四国征伐

信雄を黙らせ、成政を降し、紀伊を征服した秀吉。
畿内全土を手にした彼は、さらなる外征に乗り出していく。
外部の大名にとって秀吉の政権は今後どう作用していくのか。
そして、秀吉と対決する者たちの動向は。


西の毛利、東の上杉 〜 中央政権を自領統治に利用した大名
戦国乱世も終盤、かつてのように小勢力が割拠したり下剋上が簡単に成立する時代ではなく
日本全土は大半が大大名の支配下に統合される状況になりつつあった。畿内は秀吉、
東海は家康、関東は北条、といった具合である。とは言え、戦国大名の統治構造というのは
基本的に在地豪族を大名の家臣として組み込み、戦時には彼らに出兵を「要請」するような
感じである。要するに“国人勢力の集合体”に領国統治・軍事負担を「依存」する状況で、
もし彼らが大名に反感を持ち離反したなら、たちまち統治の根幹が崩れかねないものだった。
しかし、その中で秀吉は抜きん出た地位になりつつあった。政治の中心である畿内を領有し
軍事動員力は他大名を圧倒、信長の後継者として名実共に天下を握る人物となったからだ。
つまり、この頃から羽柴政権=中央政府と定義付けされるようになる。当然、朝廷からも
認められ、秀吉の政権は単なる一大名の政権ではなく中央政権、即ち公権力とされ、
秀吉の意向に逆らう事は国家への反逆を意味するようになるのだ。
これを上手く利用したのが西の毛利氏と東の上杉氏であった。
本能寺の変において和議を結んで以来、毛利氏は秀吉の同盟者となり共同歩調を取る。
また、柴田勝家や佐々成政が北陸で秀吉に対抗していた時期から上杉氏は秀吉と盟を結び
東西から挟撃する軍事協定、さらには政治的融合も果たすようになっていた。秀吉、つまり
中央政権といち早く同調していた毛利氏と上杉氏は、秀吉の天下が確定的になった時点で
服属の姿勢を見せ、その傘下に加わったのだ。こうして、中国地方や越後まで手にした秀吉。
しかしその恩恵を一番受けたのは毛利輝元・上杉景勝に他ならない。中央政権に加わった事で
輝元や景勝が家臣に下す命令も“中央政権からの命令”としての意味を持つ。という事は
今まで国人衆らに「要請」「依存」していた軍事負担や領国統治は、全て大名の「支配権行使」に
置き換えられる事になる。反対や離反は許されず、それを行えば「謀反人」として処罰されるのだ。
この恩恵はかなり大きく、特に先代・謙信が国人衆の離散に苦しめられた上杉氏にとっては
支配体制の再編成を行う良い契機となったに違いない。戦国の世が終わりに近づいた証である。
“戦国大名”であった毛利氏や上杉氏は、秀吉に従った事で“近世大名”への一歩を踏み出した。

元親の四国統一 〜 名門・河野氏もついに力尽きる
そんな中、土佐の長宗我部元親は秀吉の政権と一線を画し、ひたすら四国統一に邁進していた。
以前述べたように、土佐から進出した長宗我部軍は、東に阿波の三好氏を追い、西に伊予の
河野(こうの)氏を攻撃。一時期は信長の黙認をとりつけていた事からその勢いは凄まじく、
信長が死すまでに阿波全土をほぼ掌握、伊予も宇和地方は制圧していた。讃岐に追い詰められた
三好一門の後嗣・十河存保は信長に救援を求めるも、本能寺の変で織田軍の四国出兵はなくなり
元親の征服事業はさらに進展。1582年8月、中富川の合戦で存保は元親に敗れ、三好一門累代の
本拠とされた勝端(しょうずい)城(徳島県板野郡藍住町)を奪われた。なおも敗走する存保を追い、
元親の執拗な追撃が続く一方、伊予方面でも長宗我部軍の侵食が行われていく。
元親の悲願、四国統一はいよいよ王手がかかったのだ。
しかし、信長の後継者として天下統一事業を引き継いだ秀吉は元親の進撃を快く見なかった。
