天下の統一

東北では政宗の南奥州制覇、為信の独立など領土再編が進み
一方で秀吉は九州〜東海・甲信越まで平定した。
その間に残るは関東地方、小田原後北条氏の動きである。
西日本を全て平らげた秀吉は、残る敵を関東の巨星に定め
東北地方までも視野に入れた“政略”で
天下統一事業を完成させるつもりでいた。


名胡桃城奪取事件 〜 関白秀吉“関東・奥羽惣無事令”を発すが…
家康を服属させた事により、秀吉の東国進出は現実化していく。このため、家康が大坂へ赴き
秀吉に臣従した直後の1586年11月、“関東・奥羽惣無事令”が発せられた。これ以後、東国での
戦いを禁じ、令に背いて行った合戦を“私戦”と断じて処罰する秀吉の命令だ。逆に言えば、
戦いを起こした者を謀反人と断罪し征伐する正当性を「関白の立場で自ら」秀吉が定めた事になる。
しかし、秀吉の天下統一事業から離れた位置にある東国ではいまだに各自が戦い続ける事で
家の存続や領土拡大を図る戦国の気風が色濃く残っており、惣無事令が発せられたからと言って
それで戦いが止む訳ではなかった。秀吉政権に近い佐竹義重すら郡山に出陣したし、政宗は
摺上原で蘆名家を滅ぼし、南部・津軽などの戦いは延々と続いていた。
その中で最も秀吉から敵視されていたのが小田原の後北条氏だ。関東地方に威勢を張る
後北条氏は、父祖の代からの関東制覇を目標とし北関東へ進撃を繰り返していた上、
中央政権を確立した秀吉を“成り上がり者”と軽んじ、豊臣政権との外交を疎んじていたからだ。
関東惣無事令は、ほとんど後北条氏を討伐するための名目であったと言っても過言ではない。
秀吉は命令により後北条氏を制約し服属を狙い、従わねば武力制圧を用いるつもりだった。
それは後北条氏も分かりきっていた事で、秀吉の命令などには従わず、独力で領土の維持拡張を
図り、豊臣政権とは一線を画す存在であろうとし続けた。両者の思惑には、決定的な断絶が
あったのである。こうした最中、事件は起こった。後北条氏の家臣・猪俣邦憲(いのまたくにのり)
かねてから係争中であった真田家の沼田領に侵攻、名胡桃(なぐるみ)城を奪取したのである。
1589年10月の事だ。もちろん、これは惣無事令に違反する。この事件を口実として、秀吉は
全国の諸大名に後北条氏討伐を宣言。秀吉政権下にあった者は勿論の事、北関東や奥州など
いまだ豊臣政権の中には入っていない者たちに対しても出陣を促し、秀吉の指揮下に入れと
命じたのだ。秀吉はこの戦いで関東のみならず、全国平定を完成させようとしていた。
方や後北条氏は秀吉来攻を見越して領内各所に触れを出し、城や砦の整備と豊臣軍との対決に
備えた軍事体制を構築。総力戦を覚悟した、言わば“国家総動員法”を発動させたのである。
天下の帰趨が決するのは、もう目前に迫ってきていた。

北条氏の防衛体制 〜 基本戦略は“足止め作戦”
秀吉に最後まで対抗し続けた小田原後北条氏、現代では「天下の趨勢を見誤った前近代的領主」と
低い評価を受けてしまっている。しかし実際にはそんな事はなかった。信長や秀吉に先立ち
早雲・氏綱の代から検地を行い領土情報の把握に努め、軍役体制の確立を早期に為していた。
氏康の頃には領内各所の基幹城郭ごとに軍団編成をまとめ、方面軍の役割を分担させると共に
指揮命令系統も上意下達がはっきりと整理されている。これは信長の軍制において柴田勝家が
北陸方面軍、羽柴秀吉が中国方面軍…などと定められるよりも時代的に遥かに早い。また、
後北条氏当主の下にはしっかりとした官僚制機構が整えられて近世幕藩体制に近い政治制度を
採用していた。だからこそ、武田・今川といった隣国列強に抗し得る事ができたし、それらが
信長に倒された後も磐石の体制を維持し続けたのだ。冷静に考えてみれば、信長の強烈な
カリスマ性で統制してきた(故に、彼の死で全て消えた)織田政権や、他大名を“雪だるま式”に
取り込み膨張してきた豊臣政権(これまた秀吉の死で分裂を引き起こす)に比べると、当主の資質に
それほど左右されぬ(もっとも、早雲・氏綱・氏康らはいずれも名将であるが)政治体制を敷き、
領土を拡張してもそこで新たな軍団編成を可能とするシステマティックな軍制を整えた後北条氏は
