朝鮮出兵

日本の呼称で文禄の役・慶長の役、
朝鮮では壬辰倭乱・丁酉再乱と呼ぶ朝鮮出兵。
20世紀初頭の大日本帝国による朝鮮植民地支配と並び
朝鮮半島の民が永く日本を嫌悪する原因となった
不幸な事件は、独裁者となった秀吉の暴走としか言いようがない。
歴史的事象としての朝鮮出兵について、以下に記載する。


肥前名護屋築城 〜 全国諸大名の総動員
ここで改めて、秀吉の外征計画について整理しておく。信長に仕えていた頃から空想として
大陸への進出を思い描いていたという秀吉は、1587年に九州平定を為した際に対馬島主である
宗義調に使者の派遣を命じ、空想を具体化させ始めた。曰く、秀吉が日本を統一した暁には
明帝国(当時の中国の正統王朝)を征服するために大陸へ出兵する。その足がかりとなるのが
朝鮮半島であり、李王朝(朝鮮半島を治めていた王朝)は日本の臣下となり大陸侵攻軍に
従うべし。もしこれを拒絶するならば、手始めに朝鮮を蹂躙する。こういった内容だ。
歴史的経緯から常に朝鮮との対外交渉窓口であった対馬の宗氏。しかし、それまでの外交は
誼を通じ、交易の発展を旨とする交渉であり、対外征服を目的としたものではなかった。
荒唐無稽とも思える秀吉の外交方針に窮しつつ、それでも天下人の命令には逆らえない義調は
やむを得ず使者を派遣したが、当然ながら朝鮮側の回答は拒否であった。斯くして、
日朝の国交は断絶し日本軍の朝鮮派兵が決定される。秀吉の出陣命令を受けた諸大名は
困惑しつつもそれに従うのであった。

★この時代の城郭 ――― 肥前名護屋城
秀吉の外征計画の手始めとして、1591年10月から肥前国の名護屋(なごや)に巨大な城が
築かれ始めた。この城は朝鮮出兵の本営となる城郭で、全国約120名の武将に
普請命令が下され、壮大な規模の城が造営されていく。本丸には5層と伝わる天守が建ち
そこから左回りの渦郭式にいくつもの曲輪が連なる。本城域の外部には出陣武将の
陣所が軒を連ね、この城一帯が巨大な外征基地として機能していた。
その一方、遊興好きの秀吉らしく城内には風雅を楽しむ山里丸が用意され、
ここには例の「黄金の茶室」が運び込まれた。秀吉は名護屋で渡海の指示を出しながら
自身は日ごとに茶の湯を楽しんでいたのだ。国内統一戦の仕上げとして石垣山一夜城で
“余裕”を演出したのには意味があったが、外征に出る戦いの中でまで黄金の茶室を使い
茶の湯に傾倒したとは、もはや常軌を逸した話である。
加えて、遠征路の中継点となる壱岐・対馬にも前線城郭が築かれた。これらの城も、秀吉の
威光を誇示するものとされ、建物の軒瓦には金箔が圧された“黄金の城郭”になっている。
しかし秀吉が九州を離れて壱岐や対馬、朝鮮半島まで渡る事はなく、結局こうした前線城郭は
その存在に見合う使われ方をされた訳ではなかった。そもそも対外侵略自体が
非生産的行為ではあるが、特に秀吉の“好き放題な”やり方は無駄でしかなく
国力の疲弊を招くだけのものだったと言えよう(誰もそれを止められなかったが)。
ともあれ、肥前名護屋城は大陸出兵の前線基地となり多くの将兵が詰めた。名護屋に近い
九州・四国・中国地方の軍勢は勿論、関東甲信や遠く東北地方からも兵は駆り出され
名護屋城下はにわかに人員飽和状態となったのである。しかも秀吉は、出兵に先立ち
1592年に全国で人掃令(人口調査命令)まで発し、動員兵力の確保を行っている。
際限なき秀吉の野望は、日本全国を未曾有の徴兵に駆り立てたのだった。
史上に名を残す名護屋城は国威高揚の象徴であり、侵略と搾取の鎮魂碑でもあった。

1592年1月5日、秀吉は諸大名に朝鮮への出陣命令を発布。各軍勢は名護屋城へと終結し
その総勢は30万人にも及んだ。秀吉の威信をかけた外征が、いよいよ始まろうとしていた。

