢を正確に捉える事であった証と言える。時流に乗る事も、大名の重要な資質なのだ。
この後、1600年に家康は諸大名へ号令をかけ、自身が居座る大坂城西ノ丸の中にも天守を築かせる。
秀頼がいる本丸の天守と、西ノ丸の家康の天守。まさにこれは、「形式上の主君」と
「本当の実力者」が並び立つ様を如実に表していたのである。
大坂夏の陣図屏風(部分)
大坂夏の陣図屏風(部分)

大坂夏の陣図屏風に描かれた
豊臣期大坂城の中枢部分。
左端に描かれた下見板張りの黒い天守が本丸天守で
中央下部にある半塗込の大櫓が
家康の築いた西ノ丸天守だと言われている。

家康暗殺計画? 〜 加賀前田家、遂に家康に服する
大坂城に入った家康。ちょうどその頃、家康暗殺の陰謀がまことしやかに噂された。
本当にそんな計画があったかどうかはわからない。いや、実際のところ無かっただろう。
しかし家康はその噂を政治的に利用した。五大老筆頭にして秀吉から後事を託された家康に
危害を加えるものがいたとしたら、それは天下に対する反逆である。首謀者を厳罰に処さねば
天下の安寧は望めない、としたのである。これに基づき、陰謀の計画者をあぶりだす調査が
行われ、その結果、何と前田利家の嫡男にして現在の前田家当主である前田利長の名が浮上。
しかしこの当時利長は領国の加賀に戻っていて、大坂で陰謀を巡らすなど不可能であり
恐らくは濡れ衣であろう。が、家康は前田家に対する追及の手を緩めず、利長の無実が
証明できねば諸大名に命じて加賀を征伐すると宣言。これに驚いた利長は、自らの名代として
実母(利家の正妻)である芳春院(旧名をまつと言うを大坂に派遣した。事実上、芳春院は
家康への人質とされ、前田家が徳川家に服属したのだ。利長が若年とは言え、北陸に
一大勢力を持つ前田家の勢力は侮れず、その脅威を封殺するため家康は疑惑を利用して
前田家を恫喝したのだった。これで家康の地盤固めは更に強固なものとなり、来るべき
天下獲りへの準備がまた一歩進んだ事になる。
一方、次々と権勢を強くする家康の動向を苦々しく思っていた石田三成は、密かに佐和山から
同調する諸大名に連絡を取り、打倒家康の戦略を練っていた。上に記した通り、細川・黒田
伊達・藤堂といった大名は徳川になびき、今また前田も膝を屈した状況であったが、三成は
上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家という残り三大老、増田長盛(ましたながもり)・長束正家
前田玄以の三奉行、小西行長・佐竹義宣(よしのぶ、義重後嗣・安国寺恵瓊らの大名を
糾合。必勝のネットワークを構築し、家康を罠に嵌める段取りを練る。
家康も、三成も、互いの勢力を少しでも増やす事で相手の打倒を狙っていたのである。




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