中世戦国の世にありながら、近代君主制に通じるものさえ見えてくる。今回、総動員令を発したのも
後北条氏が領内の統治を着実に行ってきたからこそ可能だったと言えよう。こうして動き出した
後北条氏の対豊臣軍事戦略は、領内各所の拠点城郭ごとに籠城を行う“足止め作戦”であった。
主に西から攻め入って来る豊臣軍を遅滞させ厭戦気分を引き出せれば、徳川・長宗我部・毛利など
秀吉に「屈服させられた」大名の寝返り(この点で後北条氏は豊臣家の“雪だるま式”を的確に
捉えていたと言える)を期待できるし、奥羽の伊達家と連携する戦略もとる事が可能であるからだ。
何より、豊臣政権中最大の勢力を持つ徳川家康は、かねてから後北条氏の同盟者。伊達・徳川
そして後北条での「東国連合」が形成できれば、豊臣氏など恐れるに足らない。ましてや、信玄や
謙信さえ落とせなかった戦国最強の城郭・小田原城には備蓄兵糧も十分にあり、長期戦になれば
なるほど、敵が大軍であればあるほど、豊臣方には兵站線の問題も浮上する筈だった。斯くして、
後北条氏は山中城(静岡県三島市)・八王子城(東京都八王子市)など前線城郭の整備を行い
同時に小田原城の大外郭構築に着手し、防衛力の増強を図る。領内各所での敵軍遅滞・漸減と
小田原城での徹底抗戦から豊臣軍の分裂を狙う“ミクロ的戦術”が後北条氏の基本戦略であった。

豊臣軍の攻勢 〜 基本戦略は“怒涛の電撃戦”
一方、秀吉の戦略はお得意の“物量作戦”である。後北条氏に領土を接し、同盟関係にあった
(だからこそ、わざと命じたのであるが)家康に進撃ルートの整備を行わせると同時に、丹羽
宇喜多・毛利・長宗我部など西国諸大名まで動員して小田原遠征軍を編成。その数は20余万。
陸上のみならず水軍も用意し、後北条氏の領国を完全封鎖し締め上げる作戦を練っていた。
そうなると後北条氏が期待した通り補給の問題が浮上してくるが、秀吉は兵糧に関しても全国から
米を供出させ、難なく解決。それどころか、京・大坂で米を換金し、駿府周辺でその米を買い戻す…
といった事までも行い、西国から小田原へ通じる通商街道は“小田原特需”に沸騰し豊臣政権の
商業政策にまで貢献させている。もはや秀吉にとって、小田原征伐は単なる戦いではなく政略の
一環というスケールの大きさにまで発展していた。後北条方が「各地の戦闘で豊臣軍を分裂」という
ミクロ的戦術であったのに対し、豊臣方は「全国的内政の一環としての戦闘」という“マクロ的視野”に
基いた戦争開始だったのである。
さて1590年春に出陣した豊臣軍は東海道を東へ向かい、3月終盤に箱根山中へ進撃。後北条方は
箱根の山を絶対防衛圏と策定し、街道を封鎖する目的で山中城に籠もり豊臣軍の迎撃に当たった。
険峻な箱根山塊は大軍の行動に不向きで、豊臣軍は必ず東海道を通らねばならなかったからだ。
こうして同月29日早朝より山中城で攻防戦が開始された。この城は街道制圧に効率的な縄張りで
普通の城攻めでは簡単に落ちる構造にはなっていない。実際、攻城軍先鋒を率いていた豊臣方の
部将・一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)は開戦直後に討死している。しかし、天下統一を目前に
控えた豊臣軍は、もはや出血など厭わぬ覚悟で3万5000人という大量の兵員と火器をこの戦いに投入。
たった1つの前線城郭を攻略するのに、この人員は桁外れの多さである。恐るべき物量戦では
さしもの山中城と言えど一蹴されてしまい、戦いはわずか半日で終了、城は陥落してしまった。
この報に恐れを為したか、上野国西端で同じように東山道から来る豊臣軍の防勢に当たるはずだった
松井田城(群馬県碓氷郡松井田町)の守将・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は、後北条家
創業以来の譜代重臣という家柄にも係らず、前田利家に降伏した後は豊臣軍の道案内を買って出る。
当初の目論見を外し、後北条方は箱根や碓氷峠で豊臣軍の侵入を許し、しかも豊臣方の兵站線は
途切れる気配がなかった。天下統一に王手をかけた秀吉は、後北条氏の予測を遥かに上回る