元親は秀吉に服属した大名ではない。となれば、敵なのである。十河存保の救援要請を
信長に代わって承諾し、目下の敵を叩き潰してこそ天下人だ。長宗我部氏を従属させる事は
家康をはじめとする反秀吉系大名の連携を崩す意味も含まれていた。斯くして秀吉は、
四国に最も近い領土、淡路に封を与えていた配下武将・仙石秀久(せんごくひでひさ)
元親追討の命令を発する。これを受けて秀久は存保救援軍を進発させ、1583年4月
仙石・十河連合軍と長宗我部軍が交戦した。引田の戦いである。ところが、快進撃を続ける
元親の勢いは凄まじく、連合軍は大敗を喫した。秀久は水軍能力に長けた将ではあったが、
さすがに淡路の軍勢だけでは兵力不足であり、長宗我部軍を倒す事はできなかったのである。
その後も元親の進撃は止まらない。1584年6月、遂に長宗我部の軍勢は讃岐までも制圧し
領地を完全に失った十河存保は京都に逃亡、秀吉の庇護を求めた。同年秋には伊予でも
長宗我部勢の大攻勢がかけられ、唯一四国で残っていた反長宗我部方の河野氏も
風前の灯となる。そして翌1585年の春、河野氏の本拠・湯築(ゆづき)城(愛媛県松山市)が
落城し、河野氏が降伏。ここに、長宗我部元親の大望は叶えられたのであった。

長宗我部氏の降伏 〜 元親は土佐一国を安堵
一方、秀吉はこの頃、近隣での対戦に次々と決着をつけていた。先に述べた通り、織田信雄を
封じ込め、佐々成政も降伏、雑賀・根来衆の守る紀伊も蹂躙。天下統一への足場を固めた秀吉は
いよいよ外征に打って出る態勢が整ったのである。先年は仙石秀久に小手先の進撃命令を
下しただけだったので長宗我部軍の撃破は成らなかったが、元親が四国統一を為してしまった
今となっては、完膚なきまでに叩き潰して秀吉軍の強さを知らしめねばならなかった。こうして
秀吉から改めて四国遠征命令が発せられ、元親が四国を統一してまだ間もない1585年6月16日、
秀吉の弟・小一郎秀長を総大将として宇喜多・毛利・小早川ら総勢11万もの大軍が長宗我部領に
侵攻する事となったのである。詳しく記すと、羽柴秀長・秀次らが阿波方面から、宇喜多秀家
蜂須賀正勝・黒田官兵衛らが讃岐、毛利輝元・小早川隆景・吉川元長(元春の長男)ら
毛利軍は伊予から攻撃する3方同時包囲作戦であった。元親はこの情勢を見て対決は不利と判断、
素早く秀吉に降伏を申し入れ8月6日に和議が成立した。悲願の四国統一を御破算にされたものの、
家名存続の為に的確な状況判断で降参した元親はやはり“土佐の出来人”と称されるだけの
器量であったと言えよう。結果、本領の土佐一国に減封されたものの長宗我部家は断絶を免れた。
残る四国の領土は大半が渡海作戦を行った武将らに分け与えられる。主なものを述べれば
讃岐には仙石秀久と旧主・十河存保、阿波は蜂須賀家政(はちすかいえまさ、正勝の嫡子
伊予は小早川隆景や安国寺恵瓊、福島正則と言った具合である。大損をしたのは伊予の旧国主
河野通直(こうのみちなお)で、元親の四国統一戦で散々に叩かれ、止む無く降伏し配下の扱いを
受けるようになり、間を置かず今度は毛利軍に伊予を戦場とされ、挙句の果てに秀吉からは旧領の
回復を認められず、全くの無一文になり所領を失った。元親の攻勢にもうしばらく踏みとどまる事が
出来ていたならば、伊予を守りきった功労として所領安堵を受けていたのかもしれないが、逆に
降伏し長宗我部家の配下として毛利軍と対決した(せざるを得なかった)ために、秀吉から
領地を没収されたのだ。鎌倉以来の名門・河野氏は、こうして歴史の中に消え去ったのである。

秀吉、関白叙任 〜 史上初“農民出身関白”
