奥州仕置

遂に他大名を征し天下を統一した豊臣秀吉。
しかし、諸大名を統制するには今後の領土分配が肝心である。
それと共に、いまだ抗う者を排除する手立ても必要であった。
果たして秀吉は、この難題をどう処理するのか。
そしてその後に続く秀吉の野望は―――。


桃山文化 〜 武将の勢いを主張する豪華な文化
さてここで、戦国時代を代表する文化、桃山文化について触れておきたい。
信長から秀吉にかけての時代と言えば、血みどろの激戦が繰り広げられ、しかも鉄砲のような
火器まで登場し、その戦いはより一層凄惨さを増した時期である。明日をも知れない戦場を駆け
されどその中で己の武功を挙げ、華々しい勝利と立身で天下への道を目指す将たちは、自らを
彩るきらびやかな装束や気風を好むようになる。加えて大大名は、堺や博多の商人らを取り込み
商業活動の興隆を図ろうとし、この中で豪商(更に進化して政商)らの経済力を利用して
自分たちの権威向上に繋げようとする傾向もあった。堺や博多と言えば、南蛮貿易港でもあり
こうした傾向の中には、西南蛮の文化をも内包するグローバルさも含まれていく。
このように成立した桃山文化は、武将の自己主張を体現する豪華極まりないものであった。
建築
安土城・大坂城・伏見城・聚楽第・姫路城・彦根城・二条城などの各遺構
醍醐寺三宝院表書院
妙喜庵待庵・如庵
絵画
障壁画
唐獅子図屏風・檜図屏風(狩野永徳)
松鷹図・牡丹図(狩野山楽)
智積院襖絵(伝 長谷川等伯)
松林図屏風(長谷川等伯)
山水図屏風(海北友松)
風俗画
洛中洛外図屏風(狩野永徳)
花下遊楽図屏風(狩野長信)
高雄観楓図屏風(狩野秀頼)
職人尽図屏風(狩野吉信)
南蛮屏風・世界図屏風
工芸
高台寺蒔絵
有田焼・薩摩焼・唐津焼などの技法
その他
阿国歌舞伎
キリシタン版による活版印刷
外来語・外来文化の流入
桃山文化の代表例
まずは何と言っても城郭建築。信長の安土城、秀吉の大坂城・伏見城・聚楽第をはじめ、
戦国武将の築いた城郭はこの時期に急激な発展を遂げ、櫓・天守といった軍事用建築物は勿論、
居住用・政務用の御殿建築や遊興用の付加建築物、茶室、それに庭園までも巨大化・華美化の
傾向を辿った。特に秀吉は派手好みであったため、至る所に金銀の装飾を施し、しかもそうした
建物を家臣の城や有力寺社に分与し、秀吉の権威を全国に広めていく。桃山文化の“桃山”は
伏見桃山城の“桃山”から来ている訳だし、これ以上に桃山文化の好例はないだろう。
続いては絵画。これも城と関連するが、御殿建築の襖絵や屏風絵として描かれた絵画に
桃山文化を代表する作品が結集していると言えよう。その中でも筆頭に挙げられるのは
やはり狩野一門の作品である。狩野正信が足利義政に取り立てられて以来、室町将軍家の
御用絵師を務めた狩野派。その作品を所有する事は権力者の証であり、室町幕府が滅びた後も
織田信長、豊臣秀吉らに継承されてきた。狩野一門もまた、彼ら権力者の好みに合わせた画風で
作品を仕上げる事を旨とし続けていたのだ。桃山期に描かれた狩野派の作品は、大きな獅子や
猛々しい鷹などを画題とし、豪放かつ雄大なものが多い。それに相対するような孤高の画家が
海北友松(かいほうゆうしょう)であろう。浅井長政の家臣として小谷城落城の折に戦死した
海北綱親(つなちか)の息子であった友松は、父の死によって武士の身分を捨て画家に転身。
中国の画法や狩野派の技法を研究し、独自の工夫を加えて新たな画風を確立する。狩野派が
門下の者たちに作業を分担させる職工制によって作画していたのに対し、友松は一人で仕上げる
個人的作画。作風もまた、この頃の狩野派が豪快で派手なものだったのに対し、友松は特に
水墨画を得意とし、静かで幻想的な主題を好んでいた。
工芸で特筆すべきは新たな焼き物が製作されるようになった事。薩摩焼、有田焼など、現代でも
その技法は受け継がれると共に、この頃の古作品は第一級の芸術作品として珍重されているのは
皆様よくご存知であろう。こうした焼き物もまた、秀吉の武家政治と切っても切れない縁がある。
後記する秀吉の朝鮮出兵により、日本軍は大量に朝鮮半島へ侵出。この時捕虜にした朝鮮人の
陶芸家が日本へ連行され、薩摩や有田で作陶が行われるようになったのだ。無益な戦いの犠牲は
悲しいものだが、その戦争が新しい芸術への原動力になった事は唯一の救いと言うべきか。