軍事動員力を見せつけて進撃し“怒涛の電撃戦”を現出させたのである。

★この時代の城郭 ――― 北条流築城術
全国の大名ごとに得意な築城法があった中、武田流築城術と双璧を為す最高レベルの築城法と
評価されるのが北条流築城術だ。武田流が広大な曲輪を築き、その外を円弧を基調とした堀や
土塁で遮断し、特に虎口は丸馬出しで防備した築城法であったのに対し、北条流は曲輪と曲輪の
相互補完性を重視し、縄張りは主に直線で形取られる事が多い。無論、馬出しは角馬出しだ。
曲輪ごとの連接を重視するのであれば、単体の曲輪は必ずしも大きく取る必要はない。
という事は、築城の立地に制約される事が少なく、小さな城でも大きな城でも状況に応じて
作り分けられるのである。勿論、大きな曲輪で戦力を集中運用するという事例もある。
これが北条流築城術の利点で、例えば険峻な山頂部に物見の砦を作るような場合でも、
平野部に大掛かりな拠点城郭を作る場合でも、その築城思想は共通する事ができる。
また、円を基本とした武田流の城は確かに投射兵器の射界を平均化し死角を減らす事になるが
実際、土地の活用や建物の構築において丸い敷地というのは使いにくいものであり、それ自体で
無駄が多く効率的とは言えない。簡単な話、現代でも丸い建物や丸い敷地の家など皆無で
普通は(多少の歪みはあろうが)四角く形取られた土地に四角い平面の建物を建てるものだ。
丸い土地・建物はデッドスペースが多すぎて不経済なのである。この意味で、北条流の直線的
縄張りは理に適っている。射界の有効性を確保するには、別に円でなくとも曲輪の端部を凸凹に
屈曲させれば可能な事なので、直線でも何ら不都合は無いのだ。射界確保のためのこうした
屈曲は「横矢掛かり」と呼び、中世武家居館にも用いられていた技法であるが、北条流築城術は
大規模な火砲使用をも考慮した形状となっており、攻撃力の高さを物語っている。
加えて角馬出しは、そうした火砲戦術に特化させた構築物。城の攻防で最も激烈な場所は曲輪の
出入口、つまり虎口であるが、その虎口を独立する火砲陣地とした“橋頭堡”が馬出し。
これを武田流の円形ではなく角型にした北条流は、小さな陣地である馬出しすらも上記した
「曲輪の相互補完性」「直線による敷地の有効化」の概念に連動させている事になろう。
北条氏の城は「曲輪単独での攻防」「城全体での兵力運用」の両方に意を配った“総合的要塞”に
仕上がっているのである。
山中城跡山中城跡(静岡県三島市)
それ以上に、北条流築城術の特徴となるのが畝堀(または障子堀)の活用だ。
空堀の底面を単なる平地にせず、堀の中で更に小さな土提(畝)をいくつも作り、堀内を細かく
仕切る技法を畝堀(畝とは田んぼの畦(あぜ)の事)と言い、横方向だけでなく縦方向にも
畝を重ねてさながら障子のような区画にしたものを障子堀と言う。こうした畝堀・障子堀は
他大名の築城で用いられる事は極めて少なく、まさに北条流ならではの構造とされている。
上の写真にあるのが障子堀であるが、これを多用するのもやはり火砲戦術に密接な関係がある。
一般に、関東以東では石垣の材料となる巨石の産出が少ないため、城郭は主に土塁で
防備されると言われる。しかし土塁は比較的緩傾斜にならざるを得ず、強度の面から考えても
塁の上面いっぱいに大掛かりな重量建築物を築く事が出来ない。言わば、織豊系城郭と
対極を為す構造にならざるを得ないのだ。となると、射撃砲座となる櫓や塀の構築には
一定の限界があり、土塁法面の傾斜角と併せると堀底に死角を生じることになってしまう。
しかし、火器が戦闘の主流となってきた時代にそれを座視してしまっていては、城の防備が
不十分になってしまう。これを解消する仕掛けが畝堀・障子堀なのだ。
堀底が平面の場合、敵兵がそこに落ちたとしても射撃の死角に逃げ込めば銃撃されずに済む。
しかし堀内に更なる障害となる畝があるならば、敵兵の行動は大きく阻害され、射撃の
死角に逃げ込むことが出来ない。むしろ、畝の間の小区画に嵌った敵は格好の的となり
簡単に撃ち取ることが可能だ。このような“アリ地獄”的な構造が畝堀・障子堀である。
箱根山塊の中、東海道を塞ぐ位置に構築された山中城は豊臣軍来攻に備えて強化され
