豊家の暗雲

秀吉は日本全土を手中に収め、天下人となったが
彼の野望はそれだけに終わらなかった。
国内の敵を平定した後、外征へと突き進む妄想に
周囲の者は困惑し、歴史の歯車は狂い始める。
彼の暴挙を止めるべく、天は様々な制裁を与え始めるのだが
しかし栄華に酔う者は、それにまだ気づかずにいた。


秀吉親族の相次ぐ不幸 〜 大和大納言秀長、そして愛児・鶴松の死
以前記した通り、農民出身の秀吉には「父祖の代から続く家臣」が居らず、親族をかき集めて
少しでも多くの配下を揃えようとしたのだが、その中でも筆頭であったのが弟、小一郎秀長だ。
創業の頃から秀吉を(主に財政面や交渉事で)的確にバックアップし、秀吉が天下を統一した事で
大和国(現在の奈良県)一国、約100万石を領地として獲得、官位も大納言に昇進して、巷では
大和大納言と尊称されていた人物。しかし彼は権勢を誇る事無く、必要に応じて汚れ役も引き受け
常に弟としての分をわきまえ秀吉の裏方に徹し、時に加熱し調子付く兄の暴走を巧みに制御する
温厚篤実な人柄は家康・利家といった大大名にも一目置かれ信頼が厚かった。彼がいたからこそ、
秀吉が天下人になれたと言っても決して過言では無いだろう。
ところが1591年1月22日、その秀長が没してしまった。先年より病を得た彼は、回復する事無く
そのまま息を引き取った。縁の下の力持ちを失った豊臣政権は大きなダメージを受けたのだ。
しかし不幸はそれだけに終わらない。同年8月5日、秀吉の一人息子だった鶴松も夭折。
ようやく生まれた秀吉の後継者は、わずか3歳でこの世を去った。右腕であった有能な弟と
将来を嘱望した愛児、期待した親族を2人も失った秀吉は悲嘆にくれ、髷を落としたという。
これにより豊臣政権は後継者を失い、先行きは不透明になる。特に良識者であった秀長の死没は
今後の政権運営に悪影響を与え、来るべき豊臣家滅亡への序曲となったと言えるのだが
この時はまだ、それを予見できる者は誰もいなかった。

利休切腹 〜 謎多き突然の不和
秀吉周辺の死者はそれだけに留まらない。秀長が没した直後の2月28日、千利休が切腹する。
秀吉から直々に死を命じられたというこの切腹、それまでの経緯は謎に満ちている。秀吉が
天下人レースに乗り出した頃から利休は豊臣政権と深い関わりを持ち、政商として豊臣家の
財政を支えただけでなく、茶道を通じて個人的にも交誼を強め、秀吉の私事を取り仕切るほど
その関係は良好だったはずなのだが、先年あたりより突然2人の間は冷却化し、遂には
自害に至る悲劇へと突き進んだ。その理由は様々考えられており、以下に記しておく。
まず1つ目は、両者の芸術感の相違。侘び茶を大成させた利休に対し、万事派手好みで成金趣味の
秀吉は茶の湯にも豪華さを求めた。その最たるものとして、黄金の茶室に黄金の茶器を揃え
諸大名に見せびらかした秀吉の贅沢ぶりが挙げられる。これを見た利休はさぞかし驚愕し
“俗物な悪趣味”と嫌悪しただろう。そんな二人はいつしか疎遠になったのかもしれない。
続いて2つ目は、利休の茶器売買に秀吉が不満を持ったという説。天下第一の茶匠であった利休は
茶器の目利きにもそれ相応の価値を求め、破格の高額で売買を行っていた。その高利潤を
秀吉が目に留め、半ば羨望にも似た感情で不快に思い、利休の行いを咎めたというのだ。
更に3つ目、大徳寺の山門に利休の木像が置かれた事。仏像でもない利休の像が山門の楼上に
そびえる事は、天上から人地を見くだすと意味され、天下人・秀吉の逆鱗に触れたという。
事実、利休切腹に先立つ2月25日、その木像が聚楽第で磔にされている。
4つ目の事例としては、秀長が死去した事により、それまで秀吉・秀長・利休の3人が政権を
公私に渡って上手く運営してきた慣習が崩れたという説。これもまた、秀長が影ながら
政権の“歯止め役”になっていた事を物語る。ストッパーが外れた事で、早くも豊臣政権は
「秀吉の暴走」を露呈するようになったのであろう。利休は邪魔者とされたのだ。
まだある5つ目、大陸出兵を目論む秀吉は、堺商人よりも博多商人を重用するようになり、
利休をはじめとする堺の町衆を遠ざけるようになったという点。それどころか、直接的に
利休が大陸出兵を公然と批判し、秀吉の怒りを買ったという話もある。
兎にも角にも、これら色々な事が総合的に秀吉と利休の対立を生み出し、今回の自害に
繋がったのだろう。利休の死によって茶道は一つの時代が終わった。それと共に、諸大名との
調整役であった利休が消えた事で、豊臣政権はまた一つ歯車が外れたのである。

