賤ヶ岳の合戦

三法師の後見人となった事で天下取りの権利を得た秀吉。
しかしそれは織田家をないがしろにする行為にも受け取られた。
秀吉の横暴を何としても阻止したい高潔漢・柴田勝家は
北陸の雪の中で打倒秀吉の思いに燃えさかる。
信長没後の雌雄を決すべく、織田家臣の二大巨頭
羽柴秀吉と柴田勝家が今、激突する。


信長の葬儀 〜 羽柴秀吉の後継者宣言
清洲会議から3ヵ月後、1582年9月。秀吉は京において信長の葬儀を盛大に執り行った。
織田家の他の諸将に諮る事なく、独断専行での葬儀開催である。その意図は、
生死定かならぬ信長が死んだと確定させ、さらには信長の後継者が他の誰でもなく
自分であると喧伝する所にあった。誰にも文句は言わせない、信長の時代は終わり
秀吉の世が始まったという宣言だ。この葬儀は秀吉の政治的アピールに他ならなかった。
当然この行為に、勝家は怒った。他の武将と協議もせず勝手に「信長が死んだ」と決め付け、
織田家の一武将に過ぎぬ秀吉が、まるで天下人になったように振舞ったと解釈したからだ。
そもそも秀吉は、陰険な政治工作で幼少な三法師の後見人になったに過ぎず、
織田家の後継者はあくまでも三法師、秀吉はその配下に徹するべきである、というのが
彼の主張であろう。秀吉許すまじ、と決心した勝家は来るべき決戦に備えて動き始める。
織田信孝・滝川一益もこれに同調。しかし、季節は夏を過ぎ冬を迎えつつあった。
勝家の領国・越前は雪に埋もれる頃である。彼は軍備を整えつつ、春を待たねばならなかった。
一方、秀吉も勝家の出方を見定めつつ行動を開始した。信長の葬儀執行で勝家が
動き始めるのは予め予測できる事だったからだ。まず手始めに旧領・長浜を攻略。
清洲会議後、長浜城主に任じられていた柴田勝豊(かつとよ、勝家の養子
養父・勝家と必ずしも良好な関係ではなかった。これに注目した秀吉は勝豊に降誘の声をかけ
同年12月、まんまと寝返らせる。清洲会議から半年にして早くも秀吉は長浜を奪還したのだ。
同じ頃、秀吉は余呉湖畔の賤ヶ岳に陣城を構築。賤ヶ岳は近江と越前の境界に近い要地で
来るべき秀吉vs勝家の決戦場となる事が予想される場所だったからだ。1582年の暮れ、
勝家も、秀吉も、互いに激突する時を、そして場所を計算しつつ睨みあっていた。

★この時代の城郭 ――― 戦国大名の陣城
一般的な城郭のイメージと言うと、現在は観光地化されたような近世城郭が思い浮かぶだろう。
大名の居城となり、領国統治の政庁となり、総力戦を耐える巨大な防衛構築物だ。
それ以外の城郭と言うと、小さな村の領主が館を構えた地方の小城・陣屋とか、
「城」というよりも「屋敷」と言うほうが適当な居館址とか、せいぜいそんな感じだろうか。
「陣城」と言われてもピンと来ない人の方が多いだろう。今挙げた近世城郭・陣屋・居館などは
主に支配階級である武将が居住した場所に厳重な防備を施した遺構の事だが、
ではいったい、陣城とはどのようなものだろうか。簡単に言えば、野戦陣地や砦の類だ。
合戦というもの、簡単に1日2日で終わるものではない。軍を発し、行軍し、敵と遭遇しても
すぐには手を出さず、様子見をしたり策を練ったりする事もある。となればその間、
率いてきた軍勢を逗留させる場所が必要だ。もちろん、時節を見計らって総攻撃をかけ、
あるいは敵軍が先に攻撃を仕掛けてくる事もあり得る訳だから、ただ野原に無防備な
展開をしているという事が許される筈はない。備えもなく油断して軍を留めるなど、
およそ戦をする武人ならば絶対に行ってはならないものである。そこで築かれるのが陣城だ。
軍勢を待機させ、敵の襲撃を防ぐための野戦陣地だが、臨時のものと言えども、
自軍の現場拠点となるような防備を施すのである。周囲を柵列で囲い、塹壕的な堀を掘削し、
土塁を構築し、もちろん出入口となる場所は虎口の形状を整える。
さすがに「その場しのぎ」の陣地なので、石垣や恒久的な建物まで用意する事は滅多に無いが
それでも、縄張り的には立派な城郭と呼べる構造になっている。戦国モノのドラマなどでは
派手な合戦シーンばかり映像化され、こうした陣中の情景はなかなか描かれないので
現代人にとって想像し難く、また、近世城郭のように現在まで残る遺構も少ないため
(正確には「風化してわかりにくくなっている」と言うべきか)陣城が史跡として
一般的に知られ易いものにはなっていないのが現状だが、実の所、「城」と定義される
史跡たるや、圧倒的に陣城の数が多いのである。当然の事だが、大名の居城となる城は
一国に1城か2城程度しかない。それに比べ陣城は、合戦の数だけ、軍が行動しただけ
次々と築かれたのだから膨大な数量になるのはお分かりであろう。
居住するためではなく、戦の時だけ臨時に使い、陣を引き払えば放棄する城郭。
しかしそれは合戦時になくてはならない自軍の行動拠点となるものだ。特に織田家の武将は
大小問わず、合戦時にこうした陣城を多用する傾向が見られ、小谷城の攻城戦や
秀吉の播磨攻略時などに数え切れないほどの小城郭を構築してきた。そして今、
来るべき決戦に備え、早くも賤ヶ岳近辺で秀吉が、勝家が陣城を築きはじめたのである。


