九州平定

朝廷の最高官職を手にし、日本全土支配の大義名分を得た豊臣秀吉。
いまだ彼に従わぬ者も残ってはいたが、
それを征服するのも時間の問題となってきた。
今のうちに豊臣政権の傘下に入り、確固たる地位を残すか
断固として戦い抜き、秀吉に一矢報いるか。
それぞれの思惑が交錯する中、王者・秀吉の統一事業は進んでいく。


石川数正の出奔 〜 徳川家康、軍制改革を迫られる
小牧・長久手の戦いで秀吉の大軍を相手に臆する事なく戦い、戦術的大勝を為した
東海の麒麟児・徳川家康。しかし(先に述べた通り)農繁期の長期遠征で国力は疲弊、
更には信州の小大名と侮った真田家相手の戦いでも痛恨の敗退を味わい、徳川領では
統治体制の見直しを図る必要性に追われていた。そんな最中、またも家康に衝撃を与える
大事件が発生した。時は1585年11月13日の事である。家康がまだ竹千代と名乗り駿府で
人質として抑留されていた頃から随伴し、西三河衆の筆頭として家康の信任篤かった
徳川家の家老・石川数正(いしかわかずまさ)が突如出奔、秀吉の下に走ったのである。
数正は特に外交を担当する機会が多く、当然ながら秀吉との折衝も行っていた人物。
小牧・長久手の戦いは終わったものの当時まだ徳川家中では反秀吉の気風強かったが、
外交で秀吉と接してきた数正は豊臣家の国力を熟知し、これに逆らうのは得策でないと
事あるごとに秀吉との融和を主張していた。しかし、数正の意見は少数派として封殺され
秀吉との再戦に傾く徳川家臣団の中で孤立していったのである。
こうして進退窮した数正は、秀吉に寝返ってしまった。徳川家重鎮の服属に、
“人材マニア”の秀吉は大いに喜んだという。一方、慌てふためいたのは家康だ。
家老職にある最重要人物が最大の敵である秀吉に通じてしまったとあっては、
もはや軍機は筒抜けになってしまったと考えられよう。秀吉に対抗する体制を整えるには
領国統治のみならず、軍事体系も一から再構築しなければならなくなった。
斯くして、家康は軍制改革を断行。三河旧来の軍制を改め、かつて“無敵の騎馬軍団”と
異名をとった甲斐武田家の軍制を導入する事となった。家康が甲信地方を併合する際、
圧政を行わず武田家の遺臣を上手く登用した経緯がここで役立ったのである。時を同じくして
領土を隣接する関東の後北条氏との同盟も強化、秀吉に対抗する基盤をより強固にした。
結果として、徳川家の軍事力は飛躍的に向上した。と同時に、軍人である配下の武士団が
自分たちの存在意義と言える軍事組織を「主君の命令によって」改変した事は、
大変大きな意味を持っていた。即ち、これ以後は「主君・家康の命令で作られた新軍制」で
家康の家臣は動く事になるのであるから、今までのように個々の軍事力を統合して徳川軍が
編成されるというのではなく、家康からの上意下達で軍が動員されるようになるのである。
毛利家や上杉家は豊臣政権に参加した事で近世大名への変革を切り出したが、
徳川家は独力でその一歩を踏み出し始めたのであった。

秀吉と家康の外交交渉 〜 秀吉、度重なる人質作戦
一方の秀吉としても、家康との交渉はここが正念場であった。官位を手にし、広大な領土を
支配下に収めたが、家康という相手は一筋縄で行かない。外交戦略で丸め込んだとは言え、
小牧・長久手の戦いでは大敗を喫しており、“国力の差を覆すだけの実力を持った人物”それが
徳川家康だったのだ。何とか家康だけは交戦する事なく、平和裏に傘下へと組み入れたい。
これが秀吉の本音であった。家康を無血降伏させれば、他の抵抗大名への波及効果も大きい。
自軍の消耗を避けるという現実的利益と、「秀吉は家康さえも従えた」という将来的展望。
大局を見れば、秀吉は何としても家康を豊臣政権の中に吸収せねばならなかったと言える。
このため、秀吉は積極的に家康への外交交渉を展開するようになったのだが…。
かつて小牧・長久手の停戦において、不戦の証として家康の2男・於義丸(おぎまる)