天正遣欧使節の帰国 〜 希望の出発から試練の帰国へ
かなり前に記した天正遣欧使節。1582年に長崎から出発し、1585年にはローマ教皇との謁見を
果たした栄誉ある彼らは秀吉が小田原を攻めていた頃の1590年6月27日に帰国していた。
しかし豊臣政権はキリシタン禁止令を発しており凱旋とはならず、秀吉との会見もできず終い。
1591年閏1月8日、諸外国見聞の報告としてようやく帰国会見の機会を与えられ、京都聚楽第で
秀吉と面談。しかし、使節4人とイエズズ会巡察師・バリニャーニはインド副王の書簡を携える
“西洋からの外交使節”として秀吉に会うしかなかった。その書簡にはキリスト教禁圧の緩和が
要求されていたが、秀吉はこれに取り合わず会談は不調に終わる。結局、遣欧使節は歓迎されず
禁教の緩和も成らぬまま、彼らは歴史の片隅に追いやられる事になる。使節を派遣した大友宗麟や
大村純忠らは既にこの世におらず、新たな施政者は頑なにキリシタンへの弾圧を加えており、
もはや彼らの運命は尽きるものと定められたようなものだったのだ。この後、伊東マンショは
1612年に長崎で病没、千々石ミゲルはキリスト教の志を断念、棄教していずこかへ消えた。
原マルチノは禁教令に基き江戸時代になってマカオへ追放され1629年、かの地で無念の死。
中浦ジュリアンが最も悲惨で、1632年9月に穴吊りと呼ばれる凄惨な拷問を受けて殉死。
秀吉の時代に始まるキリシタン弾圧は、西洋文明の伝道者である彼等にも容赦なく襲い掛かった。
いや、歴史の混迷はそれだけでは終わらない。キリスト教を嫌う秀吉は、諸外国に対して
無謀とも思える強圧的態度で外交に臨み、ポルトガルに服属要求さえ行っている。果たして日本に
ポルトガルとの対外戦争を成せる戦力があったかもわからないのにそれを望む秀吉の外交方針は
もはや異常とも言えよう。さらには朝鮮・中国への出兵もいよいよ現実のものとされ、
「日本を平定した秀吉」は「海外征服を狙う侵略者」へと変貌しつつあった。この変容も、
歯止め役であった秀長が居なくなったゆえの事であろうか―――。