四国に軍勢が派遣されている最中の1585年7月11日、羽柴秀吉が関白に叙任された。天下人として
当初秀吉は征夷大将軍への補任を望んでいたようで、信長に京を追われた足利義昭の復帰を認め
何とか義昭の養子に入れてもらおうと交渉している。将軍の位を授かるには、武門の誉れ高い
源氏の血統を受けねばならなかったからで、秀吉は義昭を厚遇する事で、旧将軍家である足利氏の
門籍を譲ってもらおうと画策したのであった。しかし(信長と意地で対立した事から分かるように)
プライドの高い義昭は、秀吉に遇されようとも“農民上がりの者”に家督を譲る気はなかった。
“武家の棟梁”たる将軍位の継承は無理と分かった秀吉は、天下人として相応の体裁を整えるため
“公家の最高位”を得て「朝廷権力の執行者」となり天下を支配するべし、と方針転換。そこで
今度は前関白・近衛前久(このえさきひさ)の猶子になり、摂関家の中に入ろうとする。同時に
朝廷の有力者・菊亭晴季(きくていはるすえ)の協力を取り付け、関白職就任を働きかけたのだ。
力ある武家の圧力に屈した形になるが、この作戦は成功し朝廷は秀吉に関白叙任を決定。こうして、
上に記した7月11日、秀吉は従一位・関白となった。近衛家(藤原家)の家を継いだ秀吉であるから、
正しくは藤原秀吉が関白になった事になろう。慣例上、摂関の職は数ある公家の中でも高位
4家からのみ輩出するようになっているからだ。4家とは、“源平橘藤(源氏・平氏・橘氏・藤原氏)”だ。
そうは言っても、目立ちたがりの秀吉である。慣例には従ったが、形式にはとらわれたくない。
独自色を打ち出そうとした彼は、藤原に代わる新たな姓を望んだ。正親町天皇からの下賜という
形で創始された新家の名は、豊臣(とよとみ)。ここに関白・豊臣秀吉が誕生したのである。
秀吉が関白となった事で、母・なかは大政所(おおまんどころ、本来は「政権者の母」という語
妻・寧子は北政所(きたのまんどころ、本来は「政権者の妻」という意味の語とされた。
なお、豊臣姓が勅許されるのは1586年12月19日、秀吉が太政大臣に補任された時になるが、
便宜上、以降は総て豊臣秀吉の名で統一表記する事をお断りする。


★この時代の城郭 ――― 織豊系城郭
ようやく「豊臣」の名前が出てきたので、織豊(しょくほう)系城郭について解説したい。
読んで字の如く、織田信長・豊臣秀吉の築城術・城郭運用法から成立した城郭形態を表す用語である。
先にも述べたが、信長や秀吉は戦術・戦略の両面から多数の城を各地に築いた。戦時の陣城は勿論、
敵対勢力に備える哨戒地の城郭、前進拠点となる兵員駐留城郭、それに統治拠点となる城郭などだ。
こうした城郭は築城年代を下るにつれて進化し、より機能的に、より技巧的になっていく。
いつしか織田・豊臣系の城郭は他大名の城郭よりも洗練されて強固なシステムを備えるようになった。
これが一般に織豊系城郭という分類で呼ばれるようになるのである。
織豊系城郭の最も特徴的な要素は1.石垣 2.瓦 3.礎石建物 の3つだと言われる。他大名の城でも
これらの要素が無い訳ではないが、織豊系ではこの3要素が有機的に連動している点が重視される。
まずは瓦。現代でこそ日本家屋は瓦が当たり前のように葺かれているが、当時の建物は
藁葺きや板葺き、良くて柿(こけら)葺きであった。瓦を葺いた建物は寺社の堂宇に限られ、
宗教権威の象徴という意味合いが強い建材とも言えよう。ところが織豊系城郭は
その瓦を使った建物を積極的に導入する。つまり、武家の本拠となる存在の建物が
宗教権威を凌駕する強大さを兼ね備えた、と見る事ができるのだ。
瓦の利点はそうした社会的意義だけに留まらない。藁や板に比べ、格段に強固な建材である瓦は、