秀吉の養子に迎えられる形で人質に出されていた。これに返礼する体裁を調えるかのように
1586年5月、秀吉の妹・朝日姫(旭姫ともを家康正妻として嫁がせ、豊臣家との融和を図る。
(かつての正妻・築山殿は信長との軋轢で既に没しており、当時家康には正妻がいなかった)
実は朝日姫、既に2度の結婚を経験。最初の夫とは死別、再婚後はそれなりに平穏な生活を
送っていたにもかかわらず、兄・秀吉の命令により政略結婚のために夫と離別させられ、
家康の許へ嫁がされたのだ。当然、朝日姫は家康と結婚する事など望んでおらず、家康もまた
そんな朝日姫を本気で正妻として迎えるつもりはなかった。すべては形だけ、上辺だけの
「結婚ごっこ」であり、こんな事で家康が秀吉と誼を通じるはずがない。
妹を嫁がせたが、音沙汰のない家康に苦虫を潰した秀吉は、最後の手段に訴えた。自分の母親、
大政所(なか)をも家康の人質に差し出したのである。同年10月、病がちの朝日姫を見舞うとの
名目で大政所が浜松に下向。実父を早くに亡くした秀吉は、それだけに母親孝行で有名だったが
そんな母親を泣く泣く人質に出すのは、秀吉にとって最大限の譲歩であったと言える。
と同時に、母を差し出してもまだ家康が臣従しないのであれば、これ以上の交渉はなく
今後は総力を挙げて徳川家と交戦に及ぶという「最後通告」の意味も含んでいた。
これには家康も屈するしかなかった。確かに家康は秀吉から恐れられる大人物ではあるが、
信越から中国・四国まで切り従えた豊臣領と、東海5ヶ国だけの徳川領の総力戦では、
さすがに勝てる見込みは無い。小牧・長久手の頃とは状況が変わり、豊臣・徳川の国力差は
より大きくなっていたのだから、これ以上秀吉に抵抗しても家康には何ら有益ではなかった。
斯くして1586年10月26日、家康は大坂に到着。翌27日、秀吉臣下の諸大名が居並ぶ中、家康は
秀吉に謁見し、以後、豊臣家への従属を約束する。秀吉もまた、東海の大大名を重臣に遇し
ここに晴れて豊臣・徳川の融和が成立したのであった。最強の敵だった家康を降した事で
秀吉の天下統一事業は実現可能なものとなり、残りの敵を蹴散らす事に専念できるようになる。

島津軍、大友氏を追い詰める 〜 岩屋城は玉砕、“国崩し”で辛くも防戦
一方その頃、九州では激闘が展開されていた。既に述べた通り、九州統一を目論む島津氏は
“九州三強”の一角・龍造寺氏を沖田畷の戦いで撃破。当主・隆信を失った龍造寺氏は沈黙し
残るは大友氏との決戦だけであった。耳川の戦いで破れたとは言え、大友宗麟の実力は
いまだ健在、大友氏の本領である豊前・豊後はまだ島津氏の侵食を受けずにいたのである。
しかし、耳川大敗の復興に追われている今こそ大友氏殲滅の好機。大友氏の軍制を支え、
“雷神の化身”と称された名将中の名将・立花道雪(たちばなどうせつ)も1585年9月11日に没し、
大友軍の弱体化は否めない。今こそ大友氏を滅すべし、と決戦を決意した島津義久は1586年の夏に
豊後侵攻の軍を発した。対する大友方は、領内各地に防衛拠点を確保し島津軍を足止めし、
その間に逆転の策を講ずる目算を立てる。その策とは、外交戦術。実は宗麟、信長の存命中から
中央政権とコンタクトを持つ一流の外交術を展開しており、信長が本能寺で薨れなければ、
織田軍と大友軍で毛利氏を挟撃する作戦であったとも言われる。この流れは秀吉にも継承され
1585年に当主・宗麟自らが上洛して秀吉と会談、島津氏から圧迫されている大友氏の窮状を訴え
豊臣軍による九州平定を要請していた。既に中国・四国も秀吉の手中にあり、九州までの派兵は
十分に可能な状況にある中、島津氏がなおも大友氏を攻めたとあらば、必ずや豊臣軍は
宗麟の救援に駆けつけるという計算があったのだ。先に毛利氏や上杉氏が中央政権との融合で
自国統治の強化を為した事は述べたが、大友氏はそれを遥かに早い時期からやっていたと言え、
この点で宗麟という人物の先見性が伺えよう。また、天下人・秀吉は宗麟との会見の結果