文禄の役 〜 緒戦の好調、その後の苦境
対馬に終結していた日本軍先鋒は1592年4月12日の朝に出帆。宗義智(そうよしとし)
小西行長らが率いる第一軍は1万8000、軍船700隻にも及び、その日の夕刻に釜山へ入港。
翌13日の朝から攻撃を開始し、わずか2時間ほどで釜山城を陥落させた。1592年は元号にして
文禄元年であった事から、この戦役を文禄の役と言う。第一軍に続き第二軍〜第六軍までが
続々と渡海し朝鮮半島へと上陸したが、これら後続の軍を率いたのは加藤清正、黒田長政、
島津義弘、小早川隆景と言った剛の者たち。先発の第一軍と合わせて総勢15万8000にもなった
朝鮮上陸軍は勢いづいて北上、同年5月3日には朝鮮王府のある漢城(ソウル)を占領する。
朝鮮国王・宣祖は日本軍の来襲直前に脱出し辛くも難を逃れたが、上陸から僅か20日程度で
首都を陥とした大戦果に秀吉は喜び、再来年までには明国も占領すると書状にしたためている。
この後、更に北上した日本軍は6月に平壌も占領、別働隊は朝鮮半島東岸を進み明との国境である
豆満江という川を渡る所まで至る。その際、戦果として敵兵の首を持ち帰ろうにも余りに数が多く
残忍にも鼻だけ削いで持ち帰ったという。秀吉、そして日本軍は緒戦の勝利に“狂気”した。
ところが、この頃から朝鮮側の反撃が本格化する。そもそも日本側の緒戦勝利というのは
朝鮮側の防戦態勢が整わなかったから為しえたものであって、単なる幸運に過ぎない。
常識的に考えれば地の利は朝鮮側にあるわけだし、序盤戦の勝利だけでそのまま勝ち進めると
考えるのは浅墓と言うもの、太閤秀吉も老いた証拠であろう。
(真珠湾で勝利したからと言って、米国全土を占領できる筈がないのと同じである)
日本軍の苛烈な進駐に憤激した朝鮮の民は、“義兵”と呼ばれる民兵ゲリラ団を組織し一斉蜂起。
これに朝鮮王朝正規軍も加わり、さらには李舜臣(りしゅんしん)という朝鮮水軍の名将が
朝鮮海峡を往来する日本の補給ラインをズタズタに切り裂いた。もはや日本側は制海権を失い
補給や増援がままならなくなってしまったのだ。しかも、1593年1月には明の応援軍まで来襲し
日本側は一挙に劣勢となる。この時、平壌は放棄され、4月には漢城からも撤収。
深入りしすぎて延びきった戦線は、当然ながら維持できなかったのである。

★この時代の城郭 ――― 朝鮮の“倭城”
勢い勇んで緒戦に先走った日本軍は、占領地の統治も後回しにして朝鮮半島全域を
蹂躙したものの、結局は押し戻される結果になる。やはり無謀な外征は上手くいかず
明への進軍どころか朝鮮一国さえも満足に押さえる事ができなかった。
その様子を揶揄する狂歌が京の都で囁かれたという。
太閤が 一石米を 買いかねて
 今日も五斗買い 明日も五斗買い

[意味] 愚かな太閤は明の手前(米)の朝鮮一国(一石)すら手に入れられず
  今日も「御渡海(五斗買い)」明日も「御渡海」と空威張りで命じるばかりである。
斯くして、日本側は戦線の縮小・再編と占領地統治を再考せねばならなくなり
日本国内と同様にそのための拠点を必要とした。つまり、城郭を築いたのである。
これらの城は朝鮮半島南西部に集中し、戦時に築かれたものだけあって
特に戦闘面を重視した構造となっている。即ち、堅固な城壁で固めた内側に
火器の射撃拠点となる櫓を林立させたもの。無論、天守も建てられて
強力な火力制圧を図ると共に、日本軍の威光を周辺領民や敵兵にアピールした。
また、外征城郭であるが故、城内には広い兵員駐屯地を確保したり
港湾施設を取り込んで補給確保の性能を持たせているのが特徴。
日本軍は当初、朝鮮古来の邑城(ゆうじょう、外壁で町を囲んだ大陸式の城)を
そのまま防備に使おうとしていたようだが、戦法の違いなどから不備を来たし
平壌を奪われた事を機に、やはり日本式の城郭が必要であると判断した。
場所によっては、邑城の中にわざわざ日本城郭を作っている。
このようにして築かれた朝鮮半島内の日本城郭を倭城(わじょう)と言う。
城名
当時の日本側の記録
築城年
築城者
所在地