当然ながら耐久性や防火性、耐寒性や防水性に優れている。敵との交戦を第一義とする
城郭建築物において、瓦を用いる事は必須の条件であったとも言えるのだ。
続いて礎石建物の解説。それまでの城郭建築物、特に陣城のような即席の建物では
ほとんどが掘立建物であった。掘立建物とは、地面に穴を掘ってそこに柱を埋め込んだだけの
簡易な建築物の事である。今でも安普請の建物を「掘立小屋」と呼ぶように、掘立建物は
それほど大掛かりな建築物ではなく、耐久性も乏しいものなのだ。それに対して礎石建物は
地盤に基台となる礎石をしっかりと埋め込み、その上に太い柱を備え付けて建てる建築物で
これにより重量建築物の構築が可能となるのである。瓦を葺く建物を建てる以上、礎石は
必要不可欠なものと言えるが、その効果はそれだけではない。それまで板張り程度であった外壁に
土(漆喰)を塗る事が可能となり(これも防火性等に貢献する)、高層建築物に発展させる事も
できるようになったのだ。城郭の主要な建築物と言えば櫓だが、1階建ての櫓と2階建ての櫓では
攻撃力が格段に違う。ちょうど織豊系城郭が築かれた時代は鉄砲戦術が発展する時期でもあり、
高層建築物から発射される鉄砲の火力によって防御力は破格の向上を遂げる事になったのである。
櫓を拠点とする火砲の弾幕は敵兵を寄せ付けず、効率的な籠城作戦を採る事が可能となった。
無論、2階建てよりも3階建てならばさらにその火力が増大する事は言うまでもないし、櫓に限らず
単なる塀でも板塀から土塀にする事によって防御力・耐久性・防火能力の向上に繋がった。
織豊系城郭の建物は、それまでの城郭建築物に比べて格段に安定性が増した堅牢なものになり
平時の美観、戦時の火力拠点としての能力に優れるものであった。
最後に石垣。観音寺城の項でも記したが、これも起源は寺社勢力に由来する工法である。
田畑の土留め等で在地の石組み技術も多少はあったが、それほど大規模なものではなく
これを城郭に導入する事は武士の権威を見せ付ける意味を有したのだが、礎石を必要とする
瓦葺きの重量建築物を効果的に配置する縄張り技術とも相俟って、城郭における石垣の重要性は
織豊系城郭以後、欠かすことのできない要素となっていく。石垣によって塁の法面を強固に
固めておかなければ、重量建築物を安定させる事ができないからだ。織豊系城郭で初めて
石垣を採用した近江国宇佐山城は、縄張り的には然程目立つものはない凡庸な城であったが
要所に石垣を組み、虎口を瓦葺きの大きな櫓門で塞いだ事が堅城たらしめたという。
石垣は縄張りの脆弱さをカバーする技術であり、また、次第にそれが進化して石垣に
ベストマッチする縄張りの方法が確立していく事を意味している。更には石垣の工法自体も
野面積みから打込ハギ、切込ハギへと進歩した事でより高い石組が可能となっていった。
それらが総合的に作用して、織豊系城郭は他大名の“古式な城郭”よりリードする
“新技術の堅城”になっていったのだ。信長の安土城、秀吉の大坂城はその集大成と言えるし
織田・豊臣に従った諸大名や配下武将も自分の城に織豊系の技術を取り入れ、
以後、江戸時代に至るまで各地の城郭は大半が織豊系一色に塗り替えられていく。


太閤検地 〜 豊臣政権の支配体制づくり
さてここで、豊臣政権の支配体制について。信長の代表的政策が楽市楽座であったのに対し
秀吉のそれと言えば太閤検地であろう。誤解の無いように記しておくが、楽市は信長が始めたという
訳ではないし(近江六角氏や美濃斎藤氏などのほうが早い)、検地も秀吉が最初という訳ではなく
他の大名も当然、行っている。ではなぜ「太閤検地」が有名であるかと言えば、天下の覇者となり