1585年10月に大友・島津停戦令を発していた。両家の争いを“天下人”の立場から禁止し、
これに反して合戦を起こした者は「中央政権の命令に反する者」として処罰する決定だ。
島津氏の大友領侵攻はこの規定に違反するもので、豊臣軍の九州征伐はより現実性を帯び
宗麟はこれに期待したのである。と言っても、援軍が来る前に倒されては元も子もない。
大友氏は時間を稼ぐべく、要所に兵力を集中配置して耐えた。その代表例が岩屋城である。
大友氏の宿老にして生粋の武人として知られる高橋紹運(たかはしじょううん紹雲とも
守将にした城兵は800名弱であったが、島津軍を釘付けにしたのだ。方や島津軍は攻城軍として
5万もの兵をつぎ込んで1586年7月13日から城を包囲した。多勢に無勢と見られた籠城であるが
紹運ら城兵は徹底抗戦を示し、島津軍はいったん兵を引く。島津方はたびたび降伏勧告を行うも
絶対死守の構えを崩さない紹運はなびく気配も見せずに勧告を拒絶、やむを得ず島津軍は
同月26日に城攻めを再開した。数にものを言わせる島津軍は翌27日に三ノ丸・二ノ丸を占拠。
しかしそれでも紹運は屈しない。最終的に岩屋城は守兵が全滅するまで戦うという
過去に類を見ない壮絶な結末を迎えることになったが、島津軍の被害も甚大で死者3000名、
負傷者1500名を数えたという。この戦いの後、大友軍の頑強さを恐れた島津方は攻略に
神経質となり、行軍に遅滞を生じるようになった。紹運の粘りは、当初の目的である
足止めという役割を見事に果たしたのである。なお、紹運辞世の句は以下の通り。
屍(かばね)をば 岩屋の苔に 埋(うず)めてぞ 雲居の空に 名をとどむべき
それでも島津軍は徐々に大友領を侵攻。これに豊後国人らは動揺、大友氏への離反も発生し
いよいよ島津の軍勢は宗麟の居城・丹生島(にうじま)城(臼杵城)へ迫った。
まさに風前の灯となった大友軍は、最後の秘策を携えて籠城戦に移行する。11月初旬、
島津家久(いえひさ、義久・義弘の弟率いる攻城軍が城下に進軍するや
その秘策が牙を剥いた。ポルトガルから輸入した「国崩し」と呼ばれる大砲2門だ。
すさまじい轟音と共に火を噴いた大砲は、城下の町屋ごと島津軍の兵士を吹き飛ばした。
この威力は絶大で、多数の兵が損害を受けていく。何より「丹生島」の名の通り、
海に浮かぶ島を要塞化した丹生島城を攻略するのは困難であり、大砲の嵐が吹き荒れる中、
渡海して島まで辿り着き城攻めを行うなど無理であった。止む無く島津軍は
丹生島城攻略を諦め、撤退するしかなかったのである。命を賭した紹運の意地、そして
西洋科学技術たる国崩しを活用した宗麟の開明性が辛くも大友氏を生き延ばせたのだった。
しかし、大砲は島津軍を巻き込んで丹生島城下町までも荒廃させ、何より
再びの交戦に及ぶ余力は大友氏に残っていなかった。島津軍は一時撤退したが、
鎌倉以来の名門・大友氏は滅亡寸前にまで追い詰められていたのである。

戸次川の戦い 〜 豊臣軍、緒戦の大誤算
1585年10月の大友・島津停戦令に対し、島津氏は自軍の行動を「大友氏への正当な防衛」とし
秀吉の介入に反発した。鎌倉幕府成立以来、薩摩国主であり続けた“伝統ある”島津氏は
農民出身の“由来なき仁”秀吉など、天下人として命令を発するに値しない者だと
軽んじていたのかもしれない。しかし、自分の発した停戦命令に背き、関白の威光に
従わぬ者を秀吉が見逃す筈が無い。この時期、秀吉は九州と関東のどちらを先に征服するか
秤にかけていたと言われるが、島津氏の大友領侵攻を機に九州征伐を決定する。
これに基き、島津軍が大友領を蹂躙している最中の1586年秋、中国・四国地方の大名に
九州出陣の命令が発せられ、行軍ルートの整備が行われた。具体的には、毛利氏が
山陽ルートの道路網を拡充し、それまで在地の国人衆が独自に設置していた関所などを
強制的に撤去したのである。毛利氏としても、これを良い契機とし、在地国人の自立性を断ち切り
「秀吉の名の下に(実質的には毛利氏の下に)」中央集権体制の中へと組み込んだのだ。
