清洲会議

秀吉、光秀を討つ―――。
天下の支柱・信長が消えて混乱する中、
その情報は全国の諸大名だけでなく
織田家の中でも大きな衝撃をもたらした。
農民出身の者が、天下覇業に大きな楔を打ち込んだ事で
新たな進展と対立の構図が明らかになりつつあった。


北陸諸将の戦い 〜 筆頭家老・柴田勝家、信長の弔い合戦に間に合わず
筆頭家老・柴田勝家は北陸方面軍を統括、越前の北ノ庄城(福井県福井市)を居城として
北国への進出に勤しんでいた。1577年、能登畠山氏滅亡時において軍神・上杉謙信が
越中・能登を併呑し、それに連携した加賀一向一揆は活発な抵抗活動を展開、勝家の
能登進出は煮え湯を飲まされたが、謙信死後、上杉家は御館の乱なる家督騒動を起こし
領国統治を遅滞させ、石山合戦終了により加賀一向一揆も壊滅。そうした間隙を突き、
1582年当時の勝家は加賀・能登・越中までも支配下に収めていたのである。
加賀の本拠として金沢城を築き、配下の佐久間盛政が入拠。同じく能登には小丸山城の
前田利家、越中には富山城の佐々成政が配され、いよいよ強敵・上杉家の本領である
越後を狙うべく軍勢を進発させる。当然、上杉景勝によって家督騒動を収めた上杉方も
勝家の侵攻を阻止するために大軍を発し、両者は魚津城周辺で激しい攻防戦を繰り広げた。
魚津は越中と越後の境界地。勝家が悲願の越後進出を果たすか、景勝が織田軍を越中に
押し戻すか、越中・越後国境をめぐり両者は一歩も引かぬ覚悟で戦っていたのである。
そんな最中に発生した本能寺の変。勝家としては当然、織田家の危機に直面した今
一刻も早く京都へ引き返さねばならなかったであろうが、目の前にいる上杉軍を
放り出しては背後から痛撃を食らう嵌めになる。しかし、互いの威信を賭けた魚津の戦いで
そう簡単に和睦が成る訳もなく、為に停戦が遅れてしまったのだった。
どうにか上杉方との停戦にこぎ着け、魚津から京都に向けて柴田軍が取って返す頃
既に山崎で秀吉が明智軍を破り、信長の仇を討ってしまっていた。こうなっては
織田家筆頭家老たる勝家の面目は丸潰れである。信長に命じられた北陸攻略を
真面目一徹に遂行し、京から遥か遠い越後国境まで軍を進めていた故の悲劇であった。
とは言え、勝家としてはこれで終わる訳には行かない。信長亡き今、織田家筆頭家老として
家中の混乱を収め、今後の方針を決定する仕事が残っているのである。勝家は、秀吉や
丹羽長秀など織田家重臣を一同に集めて会議を行い、織田家の舵取りを図ろうと動きだした。