侘び茶の大成 〜 珠光から紹鴎、そして利休へ
この時代の文化で絶対に外せない事柄が茶道の大成である。信長から秀吉に茶の湯政道が
受け継がれ、茶道が政治と切っても切れない重要なファクターになった事が一因だが、
何と言っても茶道を遊興から芸術へと昇華させ、完成させる人物がこの時代に現れた事が
最大の要因であろう。先般から登場してきている千利休の名を知らぬ人は居るまい。
彼こそ侘び茶の大成者、この時代最大の文化人である。
元々の名を千宗易(せんそうえき)とした彼は堺の商人で、信長・秀吉の政商として近侍する事に
始まり、遂には豊臣家の内情に深く介入するほどの親密な交際をする人物であったが、さすが
堺の豪商だけあり茶器の収集に通じると共に、茶道の普及に深い寄与をする才覚に長けていた。
しかし彼が一人で茶道を成立させた訳ではない。北山文化・東山文化の項目で記した通り
闘茶に始まった遊興喫茶が村田珠光により茶道へと進化し、それが引き継がれ利休の大成へと
繋がったのである。珠光と利休の橋渡し役となったのが武野紹鴎(たけのじょうおう)
紹鴎も革問屋を営む堺の豪商で、簡素な茶器を用いてこそ「道」としての茶の湯が禅の精神と
融合する、とした人物。紹鴎の中興により、茶道はより一層の深化を遂げたのだ。それを利休が
草庵風茶室の中で「侘び寂び」の風雅を重んじる作法として確立させ、茶道が完成したのである。
利休という号は1568年に大徳寺住持から贈られたものだったが、秀吉の世になった1585年に
宮中で開かれた茶会に列席した折、その茶道の妙技を称えて正親町天皇から改めて下賜され
「天下一の茶匠」と位置付けられた由緒を持つ。一商人が宮中に上る事だけでも異例なのに
帝の御前で茶を点て、名を賜るというのは、茶人としての利休が如何に高名であったかが覗えよう。
この芸術家を側近として侍らす事もまた秀吉の自慢であったのだろう。故に、秀吉は彼を厚遇し
「内々の儀は宗易(千利休)に、公儀の事は宰相(豊臣秀長)」と申しつける程に重用していた。
豊臣政権を影から支えた秀長と並び評された存在が“大芸術家”利休だったのである。
珠光から紹鴎、そして利休へ受け継がれた侘びの茶道は、秀吉と密接に関わった事から
武家にも重んじられるようになり、質素篤実の精神修養として武士の間で爆発的流行をする。
当代最高の茶匠である利休の下にはその技法を習得すべく多数の弟子が集まるようになり、後に
様々な流派が興るまでになった。茶道は師匠から弟子へと伝えられる作法になったのだ。