(加えてこの街道整備事業は、後記する朝鮮出兵への布石であったとも言える)
斯くして、秀吉の号令により豊臣軍が九州に上陸。その陣容は毛利輝元・吉川元春・小早川隆景ら
中国勢に加え、十河存保や長宗我部元親・信親(のぶちか、元親の嫡男などの四国勢で、
軍監として秀吉子飼いの仙石秀久が同行。毛利軍は10月4日に島津方の小倉城を陥落させ、
島津軍への警戒を厳にして備えた。一方、四国勢は9月13日に豊後府内へ上陸。しかし彼らには、
その後秀吉の命令あるまで待機し、島津軍の攻勢も回避すべしとの厳命が下されていた。
(丹生島城が包囲されても豊臣軍が動かず宗麟が独力で籠城したのは、この理由による)
ところが大友氏の支城・鶴賀城(大分県大分市)が島津軍に囲まれ、落城迫るという報が入ると
焦った大友義統(よしむね、宗麟の嫡男は強硬に城の救援を主張、軍監の仙石秀久も
独断でこの意見を採用してしまった。最も戦歴の多い長宗我部元親は、これが島津軍の
挑発である事を見抜き出兵に反対したものの軍監・秀久の命に従わざるを得ず、結局、
大友・仙石・十河・長宗我部の混成軍は12月12日に戸次(へつぎ)川(現在の大野川)を渡り、
島津軍を討とうとする。しかし元親の推測通り、これは島津方の罠であった。
渡河して深追いした混成軍に対し、周囲を囲んだ島津の伏兵が一斉に攻撃を開始。
混乱を来たした仙石秀久は我先に逃げ出し、大友義統も戦場を離脱。結局、十河存保と
長宗我部元親・信親だけが取り残され乱戦に。この戦いで豊臣方は大敗を喫し、何と存保と
信親は戦死してしまった。かろうじて元親は脱出に成功したが、将来を嘱望し、名将の萌芽を見せ
家臣からも期待されていた次期当主たる嫡男・信親を失った事にひどく落胆したという。
関白の顔に泥を塗る戸次川の敗北に秀吉は大いに怒り、勝手に軍を動かした仙石秀久を
12月24日に軍監から解任、領土を召し上げて高野山に追放の処分を下した。
なお、遡る事11月15日には武断の将・吉川元春が小倉の陣中で病没しており、毛利軍の中でも
重要な柱石が欠けてしまった。豊臣方の九州出兵、緒戦においては誤算続きだったのである。

九州平定 〜 秀吉軍と秀長軍、東西から挟撃
徳川家康を従わせた事で、ようやく東日本では当面の脅威が去った秀吉。これで家康を警戒せず
秀吉は全力で九州征伐に打ち込めるようになった。四国勢に待機を命じたのは、家康の服属を
待った上で総攻撃を行うつもりだったのである。無謀な仙石が先走って計画を台無しにしたが
後顧の憂いをなくした秀吉は年明けの1587年1月1日、晴れて自ら出陣を宣言し諸将の部署を策定、
ここに豊臣軍の九州討伐が本格化する。3月1日に大坂を出発した豊臣軍は秀吉を筆頭に
その有能な右腕である弟・秀長や叩き上げの良将として知られた藤堂高虎(とうどうたかとら)など
そうそうたる顔ぶれであった。総勢20万を越す大軍が毛利氏の整備した山陽ルートを西に下り、
関門海峡を越えて九州に入るや、怒涛の進撃を開始。秀吉の本隊は豊前→筑前→肥後の西回りで、
秀長の軍勢は豊前→豊後→日向の東回りで島津軍の追撃を行った。本気を出した天下人・秀吉の
攻勢は物量に物を言わせた制圧戦で、堀を埋め、水攻めをし、兵糧の買占めなど、今まで
信長の配下時代に成功してきた城攻め作戦をあの手この手で展開。島津方の諸城は次々と陥落し
豊臣軍の進撃に恐れをなした古処山(こしょざん)城(福岡県甘木市)の秋月種実(たねざね)
戦わずして降伏、名物茶器の唐物楢柴肩衝(ならしばかたつき)を献上して助命を請うたのは有名。
また、秀吉軍中にあった堀秀政は「あまりに簡単に落城してばかりで、1日に幾つもの城を攻め
転戦し続けなくてはならない。疲れるからせめてもう少し抵抗してくれ」と言って捕らえた敵兵を
すべて釈放してしまったという。大友氏を追う立場から豊臣軍に追われる立場に変わった島津方は
じりじりと後退、せめてもの反撃として高城包囲中の秀長軍に対して4月17日、夜襲を決行するが