清洲会議 〜 秀吉、頭脳戦も征する
勝家の呼びかけにより1582年6月27日、尾張国清洲城において織田家重臣会議が開かれた。
主な議題は織田家遺領の再編成、それと織田家家督継承者の決定である。出席者は
光秀を討ち果たした羽柴秀吉、織田家の有能な吏僚である丹羽長秀、信長の乳兄弟にして
摂津国伊丹城主・池田恒興(いけだつねおき)、それに筆頭家老・柴田勝家。
いずれも信長の覇業を支え続けた歴戦の勇将たちであったが、前述した通り河尻秀隆は戦死、
関東から敗退した滝川一益は会議出席に間に合わず、信長の2男・信雄と3男・信孝は
後継者候補である事から、会議での発言に馴染まないとして席を外された。実はこの兄弟、
水と油、互いに反発する犬猿の仲であった。それというのも、数日の差ながら信孝の方が
産まれは早かったにも関わらず、生母の格が高かった事から信雄の方を2男としたからだ。
(信長の実質的正室であった生駒の方が長男・信忠と同じく信雄の母である)
互いに「自分の方が相手より上位だ」と睨みあっている信雄と信孝。家督をめぐって
兄弟喧嘩を起こすのが目に見えている両者を会議に参加させる訳にはいかない。
こうして、秀吉・長秀・恒興・勝家の4人だけで開催された清洲会議。しかしその結果は、
秀吉が思う方向に進むばかりのものであった。まず領土分配であるが、信雄には伊勢・尾張を、
信孝には美濃を配分。大和は従前通り筒井順慶が領有、伊賀には信長の弟である
織田信包(のぶかね)が入った。池田恒興は今までと同じく摂津近辺を安堵。
問題はここからだ。北陸方面を束ねる柴田勝家には、何と秀吉の旧領であった近江長浜が
割譲された。勝家は能登・越中から北近江まで、北陸地方の全域を得たのである。
しかし、それは秀吉の与えた餌に過ぎなかった。対する秀吉は、自らが攻略してきた
播磨・但馬・因幡に加え、畿内要地である山城・丹波・河内を領地としたのである。
かつて信長が大津や堺を直轄地とし、室町幕府の官制を拒んだのと同様に、秀吉は
実利を優先し、今後の天下統一に必要な土地を好きに選び取ったのだ。
勝家に与えた長浜はいつでも取り返せる目算があったのだろう。
また、秀吉と勝家の領土に割り込む形で丹羽長秀が若狭と西近江を領有したのだが、
池田恒興・丹羽長秀らは山崎の合戦以後秀吉に同調(と言うかほぼ臣従)していたため、
結局のところ中国地方〜畿内全域に渡り秀吉が影響力を行使するようになったと言える。
清洲会議後の旧織田領再編
清洲会議後の旧織田領再編

で示したのは羽柴秀吉領
で示したのは柴田勝家領
で示したのは親羽柴(臣従)武将領
で示したのは親柴田武将領

実質的にはのほぼ全域が
羽柴秀吉の影響下に入った領土であった

池田・丹羽らは秀吉の硬軟織り交ぜた降誘により
清洲会議の時点で既に同調しており、堀・筒井は
秀吉が天下の主導権を握った事を察知しほぼ臣従、
織田信雄は一応織田家後継として独立を保ったが
信孝に対抗するため(信孝は勝家と手を組んでいた)
羽柴方と同盟を結ぶに至っていた。これにより、
秀吉は中国・近畿の大半を勢力圏にした事となる。
次に問題となったのが織田家の後嗣決定である。後継者候補とされていたのが上記の通り
信長の2男・信雄と3男・信孝であった。両者を比較した際、どちらかと言えば3男の信孝が
力量に勝ると評価され(と言っても、五十歩百歩なのだが)、織田家の遺臣からは
信孝を推す声が上がっていたという。柴田勝家はかねてから信孝と懇意であった事もあり、
当然、信孝を織田家の後嗣に推挙した。筆頭家老の推薦とあっては、信孝が織田家後継の座に
最も近かったと思われたのだが、これに待ったをかけたのが秀吉である。この時すでに
天下統一の覇業を自分が成し遂げると決意していた秀吉は、対抗勢力である勝家の意見は
何としても封じなければならなかった。そこで秀吉が推挙したのは、三法師(さんぽうし)
亡き信忠の嫡子、つまり信長の嫡孫にあたる子供だ。本能寺の変に先立つ1576年、信長は隠居し
形式的ではあったが、信忠が織田家の家督を継いでいた。もちろん実権は依然として信長にあったが
信忠に織田家の総領としての立場があり、その信忠(と信長)が亡くなったのであるから
織田家の家督は信忠の嫡子たる三法師にこそ譲られるべきだと秀吉は主張したのである。
しかも信雄は北畠家、信孝は神戸家に養子へ出された経緯もあり、2男・3男の出生では
彼らに「織田家嫡流」としての立場は薄いと言えよう。この点を巧妙に突いた秀吉の意見は
確かに勝家の主張よりも筋が通っていたし、何よりも勝家は信長の敵討ちである山崎の合戦に
参加していない。光秀を討ち倒した「天下第一の功労者」秀吉の意見は、もはや誰にも止められず
同じく山崎の合戦では秀吉軍に合流し「勝ち馬に乗った」丹羽・池田の両者は、当然のように
秀吉の意見に賛成せざるを得なかった。3対1の多数決で、勝家の案は却下され織田家の後継者は
三法師に決定。炎上した安土城を再建した後、三法師を城主に据える予定とされた。
とは言え、この時三法師はまだ3歳。政務を執れるはずがなく、三法師の後見人として
秀吉が選任される(無論、秀吉の筋書き通りの決着である)。という事は、織田家家臣団は
三法師の権威を代行する秀吉の意思に従わなくてはならないのだ。こうして事実上、織田政権は
羽柴秀吉によって継承される事となったのである。領土分配も、政権継承も、全て秀吉の思う通り。
山崎の合戦後、主導権を挽回しようとした柴田勝家によって開催された清洲会議であったが、
その頭脳戦も征したのは、やはり羽柴秀吉であった。