秀吉軍、伊勢と岐阜へ 〜 信孝と一益の陽動作戦
年が明けた1583年の正月、岐阜の信孝と伊勢長島の一益が動いた。北の勝家だけでなく、
彼らも秀吉に敵対し、南や東からも羽柴方を包囲するという意図を明確にする示威行動である。
北国の勝家が例え雪で動けずとも、我々がお前の相手をするぞと言わんばかりの開戦に
秀吉も臆する事なく対抗。すぐさま軍勢を差し向け、岐阜城に籠もる信孝の鼻っ面を
完膚なきまで叩き潰した。叩き上げの秀吉と、経験不足の3男坊では格が違うと言うもので
勇ましく戦を起こしたものの信孝は遭えなく敗退。降伏を余儀なくされる。
しかし伊勢は話が違った。さすがに一益は歴戦の強者、関東で北条方に敗れたと言えども
本拠地の長島で挙兵したとあらば、秀吉軍を相手に頑強な抵抗を継続したのだ。
そもそも長島と言えば、信長さえも一向一揆の鎮圧にてこずった要害の地。
木曽三川下流域に広がる輪中の島々はそれだけで天然の水濠に囲まれている事を意味し
そこに名将たる一益が罠を仕掛けて待ち構えているのだから、秀吉と言えども
そう簡単に攻略できるものではない。一益の籠城は数ヶ月に及び、季節は冬から春へと
移ろっていく。滝川軍が貴重な時間を稼ぎ、北陸も雪解けを迎えようとした3月、
ついに勝家が軍勢を率いて居城・北ノ庄城を進発し南下を始めた。こうなると秀吉も
越前方面に軍を出さねばならなくなり、伊勢と北近江の2正面で戦わねばならなくなる。
一益の陽動作戦は功を奏し、勝家との挟撃態勢が整ったのだ。3月9日、勝家の軍勢は
近江国に入り、これに対する秀吉も2万の兵を率いて余呉湖畔に展開。17日から両軍は
睨み合い状態になった。予測通り1583年の春、賤ヶ岳付近で決戦が行われようとしていた。
さらに事態は動く。一度は降伏した信孝が、勝家・一益の挟撃作戦に呼応し再び挙兵。
当初の目論見通り、柴田方連合軍は近江・美濃・伊勢の3方面で秀吉軍を包囲したのだった。