日本全土を平らげた秀吉が行う検地は、当然ながら全国を統一規格で統計した厳密なものだったからだ。
そもそも検地とは何かと言うと、土地の収穫量(石高)を調査する事である。しかしそこから
導き出される計算は、様々な意味を持っていた。石高が算出される事は、その土地の生産量や
商業力、土地面積を明確にするだけでなく、人口の統計にも繋がる。当然それは軍事に反映され
兵糧や物資の調達量、動員できる兵士の数値にも置き換えられるし、政治的には土地耕作者を
確定させる事で兵農分離を推し進めるための資料にもなったのである。検地とは、現代の
国勢調査に匹敵する言わば「総合統計作業」なのだ。後北条氏や斎藤道三、信長など先進的大名は
比較的早い時期からこうした検地を行っていたが、しかしそれほどまでに緻密なものではない。
秀吉以前の検地は「差出検地」と呼ばれ、土地所有者にその土地の現状を申告させるだけのもので
果たしてその内容が正確なものなのかは定かでない。しかも、単に年貢高の調査に過ぎず
総合的な物資生産量や耕作人民のデータは把握されなかった。ところが太閤検地は上に記した通り
日本全土のありとあらゆる情報を厳密に網羅した国家的事業となったのである。
ではそれを解説してみよう。まず名称にある「太閤」とは、関白が退位した後の尊称。秀吉は
1585年に関白となるも6年で退位したため、一般に“太閤秀吉”と呼ばれる事が多い。ここから
なぞらえたのが秀吉の検地「太閤検地」なのである。然るにその方法とは、実測により田畑の
面積や質を調査し台帳を作成するものであるが、面積・重量などの単位は厳密に定められ
それまでの曖昧な調査方法とは一線を画した点が画期的であった。こうした測量は、秀吉の
配下が現地に赴いて直接調査するものだったので、差出検地のような不明確なものではない。
実測による石高全調査は“天正の石直し”と呼ばれるほどに厳しいもので、年貢収公量も
従前よりも特に厳格なものとなったのだ。古代律令制(公地公民制)に始まった土地支配・
年貢収公制度は、荘園制、鎌倉期の地頭請や下地中分、室町体制下の半済・守護請、そして
戦国大名の分国支配を経てきたが(これらは全て“場当たり”的制度改定である)太閤検地で
一新され、完全な武家支配の下に置かれる事となった。
しかも、この検地台帳に載せられた農民の名は「土地の所有者」ではなく「実際の耕作者」。
つまり、土地を借りて農業に従事し、土地所有者に小作料を納めていた下級農民を
現実的な有効労働者として認め、小作料負担を免除する扱いとしたのである。一見、これは
下級農民の権利を認めた救済策のように思えるが、実際の狙いとしてはその土地と耕作者を
縛りつけ、以後の土地転用や農業放棄を禁じたもの。こうして農民は武士に転身する事が
完全に不可能となった上、検地台帳によって厳重に管理・支配されるようになったのである。
秀吉が大名として独立した1582年からの検地が太閤検地と呼ばれるが、豊臣家の領土が
拡大するにつれてこの検地は広範囲になっていく。毛利氏・長宗我部氏など秀吉に臣従した
大名の領土でも、秀吉が定めたのと同じ方法で検地が行われている。これにより、それまで
各地の大名が分国法により様々な定めをしていたものが全国共通なものとなり、場所によっては
従来よりも厳しい取立てが行われる所も。これに反発する一揆も度々発生し、有名なものでは
1585年3月の近江・山城一揆が挙げられよう。従来、一反を360歩(いずれも面積の単位)と
されていたものを、秀吉が300歩と改定したため、農民の負担が激増。検地を嫌った民衆は
逃散(ちょうさん、土地を捨てて耕作を放棄する一揆方法)し、秀吉は帰村命令を出して