こうした北条流築城術の粋を凝らした仕掛けで防備されていた。城の南部に長く延びる
岱崎(たいざき)出丸は東海道を側面から射撃するために築かれ、この弾幕を突破して
城に辿り着くのは至難の業である。ではそれを迂回して別方向から城攻めをしようとすると
城の西側に巨大な角馬出しを備えた西ノ丸が控えており、これまた攻略は困難。何より
南の岱崎出丸と西ノ丸は連携し、その間に入り込む敵(そうならざるを得ない縄張りなのだ)を
挟み撃ちできる構造を採っている。しかもこれらの曲輪や角馬出しは畝堀・障子堀で厳重に
囲まれており、敵兵の侵入を制限するようになっていた。数ある北条氏の城郭のうちでも
最も重防備な城と言えるのがこの山中城であったが、しかし秀吉は兵数にものを言わせ
岱崎出丸と西ノ丸を同時包囲攻撃するという荒業で蹂躙、落城に至らしめた。
一言で「半日で落ちた」と聞くと山中城が役立たずであったかのように思えるが、実際は
北条氏自慢の要塞であった訳だし、それを上回る非常識な戦法による攻略での落城という
実に複雑な事情を有した戦闘が展開されていたのである。


秀吉の着陣 〜 石垣山一夜城の構築
さて、山中城を突破した豊臣軍は小田原方面に進撃すると共に、側面を脅かす事になる伊豆の
韮山城を攻略する手筈も整えた。ところが後北条氏の拠点城郭である韮山城は山中城のように
簡単には落ちず、攻城は長期化していく。その他、後北条領内の各地で起こる籠城戦において、
即座に陥落する所もあれば韮山城のように堅く守る場所もあり、秀吉の物量作戦が100%成功を
収めた訳ではなかった。後北条氏の足止め作戦が一定の成果を収めたとも言えよう。
しかし、今まで奇想天外な攻城作戦を発想してきた秀吉の事、多少手こずろうともそれで計画が
頓挫するわけでもない。4月6日に小田原の手前、箱根早雲寺に着陣した彼はここで小田原を
包囲する作戦を指示し、小田原城の締め上げにとりかかった。後北条氏は小田原城での籠城に
絶対の自信を持ち、しかも大外郭を構築して力攻めも防ぎきるつもりでいたのだが、秀吉は
それを凌駕する包囲攻めを計画していたのだ。これに基づき、攻城軍は小田原の町全体を
びっしりと取り囲み、小田原城をじりじりと孤立化させていく。その際たるものが石垣山一夜城の
構築であった。
後北条氏家臣の中でも筆頭格に位置する譜代の重臣・松田憲秀(まつだのりひで)は、表面上で
豊臣軍との徹底抗戦を主張していながら、裏では豊臣家の将・堀秀政を通じて秀吉に内応を約束。
事もあろうに「小田原の南西に位置する笠懸山からは小田原城の中が見通せる」と、小田原城の
弱点を暴露してしまう。この報に接した秀吉は笠懸山に陣を敷いたのだが、ただ単に早雲寺から
移動しただけではなかった。笠懸山から小田原城が見えるのならば、小田原城からも笠懸山が
見えるはず。そこに城を築けば、後北条氏に対して「秀吉の攻城は信玄・謙信よりも大掛かりだ」と
焦燥感を与え、小田原城の包囲が一時的なものではなく恒久的に続くと知らしめる事になる。
そう考えた彼は、笠懸山に築城を開始。しかも後北条氏に強烈なインパクトを与えるために
極秘で工事を進め、体裁が整った所で周囲の樹木を伐採し、あたかも一夜にして城を築いたかの
様に見せかけたのだ。加えてその城は総石垣造りの強固な構造。単なる簡易な陣城ではなく、
石垣を用いる事で「秀吉がいつまでも居座り続ける」事を印象付けたのである。こうしてできた
笠懸山の城は、いつしか石垣山一夜城と呼ばれるようになった。

★この時代の城郭 ――― 石垣山一夜城
“一夜城”と言うが、実際の工期はおよそ80日ほどかかったらしい。しかも秀吉は、城の姿を
出現させる時にまだ工事中だった建築物には白紙を貼り付けて壁に見せかけたと言う。
なにぶん急拵えの陣城であるし、小田原城に見せつける為の戦略であるから仕方が無い。
しかし完成した城の姿は、陣城と呼ぶには余りある壮大な本格城郭になっていた。
総石垣造りであった上、本丸の頂部には5重の天守まで築かれていた程である。
上に記した通り、石材に乏しい関東では土の城が主流であり、石垣を城郭に用いるのは
この時点ではまだ殆ど例が無い。いわんや天守という存在、関東では皆無といっても良い程だ。
