★この時代の城郭 ――― 北条流築城術
全国の大名ごとに得意な築城法があった中、武田流築城術と双璧を為す最高レベルの築城法と
評価されるのが北条流築城術だ。武田流が広大な曲輪を築き、その外を円弧を基調とした堀や
土塁で遮断し、特に虎口は丸馬出しで防備した築城法であったのに対し、北条流は曲輪と曲輪の
相互補完性を重視し、縄張りは主に直線で形取られる事が多い。無論、馬出しは角馬出しだ。
曲輪ごとの連接を重視するのであれば、単体の曲輪は必ずしも大きく取る必要はない。
という事は、築城の立地に制約される事が少なく、小さな城でも大きな城でも状況に応じて
作り分けられるのである。勿論、大きな曲輪で戦力を集中運用するという事例もある。
これが北条流築城術の利点で、例えば険峻な山頂部に物見の砦を作るような場合でも、
平野部に大掛かりな拠点城郭を作る場合でも、その築城思想は共通する事ができる。
また、円を基本とした武田流の城は確かに投射兵器の射界を平均化し死角を減らす事になるが
実際、土地の活用や建物の構築において丸い敷地というのは使いにくいものであり、それ自体で
無駄が多く効率的とは言えない。簡単な話、現代でも丸い建物や丸い敷地の家など皆無で
普通は(多少の歪みはあろうが)四角く形取られた土地に四角い平面の建物を建てるものだ。
丸い土地・建物はデッドスペースが多すぎて不経済なのである。この意味で、北条流の直線的
縄張りは理に適っている。射界の有効性を確保するには、別に円でなくとも曲輪の端部を凸凹に
屈曲させれば可能な事なので、直線でも何ら不都合は無いのだ。射界確保のためのこうした
屈曲は「横矢掛かり」と呼び、中世武家居館にも用いられていた技法であるが、北条流築城術は
大規模な火砲使用をも考慮した形状となっており、攻撃力の高さを物語っている。
加えて角馬出しは、そうした火砲戦術に特化させた構築物。城の攻防で最も激烈な場所は曲輪の
出入口、つまり虎口であるが、その虎口を独立する火砲陣地とした“橋頭堡”が馬出し。
これを武田流の円形ではなく角型にした北条流は、小さな陣地である馬出しすらも上記した
「曲輪の相互補完性」「直線による敷地の有効化」の概念に連動させている事になろう。
北条氏の城は「曲輪単独での攻防」「城全体での兵力運用」の両方に意を配った“総合的要塞”に
仕上がっているのである。
山中城跡(静岡県三島市)
それ以上に、北条流築城術の特徴となるのが畝堀(または障子堀)の活用だ。
空堀の底面を単なる平地にせず、堀の中で更に小さな土提(畝)をいくつも作り、堀内を細かく
仕切る技法を畝堀(畝とは田んぼの畦(あぜ)の事)と言い、横方向だけでなく縦方向にも
畝を重ねてさながら障子のような区画にしたものを障子堀と言う。こうした畝堀・障子堀は
他大名の築城で用いられる事は極めて少なく、まさに北条流ならではの構造とされている。
上の写真にあるのが障子堀であるが、これを多用するのもやはり火砲戦術に密接な関係がある。
一般に、関東以東では石垣の材料となる巨石の産出が少ないため、城郭は主に土塁で
防備されると言われる。しかし土塁は比較的緩傾斜にならざるを得ず、強度の面から考えても
塁の上面いっぱいに大掛かりな重量建築物を築く事が出来ない。言わば、織豊系城郭と
対極を為す構造にならざるを得ないのだ。となると、射撃砲座となる櫓や塀の構築には
一定の限界があり、土塁法面の傾斜角と併せると堀底に死角を生じることになってしまう。
しかし、火器が戦闘の主流となってきた時代にそれを座視してしまっていては、城の防備が
不十分になってしまう。これを解消する仕掛けが畝堀・障子堀なのだ。
堀底が平面の場合、敵兵がそこに落ちたとしても射撃の死角に逃げ込めば銃撃されずに済む。
しかし堀内に更なる障害となる畝があるならば、敵兵の行動は大きく阻害され、射撃の
死角に逃げ込むことが出来ない。むしろ、畝の間の小区画に嵌った敵は格好の的となり
簡単に撃ち取ることが可能だ。このような“アリ地獄”的な構造が畝堀・障子堀である。
箱根山塊の中、東海道を塞ぐ位置に構築された山中城は豊臣軍来攻に備えて強化され
こうした北条流築城術の粋を凝らした仕掛けで防備されていた。城の南部に長く延びる
岱崎(たいざき)出丸は東海道を側面から射撃するために築かれ、この弾幕を突破して
城に辿り着くのは至難の業である。ではそれを迂回して別方向から城攻めをしようとすると
城の西側に巨大な角馬出しを備えた西ノ丸が控えており、これまた攻略は困難。何より
南の岱崎出丸と西ノ丸は連携し、その間に入り込む敵(そうならざるを得ない縄張りなのだ)を
挟み撃ちできる構造を採っている。しかもこれらの曲輪や角馬出しは畝堀・障子堀で厳重に
囲まれており、敵兵の侵入を制限するようになっていた。数ある北条氏の城郭のうちでも
最も重防備な城と言えるのがこの山中城であったが、しかし秀吉は兵数にものを言わせ
岱崎出丸と西ノ丸を同時包囲攻撃するという荒業で蹂躙、落城に至らしめた。
一言で「半日で落ちた」と聞くと山中城が役立たずであったかのように思えるが、実際は
北条氏自慢の要塞であった訳だし、それを上回る非常識な戦法による攻略での落城という
実に複雑な事情を有した戦闘が展開されていたのである。
|