疾風独眼竜

秀吉は西へ西へと領土を拡大し、ついに九州まで制服した。
では他方、東国の果て・奥州はどうなっていたのだろうか。
天文の大乱以来、泥沼の紛争と政略結婚は更なる混乱と癒着を呼んでいたが
新時代の到来と共に、その乱れを切り裂く覇者が現れる。
“独眼竜”の異名をとる猛者は、韋駄天の如く南奥州を駆け
敵対者を次々と切り従えていく。奥州を平らげ、南へ、都へ、天下へ―――。
若き勇者の大戦略が今、始動する。


独眼竜の誕生 〜 “鬼義姫”、伊達家に嫁ぐ
秀吉の時代からやや遡り、信長がまだ上洛する前の頃に話は戻る。奥州伊達家16代当主・輝宗に
最上義光の妹が輿入れした。この頃の伊達氏は北に位置する最上氏のみならず、東に相馬氏、
南に二本松氏・蘆名氏など、天文の大乱以来の外敵に囲まれており、輝宗はその都度東奔西走し
これら敵勢力と戦わねばならない状況が続いていたのだ。稙宗の置き土産に悩まされる伊達氏は
最上氏と婚姻関係を結び、敵対勢力の数を減らそうとした。こうして、義光の妹・義(よし)姫
伊達家に嫁いで来たのである。ところがこの義姫、男勝りの剛毅な腕っ節の上、性格は直情的。
まわりからは“鬼義姫”と呼ばれるほどのたくましさであったという。彼女のこうした人格は
以後、伊達家に大きな波紋を呼ぶのだが、兎にも角にも1567年8月3日未明、輝宗と義姫の間に
待望の嫡男が誕生する。梵天丸(ぼんてんまる)と名付けられた赤ん坊、しかしその子は
母親である義姫に育てられる事はなかった。古来より、大名の嫡男は乳母が世話をするのが
慣わしであったからである。当然、母としての立場を失った義姫は大いに怒り、せっかく生まれた
赤ん坊を恨みの種のように扱うようになっていく。更に、5歳になった梵天丸は疱瘡(天然痘)を患い
一命は取り留めたものの右目を失ってしまう。片目を失った容貌に落胆した義姫は、ますます
息子を遠ざけるようになった。加えて、義姫には2男・竺丸(じくまる)が誕生。次子は乳母に
育てられる訳ではないため、彼女は手元に残った竺丸ばかりを溺愛し、梵天丸は更に疎まれる。
母から距離を置いて育った梵天丸、幼少の頃はそれをコンプレックスにして成長していったようだが
11歳で無事元服するに至り、名を伊達藤次郎(とうじろう)政宗と改めた。後年、独眼竜と恐れられ
漆黒の甲冑に身を固めて奥州を韋駄天の如く駆け抜ける事になる英傑・伊達政宗の誕生である。
なお、奥州伊達家にはもう一人同じ名を持つ人物が存在した。室町幕府草創期に活躍した
伊達家9代当主・政宗である。こちらの政宗は足利3代将軍・義満の信任篤く、幕府の命により度々
鎌倉公方との対戦に及んだ剛の者。伊達家中興の祖とされ、その死にあたっては将軍義満も嘆き
悲しんだという。そんな名将の名を貰った藤次郎政宗、その名に恥じぬ活躍を以下に記していこう。