こんな城がある日突然、目の前に現れては小田原城内の兵もさぞかし驚いた事だろう。
しかも籠城中の城の中を見透かす位置、即ち自分よりも遥かに高い所に築かれて
しまったのである。籠城戦としては致命的なダメージだ。
一方、その一夜城の中では何が行われていたかと言うと、何と一大慰安大会であった。
秀吉は京・大坂から能楽師・猿楽師といった芸能者や、千利休などの茶人を招き
連日に渡り興行や茶会を開催し、遠征している兵や武将らの慰撫に気を配っていた。
普通、長期の遠征をする兵士と言うもの、何かと気が立って要らぬ争いを起こしたり
厭戦気分が蔓延して怠惰になる、あるいは逃亡するという問題が発生しがちであるが
秀吉は抜かりなく、“楽しい攻城戦”を演出したのである。後北条氏が狙った
“豊臣軍の内部崩壊”は、この奇抜な作戦(?)によって一蹴されてしまった。
付け加えれば、秀吉はこの城に側室の淀殿まで呼び寄せた。北ノ庄城の落城後、
好むと好まざるとに関わらず“権力者の側室”とな(らざるを得なか)った茶々は
厚遇する秀吉に淀城を与えられ、いつしか淀殿と呼ばれるようになっていた。
さらに小田原征伐の始まる前年、1589年の5月27日にはそれまで全く実子のできなかった
秀吉の子、しかも男子を産む快挙まで為している。この子は“捨て子は育つ”という慣わしから
棄丸(すてまる)と名付けられ、後に縁起を担いで鶴松と呼ばれるようになる。
今まで子のできなかった秀吉に突然降って湧いたような嫡男誕生とあって、
本当に秀吉の子か疑問視する説もよく聞かれるが、ともあれ、念願の男子を産んだ功績に
狂喜した秀吉は数ある側室の中でも特に淀殿を贔屓にしここ一夜城へ招き、
“小田原城を落とす瞬間”を見せようとしたのである。
宇喜多秀家配下の将で剛毅一徹を旨とした花房職秀(はなぶさもとひで)という人物は
陣中で遊興に耽る秀吉を見かね、堂々と罵倒したというエピソードが残っているが、
それほどまでに“余裕を見せつける”事こそ、天下統一の仕上げに相応しいものであり
天下人の在るべき姿だと秀吉は考えていたのだろう。とりあえず、秀吉の“演出装置”となった
石垣山一夜城は「史上最大の陣城」として天下に名を残す事となった。
石垣山城(神奈川県小田原市)
石垣山城(神奈川県小田原市)

写真は井戸跡。現在もわずかに湧水が出る。
小田原合戦の折はこの水を使って茶を点てたり
淀殿の化粧に用いたと言われている。
城外の小田原に見せつける訳でもない
城内奥地のこの井戸にまで石垣を組み上げ、
秀吉がいかに石垣山城の構築を万全なものに
しようとしていたかが垣間見える。
城内各所を頑強に築く事で耐久性を上げ
後北条氏が降伏するまで、何年でも
小田原城を包囲するつもりだったのだ。


秀吉の陣中外交 〜 奥州諸侯、次々と参集
巨大な陣城を構え、優雅な長期戦に入った秀吉。しかしその狙いは、小田原城の降伏だけでは
なかった。先に記した通り、この戦いを天下統一への最終仕上げにしようとした秀吉は
配下大名のみならず奥州諸大名にも小田原参陣を命じており、石垣山での包囲戦を待つと共に
これら諸勢力の動向を見極めようとしていたのである。彼らが秀吉の命に従い小田原に現れ
豊臣政権に服従する意思があるかないか、それは合戦後の政局に大きな影響を及ぼすからだ。
そんな中、奥州の勢力として真っ先に小田原へやって来たのは戸沢盛安(とざわもりやす)
あったとされている。戸沢氏は出羽角館の小豪族。南部・秋田・津軽といった大勢力の狭間で
かろうじて生き延びている弱小勢力の一家であった。しかし盛安は武略に優れた名将で、これら
列強の干渉をものともせず戦う勇猛さは“鬼夜叉九郎”とあだ名されたほど。今回、秀吉の
参陣命令にいち早く従ったのは、戸沢家の存在を認めてもらい、中央政権の公認を受けて
南部氏や秋田氏の侵食を阻止しようという政治的意図があったからである。戸沢氏に限らず、
北関東や奥羽の小勢力はその周囲の大勢力に脅かされ家の存在が危ぶまれるものが数限りなく、
秀吉が天下統一を確定する際に傘下へ加わり、領土と家名の安泰を図ろうとしていた家ばかり。