これも見事に撃退され反攻の余地を失った。敗北が明白となった島津義久は同月21日、重臣の
伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を使者として秀長に遣わして秀吉への降伏を表明した。
これを容れた秀吉は翌5月3日、全軍に停戦命令を発す。8日、恭順の意を示すべく剃髪した義久改め
島津龍伯が秀吉に拝謁し、19日には義久の弟にして島津家中第一の軍功を誇った義弘も降伏した。
ここに島津家の九州制覇という野望は潰え、西国全域が豊臣家の勢力下に置かれたのである。
秀吉は名門・島津氏の家名を残す配慮を行い、本来の領土であった薩摩と大隅を安堵したが
その他の領土は豊臣系大名によって分割され、九州の勢力地図は大きく塗り替えられるようになる。
黒田官兵衛には豊前、小早川隆景に筑前、佐々成政に肥後といった具合で、九州遠征の原因となった
大友氏には豊後一国を残した。なお、出家した事により龍伯(義久)は島津家当主の座から隠居し
甥の忠恒(ただつね、義弘の子が家督を相続、義弘が後見人となった。
また、この戦いの直後に大友宗麟は病没し、大友氏も義統が治世を担う事となる。
さらに隆信戦死後の龍造寺氏に関しても付け加えておこう。実力ある当主を失った龍造寺の家に
かつての精彩なく、既に領内の治世全般は筆頭家臣・鍋島直茂が取り仕切って実質的統治を
行っていたのだが、秀吉の天下統一後、1590年に「もはや龍造寺氏に大名の力量を認めず、
今後は鍋島氏を肥前太守とする」と決せられた。これにより直茂は“中央政権に認められた”
正統な大名となり、一方で龍造寺氏は鍋島氏の禄を食む一家臣に位置づけられたのである。
秀吉の裁可により、鍋島氏と龍造寺氏の関係は形式上でも上下が入れ替わったのであった。
以後、鍋島氏は明治維新まで西九州の有力大名として家名を永らえていく。
島津氏は敗戦の隠居、大友氏は先代死去により家督が代わり、龍造寺氏は家臣と立場が逆転。
秀吉の九州征服は“九州三強”の命運を大きく揺るがせたのである。

バテレン追放令 〜 首尾一貫せぬ秀吉の外交方針
この頃、日本国内のキリシタンは約20万人、教会は200箇所を数えるようになっていた。1549年に
ザビエルが来航して以来およそ40年にして信者は激増。九州諸大名により天正遣欧少年使節が
ヨーロッパに派遣された事も既に記した通りである。然るに、その日本人キリシタンは専ら
外国船が数多く訪れる九州地方に集中していたのは自明の理であろう。そんな九州を訪れた秀吉は
島津氏降伏の後、見聞を深めるために時間をかけて視察する。6月10日には博多湾でポルトガル船に
乗船、イエズス会士と接見して南蛮料理を食したし、13日には箱崎(現在の福岡県福岡市東区)で
茶会を催して博多商人との会見を持った。当然、九州諸大名も引見して今後の統治方針を命じたが
そうした中の15日、対馬島主である宗義調(そうよししげ)は秀吉から荒唐無稽な命令を下された。
何と、代々朝鮮半島や大陸との橋渡し役になっていた宗氏は今後「朝鮮・中国を服属させる」為の
外交を行うべし、とされたのである。朝鮮半島を足がかりにし、中国大陸を征服し、果ては天竺まで
秀吉が制圧するという計画だ。秀吉がいつの頃から大陸出兵を夢見ていたのかは定かではなく
小者として信長に仕えていた頃から空想の話として思いついていたのかもしれないし、元々は
その信長が天下統一の暁には唐天竺へも出陣するという夢を描いていたのかもしれない。が、
本来それは「空想のまま」終わるべき笑い話であるはずだった。しかし今回、宗氏に対し
「現実の政策として」大陸制服の命令が下された事で、もはや笑い話ではなくなった。秀吉は本気で
日本全土を統一した後に大陸までも手にしようという征服欲に取り憑かれていたのである。
義調はさぞかし驚愕し耳を疑ったであろうが、天下人の命令に逆らう事はできず、これ以後
大陸出兵に向けた準備を始めるのであった。