何とかこれを鎮圧した経緯がある。

第一次上田城攻防戦(1) 〜 真田昌幸、因縁の沼田領を固持
話は変わり、甲信を領土に加えた家康と、武田家滅亡後自立の動きを見せた真田氏の動きについて。
関東の北条氏、越後の上杉氏とも関わる話だが、信玄存命時代に武田氏の配下に加わった真田氏は
智謀と武勇の才能目覚しく、信玄から北信濃の経営一切を任されていた。さらに武田勝頼が北上野に
進出すると、北信濃と併せて真田氏が領有、武田氏滅亡後もその領土は維持された。具体的には
現在の長野県上田市近辺から吾妻山系をまたいで群馬県沼田市に及ぶ横長の領地である。
しかしこの沼田という地、北条氏や上杉氏とも隣接する“三つ巴の境界線”という場所。
沼田を狙う戦いは熾烈を極め、特に“関東の覇者”たらんとする北条氏政(既に氏康から代替わり)の
攻勢は執拗で、真田氏にとっては“因縁の地”となる要所であった。
一方の徳川氏、本能寺の変で甲信を領土に加えたが、その際に同じく旧武田領を狙ったのが
隣接する大大名・小田原後北条氏であった。実は北条氏も甲斐に派兵し、勝頼が再起を託した
新府城の近辺で1582年の8月に徳川・北条の両軍は対陣し、一触即発の危機を迎えた経緯が
あったのである。しかし結果として和議が成立、北条氏は兵を引き甲信を徳川氏が占拠。
徳川と北条の間には戦闘転じて不戦同盟が結ばれ、両家の絆は強まった。旧武田領の安定を見た
真田氏は、武田氏に代わる新たな主君として徳川氏を仰ぐ事となり、その傘下に加わるのであった。
ところが、ここに見えない落とし穴があった。徳川・北条同盟の約定の中に、上野国沼田領は
北条氏のものとする、という一文が在ったのである。甲信を徳川が領有する代わりとして、
関東での統治は北条の意向を優先させる政治的妥協案であった。真田氏の新たな庇護者となった
徳川氏は、この条項に基づき真田家当主・真田昌幸(さなだまさゆき)に沼田領の割譲を命じる。
信玄に仕えた真田幸隆の長男・信綱と2男・昌輝は共に長篠の合戦で戦死しており、
3男・昌幸が真田の家督を継いでいたのだが、父や兄が命を削って獲得した沼田領をそう簡単に
明け渡せる筈がない。徳川と北条が勝手に決めた約定など、自分にとっては何も知らぬ話で
あくまで徳川が沼田を手放せと言うのなら、離反してでも拒否する覚悟であった。

第一次上田城攻防戦(2) 〜 “家康の天敵”真田昌幸、徳川軍を撃退す
このため昌幸は徳川氏と対立。また、沼田を狙う大敵・北条氏に従うはずもない。となると、
山間の小大名・真田氏としては東国三強の残る一角、上杉氏を頼りにする道を選んだ。
1585年の7月頃、真田昌幸は徳川家康から上杉景勝へと盟主を替えたのである。
この造反劇に面目を潰された家康は激怒。先年の小牧・長久手の戦いからまだ間もなく、
戦後復興中であったにも関わらず、同年閏8月に譜代の功臣・鳥居元忠(とりいもとただ)
大久保忠世(おおくぼただよ)らに命じて7000もの大軍で真田氏の本拠地、上田を
攻めさせたのである。上田城は天険の要害に築かれた城ではあったが、実はこの時まだ未完成で
しかも上田防衛に動員できる兵力は2000にも満たなかった。どう考えても、真田軍に勝ち目はない。
ところが、父・幸隆に劣らぬ智謀の持ち主であった昌幸は、徳川の大軍を計略に嵌める手段を
考え付いた。以下の地図と照らし合わせながら戦況を紹介しよう。@上田の南東から城下に迫った
徳川の大軍は、千曲川の支流・神川(かんがわ)を渡河し上田城を目指す。通常、軍勢が
川を渡る時は、それだけで危険を伴うため迎撃するには最適の場所であるが、昌幸は敢えてこれを