後北条氏のような大勢力にとって、豊臣政権は邪魔なライバルでしかなかったのだろうが、
そうした大勢力に振り回される小勢力から見れば、中央政権が安定策を講じ介入する事は
待ちに待った事態だったのである。盛安に続き奥州の諸勢力は続々と小田原へ集まり、こぞって
秀吉との誼を通じようとした。遥か出羽から小田原まで遠征し秀吉の後援を受ける大任に疲れたのか、
その盛安は何と秀吉との謁見後にわかに病を発し、25歳という若さでそのまま小田原にて病没して
しまうのだが、奥州屈指の勇将が率先して豊臣政権に従おうとした態度と儚い末路に感化され、
秀吉は戸沢家の領土を安堵し、盛安の嫡男でわずか8歳の戸沢政盛(まさもり)を引き立てた。
命を賭した盛安の行動は、見事に実を結んだのである。
さて、秀吉の公認を受けようとしたのは何も小勢力だけではない。時流を読み、近世大名への
脱皮を図る大大名も小田原へ使者を使わせていた。出羽の最上氏・秋田氏、陸奥の津軽氏
それに南部氏といった面々だ。この中で書き記さねばならないのはそう、互いに怨み合う
津軽氏と南部氏であろう。津軽為信、南部信直は共に秀吉と誼を通じ、領土の安堵を受けようと
早々に使者を派遣した。狙いは勿論、津軽地方における相手の領有権を放棄させる事だ。
然るに、秀吉と先に会うことができたのは―――津軽氏の使者であった。津軽側は自らの
独立劇を南部氏からの自衛と主張し、その戦いで奥州惣無事令に反した事も南部側から身を守る
やむを得ぬ事情だと釈明、更に近衛家との関係を強調して寛大な処置を求めたのである。
(為信は祖父を五摂家である近衛家の出自と称し、秀吉は関白就任で同じく近衛家に入っている)
この言を聞き入れた秀吉は津軽氏を正式に大名として認め、津軽地方の領有権を認めた。
その使者の次に秀吉と会ったのが南部氏の使者であった。南部側も津軽の領有権を主張、
為信が謀略で領土を奪い取ったと申し出たが、時既に遅し。秀吉は南部家を豊臣政権に迎え入れ
太平洋側の領土保持を認めたものの、津軽地方は津軽氏に与えるとしたのであった。
拝謁の順番が逆であったなら歴史は大きく変わっていたのかもしれない。為信の強運、恐るべし。

政宗の参陣(1) 〜 独眼竜、実母・伯父に命を狙われる!
一方、秀吉の命に従わず小田原へ行く事を拒む者たちもいた。旧来の家名を重んじ、新興勢力に
過ぎない豊臣家を軽視した大崎氏や葛西氏などの旧門閥、蘆名氏滅亡後は去就の定まらなかった
石川氏や白川氏、そして後北条氏と連携し、豊臣系大名・佐竹氏の挟撃を画策した伊達政宗である。
とは言え政宗も名将、ここが運命の分かれ道である事は十分に認識していた。断固として参陣を
拒否し来るべき豊臣軍との一戦に備えるか、それともここで引いて恭順の意を示すか。いや、
恭順したとしても、摺上原合戦は奥州惣無事令に背く戦いであり、秀吉に許される保障は無い。
逡巡する政宗に対し、若き家臣団は抗戦を主張する。戦ってこそ武士、同盟者である後北条氏を
見捨てるのは恥ずべき事だと。しかし主戦論が大勢を占める中、ただ一人小田原行きを主張する
者がいた。伊達家の参謀総長、片倉景綱である。曰く、今ここで戦っても勝ち目は無く、伊達家は
滅亡するに違いない。政宗が由緒ある伊達の家を潰す失策を犯すのなら、父祖に顔向けできぬ
不孝であり、それを家臣が勧めるのは不忠の極みである。小田原に向かい秀吉と融和を果たし
伊達家を末代まで栄えさせる事こそ、今執るべき道であろう。この意見に覚悟を決めた政宗は
4月6日に黒川城を発ち小田原へ向かう予定としたのだった。
ところが、心中密かにこれを快く思わぬ人物がいた。政宗の実母、義姫である。出産以来、
政宗を嫌い続けた彼女は、政宗が小田原で秀吉と会見し勢力を強化する事を恐れた。
それと言うのも、溺愛する次男・小次郎を何とか伊達家の当主に据えたいと願っていたからだ。
蘆名家後嗣の道を絶たれ、今また伊達家での地位も確定してしまっては小次郎の未来が無い。
悩む彼女は兄・最上義光に相談する(伊達家中より実家を頼るあたり、義姫が独自の価値観で
直情的に動く人物である事を如実に表している)。話を聞いた義光は(これまた、義姫は伊達家の
機密を平気で最上家にバラしている事になる)、恐るべき提案を行った。そんなに政宗が邪魔ならば、