政宗の家督相続 〜 新世代の家臣団、田村氏との婚姻
梵天丸を嫌った母・義姫に対し、父・輝宗は嫡男に大きな期待を寄せていたようだ。当時、伊達領に
隠棲していた高僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)を梵天丸の師範として迎え入れ、君主としての
英才教育を施すと共に、有職故実に秀でた有能な家臣・遠藤基信(えんどうもとのぶ)を養育係に
据える。更には俊英の若武者・片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)を政宗付けの
傅役として抜擢し、手足として働かせた。この景綱、後に秀吉や家康からも恐れられる智将となり
名実共に“伊達の参謀総長”として活躍する人物だ。一門衆には政宗と1歳違いの伊達成実
(だてしげざね、実元の嫡男が義弟として近侍。また、伊達家臣団中でも最も信任篤い猛将
鬼庭良直(おににわよしなお)には才気溢れる嫡男・綱元(つなもと)がおり、彼も政宗の臣に
加わった。景綱・成実・綱元は「伊達の三傑」と呼ばれる。彼ら若い世代の家臣が支える事になった
政宗は、成長を重ねる毎に大器の片鱗を見せるようになっていき、父の期待に応えていった。
さて、伊達家と同じく奥州の中で孤立していた勢力が田村氏だ。田村郡の三春を本拠とする田村氏は
北に大内氏・二本松氏、東に相馬氏・岩城氏、南に石川氏・白川氏、西に二階堂氏・蘆名氏と
周りを全て敵対勢力に囲まれていた小豪族。白川氏の南では関東の覇権を争う実力者・佐竹氏までが
奥州の情勢を睨んでおり、田村氏は風前の灯と呼べる危機にあった。当主・田村清顕(きよあき)
この難局を打開すべく、伊達氏との同盟を図る。輝宗としても、同様の状況にある中で遠交近攻の
同盟を結ぶ事は実益に適うものであったため、この申し出を受諾。清顕の娘・愛(めご)姫
政宗の正室として迎え入れられる事となった。時に政宗13歳、愛姫は11歳。幼い結婚と思うなかれ、
この頃では当たり前の事であるし、政略結婚ならば早期に強固な繋がりを作らねばならないのだ。
着々と足場を固めていく政宗は、1581年に15歳で初陣も迎え一人前の武将となった。
息子の成長を見届けた父・輝宗は1584年10月、18歳の政宗に伊達家の家督を譲り隠居する。この時、
輝宗はまだ41歳。働き盛りの壮年ではあったが、早期の家督継承により伊達家を政宗の指導体制に
移行させ、世代交代をスムーズに成し遂げる狙いがあったのだ。父の信任を受けた政宗は、
強力なリーダーシップを見せはじめ、外敵との徹底抗戦を目標に定める。武田信玄の富国強兵策と
同様な考えに基いて、この年から政宗は近隣敵勢力への猛然とした侵攻を開始した。

粟の巣の変(1) 〜 小手森城、撫で斬り800名!
政宗の苛烈な侵略は奥州を席巻する。と同時に彼は軍備増強にも努め、騎馬軍を主体にした
速度重視の軍勢を擁するのみならず、鉄砲の有効性も重視して大量保有を計画。根来・国友などの
鉄砲生産地や南蛮商人との関わりが薄い奥羽の地にあっても、それでも鉄砲を揃えようとしたのは
政宗の慧眼というべきであろうか。奥州の他勢力より抜きん出た才覚の政宗が目指すのは
“韋駄天の伊達”にして火砲も装備する「最強軍備の機動部隊」であった。血脈に縛られた奥州の
旧体制を打ち砕く彼の戦略は周辺諸氏を驚愕と恐怖に陥れ、あるものは服属し、あるものは反発した。
そんな中、伊達領と田村領を分断する形で領土を有する大内定綱は、1585年の正月に年賀の挨拶を
兼ねて政宗の家督相続を祝賀するとして米沢を来訪、ここで伊達家への服属を表明した。戦わずして
伊達・田村連合の安泰を勝ち取れると見た政宗はこれを歓迎、定綱に米沢定住を命ずる。しかし定綱は
いったん自領に戻り移転の準備をした後、改めて家族共々米沢に移りたいと申し出る。政宗はその
訴えを認め、定綱が米沢を再訪すると信じて帰参を許した。ところが帰った定綱は音信不通に…。
催促の使者を送った政宗に対する返答は「やはり伊達には服従できぬ」との事。定綱が態度を
翻したのは、若輩の政宗を侮ったか、あるいは相馬・蘆名など“反伊達勢力”が優勢と見たためか
原因は定かではない。ともあれ、家督継承早々定綱に面目を潰された政宗は激怒し、大内領侵攻を
決定。怒涛の進撃を行い、伊達軍に攻められた大内方支城の安達小手森城では城中に居たものが
男女問わず800余名全て撫で斬りにされた。よもや伊達軍がこれほどまでに凄惨な攻撃をしてくるとは
思っていなかったのか、政宗の侵略に恐怖した定綱は、かねてより交誼のあった二本松城主である
二本松(畠山)義継に助けを求めた。当然、政宗はこれを追撃し二本松領にも侵攻する。
二本松氏も伊達氏と敵対する勢力であり、政宗としては一挙に大内・二本松の両氏を倒そうという
目論見だったのであろう。若き政宗の連続攻撃はそれを成し遂げるだけの勢いがあった。
一方、にわかに戦わざるを得なくなった義継は防戦するも、烈火の如く怒った政宗の進撃を
食い止めるのは不可能であった。恐慌を来たした義継、最後のあがきで政宗の父・輝宗に
和睦の斡旋を依頼する。実は輝宗、かつて相馬氏と戦った折に義継から助力を得た事があり、
いわば“借りがある”状態だったのだ。これを受けた輝宗は政宗に停戦を呼び掛ける。