茶道の系譜

茶道の系譜   ―は師弟関係

徳川氏の関東移封 〜 秀吉の罠か?家康の狙いか?
小田原に北条氏を滅ぼし、敵対する大名を総て平らげた秀吉には戦後処理が待っていた。
空白地となった旧北条領をどう治めるか、そして小田原に参陣した諸大名への恩賞を配分するか。
これにより、豊臣政権における全国統治体制を完成させる事になるのだ。然るに、
主を失った関東の地には徳川家康が配された。従来の領国である東海甲信5ヶ国を召し上げ
北条氏が治めていた相模・武蔵・上総など約250万石が家康の領土となったのである。
この移封には様々な憶測が考えられている。一見すると、広大な平野にある関東は肥沃な土地で
250万石を得た事で家康には大きな恩賞が与えられたかのように思える。しかし他方、今までの
東海甲信の領土を召し上げられた事は痛恨の極みであり、家康は一から領土統治体制を
作り直さねばならなくなった事にもなるのだ。甲斐の河尻秀隆や肥後の佐々成政と同様、
新たな封地に入る事は国一揆の誘発など非常な危険を伴うのは先に記した通りで、もし家康が
関東で問題を起こせば取り潰しの格好の理由になろう。つまり秀吉は、家康の勢力を削ぎ
あわよくば徳川家の廃絶も狙っていた、とも考えられるのだ。加えて秀吉は、家康の本拠を
それまで北条氏が統治していた小田原でなく、一地方都市に過ぎなかった江戸にすべしと
命じたという。都市機能の確立していた小田原は捨て置き、寒村である江戸に入れる事で
やはり家康の権力基盤を弱める狙いがあったとも思える。そもそも、東海から関東へ移るのは
京都・大坂といった政治の中枢から遠ざける事に他ならない。家康には恩賞に見せかけた巧妙な
試練が用意されていたのだ。小牧・長久手以来、やはり秀吉は家康を恐れていたのであろう。
ところが家康はこれに逆らうでもなくあっさりと東海の旧領を明け渡し、8月無事に江戸へ入った。
北条氏が磐石の体制で支配していた関東は、新たな君主の入府を受け容れると共に、そのまま
確立された官僚制機構を徳川氏の下で継続させて今まで通りの安定した体制を永らえたのだ。
加えて小田原は都市機能を飽和させており、江戸の開発はむしろ新たな都市を創造する
発展性に満ちていたのである。秀吉が張った罠は、家康の掌の上では可能性へと転じた。
13年後江戸で幕府を開くようになる家康は、北条氏の強力な統治体制を継承し、首府の新開発も
自由に行う事で下準備を練ったのである。いや、その恩恵はそれだけに留まらない。
それまで東海甲信で分配していた家臣の封地を関東で再編し、結果的には家康自身の蔵入地を
激増させる事に成功したのだ。土地に縛られた戦国大名が、その土地から切り離され新領土に入り
君主からの上意下達に従うように支配体制を変革した事は非常に大きな意義を持つ。
これにより徳川氏は近世大名としての在り方を完成させ、他大名より進化したのだった。

奥州仕置 〜 蒲生氏郷会津に睨みを利かせ、政宗虎視眈々と挽回を狙う
関東の支配を家康に任せた秀吉は、そのまま北上して1590年8月に黒川城へと入った。
東北諸将の領地を配分し、日本全土の大名配置を確定させるためである。言わずもがな、
小田原に参陣せず、関白豊臣秀吉の威光に従わなかった大小名は領土没収。また、
それまで豊臣家と敵対関係にあった伊達政宗の処遇を決める事に主眼が置かれていた。
これにより、旧門閥であった大崎氏・葛西氏・武藤(大宝寺)氏といった家は取り潰されて
断絶する。元々、鎌倉〜室町時代に設定された古い職掌を楯にして威勢を張ったこれらの家は
実力が伴わず、秀吉という「新時代の家門」の重要性を見誤った。断絶は当然の結果であろう。
蘆名氏・佐竹氏それに伊達氏の狭間で翻弄され、小田原へ来なかった石川氏・白川氏も
同様の運命を辿った。その一方、小田原征伐に従った津軽氏・南部氏・秋田氏・最上氏らは
本領を安堵。秀吉に組した者としなかった者の命運ははっきりと分かれたのである。
さて、最大の懸案となったのが伊達政宗だ。若く猛る政宗の実力は計り知れず、無闇に
追い詰めるのは危険な存在。しかし、奥羽惣無事令に反して蘆名氏を滅ぼす戦いを行った事は
咎めねば、豊臣政権の沽券に関わる。斯くして、政宗が戦いで拡張した領土、即ち旧蘆名領であった
会津・安積・岩瀬などの諸郡は召し上げ、伊達家の領地は旧領の米沢周辺のみとされた。
政宗が父を犠牲にし、心血注いで切り取った戦果は御破算になったのである。ようやく勝ち取った
黒川城で、その城の没収を言い渡された政宗の心中、穏やかではなかっただろう。
では、その会津はどうなったのかと言えば、秀吉幕下の英才・蒲生氏郷(がもううじさと)
与えられた。蒲生氏は元々六角氏配下の将であったが、信長の上洛に応じて主を替え、豊臣氏の
時代になった後もそれに従い、秀吉の覚えも目出度かった。特に氏郷は若き頃から才覚に優れ
信長に「英雄の相あり」と評されたほどの名将。秀吉から42万石の大封を以って会津入りを
命じられたのは、南に関東全土を得た徳川家康、北に領土を削減され不満を募らせる伊達政宗、
そして西に謙信以来の強力な軍勢を擁する上杉景勝と隣接するこの地で、彼らの監視を一手に
任されたからに他ならない。在地性の強い奥州という土地の中心で、畿内から新たに派遣され
領国統治と周辺警戒を両立させられるだけの器量を見込まれた氏郷。一方、“よそ者”の氏郷に
会津を横取りされた政宗は、表面上で平静を装いつつ何とか挽回の機会を狙うようになる。
秀吉の天下統一は完成したが、氏郷と政宗の間には水面下での駆け引きが続く“冷戦”が勃発する。
1590年 豊臣秀吉による主な大名配置1590年 豊臣秀吉による主な大名配置