いっその事殺してしまえと。今まで敵対者を抹殺してきた義光ならではの考え方と言えるが、
つまりは蘆名領を併呑して巨大勢力となった政宗は最上家にとって危険な存在であり、妹を唆して
暗殺が成功すれば義光の安泰に繋がるという実利に基いた策略、全ては義光自身の損得勘定に
繋がった提案なのだった。仮に失敗したとして、義光は何も損する事はない。成功すれば、混乱に
乗じて伊達家を乗っ取る事すら可能だ。この謀将は、実の妹や甥までも自分の野望を達成する為の
捨て石にするつもりであった。そんな義光の心中は露知らず、兄の言葉を鵜呑みにした義姫は―――。

政宗の参陣(2) 〜 政宗、御家騒動を絶ち秀吉と対決
政宗が黒川城を発つ前日の晩、義姫は武運長久の宴と称して政宗を接待した。手料理でもてなし
久方ぶりに親子水入らずで話をしようとする義姫に、政宗は初めて母の温もりを感じたに違いない。
ところがその矢先、政宗は身体の異常に気付いた。何と料理には毒が盛られ、政宗は命の危機に
陥ったのである。すぐに手当てを受けかろうじて一命は取り留めたものの、もはや政宗に憂慮は
許されなかった。かねてより政宗の執政を否定し、今回毒殺まで企んだ義姫。このまま母を
放置していては、伊達家を崩壊に至らしめる事が明らかだ。それと言うのも、義姫が弟の小次郎を
溺愛する事が元凶である。されど、いくら暗殺を試みたとて実母を処罰する事は親子の道理に反す。
となれば、政宗が取るべき道は一つ。争いの種になる小次郎を亡き者にする事であった。
政宗はその夜のうちに小次郎を死罪にし、母を最上家へ追放。父・輝宗を失った政宗は、今また
弟を自ら手にかけ、母との縁を切らねばならぬ悲劇に遭遇したのである。独眼竜の戦いは、常に
孤独であった。なお、山形に落ち延びた義姫は仏門に帰し保春院(ほしゅんいん)と称した。
この騒動により、当然政宗の小田原行きは延期となった。対する秀吉は、そんな事情を知ってか
知らずか、まだ来ぬ政宗に苛立っていく。大崎・葛西のような“名前だけの実力者”ならともかく、
若さと猛々しさで南奥州を平らげた“本物の実力者”である政宗を屈服させる事は、小田原城を
落とす事と同じ位の重要さを持っていたのだ。待たせに待たせた挙句、ようやく政宗が小田原に
到着したのは6月5日。当初の予定よりも2ヶ月近く遅れた大遅刻である。当然、秀吉は怒り狂って
いる事が予想される。それでなくとも、摺上原で合戦に及び秀吉の惣無事令を破っているのだから
果たして許しが請えるとは思えない。この苦境を脱するには、秀吉の度肝を抜く策が必要だ。
そこで政宗は秀吉に会う際、死装束で参上する。もはや命は無いものと覚悟し、煮るなり焼くなり
秀吉の好きにしてくれ、という意思表示だ。その神妙さ、そして奇抜さ、さらに独眼竜と称される
若武者の威丈夫ぶりに衝撃を受けた秀吉は、もはや笑って許すしかなかった。後北条氏を倒した後
それでもなお立ち塞がる壁となり得る危険性があった伊達氏が屈服したのだから、秀吉としては
それだけで満足だったのかもしれない。これで小田原城の陥落よりも先に、豊臣政権は奥州の
平定をほぼ完成させた事になる。斯くして政宗は命拾いし、伊達家の取り潰しは免れた。

小田原開城 〜 悪名高き“小田原評定”の果てに
力攻めこそして来なかったが、豊臣軍によって小田原の町は完全包囲され、見上げる笠懸山には
見た事も無い巨城まで築かれた。そうしている間に関東各地で籠城し続ける後北条氏の城は
一つまた一つと落ちて行き、奥州諸勢力までもが秀吉になびいていく。政宗が服従した事で
後北条氏の支援者はいなくなり、もはや小田原に勝機は無くなった。事ここに至り、小田原城内は
決断を迫られる。このまま籠城を続けるか、諦めて城を開くかの二者択一だ。
もともと、後北条氏の中では主戦派と非戦派が居た。隠居したとは言え隠然たる勢力を持っていた
前当主・北条氏政や、武田信玄とも渡り合った武闘の将・北条氏照などは抗戦を叫び、その一方
氏政から家督を譲られた5代目・北条氏直(うじなお)や、今川家人質時代から家康と親交の
あった北条氏規(うじのり)らは上方情勢に良く通じており、豊臣家と争う事を愚と知っていた。