賤ヶ岳の戦い(1) 〜 秀吉軍、再度の神速で美濃・近江を往復
実の所、幾多の戦いを「物量・兵力の効果的配分」で勝利してきた秀吉にしてみれば
近江・美濃・伊勢の3方で戦いが始まったとしても、巧みな計算で乗り切る方法を
考え付いていただろう。しかしそれでも伊勢で長期戦をし、慌てたように近江に兵を戻し
さらに信孝の再挙兵を許したのは、「三者を上手く順番に叩く」下準備だったと言える。
秀吉が三方面作戦に手間取る(ように見せる)事で、柴田方の武将を油断させる策だ。
その仕上げとして秀吉は4月17日、近江方面の軍をいったん引き上げ美濃方面に向かった。
最小限の足止めをする部隊だけ賤ヶ岳に残し、信孝の挙兵で慌てたように大垣まで
兵を動かしたのだ。これは秀吉軍が手薄になったのを見て、勇み足を踏む者を誘う作戦。
果たして、その罠に嵌まった者は―――金沢城主・佐久間盛政だった。
20日、盛政は賤ヶ岳山麓の大岩山で守備する秀吉軍の中川清秀隊に対して突撃を敢行。
この奇襲は成功し清秀は戦死、中川隊は壊滅する。勢いに乗った盛政はそのまま軍を進め、
賤ヶ岳の砦を占拠しようとした。しかし、戦列から突出した盛政は賤ヶ岳の山中で孤立する事を
意味し、その愚挙に気付いた勝家は何度も盛政に撤退命令を下す。が、調子付いた盛政は
秀吉軍主力がいないうちに武功を稼ぐつもりだったのだろう。主君からの命令を無視し
賤ヶ岳山中から兵を退こうとしなかった。盛政のこの行動が、柴田勢崩壊の引き金となる。
同日夕刻、大垣で盛政の動きを報告された秀吉は、即座に兵を返し賤ヶ岳へ向かった。
秀吉は街道沿いの民衆に協力を求め、夜の道に篝火を燈させ、食事の炊き出しをさせており
この手配によって軍勢は大垣〜賤ヶ岳の間、52kmの距離をわずか5時間で移動した。
計算上、歩兵の行軍において時速10kmを5時間連続で継続した事になる。驚異的速度の行軍は
しかし中国大返しで備中高松から天王山まで移動した手法の再現であった。
圧倒的物量の的確な高速移動、これこそ秀吉軍の真骨頂と言え、それを見抜けなかった盛政は
突撃作戦を開始した時点で負けていたのである。さすがに勝家は秀吉の狙いを察知していたが
その声も盛政には届かなかった事が致命傷となった。日付が替わり21日、盛政の目前には
そこに居ないはずの秀吉軍主力が並び、絶体絶命の窮地にたたされたのである。

賤ヶ岳の戦い(2) 〜 賤ヶ岳“九”本槍の活躍と前田利家の戦線離脱
21日、午前2時頃。慌てた盛政隊は賤ヶ岳から撤退し山を転がり落ちていく。当然、秀吉軍は
追撃を行ってうしろから斬りかかった。一方、盛政の危機を救うため柴田方からは柴田勝政隊が
応援に駆けつける。盛政・勝政の軍勢と秀吉軍は大混戦になるものの、“追う側”の有利を活かし
夜明け前には秀吉軍が圧倒、盛政隊・勝政隊を各個撃破した。この戦いで特に活躍したのが
秀吉子飼いの将9人である。先に紹介した加藤清正・福島正則に加え、加藤嘉明(よしあき)
片桐且元(かたぎりかつもと)脇坂安治(わきさかやすはる)平野長泰(ひらのながやす)
糟屋武則(かすやたけのり)桜井佐吉それに石川兵助(いしかわひょうすけ)だ。
この9人は秀吉から「一番槍」の武功を称えられ、それぞれが大きな加増を受ける。
福島は5000石、石川は戦死したため弟に1000石、他の7人は各3000石ずつ。どれも年齢・身分に
比べて破格の待遇である。石川が戦死し、戦いの後ほどなくして桜井は病死したため、
残された7人の武功が大きく評価され“賤ヶ岳七本槍”の功名が流布するようになったが、
本来“九本槍”であった彼らの働きによって賤ヶ岳合戦の勝敗が決した。ちなみに、
“賤ヶ岳七本槍”という称号は、かつて信長の父・信秀が今川義元の軍勢と戦った
小豆坂の戦いで武功を挙げた七将士“小豆坂七本槍”の勇名に倣ったものと言われる。
さて合戦時、柴田軍にもう一つのアクシデントが発生した。盛政隊や勝政隊が壊滅した明け方頃、
勝家の与力として後方を支えていた前田利家の部隊が戦線離脱、撤退を始めた。利家は信長から
勝家配下として北陸方面攻略を命じられ、本能寺の変以後もそのまま勝家と共に行動してきたが
もともと秀吉の大親友であり、羽柴方との戦いを望んでいなかったようだ。戦況不利を見るや
利家は独自に陣を引き払い、自城の府中城(福井県武生市)に撤収。これに続き、同じく秀吉と
懇意であった金森長近(かなもりながちか)不破光治(ふわみつはる)らも撤退。
主力を失った柴田軍は総崩れになり、ここに秀吉の大勝利が決定した。