釜山城
釜山浦(ふさんかい)
1592年(文禄元年)
毛利輝元ほか
慶尚南道
釜山子城
―――
1593年(文禄2年)
毛利輝元ほか
慶尚南道
椎木城
釜山浦端城(椎木島端城)
1593年(文禄2年)
毛利輝元
慶尚南道
迫門口城
釜山浦端城(出崎端城)
1593年(文禄2年)
毛利輝元
慶尚南道
東莱城
東莱(とくねき)
1593年(文禄2年)
吉川広家ほか
慶尚南道
林浪浦城
林浪浦(せいぐはん)
1593年(文禄2年)
毛利吉成ほか
慶尚南道
機張城
機張(くちゃん)
1593年(文禄2年)
黒田長政
慶尚南道
亀浦城
甘筒(かとかい)
1593年(文禄2年)
小早川隆景ほか
慶尚南道
金海竹島城
金海(きんむい、竹島)
1593年(文禄2年)
鍋島直茂
慶尚南道
農所城
同端城(特橋)
1593年(文禄2年)
鍋島直茂
慶尚南道
加徳城
加徳(かとく)
1592年(文禄元年)
毛利輝元
慶尚南道
加徳支城
―――
1593年(文禄2年)
―――
慶尚南道
西生浦城
西生浦(せっかい)
1593年(文禄2年)
加藤清正
慶尚南道
安骨浦城
安骨浦(あんかうらい)
1593年(文禄2年)
脇坂安治・加藤嘉明・九鬼嘉隆
慶尚南道
熊川城
熊浦(こもかい、熊川)
1592年(文禄元年)
―――
慶尚南道
甘浦山城
熊浦端城
1593年(文禄2年)
―――
慶尚南道
小山城
熊浦端城
1593年(文禄2年)
―――
慶尚南道
永登浦城
唐島(からいさん)
1592年(文禄元年)
―――
慶尚南道
松真浦城
唐島(からいさん)
1593年(文禄2年)
―――
慶尚南道
長門浦城
唐島(からいさん)
1593年(文禄2年)
―――
慶尚南道
馬沙城
―――

―――
慶尚南道
弧浦里城
―――

―――
慶尚南道




蔚山城
蔚山(うるさん)
1597年(慶長2年)
浅野幸長ほか
慶尚南道
梁山城
梁山(りゃくさん)
1597年(慶長2年)
黒田長政
慶尚南道
馬山城
昌原(ちゃわん)
1597年(慶長2年)
―――
慶尚南道
倭城洞城
唐島瀬戸口
1597年(慶長2年)
―――
慶尚南道
固城城
固城(こそん、こせう)
1597年(慶長2年)
吉川広家ほか
慶尚南道
泗川城
泗川(そせん、そてん)
1597年(慶長2年)
毛利吉成ほか
慶尚南道
南海城
南海(なむはい)
1597年(慶長2年)
―――
慶尚南道
順天城
順天
1597年(慶長2年)
宇喜多秀家・藤堂高虎
全羅南道

平野に面した丘陵地に大規模な石垣を構築し、その中を堅固な要塞化する技法は
まさに日本国内で歴戦の将たちが築いていた平山城の創建そのものであった。
いや、大兵力が総力で激突する大陸での過酷な戦闘に対応するため、むしろ国内よりも
進化した防御構造が必要とされ、登り石垣の多用など新技術が開発されているほどだ。
海岸線の倭城では港湾設備を必須としていたため、適度な入り江を城内に組み込み
これまた水軍城郭の技術進歩に繋がっている。こうして鍛え上げられた築城技法は
次なる時代、いわゆる“慶長の築城ブーム”とされる頃に日本国内へ還元され
熊本城、姫路城といった「強固な近世城郭」を造らしめるに至ったのである。
一方、従来の邑城とは異なる倭城の構造は、朝鮮の民にも衝撃を与えた。
今までの苛烈な戦国時代をくぐり抜けてきた日本の軍事力を体現する倭城は
戦闘に特化した堅い防御力を発揮し、それは邑城とは比較にならない程であった。
朝鮮での戦役が終了した後、李王朝では倭城の研究が行われ
実現こそしなかったが、倭城に倣った軍事拠点の利用を考慮したと言われている。