また、家臣の中でも意見が分かれ、先に記した松田憲秀は戦いを主張しながら寝返りを企む始末。
(結局この寝返りは阻止され、実現しなかった)こうして家中は混乱を極め、北条氏自慢の
官僚合議も結論は出せず、いたずらに時を経るばかり。この悪例から、答えの出ない無駄な議論を
「小田原評定」という言葉で例えるようになったほどだ。兵糧の備蓄はまだ十分あり、大外郭まで
備えた小田原城ならば交戦にも耐える自信も残っていたが、豊臣軍に撤退する意思は無く
このまま時間を費やすだけでは、籠城する意味がない。最終的に、継戦を叫ぶ父・氏政を抑え
若き当主・氏直が降伏を決断。7月5日に小田原城は開城し、3ヶ月以上に渡る戦いは終わった。
秀吉の処遇により、戦いを望んだ氏政・氏照は切腹。和平にこぎつけた氏直は高野山へ追放となり
5代96年に及ぶ後北条氏の関東支配はここに終焉を迎えた。また、主家を裏切った家臣
松田憲秀や大道寺政繁らも腹を切らされる事になる。唯一、後北条氏の体面を守ったのは
秀吉との外交を担当し、小田原城の中で和平を主張し続けていた北条氏規。彼もまた高野山へ
蟄居するも後に許されて、江戸時代に河内狭山藩の祖となった。
小田原城の開城、後北条氏の降伏により、晴れて秀吉の天下統一が完成した事になる。
残る課題は平定した全国の領土を、豊臣政権がどのように運営していくかであった。

★この時代の城郭 ――― 小田原城大外郭と忍城攻防戦
秀吉の圧力に屈したとは言え、最後まで攻め落とされる事はなかった小田原城。
その強さは“総構え”と呼ばれる大外郭の存在による。従来から強固な守りを固めていた
小田原城の本体を増強すべく築かれたこの大外郭は、城どころか小田原の町そのものを
完全に囲繞する巨大な土塁で、外周9km(屈曲線を計測すると総延長12km)にも及ぶ
前代未聞の構築物である。さしもの豊臣軍も、この中に侵攻する事はできず
小田原の町は戦争中にも拘らず平穏な状態が続き、籠城中でも市が立ったという。
史上最大の城郭となった小田原城は、名実共に戦国最強の城郭であった。
果ての見えない籠城継続と異常な物流作戦に屈し、最終的には開城するに至ったが
総構えの防御性能に驚いた秀吉は、小田原戦役以後に大坂城や京都聚楽第にも
小田原同様の総構えを構築した。後北条氏は滅びたが、その城郭理論は
天下人の城に継承されたのである。
さて、後北条氏の支城は次々と陥落していたが、小田原本城が開城した後も
唯一、頑強な抵抗を続けて生き残っていたのが武蔵国の忍(おし)城であった。
水田や沼地の広がる低湿地の中、まるで島のように曲輪が浮かぶ忍城は
“忍の水城”と呼ばれる堅城ぶりを誇り、寄せ来る敵兵を近づけなかったのだ。
小田原を包囲する豊臣軍本体から分離し、忍城の攻略を任された別働隊は、秀吉と
同じように忍城を完全包囲し、投降を呼びかける。しかしそれでも水城の特性を活かし
城兵は城を開かない。そんな籠城軍に痛撃を与えようと、攻城側は一大作戦を発動。
かつて秀吉が備中高松城を攻めた時の如く、忍城の周囲に堤防を張り水攻めに
しようとしたのだ。高松城と同じく低湿地にある忍城ならば、逆に水攻めには弱いはず。
攻城側はそう考えたのである。斯くして大掛かりな堤防が作られ、忍城は水に沈む…
事はそう簡単にはいかなかった。
強度計算を失敗したのか、水攻めの堤防は見事に決壊。
水攻めは成功せず、攻城側は意気消沈。逆に籠城側は勢い付く。
こうして延々と続いた忍城の攻防戦は、結局小田原開城後まで長引き
開城を命ずる小田原からの使者の到着によってようやく終焉したのであった。
忍城の攻略に失敗した別働隊の指揮官であったのが石田三成。
(三成自身は水攻めに否定的であったとも言われるが、失敗した事は事実)
検地などの行政に長けた官僚・三成ではあったが、この作戦頓挫により
“実戦には役に立たない頭でっかち”というレッテルが貼られてしまう。
三成が「戦下手」として人望を失った事は、この後に行われる
“天下分け目の戦い”でも悪影響を及ぼす事になるのである。






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