さらに19日、突如秀吉は博多で「バテレン追放令」を発する。数日前までポルトガル人と会談し
西洋文化に理解を示していたのに、突然手のひらを返す豹変ぶりでキリスト教を禁教とし、
宣教師らを国外追放する決定を下したのである。さらには外国貿易港である長崎の地を召し上げ
直轄地とする。秀吉がなぜ急遽態度を変えたのか、その原因は定かではない。しかし一般的には
九州でキリシタン勢力の大きさを目にした事で、かつて信長が苦しめられた一向一揆と同じく
キリスト教が一大政治組織となり豊臣政権を脅かす存在になると危惧したからだと言われる。
この後、1591年にはインドのポルトガル副王(総督)やルソン(フィリピン)のスペイン政庁に
入貢を要求。秀吉の外交は、朝鮮・中国・インドから果てはヨーロッパ諸国にまで服属を要求し
軍事的対立も引き起こしかねない無謀なものになっていた。しかし、それでいて貿易は奨励し
利潤を徹底的に追求する“強欲ぶり”も見せる。高圧的態度で外交しつつ、貿易の利益は
挙げたいという相反した要求は、およそ天下人とは思えぬ独善的なもので周囲の者たちを
混乱させていく。時おりしもキリシタン大名の大友宗麟や大村純忠が相次いで没した頃。
(宗麟は1587年5月23日、純忠はそれに先立つ4月18日に死去)帰国の途に着く天正遣欧使節は
4月22日にインドのゴアまで辿り着いていたが、彼らの行く先には暗雲が漂い始めていた。

北野大茶会と肥後一揆 〜 佐々成政、無念の切腹
九州から凱旋した秀吉は帰坂後、京に入った。この年の9月13日、京都での城館として
聚楽第(じゅらくだい、じゅらくていとも)を完成させていた秀吉はしばらくの間、都に逗留し
西国制圧の祝賀にあわせた政治的イベントをいくつか催し、諸大名のみならず朝廷に対し
それとないアピールを行ったのである。そうしたイベントの中で最も有名なのが北野大茶会だ。
10月1日、北野天満の杜で開催された大茶会は千利休・津田宗及(つだそうきゅう)
当代一流の茶人を茶頭に迎えた盛大なもの。開催に先立ち、秀吉は天下人の威光を知らしめるべく
武将や公家はもちろん、町民・農民までも参加を許して広く周知していたため、800以上もの座敷が
北野の会場に用意された空前の規模であった。勿論、秀吉も北政所や側室らを連れ立って参加。
北野大茶会は大盛況を博し、秀吉によって安寧の世が作られつつある事を体現していた。
ところがその最中、肥後国での国人一揆が激しさを増し、鎮圧に苦慮しているという報が入る。
不快を覚えた秀吉は、10日まで行う予定だった茶会をこの1日限りで中止してしまった。
実は肥後国では、秀吉が引き上げた後に国人一揆が勃発し、新たな肥後領主に任じられていた
佐々成政が国内各所を転戦し、一揆衆と戦い続けていたのである。
以前、信長が居城を移した話で記したが、大名が新たな拠点に入り一から統治を開始する事は
非常に危険を伴う事であった。旧領主の統治を尊重し新領主を嫌ったり、新領主の施政に納得せず
反抗する場合、あるいは新領主の統治体制が整わない間隙を突いて下剋上を目論んだりと、
様々な理由で反乱が起きる可能性が極めて高かったからである。秀吉に命じられた領国替えで
肥後に入った成政はまさにこうした危難に直面する事になった。隈部親永(くまべちかなが)
和仁親実(わにちかざね)らを首領にした肥後国人衆が太閤検地を拒否し一斉蜂起、
未曾有の大反乱が発生したからだ。8月中旬から始まったこの国人一揆は勢いに乗り、一時は
成政の居城・隈本(熊本)城をも包囲。遅々として進まない鎮圧に業を煮やした秀吉は
9月7日に筑前の小早川隆景ら周辺諸大名にも援軍派遣を命じたが、それでも一揆は治まらず
北野大茶会開催中の劣勢報告に至ったのであった。怒り心頭の秀吉は更なる攻勢を命じ、
12月になって安国寺恵瓊(毛利平定以来、秀吉の引き立てで独立大名にまで昇進していた)が
謀略を以って親永らを捕縛、ようやく平定に漕ぎ着けた。失政を問われた佐々成政は秀吉から