粟の巣の変(2) 〜 政宗、“悲情”の銃殺行
隠居したとは言え父親からの話を無下に断る訳にもいかず、政宗は止む無く二本松領から兵を
引いたが、しかしその代わりに義継へ過酷な和平条件を提示した。曰く「二本松家の領地は中央部の
5ヶ村にのみ減封し、それ以外の南北の領土は全て伊達家へと割譲。加えて義継の嫡男・梅王丸
伊達家へと人質に出すべし」という内容であった。これでは二本松家の存続は成り立たない。
義継はなおも輝宗に取り成しを頼むが、輝宗としても若さに猛る政宗をこれ以上なだめるのは
無理である。仕方なく義継はこの和平条件を受諾、10月8日に輝宗の居城・宮森城を訪れ和平会談に
及んだ。ところがこの席上、逆上した義継は輝宗に刀を突きつけて拉致し、人質にしようとする
暴挙に出たのである。従者と輝宗を引きつれ自領へ逃げ込もうとする義継に対し、輝宗の家臣は
手出しすることが出来ぬまま後を追いかけるのみ。鷹狩の途中で急報を受けた政宗も兵をかき集め
義継に追いついたが、父を人質に捕られていては為す術もなかった。伊達勢に追われつつも
逃亡を目論む義継、ついには領土の境である阿武隈川の畔までやってくる。川を渡れば二本松領、
政宗は手出しできなくなってしまうのだ。自分が足手まといとなっている事に責任を感じた輝宗は、
河原で踏みとどまり政宗に叫んだ。「我に構わず義継を撃て」と。しかし、ここで発砲すれば
輝宗にも弾が当たるのは確実、なおも政宗は躊躇する。悩む息子に輝宗は更に叫び決断を促した。
「ここでためろうて後に禍根を残す事なかれ!そなたは伊達家の棟梁ぞ!!」この言葉で覚悟を決めた
政宗は、配下の兵士に発砲を命じた。驚いたのは義継である。よもや政宗が、信頼する父もろとも
自分に撃ちかけてくるとは思っていなかったからだ。万事休した義継はその場で輝宗を刺し殺し
自身も果てた。この事変を粟の巣の変と言い、伊達親子を襲った悲劇として有名である。
怒り狂った政宗は義継の遺骸を磔にし、輝宗の葬儀を終えた直後の同月15日に二本松領への
全面侵攻に踏み切った。しかし二本松城は堅城、簡単に落ちずに南奥州は政情不安が続く。
父の弔い合戦に執念を燃やす政宗に対し、一方の二本松でも防戦に努め、同盟諸勢力への援軍を
求めた。二本松氏の呼び掛けに応じた勢力は膨れ上がり、奥州の南・常陸国の佐竹氏にまで及ぶ。
大内定綱の裏切りから発展した火種は、遥か南の関東までも巻き込む大乱へと発展しつつあった。

人取橋の合戦 〜 政宗「生涯で最も心胆寒からしめた」戦い
以前記したが、南から小田原後北条氏が北上して領土を拡大しつつあった関東において、弱小の
諸勢力が次々と降伏していく中、常陸国の佐竹氏はこれと拮抗する勢力を持ち、後北条氏との熾烈な
攻防を繰り広げていた。当主・佐竹義重としては南の後北条氏に備えるため、後背地である奥州が
動揺するのは好ましくない。ところが昨今、伊達家に政宗が登場してからというもの、血脈によって
弱小豪族も生き永らえていた“古き秩序”による安定が崩壊し、一気に泥沼の抗争が顕在化した。
南の後北条氏だけでなく、北の奥州情勢にも警戒せざるを得なくなった佐竹氏は、何とか政宗を黙らせ
奥州の騒乱が関東へ波及しないための対策を迫られた。このため、今回の二本松氏救援を契機とし
戦闘の沈静化ならびに佐竹氏の東北への影響力拡大を狙って介入する事を決断。大軍を派遣して
伊達家を叩く作戦を展開するに至った。他の反伊達勢力も同様に“自らの権益を保持するため”
政宗潰しの軍を発する。斯くして、佐竹氏を筆頭に蘆名氏・石川氏・岩城氏・白川氏・二階堂氏らが
結集、総勢3万にもなる軍勢で二本松氏の支援に回った。一方、孤立した政宗の軍勢はわずか8000。
圧倒的劣勢であるが、引くに引けない政宗は臆する事無く対決に及び、1585年11月17日に両軍は
阿武隈川の支流である瀬戸川に架かる人取橋(ひととりばし)を挟んで激突する。政宗は敵の大軍を
狭い橋の上に誘い込んで叩く作戦を練ったのだが、それでも多勢に無勢、伊達軍はじりじりと
連合軍に圧されていく。遂には総大将たる政宗自らが槍を振るい防戦に努めたが敗色は濃厚で、
何とか彼を逃がすべく、伊達家最強の老将・鬼庭左月斎良直が命と引き換えに殿軍を引き受けて特攻、
辛くも落ち延びる事ができた。良直が戦死した頃、日没の時刻となり両軍ともに一時撤兵。
が、もはや伊達軍に勝機は消え失せ、明朝陽が昇り連合軍が再来すれば全滅する危険性さえあった。
後年、自らの人生を振り返った政宗はこの夜の事を「生涯で最も心胆寒からしめた」と回想した程に
絶望的な一夜だったのだ。しかし天運は彼に味方した。もはや勝利が確定的となった連合軍の陣中で
盟主・義重の叔父にあたる小野崎(佐竹)義政が何者かに暗殺される事件が発生、浮き足立つ中で
さらに佐竹氏の本国・常陸国で謀反の動きがあるという一報がもたらされたのだ。これら突発的事件は
裏で政宗の謀略工作があったと想像するに難くない。取り乱した連合軍諸将はもはや伊達軍追撃の
意欲を失い、その晩のうちに解散しそれぞれの領国へ帰ってしまった。もともと、この連合軍は
“自らの権益”の為に集まったメンバーであるから、政宗の裏工作でその権益が危うくなりそうならば
戦いなど二の次で帰国するのも当然と言えよう。ともあれ、戦いでは大敗しながらも連合軍を
撤退させた政宗はギリギリの所で最大の危機を脱した。この戦いを人取橋の戦いと言う。