関白秀次の誕生 〜 秀吉退位して太閤と称す
鶴松が没した事で秀吉直系の後継者は居なくなった。しかし外征を行おうとする秀吉にとって
国内の基盤固めは重要であり、当然の事ながら後継者の早期選定は必須事項であった。
この時、候補に目された人物はいくつかいる。秀吉の猶子とされていた宇喜多秀家や、
寧子の甥であった木下秀俊(後の小早川秀秋)などであるが、そうした者たちを抑え、
新関白に任じられたのが羽柴改め豊臣秀次であった。秀次は秀吉の甥(姉の子)で、
唯一残された秀吉の親族男子である。鶴松が生まれる前は秀吉の後継者として目されていた
経緯もあり、これは順当の人事と言えよう。斯くして1591年12月28日、豊臣秀次は関白に就任し、
位を退いた秀吉は太閤(たいこう、関白を退任した者の尊称)と呼ばれるようになる。
秀次は近江八幡城主。廃絶した安土の地に代わる新たな近江国の首府となる城で、様々な
商業政策を施した事で知られる。かつての安土城下町を八幡城下に移転させ都市機能を
整備すると共に、琵琶湖から引いた水を城の水堀として使うだけでなく城下町の運河としても
活用し、水運を活性化させて隆盛を導いた。八幡の城下町は近江商人による物流の
一大集積地となり大発展し、その経済力は京・大坂に次ぎ畿内屈指の規模を誇るに至った。
現在でも近江八幡市は近江商人の町として有名で、数々の大企業が本社・本店を置く事で
よく知られていよう。今後の秀吉との確執でとかく評価の低い秀次だが、実際は非常に優秀な
政治家であったのだ。そんな秀次が関白を襲職、豊臣政権の国内統治を託された訳だが、
その一方、秀吉は隠然とした権力を保持し、その秀吉が目論む大陸出兵計画に基き、
諸大名は望まぬ外征準備に忙殺されるようになっていく。とりあえず後継者問題は
一段落したかに見えたが、名目的な国内統治担当の秀次と、絶対的権力者である太閤秀吉の
対外侵略思考、豊臣政権はここに2元化し、周囲を振り回しつつ次なる悲劇を生むことになる。
聚楽第図屏風(部分)
聚楽第図屏風(部分)

関白政務の御殿として築かれた聚楽第は
秀吉の退位に伴って秀次のものとなった。
数年で破却された為、詳細は不明だが
絵図から読み取れる有様は
天守や御殿が立ち並び、
豪華な宮殿であった事を物語る。
蛇足ながら、木下秀俊つまり小早川秀秋についても記しておこう。寧子の甥であった彼は
やはり秀吉一族の若手として一目置かれていたのだが、しかし武将としての器量はイマイチで
周囲の評価は芳しくなかった。しかも秀次が関白となった事で、秀吉後継者としての可能性は
なくなり、行き場のなくなった彼は秀吉の策謀により毛利家への養子入りが計画された。
毛利輝元の養子として送り込み、豊臣家で毛利家を乗っ取る事が“凡将”である秀俊の
“使い道”だという計算をしたのだろう。しかしこの企みを看破した智将・小早川隆景が
毛利宗家を守るべく、是非とも自身の養子に迎えたいと秀吉に具申した。小早川家を潰してでも
宗家を乗っ取られる事を防ごうとした隆景の“捨て身の選択”、苦肉の策である。確かに、隆景には
男の実子がなく秀俊の養子入りに不都合な点は無い。斯くして、急遽行き先が変わったが
1594年に秀俊は小早川家へ養子に出され、秀秋と改名する。凡将という評価には賛否両論あるが
秀吉からいいように切り捨てられ、隆景の(実際は望まれぬものの)養子に迎え入れられた秀秋が、
実は次の大戦で天下の形勢を一変させる立場になるとは、いったい誰が予想し得たであろうか。


