★この時代の城郭 ――― “島普請”毛利家の広島築城
毛利家の話題が出たので、広島築城について。
秀吉が全国を統一した事により、とりあえずは平穏な世の中が訪れた。また、全国の大名は
豊臣政権の命ずるままに国替えを行い拠点を移す。こうした時代において、城郭の必要性は
戦闘性能だけを重視するのではなく、統治拠点としての機能が求められるようになった。
そのため、国替えにより城を移った大名はもちろんの事、旧来からの領国を維持した大名も
統治に適した城郭を選び直すようになっていたのである。近世城郭の誕生だ。
中国地方の太守となった毛利輝元も、そうした城を新造した者の一人。
元就の時代以前から、毛利家の本城は山間部の吉田郡山城であり、必要に応じて拡張が
行われてはいたが、「居城を移す」という事までは考えられていなかった。しかし乱世も終盤、
もはや山深き地は統治拠点として不適当と判断した輝元は意を決して本拠を平野部へ移した。
そこで選ばれたのが広島。1589年4月15日に鍬入れ式を行って築城工事を開始した新城は
1590年末に堀や曲輪が一応の完成を迎え、翌1591年に輝元が入居している。が、その工事は
難航を極め、かなりの労苦があったと見られている。
そもそも築城候補地となった場所は太田川河口付近の三角州の中。砂礫の堆積した敷地にして
周囲は川と海の水がひしめく水路の如き河川に囲まれていた。地盤が弱い場所の為、天守や櫓を
林立させる近世城郭を築くとなれば、頑丈な基礎工事から始めねばならない。単に城を築くだけでなく
地盤改良工事からスタートした広島築城は、城普請ならぬ“島普請”であると陰口を叩かれた。
何もそこまでしてここに城を築かなくても…と思われた難工事であったが、輝元はこれをやり遂げ
遂に城が完成、城下町も発展の兆しを見せていく。城さえできてしまえば、川や海の恵みの多い
広島の地は、大大名の統治拠点としてこれ以上ない適地だったと言えよう。今や中国地方最大、
政令指定都市にまでなった広島市。毛利氏の開府は正しい選択だったのだ。
秀吉の意向により配置替えとなった全国の大名は、これと同様にして各地に新城郭を築いていった。
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