蘆名氏後嗣問題 〜 小次郎vs義広
父・輝宗を失い、合戦に大敗した政宗に対し、母・義姫の怒りは爆発。やはり政宗に当主の器量なしと
いぶかり、このままでは家中に無用な混乱を生じる危険性すら案じられた。この難局を乗り越えるべく
今度は外交戦術で巻き返しを図ろうとする政宗。丁度そんな折、隣国の蘆名家で大問題が発生した。
遡って1575年に蘆名盛興が早世した事は先に記したが、しばらくは盛興の父・盛氏が家督を代行するも
後に二階堂氏から盛隆(もりたか)を養子に迎え入れ、蘆名家の当主に据えた。盛興の未亡人を盛隆に
再婚させる形で成立したこの家督交代劇、実は盛興の母・盛隆の母・そして盛興/盛隆夫人の全てが
伊達家出身の女性という血縁があった事で結び付けられたものであった。ところが盛隆も1584年10月6日
いざこざから家臣の大庭三左衛門に殺害され、盛隆遺児の亀王丸が家督を継承する。
しかしこの亀王丸、生後わずか1ヶ月の幼児。当然、政務の能力などあるはずがない上、その亀王丸も
人取橋合戦の1年後、1586年11月21日に3歳の幼さで夭逝してしまった。ここに蘆名家当主は空位となり、
家名を残すには大至急、他家から養子を迎え入れなくてはならなくなったのだ。
これに政宗は注目した。弟の竺丸改め小次郎を蘆名の養子に送り込み、伊達家の配下に収めようと
計画したのだ。上に記した通り、蘆名家は伊達家と敵対する勢力ではあったが、代々縁戚関係を持ち
伊達家から人材を迎え入れる慣例は出来上がっていたため、あながち不可能な話ではなかった。
しかし同じ事を考える人物がもう1人いた。政宗の宿敵、佐竹義重である。義重は2男の義広
既に白川氏の養子に据え白川家中を掌握していたが、この義広をさらに蘆名氏へ回して家督を継がせ
白川・蘆名の両家を手中に収めんと画策したのだ。小次郎が入るか、義広が入るか、その結果如何で
会津に広大な領土を有する蘆名家は親伊達家となるか親佐竹家となるかが決まり、ひいては
南陸奥〜関東にまたがる大きな範囲での勢力地図が塗り換わる、重大な局面に来ていたのである。