北ノ庄城、炎上 〜 浅井三姉妹またも落城の憂き目を見る
多数の兵を失った勝家は居城・北ノ庄城へと落ち延びる。機を逃さず、秀吉はそれを追撃する。
両者の間に挟まれたのが前田利家であった。主君・勝家の恩義と大親友・秀吉との交誼。
そして今、府中城の北にある北ノ庄城に向かい、南から羽柴軍が迫る。政治的にも、軍事的にも
利家は2人の中間に立っていたのである。悩みぬいた利家は22日、秀吉に処遇を任せた。
勝家に与した敗軍の将として蔑まれるならば敵であるし、友として復縁するならば味方になる。
これに対し秀吉は、当然のように利家を迎え入れた。敵でも味方でもない、我々は仲間だと。
秀吉の大器を見た利家は、これ以後羽柴家への臣従を誓った。友ではなく、秀吉の家臣として
今からの生涯を生きる決心をした利家。勝家もまた、利家の辛い立場を理解し、秀吉への
投降を黙認する。秀吉に負けず劣らず、勝家も義に篤い大器の将であった。
とは言え、既に勝家と言えどこの戦況を覆すだけの技量は無かった。利家を降した秀吉は
大挙して北ノ庄城へ押しかけ城を包囲。秀吉と勝家、共に天を仰ぐ事のない敵同士であり
どちらかが死を迎えない限り、両者の戦いが終わる事はない。秀吉は何としてでもここで
勝家を葬り、天下取りに王手をかけるつもりであった。
もちろんその理屈は勝家も理解していた。戦って死すまで2人の対決は終わらない。
もはや天運決した戦況ならば、逃げて争いを長引かせるのではなく、この場で城を枕に
討ち死にする覚悟であった。24日朝、羽柴軍の総攻撃が開始されるや勝家も激烈に抵抗し
最期の意地を見せ付ける。大激闘が続いたものの、じりじりと柴田軍は押し込められ
夕刻、勝家の籠もる天守に火がかかった。燃え盛る城の中、遂に勝家は自害。
辞世の句は次のものであった。
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
城主・勝家が死した事で北ノ庄城は落城。勝家と再婚したばかりであったお市の方は、
小谷城に続いて2度目の落城を迎えた事になる。秀吉はお市の方や娘達の投降を呼びかけたが
政略結婚に翻弄され、2度も夫の死を経験する立場になったお市の方は、生き延びて
残された日々を悔念で過ごすのは耐えられなかったに違いない。勝家と共に、彼女は自害し
“戦国絶世の美女”と評されたその姿は、燃える北ノ庄城の中に消えたのである。
しかし彼女も人の親、歳若い娘たちを道連れにするのは忍びなかった。屈辱的とは言え、
茶々・初・小督の三姉妹は城を落ち延び秀吉に引き取られる事となる。お市の方の忘れ形見として
三姉妹は大切に遇されたものの、一方で秀吉の政治的道具としても使われる運命が待っていた。
戦国女性の悲劇としてお決まりの政略結婚である。後年、長女・茶々は秀吉の側室とされ
2女・初は秀吉配下の京極高次(きょうごくたかつぐ)に嫁ぎ、京極家への抑えとされる。
3女・小督は佐治一成(さじかずなり)の嫁にされるも、その後に紆余曲折を経るが
これは又の機会に記す事にしたい。なお、お市の方の辞世の句も掲載しておこう。
さらでだに うち寝るほどの 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな

