★この時代の城郭 ――― 織豊系城郭
ようやく「豊臣」の名前が出てきたので、織豊(しょくほう)系城郭について解説したい。
読んで字の如く、織田信長・豊臣秀吉の築城術・城郭運用法から成立した城郭形態を表す用語である。
先にも述べたが、信長や秀吉は戦術・戦略の両面から多数の城を各地に築いた。戦時の陣城は勿論、
敵対勢力に備える哨戒地の城郭、前進拠点となる兵員駐留城郭、それに統治拠点となる城郭などだ。
こうした城郭は築城年代を下るにつれて進化し、より機能的に、より技巧的になっていく。
いつしか織田・豊臣系の城郭は他大名の城郭よりも洗練されて強固なシステムを備えるようになった。
これが一般に織豊系城郭という分類で呼ばれるようになるのである。
織豊系城郭の最も特徴的な要素は1.石垣 2.瓦 3.礎石建物 の3つだと言われる。他大名の城でも
これらの要素が無い訳ではないが、織豊系ではこの3要素が有機的に連動している点が重視される。
まずは瓦。現代でこそ日本家屋は瓦が当たり前のように葺かれているが、当時の建物は
藁葺きや板葺き、良くて柿(こけら)葺きであった。瓦を葺いた建物は寺社の堂宇に限られ、
宗教権威の象徴という意味合いが強い建材とも言えよう。ところが織豊系城郭は
その瓦を使った建物を積極的に導入する。つまり、武家の本拠となる存在の建物が
宗教権威を凌駕する強大さを兼ね備えた、と見る事ができるのだ。
瓦の利点はそうした社会的意義だけに留まらない。藁や板に比べ、格段に強固な建材である瓦は、
当然ながら耐久性や防火性、耐寒性や防水性に優れている。敵との交戦を第一義とする
城郭建築物において、瓦を用いる事は必須の条件であったとも言えるのだ。
続いて礎石建物の解説。それまでの城郭建築物、特に陣城のような即席の建物では
ほとんどが掘立建物であった。掘立建物とは、地面に穴を掘ってそこに柱を埋め込んだだけの
簡易な建築物の事である。今でも安普請の建物を「掘立小屋」と呼ぶように、掘立建物は
それほど大掛かりな建築物ではなく、耐久性も乏しいものなのだ。それに対して礎石建物は
地盤に基台となる礎石をしっかりと埋め込み、その上に太い柱を備え付けて建てる建築物で
これにより重量建築物の構築が可能となるのである。瓦を葺く建物を建てる以上、礎石は
必要不可欠なものと言えるが、その効果はそれだけではない。それまで板張り程度であった外壁に
土(漆喰)を塗る事が可能となり(これも防火性等に貢献する)、高層建築物に発展させる事も
できるようになったのだ。城郭の主要な建築物と言えば櫓だが、1階建ての櫓と2階建ての櫓では
攻撃力が格段に違う。ちょうど織豊系城郭が築かれた時代は鉄砲戦術が発展する時期でもあり、
高層建築物から発射される鉄砲の火力によって防御力は破格の向上を遂げる事になったのである。
櫓を拠点とする火砲の弾幕は敵兵を寄せ付けず、効率的な籠城作戦を採る事が可能となった。
無論、2階建てよりも3階建てならばさらにその火力が増大する事は言うまでもないし、櫓に限らず
単なる塀でも板塀から土塀にする事によって防御力・耐久性・防火能力の向上に繋がった。
織豊系城郭の建物は、それまでの城郭建築物に比べて格段に安定性が増した堅牢なものになり
平時の美観、戦時の火力拠点としての能力に優れるものであった。
最後に石垣。観音寺城の項でも記したが、これも起源は寺社勢力に由来する工法である。
田畑の土留め等で在地の石組み技術も多少はあったが、それほど大規模なものではなく
これを城郭に導入する事は武士の権威を見せ付ける意味を有したのだが、礎石を必要とする
瓦葺きの重量建築物を効果的に配置する縄張り技術とも相俟って、城郭における石垣の重要性は
織豊系城郭以後、欠かすことのできない要素となっていく。石垣によって塁の法面を強固に
固めておかなければ、重量建築物を安定させる事ができないからだ。織豊系城郭で初めて
石垣を採用した近江国宇佐山城は、縄張り的には然程目立つものはない凡庸な城であったが
要所に石垣を組み、虎口を瓦葺きの大きな櫓門で塞いだ事が堅城たらしめたという。
石垣は縄張りの脆弱さをカバーする技術であり、また、次第にそれが進化して石垣に
ベストマッチする縄張りの方法が確立していく事を意味している。更には石垣の工法自体も
野面積みから打込ハギ、切込ハギへと進歩した事でより高い石組が可能となっていった。
それらが総合的に作用して、織豊系城郭は他大名の“古式な城郭”よりリードする
“新技術の堅城”になっていったのだ。信長の安土城、秀吉の大坂城はその集大成と言えるし
織田・豊臣に従った諸大名や配下武将も自分の城に織豊系の技術を取り入れ、
以後、江戸時代に至るまで各地の城郭は大半が織豊系一色に塗り替えられていく。
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