蘆名氏家督問題に関連する伊達氏と佐竹氏の系図

蘆名氏家督問題に関連する伊達氏と佐竹氏の系図(赤字は女性)
―は親子関係 は養子関係 =は婚姻関係 数字は各家の家督継承順
この系図を見ればわかる通り、義広(喝食丸を参照)の母は伊達晴宗の5女であり、小次郎の父
輝宗は言うまでも無く晴宗の子。両者はいずれも晴宗の孫に当たる血統で、その晴宗の母は
蘆名家から嫁いで来た女性であるため、言わば「蘆名家曾孫同士」が家督を争う事になったのだ。
小次郎と義広、どちらが蘆名家に入るか。互いに売り込み工作をする政宗と義重であったが、
それでも小次郎にはいくつか有利な点があった。まず義広は既に白川家に入っている事。一度
他家の家督を継いでいながら、蘆名の家にまで入ってくるのは「二重の当主」を兼ねる事を意味し
蘆名家は佐竹氏のみならず、白川氏の干渉も受ける事になる。加えて、盛氏の妻や盛隆の母など、
蘆名一門には伊達家の縁者が多いのに対し、佐竹家との縁は薄い。この点で蘆名家臣団の中には
佐竹家よりも伊達家に親近感を覚えるものが多く、特に一門衆筆頭の猪苗代盛国(もりくに)
家老4家のうち3家までが小次郎擁立に傾いていた。
しかし―――結果は義広が選ばれた。その理由は、大局的に見た外交関係によるものであった。
蘆名家を挟み、伊達家と佐竹家は争っている。その佐竹氏は関東で小田原北条氏と争い、北条氏を
挟撃するために越後上杉氏と同盟している。つまり、伊達―北条の連携と、佐竹―上杉の同盟が
両家の延長線上に見えてくるのだ。そして上杉氏の先には、天下の覇者・豊臣氏が控えている。
蘆名家が佐竹家と近づけば、蘆名―佐竹―上杉―豊臣というパイプが成立し、蘆名の家は
関白・豊臣秀吉の後援を受けられると共に、蘆名領である会津の背後を領有する越後上杉氏との
同盟も成立し、隣国からの脅威を減らす事が可能になるという計算が働いた。この点を突いた
蘆名家支族の実力者・金上盛備(かながみもりはる)が義広擁立を主張し、半ば強引に
家督相続を決定してしまう。斯くして、義広は蘆名家に入り蘆名盛重(もりしげ)と改名。
同時に、佐竹家・白川家から直臣を引き連れて蘆名家中を掌握した。これにより、小次郎擁立に
積極的であった蘆名家臣は排除され、盛重派の独裁体制に移行していく。外交上、佐竹家から
後嗣を得た有効性の半面、蘆名家は家中での不和を引き起こす弊害も同時に生じさせたのだ。
小次郎の送り込みに失敗した政宗ではあったが、蘆名家中に生じた不協和音は彼に新たな戦略を
もたらす事になる。小次郎擁立による“蘆名家乗っ取り”ではなく、蘆名家臣団の分断による
“蘆名家解体”、そして奥州から佐竹義重の影響力を排除する事である。
盛重入嗣後の南奥州勢力図
盛重入嗣後の南奥州勢力図

で示したのは伊達政宗領(血縁領を含む)
で示したのは佐竹義重領
で示したのは蘆名盛重領(糾合勢力を含む)
で示したのは反伊達勢力領

二階堂家・白川家は過去の養子縁組で実質的に
蘆名家の中に取り込まれ、石川家・岩城家も
佐竹義重の影響下にある状態。政宗は、小次郎擁立に
失敗した事で大量の蘆名領獲得を逃したが、その中で
家督問題で家中の立場を失った猪苗代氏の動向は
今後の政宗に活路を与える事になる。
なお、大内定綱はこの頃伊達家に帰参。

仙道筋の攻防 〜 “韋駄天の伊達”機動展開!
天文の大乱以来の泥沼化した対立関係を清算すべく、家督相続直後から縦横に戦い始めた政宗。
父を失い、人取橋で恐怖し、佐竹氏と熾烈な駆け引きを演じ、時に苦難を味わってきたが
この頃から次第に劣勢を挽回する手筈が整ってくる。そこで最も注目されたのが軍備の充実だ。
鉄砲武装を施しつつ主力の騎馬を中核にした軍勢は奥州を俊足で駆け抜ける事が可能で、
“韋駄天の伊達”と呼ばれるに相応しい機動力と、鉄砲による破壊力を有するようになっていた。
その真価は郡山合戦で花開く。以下、時系列に沿って説明しよう。蘆名家継承に失敗した頃の
1588年2月、北方の大崎氏家中で内訌が勃発。この時、それまで伊達家に従っていた黒川氏は
大崎方の反伊達勢力と謀って政宗を裏切り、以後伊達家と争うようになる。北で起きた造反劇に
政宗は攻勢をかけるも、冬場の戦況は思わしくなく流動化。この隙を突いて相馬・蘆名・佐竹の
連合軍が仙道筋(奥州街道沿いの地域)に進出、伊達軍に攻撃をしかけてきたのだ。まず同年
閏5月、相馬氏が田村領に攻勢をかけ伊達家を揺さぶり、続いて6月、今度は須賀川から蘆名
佐竹連合軍が北侵。北と東、さらに南で敵対勢力に挟まれた政宗は窮地に陥ったが、伊達軍
自慢の機動力をフル活用し連合軍を撹乱。そして郡山で行われた合戦では600対1万という
圧倒的兵力差にも関わらず、見事に蘆名・佐竹連合を敗退せしめた。機動力にものを言わせ、
神出鬼没に軍を繰り出す事で劣勢を敵方に悟らせなかったのだ。
またこの時、蘆名軍は思わぬ弱点を政宗に曝す事となった。蘆名家臣の主流から外された
猪苗代盛国が主家に反抗、伊達に対する出兵に従わなかったのだ。このため、蘆名軍の兵力は
政宗が予想した数よりも少なくなると同時に、蘆名軍は味方であるはずの猪苗代に対して
警戒態勢をとらざるを得ず、進軍にも著しい遅滞を生じていた。佐竹軍との“力攻め”で
何とか猪苗代の不服従を表に出さず平静を装っていた蘆名軍ではあったが、政宗は見事に
これを見抜き、郡山合戦の勝利を引き出したのみならず、盛国を調略し蘆名家を瓦解させる
方向を具体化させ始める。猪苗代の去就、そして伊達軍の迅速な機動力は次なる戦いで
大いなる成果を引き出し、奥州の情勢を一変させるに至るのである。