なお、朝鮮での戦端が開かれた直後の1592年7月22日、京都聚楽第にて秀吉の母、
大政所ことなかが病没。また一人縁者が亡くなり、特にそれが最愛の母ともなれば、
秀吉はさぞかし悲嘆に暮れたであろうが、にもかかわらず朝鮮への侵略活動は続行。
自分が母を失う悲しみを感じながら、他者への侵害には何の躊躇いも持たぬ秀吉ゆえに
なかの死後、急激に戦局は悪化したのかも知れない。天下の覇者にはなったが、
天意を解せぬ秀吉が指示した戦い、その行方は―――。

和睦交渉 〜 現実的な行長の努力に対し、秀吉は…
慣れない異国の地で戦線が膠着したとあっては、日本側の兵士に厭戦気分が蔓延。
望郷の念にとりつかれ、逃亡を試みるものが続出する。朝鮮や名護屋から脱走する者は
後を絶たず、秀吉は慌てて人留番所を設置し逃亡者を処罰した。眼前には朝鮮や明の敵兵、
背後には秀吉の処罰が待っているとあっては、もはや日本軍兵士に生き延びる道はない。
しかも逃げようとする者は兵士だけではなかった。豊後国大名、大友義統は1593年1月の
平壌陥落の際に継戦を諦めて無断撤退していたのだ。これを知った秀吉は激怒し
義統は改易(取り潰し)されてしまう。現代でも敵前逃亡は死罪、と言われるが
元々無理な外征に送り込まれた彼らの悲鳴は無理もないことであろう。
そんな中、知略に長けた小西行長は何とか講和の道がないかと模索。商人出身の行長は
計算に秀でた将であり、無謀な戦いを続けるのは愚策、それよりも朝鮮や明と和議を結び
実利を得る方策が肝要であると考えていたのだ。現在、日本側は劣勢に陥っている以上、
朝鮮や明の領土割譲など不可能な話であり、行長としてはかつての勘合貿易を復活させ
両者のわだかまりなく交易で利潤を図ろうという線が狙いだったようだ。こうして、
行長が戦いつつも交渉に及んだ結果、講和条件を話し合う明の使節が1593年6月に来日。
しかし勝ち戦だと思い込んでいる秀吉は、明側から和睦を申し出たものだと勝手に解釈、
使節に対して無謀ともいえる講和条件を提示した(史料に残っている訳ではないが、
この頃既に秀吉は痴呆が始まっていたのかもしれない)。内容は以下の7箇条である。
1.明の王女を日本に皇妃として差し出す。
2.勘合貿易を復活させる。
3.日明の大官が友好の誓紙を交わす。
4.朝鮮南部四道を日本が領有する。
5.朝鮮から王子と家老を人質に差し出す。
6.日本が捕虜にした朝鮮の王子2人は返還する。
7.朝鮮の大官が違約ない事を誓紙にして差し出す。
「日本が譲ってやっても良い」という内容。どう考えても立場が逆である。
こんな条件が明側に受け入れられる訳はないのだが、“裸の王様”になってしまった秀吉は
これでも最大限の譲歩だと思っていたのだろう。せっかく行長が骨を折った交渉も
もはや水泡に帰す事がわかりきっていた。また、秀吉の命令を忠実に守る事を第一としていた
加藤清正ら“武闘派”の武将も和議に傾いた行長を快く思わず、日本軍は陣中の
意思統一を欠き、ますます混迷の度を深めていった。

淀殿、第二子を出産 〜 秀次、“殺生関白”の汚名を着せられ果てる
そうした状況の中、1593年8月3日に大坂で淀殿が秀吉の子を出産。何と、またもや男の子だ。
諦めていた男子誕生に驚き、喜んだ秀吉は陣所の名護屋から慌てて大坂へ帰った。
かつて捨丸と名付けた鶴松が早くに死んだ事から、今度は捨て子ではなく縁起物を拾ったとし
この子に拾丸(ひろいまる)、通称“お拾い”と名付けた秀吉。歳をとってからの子供は
可愛いと言うが、耄碌した権力者が溺愛するととんでもない事になるのが世の常というもの。
早速、産まれたばかりの拾丸を跡継ぎにするよう考えだし、そのための体制作りに動き出す。
諸大名には拾丸への忠誠を誓わせ、秀吉は自身の隠居所として伏見城を構築したのである。

