★この時代の城郭 ――― 肥前名護屋城
秀吉の外征計画の手始めとして、1591年10月から肥前国の名護屋(なごや)に巨大な城が
築かれ始めた。この城は朝鮮出兵の本営となる城郭で、全国約120名の武将に
普請命令が下され、壮大な規模の城が造営されていく。本丸には5層と伝わる天守が建ち
そこから左回りの渦郭式にいくつもの曲輪が連なる。本城域の外部には出陣武将の
陣所が軒を連ね、この城一帯が巨大な外征基地として機能していた。
その一方、遊興好きの秀吉らしく城内には風雅を楽しむ山里丸が用意され、
ここには例の「黄金の茶室」が運び込まれた。秀吉は名護屋で渡海の指示を出しながら
自身は日ごとに茶の湯を楽しんでいたのだ。国内統一戦の仕上げとして石垣山一夜城で
“余裕”を演出したのには意味があったが、外征に出る戦いの中でまで黄金の茶室を使い
茶の湯に傾倒したとは、もはや常軌を逸した話である。
加えて、遠征路の中継点となる壱岐・対馬にも前線城郭が築かれた。これらの城も、秀吉の
威光を誇示するものとされ、建物の軒瓦には金箔が圧された“黄金の城郭”になっている。
しかし秀吉が九州を離れて壱岐や対馬、朝鮮半島まで渡る事はなく、結局こうした前線城郭は
その存在に見合う使われ方をされた訳ではなかった。そもそも対外侵略自体が
非生産的行為ではあるが、特に秀吉の“好き放題な”やり方は無駄でしかなく
国力の疲弊を招くだけのものだったと言えよう(誰もそれを止められなかったが)。
ともあれ、肥前名護屋城は大陸出兵の前線基地となり多くの将兵が詰めた。名護屋に近い
九州・四国・中国地方の軍勢は勿論、関東甲信や遠く東北地方からも兵は駆り出され
名護屋城下はにわかに人員飽和状態となったのである。しかも秀吉は、出兵に先立ち
1592年に全国で人掃令(人口調査命令)まで発し、動員兵力の確保を行っている。
際限なき秀吉の野望は、日本全国を未曾有の徴兵に駆り立てたのだった。
史上に名を残す名護屋城は国威高揚の象徴であり、侵略と搾取の鎮魂碑でもあった。
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