摺上原の戦い 〜 盛重常陸に落ち蘆名家滅亡す
時節を見極めた1589年4月、政宗は蘆名家との決戦に赴いた。この月の22日、米沢を進発し
安達郡の大森城に入った伊達軍は、5月3日一気に南下し安積郡の諸城を攻略。伊達軍が動き
蘆名領を侵犯し始めた事を蘆名・佐竹に見せ付けた。勿論、これは盛重を引きずり出す囮だ。
然る後、転進した政宗は東に向かい相馬領を攻撃し始める。せっかく攻め取った安積郡を
がら空きにすれば、落とされた城を奪還しに蘆名・佐竹軍が動き出す。これを狙ったのだ。
当然、盛重は居城の黒川城(現在の会津若松城)を出陣して安積郡へと押し寄せた。しかも
猪苗代盛国を警戒し、わざわざ遠回りになる猪苗代湖南岸から迂回するルートを取って。
これこそ政宗の狙い通りの策略であった。黒川城が留守になった時を狙い、相馬から兵を返し
蘆名の本拠を陥落させ、盛重の「帰るべき場所」を無くしてしまおうという計画なのだ。
俊足を誇る現在の伊達軍ならではの一大機動作戦であった。が、老練な佐竹義重は当然
政宗の魂胆を見抜いていた。このため、佐竹軍本体は遥か南の白河に留まり、伊達軍が
どちらに動いても対応できる間合いを図る。盛重は眼前の敵に集中したが、義重は慎重さを選び
政宗はその両者を共に出し抜こうと考えていた。3者3様の思惑が交差する中、政宗はさらに
次なる計略を発動する。兼ねてから主家と対立しつつあった猪苗代盛国に声をかけ、蘆名家を
裏切り、伊達家に就くよう促したのだ。6月1日、盛国はこれに応え、盛重を見限った。
こうして猪苗代湖北岸ルートを確保した政宗は、見せかけの攻撃である相馬表から引き上げ
会津侵攻に向けて一目散に西へ動き出す。ところが3日から4日にかけて、天候は荒れ狂い
暴風雨になってしまった。ここでの政宗の決断が、今後の戦局を大きく動かすことになる。
速攻を必要とした彼は、風雨にも関わらず進軍を敢行。さながら、秀吉が中国大返しを演じた如く
騎馬軍を活かした戦略を全うしようとしたのだ。同時に、米沢に待機させていた別働隊にも
出陣を命じ、会津制圧に万全を期す。一方、白河の義重は風雨により伊達軍の動きを掴み損ね、
行軍の判断ができなかった。この時の義重の深謀が、結果として政宗を助ける事になる。
摺上原合戦前の軍事状況
摺上原合戦前の軍事状況