清洲会議後の各者 〜 勝家、長秀、そして家康
面目を丸潰しにされた勝家と、後継者の座を奪われた信孝。彼らの秀吉に対する怒りは頂点に達し
反秀吉の意図を以って連携、同盟を結んだ。会議の出席を逃し、秀吉の専横を止められなかった
滝川一益もこれに同調し、伊勢長島で秀吉に対抗する軍備増強に乗り出した。その上で勝家は
「織田政権」を秀吉に奪われた弱みを挽回するため、信孝と図り「織田家」との繋がりを
強めようとした。浅井長政の未亡人となっていたお市の方と再婚し、織田一門としての地位を
手にしたのである。斯くして、お市の方と茶々・初・小督の浅井三姉妹は勝家の居城である
越前国北ノ庄城に引き取られ、同地でつかの間の安寧を手にする事になった。
一方、勝家と並ぶ織田家の宿老であった丹羽長秀であるが、この時彼は病を得ており、武将としての
精彩を失いつつあった。それに伴い、次第に政軍の実務から離れていく。長秀が清洲会議で
秀吉に同調したのは、山崎合戦以後の形勢を秀吉有利と見ただけでなく、自分が衰えていき
これ以上、戦国乱世の争いに競合していく力を失いつつあったからかもしれない。結果として
清洲会議で秀吉に加担して以後、長秀が第一線を退いた事により、勝家以外に織田家臣団の中で
秀吉と対抗できる者がいなくなった事になる。清洲会議の3年後、1585年に長秀は死去。
その死にあたって、長秀は自身の腹を切って自害したというが、病魔の腫瘍を掻き切ったのか
それとも、秀吉の暴走に憤怒しての抗議だったのか。今となってはわからない事だが、ともあれ
丹羽家は秀吉の幕下に加わった事で家名を残し、江戸時代にまで大名家として存続していく。
さて、注目すべき人物はもう一人。忘れてはならない信長の盟友・徳川家康だ。
堺からの逃避行を終え、三河に帰着し態勢を整えた時、既に光秀は秀吉によって討ち果たされていた。
勝家と同様、家康も信長の敵討ちに間に合わず、弔い合戦の準備は無駄になった事になる。
しかし勝家と異なり家康にはその軍勢を持っていく先があった。河尻秀隆の戦死、滝川一益の
敗退によって空白地となった甲信諸国である。武田家が滅亡してまだ3ヶ月、織田家が再び
軍勢を整えて制圧するには遥か遠い甲信の地であったが、東海の家康ならば苦もなく軍を進め
混乱する各地を慰撫する事が可能であった。こうして家康は信長亡き後の混乱を制し、
主を失った甲斐・信濃・西上野の地を領有する事になったのである。この時、徳川軍は
信長の征服作戦のような強攻策を採らず、旧国主であった武田家の家風を尊重する手配をし
旧武田家の遺臣を積極的に登用、極めて穏健的な行いで甲信の民衆や武士を味方につける事に
成功した。家康は(信長によって破壊された)武田家の菩提寺・恵林寺を再建するなど
武田家の名誉を回復する事に努め、甲信諸国の領民を心服させていく。いつしか家康は、
東海のみならず甲信まで、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃という5ヶ国の太守にまで成長し
かつて今川義元が呼ばれていた「海道一の弓取り」という称号を得るようになっていた。