★この時代の城郭 ――― 伏見築城と豊臣政権の限界
伏見城、通称で桃山城と呼ばれる城郭は京都洛南に築かれた城。1594年3月に
築城を開始したのは指月(しげつ)と呼ばれる場所で、そこは巨椋池(おぐらいけ)なる
大きな湖の畔であった。現在、巨椋池は埋め立てられて残っていないが、この池は
北から鴨川・桂川、南から木津川、東から琵琶湖を源流とする宇治川が流れ込む
水上交通の要衝で、これらが合流して西の淀川となって大坂湾に注ぎ込んでいた。
しかし指月の城は完成後間もない1596年閏7月の大地震で崩壊、改めて秀吉は
木幡山(こばたやま)に新たな伏見城を築き直させた。ここは現在、
明治天皇陵(桃山御陵)となっているため一般の立ち入りはできないが
その立地から察するに山と川と湖を大きく削り込んで築城した事が窺える。
これほどまでに大規模な土木工事を為してまで完成させた伏見城。
こうした工事を行うにはそれなりの理由があった。
言うまでも無く、豊臣政権は強烈な軍事独裁政権である。秀吉というカリスマの下、
他の大名と戦い、屈服させ、時に滅ぼす事で政権基盤を強固にしてきた。朝廷官位を
権威高揚に利用してはいたものの、本質的に「軍事行動を起こす事」を維持しなくては
“農民から成り上がった”秀吉が下々の者を従わせる求心力とはなり得なかったのである。
常に戦い、常に敵を倒す事で「秀吉は強い、秀吉は乱世の覇者だ」と見せ付け
政権者としての地位を安泰に保つ事ができた。天下を統一したからといって
軍事行動を放棄しては、秀吉の権力基盤そのものを否定する事に繋がると共に
まだ天下争乱の気風が色濃く残る時代、油断すれば下剋上を誘引する引き金になるのだ。
乱世でなければ、出自の卑しい秀吉が人の上に立つ理由は無くなる。
豊臣政権は、どこまでも軍事政権でなくてはならない宿命に在ったと言えよう。
「平和な時代の政府」への転換を図れない秀吉政権が、戦いを求めて
朝鮮への出兵を図ったのはある意味、仕方のないことだったのかもしれない。
(無論、外征を正当化する理由にはならないが)
同じ理屈で、秀吉は築城を続けていかねばならなかったのだ。
築城とは即ち、軍事拠点を築く事であり、諸大名を動員する軍事行動だ。
大坂城に続き、京都の聚楽第、淀殿の淀城、朝鮮攻めの名護屋城と築き
今回、隠居所という名目で伏見城を新規に築いた秀吉。際限なき築城命令は
豊臣政権安泰の策ではあったが、乱世ではなくなった日本国内では
もはやこれしか方法がないという行き詰まりを暗に示してもいたのである。