所領を没収され、翌1588年閏5月14日に摂津国尼崎で切腹させられてしまう。
実はこれには裏があり、旧織田家臣団の中で最後まで豊臣氏に服属しなかった成政を嫌った秀吉が
わざと反乱が起きやすい肥後に配し、政策の失敗を濡れ衣に着せて粛清したという説がある。
事の真偽は定かでないが、着任したばかりの地で騒動に巻き込まれ詰め腹を切らされた成政は
さぞかし無念であっただろう。成政を人柱にした騒乱でようやく平定した肥後は、この後
北半分を加藤清正、南半分を小西行長に与えられる事になった。両名とも秀吉お気に入りの
子飼い武将。この事からも、地ならしとして成政が捨て石にされた事を予想させる。
ともあれ、清正と行長が統治する事で肥後は九州でも最も豊潤な土地として開発が進んでいく。
が、武断派の清正と官僚派の行長、実は仲が良くなかった。また、肥後以外にも九州では
秀吉に反抗する一揆が多発、特に島津の残党が蜂起する事は数知れず、ゲリラ戦が各地で
行われていたのである。大名間としての対島津戦は終わったが、秀吉の統治が浸透するまでは
まだしばらくの歳月が必要で、九州に真の平穏が訪れるのは江戸時代に入ってからとなる。

刀狩令 〜 兵農分離による支配力強化
続いては太閤検地と並ぶ有名な秀吉の政策、刀狩令について。1588年7月8日に発せられた
この命令は、呼んで字の如く農民から刀などの武器を取り上げる命令だ。名目の上では、
不要な刀・槍・鉄砲などの鉄を再利用し、秀吉が寄進する方広寺(ほうこうじ)の大仏や
その大仏殿で使われる釘などにする事になっていたが、誰が考えても明らかなように
直接的な理由は農民から武器を取り上げ、一揆などの反乱を防ぐ事にあった。
さてここで振り返ってみると、以前の記載で戦国大名の兵員確保は主に徴兵した農民兵から成り
それゆえに農繁期の行軍が不可能であったり、耕作地から遠く離れた遠征ができないなどの
弊害があると記した事を思い起こして頂きたい。常時戦乱にある世の中で、大量の兵員を
突発的に用意せねばならない状況ならば、一番手っ取り早いのは当時の人口比率の中で最も多い
農業従事者を必要な時にだけ動員する事とならざるを得ないだろう。当然、農民には日常から
武器を用意させ、稼動できる状態にしておかねばならない。しかし反面、そうした武器は
農民が一揆に持ち出して、時に領主への反抗を企てる温床となる矛盾も抱えていた。
ところが信長や秀吉は、従来型の農民動員とは異なる形で兵員を用意するようになっていた。
寄せ集めのゴロツキのような者たちではあったが、専門の戦闘要員、つまり正規兵を常備し
他国との戦いには何時でも、何処にでも出兵できる体制を作り上げたのだ。もちろん、
農民兵が皆無であったわけではない。また、こうした常備軍は寄せ集めだけあって非常に
「弱」かった。それでも、信長は敵対者の包囲網を打ち破り、秀吉は天下統一に王手をかける。
それまでの常識とは一線を画す“脆弱な常備軍”は、勇猛を鳴らした“武田騎馬軍団”や
“薩摩隼人”らを倒した訳だが、これらはすべて鉄砲などの新兵器活用や秀吉の物量作戦など
脆弱さをカバーする「集団戦法の確立」で最強軍団への転換を果たしたからであった。
“戦法が確立した常備軍”ならば縦横無尽の活躍を果たし、だからこそ織田氏・豊臣氏は
武田・毛利などの大勢力を倒して天下の覇者へと登りつめる事ができたのである。
秀吉の天下統一まであと一歩。もはや、大多数の農民に武器を与える必要はなくなった。
また、検地によって農業人口を把握・確定させており、いまさら農民が武士に転向するよりも
農業生産力向上のためにはそれを阻み、農民は農民のまま従属させるべき状況になっていた。
こうした理由から、秀吉は刀狩令を断行したのである。武士と農民が明確な区別をされる事で
支配する者とされる者が確定し、武家政権の安定を図る時代がやってきた。




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る