信孝自刃、一益降伏 〜 秀吉の戦後処理
秀吉軍に連動し、織田信雄の軍勢も動いていた。戦う相手は犬猿の仲である弟・信孝。
岐阜城に籠もる信孝は反羽柴包囲網を形成していたつもりであったが、逆に秀吉と
信雄の挟み撃ちに遭っていたのである。そうこうしている間に、盟主・勝家が敗死。
信雄軍に加えて越前から戻ってきた秀吉軍も岐阜城を包囲。信孝は一転、勢いを失い、
生き延びる道も失った。先に一度降伏した経緯のある信孝は、二度とは許されず
秀吉と信雄から自害を命じられる。大いなる怨みを抱きつつ、観念した信孝は5月2日に
尾張国内海で自刃。信孝は死に際し、以下の句を辞世として残した。
昔より 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前
何とも凄まじい秀吉への怨嗟に充ちた句であるが、ともあれこれで美濃の戦いも終結。
残るは伊勢長島の滝川一益のみである。長島城は年明けからずっと継戦状態にあり
陽動作戦の大任を果たしてきたものの、勝家も信孝も亡き者となっては戦い続ける意味が
なくなっていた。事ここに至り、とうとう一益も降伏。歴戦の名将だけに、引き際も心得た
一益の対応である。不倶戴天の敵・柴田勝家は抹殺せねばならぬ必要性から、また
無能な小倅に過ぎない織田信孝は生かしておく意味がない事から討ち滅ぼした秀吉であったが
一目置くべき良将・滝川一益は「殺すべきではない」と判断したのであろう。滝川家は
以後、秀吉政権の下で細々とした禄を得ながら家名を存続させた。と言っても、一益は
敗軍の将。長島開城以後、第一線を退いて隠退し、1586年にひっそりと世を去った。
加えてもう一人、賤ヶ岳敗戦のきっかけとなった佐久間盛政について。罠に嵌まったとは言え
中川清秀を討ち取った点に見られるよう、彼の軍事における才は秀でたものがある。
このため秀吉は、戦後捕らえた盛政に対し臣従を求め今後の戦いで用いようと考えていた。
しかし武辺の将たる盛政は、それ故に一本気な剛直者。勝家の恩義に報いるため、
秀吉への服属など真平御免と拒絶し、斬首を求めた。説得は無理と諦めた秀吉は、彼の望み通り
洛中引き回しの上で処刑を命じる。豪傑・盛政は、死の瞬間まで秀吉と戦い続けたのだった。

大坂築城開始 〜 天下人・秀吉の威光を示す巨大要塞
合戦後、池田恒興は織田信孝の旧領・美濃へ国替えとされた。もはや池田家は、
秀吉の忠実な臣下となっていたのである。さらに6月、信長の一周忌法要を秀吉が執行。
葬儀に続き、秀吉が天下人としての権威浸透を狙ったものだ。こうして秀吉は
畿内要所を自領とし、確実に天下を手にする政治体制を構築しつつあった。

★この時代の城郭 ――― 大坂城:天下人・秀吉の望みを体現した城
満を持した1583年8月、摂津国は石山本願寺の跡地に新たな城を築く工事を開始する。
石山は10年もの戦争を耐え抜いた天下第一の堅固な要害であり、そこには信長も安土城に代わる
天下統一の仕上げとなる城を築く予定だったと言う。その城を秀吉が着工したという事は、
天下人として無敵の要塞を構築し、他の大名を全て服属させて日本全土の統治を行う意図が
示されていたのである。池田家を摂津から美濃に移したのは、築城用地確保の為に他ならない。
新たな城は名軍師にして名築城家の名高い黒田官兵衛が縄張りを担当し、幾重もの堀に囲まれ
しかもその塁壁は巨大な石垣によって固められていた。無論、櫓は数え切れぬほど林立し、
秀吉の権勢を誇る壮大華麗な御殿や庭園までも築かれ、軍事的にも政治的にも
秀逸な作りとなる新城には信長の安土城天守を上回る、当時最大の天守が築かれる。
下見板貼りで漆黒の天守は最上階の外壁に黄金でできた虎や鶴の姿絵が飾られ、
遥か遠くからでも眺める事ができた。加えて秀吉の築く城郭らしく、屋根瓦も金箔押し。
全てが金色で彩られた大城は、秀吉の威光をさらに輝かせ四海に広げる演出装置であった。
その城の名こそ、大坂城。
外郭には秀吉家臣団や服属諸大名の屋敷地が建ち並び秀吉の政権に従う事を義務付けられ
その広大な城域の外部には、近隣都市の民が移住させられ、城と同時に巨大な城下町も形成。
秀吉は城と共に一大商業都市・大坂の町をも成立させたのである。広々とした摂津平野に
秀吉の望む形で造られた大坂城と城下町。その姿は宣教師らによって海外にまで喧伝された。
信長が安土城で示した「中央集権体制を表す城郭」の理念は、大坂城にも踏襲されたのである。
そんな大坂城の築城・拡張工事は数次に渡って行われ、最終形態が成立するのは何と
秀吉が没した後にまでなったが、それだけ厳重な防備を構えた城郭だったとも言える。
秀吉自身をして「堀を埋めぬ限り、この城は落とせない」と豪語するほど
大坂城の備えは鉄壁なものであった。
豊臣期大坂城天守復元CG豊臣期大坂城天守復元CG [(C)3kids]

天下の新たな中枢となる城が築かれた事で、当然、安土城の再建は沙汰止みとなる。
それは即ち、三法師改め、元服して織田秀信となった“建前上の”天下人が用無しとなった
事を意味した。秀吉の大坂築城は、名実共に秀吉が天下の中心となった瞬間でもあったのだ。




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