こうなると、一番の邪魔者となるのが関白・秀次だ。もはや世継ぎは望めぬと思い
関白の位を譲り後継者に認定したのだが、実子が生まれたのであれば話は別。
秀吉は何とかして秀次を排除し、拾丸を跡継ぎにしようと画策し始めた。事あるごとに
秀次へと難癖を付け疎み、彼が正親町上皇の服喪期間に鷹狩を行った事を利用して
「無闇に命を奪う殺生関白だ」という悪評を捏造し、遂には秀次が何人かの大大名と
懇意であった事を逆手に取り“徒党を組んで秀吉への謀反を企んだ”という濡れ衣を着せ
とうとう関白位を剥奪してしまう。時おりしも会津の切れ者・蒲生氏郷が病を発して急逝した頃。
氏郷は年齢も近い事から特に秀次と仲が良く、何とか秀吉と秀次の仲を修復しようと
動いていたようであるが、彼が死した事で秀次をかばう器量を持った人物がいなくなってしまった。
そもそも、齢40の若さで氏郷が没した事には影の憶測が飛んでいる。武将としての才を見こまれ
奥羽の監視役に任じられたという事は、逆にそれだけ政権中央から遠ざけねばならないと言う
危険人物でもあった事も意味し、会津入封は秀吉が体裁良く“厄介払い”をしたように
受け止められよう。そんな氏郷が急死した事に、都の人々は彼の将器を恐れた秀吉が遂に
毒殺したのではと噂した程なのだ。確かに、その死は早すぎた。1595年2月7日、蒲生氏郷没。
実子可愛さの妄想にとり憑かれた秀吉は、抑えとなる氏郷がいなくなったがために
秀次バッシングを加速させ、氏郷の没後5ヶ月が過ぎた7月8日に秀次を高野山へ追放。
更にその7日後の同月15日、切腹までも命じたのである。斯くして無念の死を遂げた秀次。
しかし、独裁者秀吉の暴虐はこれだけに終わらなかった。拾丸の世を完成させるには
秀次の縁者は根絶やしにせねばならぬとし、何と妻子までもが連座として8月2日に斬殺された。
総勢39人もの何の罪もない女性や子供が三条河原の刑場で処刑され、鴨川の水は流血で
赤く染まったのである。凄まじい粛清劇を平然と行った秀吉は、もはや天下の英雄ではなく
恐怖の独裁者と成り下がったのであった。とりあえずはこうして秀吉の跡継ぎはまだ幼い拾丸、
後の秀頼に定まった。しかし狂った愛憎劇の結果、豊臣家の行先がどうなるかは後世の我々に
良く知られていよう。義経・範頼・行家といった一門衆を殺した源頼朝や新宮党を滅ぼした
尼子晴久が、その後にどのような末路を辿ったのかを秀吉は知らなかったのだろうか?
歴史に「もし」は無意味だが、秀頼が成人するまでの後見人として秀次が存命であったなら
豊臣家の命脈は大きく変わっていたような気がしてならないのだが…。
なお、伏見城が築かれた事で秀吉の政治運営は伏見で行われ、聚楽第は不要のものとされた。
関白を譲って以来“秀次の居所”であった聚楽第はこの件で忌み嫌われ、破却されてしまう。
また、秀次の所領であった尾張国清洲24万石は秀吉のお気に入り・福島正則に与えられた。

豊臣氏と主な血縁氏族

豊臣氏と主な血縁氏族 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係

慶長の役 〜 激怒した秀吉、再出兵を命じるが…
話を朝鮮での戦いに戻す。小西行長が体裁を整えてこぎつけた停戦交渉であったが、
もはやボケた秀吉はまともに議論を交わせるような能力を有していなかったようである。
これを看破した明側は日本側首脳に外交の有効力なしと判断、為にダラダラと交渉が長引いた挙句、
1596年8月にようやく来日し9月1日に大坂城で対面した使節は、秀吉の提示した和睦条件とは
全く関係無しに「汝(秀吉)を日本国王と認ず」とする返答を行うに留まった。かつて足利義満が
狂喜した文言を再び持ち出せば秀吉が納得し朝鮮での戦いが収まると考えたのだろう。
しかし自分の要求した停戦要項を無視され、「国王」でお茶を濁され朝鮮領土の割譲も成らず
一方的に撤兵を促された(と秀吉は思っている)停戦交渉とあって、秀吉は激怒。案の定、交渉は
決裂し、怒り狂った秀吉は再度の朝鮮侵攻を命令した。これに基き1597年に再び日本軍が
渡海を開始する。秀吉を信奉する勇将・加藤清正と、先の交渉での面目を復活させたい“計算の将”
小西行長は先駆けの功を求め、出陣命令を待たずして1月14日から行動を開始したのだ。
加藤・小西の進発を知るや秀吉も総攻撃命令を決断し、続々と後続軍が海を渡って行く。
後に慶長の役と名付けられたこの第2次朝鮮出兵も、総勢14万とも言われる大軍の出兵となり
またもや朝鮮半島各地で凄惨な戦いが繰り広げられるようになった。しかし今回は朝鮮側も
序盤から反撃態勢を整えていたため文禄の役ほど簡単に勝ち進めるような事はなかった。
結果、日本軍の北上は最大でも京畿道南部にある都市・稷山(現在のピョンテク(平沢))南郊まで
迫った程度に過ぎず押し戻され、蔚山城では7万もの明・朝鮮連合軍が大挙して包囲し加藤清正が
籠城せねばならなくなる事態にまで陥った。加えて、再び朝鮮水軍の名将・李舜臣が軍船を率い
対馬海峡の往来を遮断、日本側の補給体制を絶ってしまった。どうにも苦戦続きの日本軍、
それに追い討ちをかける事態がこの直後に発生する。




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る