で示したのは伊達軍の行動
で示したのは蘆名軍の行動

機動力を活かし
西へ東へ移動する政宗の軍勢は
迎撃しようとする盛重軍を翻弄する。
この間にタイミング良く
猪苗代盛国が寝返り、
政宗の会津侵攻は条件が整った。
それを見越していた義重は
効果的反撃を熟考するも
悪天候に遮られ、
遂に政宗の位置をロストする。
義重が政宗の動きを再び確認した頃、
既に合戦は終わり、全てが決していた。
風雨をついた行軍、そして猪苗代湖北岸を掌握した政宗は迅速に移動し、6月4日には猪苗代城に
入ることができた。一方の盛重は伊達軍の狙いにようやく気づき、慌てて黒川城に引き返す。
政宗は本来、黒川城が空いているうちに乗っ取ろうと計画していたが、辛うじてそれは阻止された。
しかし実父・義重はまだ政宗の動きを把握できておらず、彼は独力で伊達勢を撃退せねばならない。
政宗にしてみれば黒川城制圧こそ逃したものの、まだ自軍優勢の状況は変わっていなかった。
となれば、佐竹軍に追いつかれる前に蘆名軍を叩き潰すのが最上の策である。それは盛重も
同じ事で、伊達軍が攻めてくるのはわかっている以上、のんびりと佐竹軍を待ってはいられない。
斯くして6月5日、猪苗代城・黒川城を出た両軍は磐梯山麓の台地・摺上原(すりあげはら)で
激突した。政宗は先鋒に猪苗代盛国を任じ第二陣の片倉景綱と共に前進させ、第三陣に勇猛な
伊達成実、第四陣には忠臣・白石宗実(しらいしむねざね)を配し、磐梯山の中腹に布陣。
伊達軍の総勢は2万3000であった。対する蘆名軍1万6000は前軍・後軍の2手に分かれ麓から
伊達軍の位置する山腹に攻め上がる。突撃する前軍は盛重と共に佐竹家から入ってきた家老
大縄義辰(おおなわよしたつ)・盛国と絶縁し蘆名家に残った猪苗代盛胤(もりたね、盛国の嫡男
それに金上盛備といった面々。家督問題の折“義広擁立派”に属したり、佐竹家から随身してきた
臣たちである。一方、後軍で控えていたのは3家老、松本図書助源兵衛富田(とみた)美作
平田周防らの軍勢。これらは“小次郎擁立派”、盛重と折り合いが悪い“親伊達派”メンバーだ。
前軍と後軍に隔絶があったものの、追い風に乗った蘆名軍は先手必勝とばかりに攻撃を開始した。
これと対峙した盛国・景綱の部隊は砂塵にまみれ閉塞してしまう。苦戦を強いられた伊達軍前衛は
何とか踏み止まるのが精一杯で、遂には盛国部隊が壊滅、景綱も総崩れ寸前にまで追い込まれた。
勢いに乗る蘆名軍前軍はそのまま突撃を敢行、伊達軍の奥深くに突っ込んでいく。たまらず政宗は
第三陣の成実に迂回攻撃を命じた。これに従って蘆名軍前軍の後ろに回りこんだ成実隊が側面攻撃を
開始。この攻撃が功を奏し、蘆名方の攻勢がストップした。実の所、深追いしすぎた蘆名軍前軍は
攻勢の限界に達していたのである。これを打開するには、後軍が追いついて第二段の攻撃をする
必要があった。しかし成実隊が蘆名軍を分断した事により、後軍は尻込みして前に進まない。
もともと後軍は伊達家と争いたくない者たちであるから、戦意も低かった。更にこの時、風向きが
変わり今度は伊達軍が追い風に乗る形となった。こうなっては蘆名軍が持ち堪えられる筈が無い。
態勢を立て直した景綱隊、それに政宗の旗本や宗実らが総攻撃に転じ、蘆名軍前軍に襲い掛かる。
義辰らは勇戦するも、そこに信じられない報が知らされた。日橋(にっぱし)川に架かる橋が
突如炎上し始めたのだ。この橋は蘆名軍の退路になる橋で、黒川城に帰るための路であった。
その橋が燃えてしまっては、もはやここで戦い続けても帰れないのである。無論、これは政宗の
破壊工作。合戦開始と同時に、黒脛巾組(くろはぎぐみ)と呼ばれる政宗直属の特殊部隊を放ち
密かに橋への放火を命じていたのだ。これに動揺した蘆名軍は戦意を喪失。しかも、この放火は
流言までも呼び込み、加勢しない後軍が裏切って火を着けた、という噂に発展。蘆名軍の中は
疑心暗鬼に陥り、もはや戦う能力を無くしてしまった。斯くして、伊達軍は蘆名軍を壊滅させ
裏切りの汚名を着せられた松本・富田・平田らは「自分は何も知らぬ」とばかりに戦わずして
戦場を離脱してしまう。結果、蘆名軍は2500もの戦死者を出すに及び、この摺上原合戦は政宗の
大勝利に終わる。全軍を失った盛重は命からがら黒川城に逃げ込んだが、もはや籠城しても
伊達軍を防ぐ事は不可能であったため、6月10日夜半に城を捨てて実父・義重のもとに
逃亡してしまった。翌11日、政宗は黒川城を無血占領。この間、遂に佐竹軍は伊達軍に追いつく事が
できず盛重を救う事は成らなかった。ここに、奥羽の名族・蘆名家は滅亡し、旧蘆名領や
蘆名に随伴してきた二階堂・白川・石川などの領地は総て政宗の手にするところとなったのである。
加えて、圧倒的大勢力に登りつめた伊達家を恐れ大崎氏や岩城氏も政宗に服従する。
伊達氏はそれまでの70万石から190万石へと一挙に領土を拡大し、奥州の覇者に成長したのだった。