★この時代の城郭 ――― “島普請”毛利家の広島築城
毛利家の話題が出たので、広島築城について。
秀吉が全国を統一した事により、とりあえずは平穏な世の中が訪れた。また、全国の大名は
豊臣政権の命ずるままに国替えを行い拠点を移す。こうした時代において、城郭の必要性は
戦闘性能だけを重視するのではなく、統治拠点としての機能が求められるようになった。
そのため、国替えにより城を移った大名はもちろんの事、旧来からの領国を維持した大名も
統治に適した城郭を選び直すようになっていたのである。近世城郭の誕生だ。
中国地方の太守となった毛利輝元も、そうした城を新造した者の一人。
元就の時代以前から、毛利家の本城は山間部の吉田郡山城であり、必要に応じて拡張が
行われてはいたが、「居城を移す」という事までは考えられていなかった。しかし乱世も終盤、
もはや山深き地は統治拠点として不適当と判断した輝元は意を決して本拠を平野部へ移した。
そこで選ばれたのが広島。1589年4月15日に鍬入れ式を行って築城工事を開始した新城は
1590年末に堀や曲輪が一応の完成を迎え、翌1591年に輝元が入居している。が、その工事は
難航を極め、かなりの労苦があったと見られている。
そもそも築城候補地となった場所は太田川河口付近の三角州の中。砂礫の堆積した敷地にして
周囲は川と海の水がひしめく水路の如き河川に囲まれていた。地盤が弱い場所の為、天守や櫓を
林立させる近世城郭を築くとなれば、頑丈な基礎工事から始めねばならない。単に城を築くだけでなく
地盤改良工事からスタートした広島築城は、城普請ならぬ“島普請”であると陰口を叩かれた。
何もそこまでしてここに城を築かなくても…と思われた難工事であったが、輝元はこれをやり遂げ
遂に城が完成、城下町も発展の兆しを見せていく。城さえできてしまえば、川や海の恵みの多い
広島の地は、大大名の統治拠点としてこれ以上ない適地だったと言えよう。今や中国地方最大、
政令指定都市にまでなった広島市。毛利氏の開府は正しい選択だったのだ。
秀吉の意向により配置替えとなった全国の大名は、これと同様にして各地に新城郭を築いていった。


豊臣政権の財政基盤
さてここで豊臣政権の台所事情も記しておこう。信長死亡直後の1582年から始まった太閤検地で
秀吉の勢力範囲に応じて石高が確定され年貢収入の基礎となったのは先述した通り。信長も
土地領有関係を明確にするために指出検地を行ったが、僅かに10ヶ国だけであった。太閤検地は
それを遥かに凌駕する規模で全国的に行われており、近世武家政権の統治根幹となった訳だが
その統計データによると、この当時の全国総検地石高は1850.9万石とされた。そのうち、豊臣家の
蔵入地(直轄収入領)とされたのが222.4万石である。総石高に占める割合は12%で、特に
畿内5ヶ国に集中。222.4万石の中、畿内だけで29%、約65万石を記録し、次いで西海道18%、
東山道16%、東海道14%の順になっている。西海道(九州)は小早川隆景領の筑前に蔵入地を
集中的に配し、東山道では近江の石田三成・豊臣秀次、美濃の織田秀信、飛騨の金森長近、
信濃の仙石秀久・真田昌幸など秀吉近臣が配置された事が主な理由だ。こうした蔵入地が
豊臣政権最大の収入源であった事は言うまでも無い。
加えて、豊臣政権は商業面での方策を積極的に行っている。佐渡・生野・石見など
全国の金銀鉱山を直轄支配し、そこから得られた財をもとに天正大判などの貨幣鋳造を実施。
それと共に、大坂・京都・堺・長崎・博多などの交易都市を支配下に置き、流通から得られる
利潤も財源としている。これに伴って各地の豪商が積極的に登用され、千利休はもとより
堺の小西隆佐、博多の神谷宗湛(かみやそうたん)島井宗室(しまいそうしつ)らが
豊臣政権に深く関わるようになったのであった。更に言えば、特に南蛮貿易を推進したがった
秀吉は生糸購入の先買権などを設定し、これら豪商よりも先んじて利益を独占しようと図る。
全国総石高に対する蔵入地12%というのは決して高い数値ではないが、こういった商業利益で
それを補い、豊臣政権は運営されていたのである。これらの商業政策はそっくりそのまま
後の江戸幕府も踏襲し、有効性を証明している。が、貿易に執心する秀吉はそれだけに足らず
直接海外を征服してより高い利潤を求めようとした。これが大陸出兵の一因でもあったのだ。
豊臣秀吉像豊臣秀吉像
天下統一を為した者の次なる夢想か、嫡男を失った悲嘆の憤激か、己の利欲と権勢誇示の
飽くなき追求か、いずれにせよ箍(たが)の外れた権力者の号令に基き、九州平定時に
対馬島主・宗氏へ命じた朝鮮服属要求と明国征服の野望が現実のものとしていよいよ動き出す。




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