大崎・葛西一揆 〜 奥羽の腐敗、荒療治の切除
さて、小田原に参陣せず取り潰された大崎・葛西の領土(現在の宮城県一帯)に入封したのは
木村吉清なる人物である。この吉清、日本史上で重要な人物ではなく、勿論名前が出るのは
今回だけである。当然、武将としての器量は優れたものではなく、むしろ愚凡という評価さえされて
しまっているほどだ。そんな彼が秀吉の命で急遽、奥羽の辺境に派遣されたのである。前々から
記している通り、新たな領土で統治を開始するのは簡単な事ではなく、国一揆などを誘発する
危険性が高い訳だが、その入府に際した1590年10月、まるで当然のようにそうした反乱が勃発した。
旧主である大崎・葛西の復権を望む浪人の蜂起は勿論、秀吉の影響が奥羽に及んだ事で行われた
太閤検地の厳しさや高騰した税率に反感を持った農民らも同調、東北地方全土から集まった
不平分子がこの地で巨大な国一揆を起こしたのである。言わば、旧態を懐かしむ奥州の
“最後の抵抗”が爆発したのだ。当然、無能な吉清はこれを鎮圧できはしなかった。
しかしこの一揆こそ秀吉の望むものだった。反乱者を集め、根こそぎで殲滅させて豊臣政権の
強大さを奥羽の地に浸透させる狙いだったのだ。逆らう者を見せしめとして処断する事で
以後、東北地方を厳しい統制下に置こうとしたのである。
その一方、密かにこの一揆を煽動する者が他にもいた。独眼竜、伊達政宗である。表面上で秀吉に
従いながら、政宗が一揆を支援したのは勿論目的がある。秀吉に従わぬ者たちが奥州を荒らしまくり
手の付けられない事態にまで悪化すれば、豊臣政権の支配力は弱体化する。そうなったところで
政宗が一揆を沈静化させ、東北地方の支配権を奪還しようとしたのである。会津を奪われた彼は
何としてでも秀吉、氏郷に痛撃を与え復讐しようと目論んでいた。
こうして秀吉と政宗の両者に誘発された一揆は4万6000もの大勢力に膨れ上がり、それを鎮圧すべく
蒲生氏郷らが出陣するも、政宗の巧妙な妨害工作で上手くいかない。その謀略を知ってか知らずか
「氏郷にすら手を拱く事態」を見かねた秀吉は1590年11月、政宗に一揆鎮圧を委託する。氏郷の面目を
潰し、ようやく手柄を得る機会が回ってきた政宗は喜び勇んで一揆解消に転じ、その功名で秀吉から
領土加増の恩賞を得ようという手筈を整えた。
ところが―――土壇場になって政宗の企みは秀吉に露見した。一揆勢への密書を携えた政宗の
使者が裏切り、その書状を蒲生氏郷へ持ち込んだのだ。出陣命令から一転、召還命令を受けた
政宗は秀吉の面前で詮議を受ける事になる。絶体絶命の政宗であったが、この時彼は巧みな弁舌で
秀吉の詮索を逃れる事に成功した。有名な「花押の目」の逸話である。政宗は常々、書状に記す
花押(かおう、大名が自筆である事を証したサイン)としてセキレイ(鳥の種類)型のものを
使用していたのだが、本物ならばセキレイの目としてごく小さな穴を針で開けてあると弁明した。
確かに、政宗が記した別の書面には小さな穴が針で開けられていた。しかし今回、一揆勢に宛てた
密書には穴が開いていなかった。よってその書状は偽物、自分は何ら企みなど行っていないと
申し開きしたのだ。無論、目の有る無しは万が一に備えて使い分けていただけの事なのだが、
計算されたその深謀に追求の糸口を失った秀吉は、政宗の一揆煽動を処罰できなかった。
政宗もまた、深入りは自滅すると冷静に判断、これ以上秀吉に逆らう事を諦める。その結果、
伊達軍は秀吉に命ぜられるまま一揆を鎮圧、自分らが手引きした者も含めて残らず殲滅した。
奥州の不満分子を一掃した事により、秀吉の支配力は日本全土に行き渡った。奥州仕置の完成を
祝し、政宗は本領である米沢から一揆を制圧した大崎・葛西の領土へ移される。会津奪還は成らず
米沢も失った代わりに、政宗は太平洋側の広大な領域を得たのだが、果たしてその結果は
政宗にとって望ましいものだったのか?そうではなかったのか?判断の難しいところである。