津軽為信の独立 〜 津軽と南部、400年に渡る対立のはじまり
さてここまで伊達政宗の急成長を書き記してきたが、この頃の奥羽地方で特筆すべき人物が
もう1人いる。現在の青森県西部、津軽地方を統べる鬼謀の将・津軽為信(つがるためのぶ)だ。
話は南部氏の統治に遡る。南北朝の争乱を乗り切った南部氏は、三戸南部氏を総領とし、八戸氏
九戸氏・久慈氏・石川氏・北氏・南氏など多数の庶流家を分岐させ、それらに領国統治を分担させた
事は先に記した。15世紀後半、このうちの久慈氏出身の久慈光信(くじみつのぶ)が津軽地方に
派遣され、南部氏に代わり統治実務に当たった。同時に久慈から大浦に改姓している。
しかし有能な光信は地盤を固めるため領内各所に城を築いた事で南部宗家に疑われ、次第に
三戸の南部氏と津軽の大浦氏は主従関係にありながら対立していく。大浦側としては自尊自衛の
為に行った事が咎められた訳だが、一方で南部氏は常に一族の中で対立が絶えぬ情勢にあった為
大浦氏にも疑いの目を向けた事情があった。ともあれ、南部氏の猜疑心は悪化する一方で
光信の後、大浦氏は3代に渡って当主を南部氏に謀殺されるほどになっていた。その恨みは蓄積され
大浦氏5代目・大浦為信の代になり遂に爆発する。以下、為信の策略を記そう。
為信が家督を継いだ頃、南部氏は津軽郡代として一門の石川高信を派遣、高信の後はその子
石川政信が継ぎ、為信は郡代配下の奉行に位置づけられた。南部氏支配からの脱却を目指す
為信は、この政信を食中毒に見せかけて毒殺し排除、続けざまに南部側の諸勢力を打倒して
一挙に津軽地方の支配権を名実共に確保した。これに対して南部宗家は為信追討軍を派遣しようと
したものの、この頃の南部氏は勇武で鳴らした24代目当主・晴政が死去した事に関連して家督争いが
生じており、効果的な派兵は叶わなかったのだ。これについても触れておくが、晴政には長年
嫡男が居らず、石川高信の子・信直(のぶなお)と九戸南部氏の九戸実親(さねちか)
後嗣候補として対立していた。ところが晴政晩年になって実子・晴継(はるつぐ)が生まれ、
この3者によって家督が争われる事態になってしまったのだ。ほどなく晴政が没し、家督争いは
血の惨劇をみる事になる。遅れてきた後継者・晴継が25代目を継ぐも何者かに暗殺されたのだ。
斯くして、26代目継承において再び信直と実親が対立。武将の器量は信直が優れるとされたが
実親の兄・九戸政実(まさざね)は南部家中で最も屈強の兵を有する武闘派にして、常に
宗家の立場を狙う野心を抱いていた。政実の蛮勇を恐れ、家中は実親擁立に傾く。しかし、
宗家のあるべき姿を正そうとする功臣・北信愛(きたのぶちか)八戸政栄(まさひで)
九戸一族の野望を阻止せんと奔走、晴れて信直が第26代南部家当主に収まった。が、やはり
それでは政実が納得するはずも無く、これ以後、信直の南部宗家と家中最大の勢力を有する
政実の九戸党は断絶関係に至った。為信が独立活動を行ったのは丁度この時節で、共に
南部宗家と争う立場にある九戸政実と密約を結び、南部家の津軽征伐は九戸方の動きにより
阻まれていたのである。こうして、主家からの独立を成功させた為信は大浦から津軽に姓を変え
晴れて近世大名・津軽家が成立したのであった。一方、“どさくさに紛れて津軽を奪われた”とする
南部氏の怒りは凄まじく、事あるごとに津軽潰しを狙う。対する津軽側はあくまでも歴代大浦氏への
“言われ無き虐待”からの自衛独立だと主張。津軽人と南部人の反目はこの時に始まり、
その対立感情は江戸時代を通じて受け継がれ、近代にまで持ち越されたという。
なお、為信の独立運動は史料ごとに年代が異なり、始まったのが1571年とも1582年とも1590年とも
されている(その他諸説あり)。これは互いに正当性を主張する津軽側と南部側がそれぞれ記録を
自らに都合よく改竄した事に拠るもので、ここでも津軽と南部の対立が浮き彫りにされている。




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