行わず徳川軍を看過した。しかしこれが昌幸の作戦で、渡河点の待ち伏せが無かった事に
気を良くした徳川軍は、勢い勇んで先へ進もうとしたのである。Aところが上田の城下町に
入った徳川軍は、町屋の隘路に進軍を阻まれ、思うように行軍できなくなる。この時、真田方は
散発的に抵抗の素振りを見せ徳川軍を苛立たせた。川を難なく渡りせっかくここまで来たのだから
細く曲がりくねった道やさほど効果の無い交戦に時間を費やす事なく、早く上田城を攻め落としたい
という焦りを徳川方に生じさせたのである。渋滞に悩まされた結果、徳川軍は突出して先行する部隊と
後方で取り残された部隊に隔絶が生じ、間延びした状況に陥ったのであった。
第一次上田城攻防戦第一次上田城攻防戦
Bようやく上田城に辿り着いた徳川軍の先鋒は、後続部隊の進行状況も確認せぬまま盲目的に
城内への突入を開始した。一方、待ち構える昌幸は徳川軍をわざと城の二ノ丸にまで侵入させ
袋の鼠にしたところで一斉攻撃を開始。城下町と城内の罠で後続と分断された徳川軍は
せっかく大軍を動員した有利を活かす事ができなくなっていたのである。このため、僅かな兵で城に
攻め込む形となった徳川軍。こうなると募兵と言えど城に籠もる真田軍に対抗できるはずがない。
昌幸は城に入ってくる敵兵の量をコントロールし、十分にひきつけた所で的確に撃破したのである。
更には追い討ちをかけるようにタイミングを計って後方から昌幸の長男・信幸(のぶゆき)の部隊が
徳川軍の退路を絶つ。大混乱に陥った徳川軍は、先にも後にも進めないまま打ち倒された。
C城への攻撃を諦めた徳川軍は、もと来た道を撤退し始める。何とか神川まで辿り着き、
川を渡ろうとした時にまたもや昌幸の計略が襲い掛かった。予め神川上流で水を堰き止めておき
徳川軍が川に差し掛かる頃、堰を切って人為的に洪水を発生させたのだ。この水に飲み込まれ
徳川方の兵が多数溺死。結果、徳川軍の戦死者は1300にも及んだ。一方、恐ろしいまでの鬼謀で
徳川軍を翻弄した真田方の死者は僅か41名だけだったと言う。後年、上田城では再び攻防戦が
繰り広げられる事から、今回の戦いは第一次上田城攻防戦とされるが、小牧・長久手の戦いでも
秀吉の大軍をものともしなかった徳川軍が大敗北を喫した戦いとしてこの攻防戦は特筆される。
何より、それまで家康が負けた戦は武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いだけであり、
輝かしい徳川軍の戦歴に大きな汚点をつけた昌幸という武将は、以後“家康の天敵”と称された。
この戦いの直後、真田の援軍として上杉軍が到着。徳川軍と真田・上杉軍は膠着状態となる。
最終的には秀吉の仲裁で和議が成立、徳川家から友好の証として家康の養女が信幸に嫁ぐ事と
なった。対する昌幸は、上杉家を通じて秀吉への服従を成立させ、以降は信州における
豊臣政権の押さえ役として重要視されるようになっていくのである。
なお、信幸に嫁いだ姫の実父は徳川家中きっての良将として名高い本多忠勝(ほんだただかつ)
戦においては名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」を振りかざして奮戦する無敵の勇士として知られ、
政治においても家康の信に足る働きを成し遂げる彼は、徳川四天王の一人に数えられる忠臣で
その有能さはこんな狂歌に謳われ賞賛されている。
家康に 過ぎたるものが 二つあり
 唐(から)の頭(かしら)に 本多平八(ほんだへいはち、忠勝の事)




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