九戸の乱 〜 秀吉時代最後の大乱、奥羽の北端で勃発
明けて1591年、秀吉にとって最後の国内戦乱は本州北端の地で巻き起こった。南部氏の家中で
かねてから険悪な関係であった南部信直と九戸政実の対立が実戦となって発火したのだ。
先に記した通り、南部宗家の家督を巡り両者は争い、敗れた政実は独立志向を強めていたのだが
秀吉の影響力が徐々に東北へ浸透、大崎・葛西の一揆などそれに対する反動も巻き起こり
先の見えない政情をきっかけとして遂に九戸一党は決起した。今こそ信直の政権基盤を覆すべく
家中最強の軍事力を有する九戸党でクーデターを起こし、家督を奪おうとしたのである。
もちろん信直は政実を排除しようとするものの、やはり九戸軍は精強でなかなか鎮圧できない。
困った信直は秀吉の助力を請うた。当然、秀吉はこの願いを聞き入れ、九戸党の征伐を決定。
信直が秀吉から認められた大名である以上、それに歯向かう政実は秀吉に逆らっているのと
同じ事であり、中央政権に対する反逆者なのだ。秀吉の出陣命令を受け、羽柴秀次を総大将とし
蒲生氏郷、浅野長政(秀吉正室・寧子の義弟)らが率いる軍勢が大挙して政実の支配地域に
雪崩れ込んだ。また、蝦夷地からは蛎崎慶広(かきざきよしひろ)がアイヌ兵を率いて参陣、
豊臣軍の幕下に入った。蛎崎氏はもともと安東(秋田)氏の被官として蝦夷地に勢力を張っていたが
次第に主家との関係が薄れ、この頃には独立勢力となっていた家柄。秀吉に近づく事で、
中央政権に蝦夷支配を公認してもらう事が目的であったようだ。こうして膨れ上がった九戸征伐軍は
総勢6万5000にもなり猛攻をかけたのである。
ところがこれに対し、勇将たる政実に率いられた屈強な九戸方は頑強に抵抗。宮野城に籠城した
政実の兵はわずか5000に満たなかったが、長期の籠城を戦いぬき落城しない。攻めあぐねた攻城軍は
力攻めは無理と悟り、謀略戦に移行するしかなかった。1591年9月3日、九戸氏の菩提寺の僧侶を
使者として城中に送り込み「開城すれば残らず助命する」として和議を図ったのである。兵力に劣る
政実は止むを得ずこの勧告を受け開城、城を明け渡したのだが、その直後に豊臣軍は政実ほか
一族の大将8人を斬殺してしまった。偽りの和議で九戸党を抹殺したのである。
斯くして政実の野望は潰え、秀吉への敵対者は姿を消した。南部氏は家中の統制を回復し、
蒲生氏郷は加増され92万石とされる。また、蛎崎慶広はこの戦いの後に上洛、聚楽第で秀吉に謁見し
蝦夷地支配の朱印状を得る。政実の謀殺で秀吉による全国領土配分は確定したのであった。
九戸(宮野)城跡
九戸(宮野)城跡(岩手県二戸市)

見事な堀と塁が残る九戸城跡は
現在、国指定の史跡となっている。
その規模は壮大で、確かにここが
激闘を戦い抜いた堅城だった事を物語る。
写真に見える石垣は、九戸軍敗北後
蒲生氏郷が強化改修した工事によるもの。
日本の北端、奥州と蝦夷地までの平定を成し遂げた秀吉。しかし、それで戦の無い世になる訳では
なかった。彼の野望は新たな局面を見せ、次なる征服欲に駆られる事となる。周囲の者の困惑を
他所に、いよいよ大陸出兵を決意した秀吉、そして日本の運命は―――。



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