新たなる覇者・羽柴秀吉の前半生
さてここで、もう一度改めて秀吉と言う人物を紹介しよう。劇画などで有名だが、幼名は
日吉丸(ひよしまる)、1536年に尾張国愛知郡中村で生まれた。ここは現在の愛知県
名古屋市中村区、今でこそ名古屋駅の西側に広がる大都市となっているが、当時は一面の
水田が広がる農村であり、日吉丸も農民の子倅として生まれた最貧民の一人である。
幼くして実父・弥右衛門とは死別したと言われ、母親のなか、姉のともに育てられた。
後になかは竹阿弥(ちくあみ)と再婚、異父弟の小竹(こちく)らが生まれるが
(小竹の父は日吉丸と同父との説もあり)日吉丸はこの継父と折り合いが悪かったようで、
その頃から家を出て、諸国を流浪するようになったとされている。時に行商人となり、
時には駿河今川家の被官・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、武士の真似事も経験した。
各地の情報を集めたり、色々な職業の実情を垣間見、様々な人脈を築いた日吉丸。美濃の
川並衆頭領・蜂須賀小六正勝と知り合ったのも、この流浪時代の事だ。しかし、いずれも
長続きする事無く結局は中村に帰着し、偶然の縁から“うつけ”の信長に仕えるようになる。
「木の下で寝転んでいたサル小僧が、野駆け中のうつけ若殿に拾われた」というのが
劇画中でお決まりのパターンになっているが、真偽の程は分からないものの、実際
二人の出会いはこんなものだったのだろう。木下藤吉郎と名を改め信長に仕官して以来、
彼は細やかな気遣いで巧みに主君の心を掴んでいく。有名な“懐中の草履”のエピソードも
この当時の話である。今更言うまでもないかもしれないが、念のため。雪の降る真冬の寒い日、
外出しようとした信長が草履を所望した。すかさず藤吉郎が差し出した草履は暖かい。
「さてはサル、主君の草履を尻に敷いていたな、不忠者!」と怒る信長に対し、藤吉郎は
「いえ、殿の足を暖めるため草履を懐に入れて待っておりました」と答え、草履の泥で汚れた
自分の懐を見せた。なかなか小憎らしい心遣いに感心した信長は、以来この小者を
引き立てるようになったというのだ。家中の雑役から薪(たきぎ)奉行に昇格した藤吉郎は、
倹約を成功させ織田家の財務改革に貢献、さらには清洲城改修工事の責任者に命じられ
短期間でこれを成し遂げる功績を挙げたのである。次々と信長の期待に応える藤吉郎。
織田家の足軽として正式に登用され、弟の小竹改め小一郎を配下として抱えた彼は
ちょうどこの頃に織田家弓衆・浅野長勝の養女(実父は杉原定利)である
寧子(ねね禰々おねなどとも記されると結婚し、身を固めた。小一郎は後に
藤吉郎と共に羽柴の姓を賜り羽柴秀長(ひでなが)と名乗るようになる。秀吉の副官となり、
兄の功績を陰で支えた“縁の下の力持ち”として評価の高い秀長だ。また、寧子の実家・杉原家は
藤吉郎の姓である木下家を継承し、数少ない秀吉の親族衆として引き立てられるようになる。
ともあれ、寧子と結婚した後の秀吉は更に勤務に励み、美濃攻めでの墨俣一夜城構築や
竹中半兵衛・美濃三人衆の調略、信長が上洛して後の京都奉行職遂行などの功績を為す。
金ヶ崎撤退戦では殿軍を担当。浅井氏討伐では最も活躍したと評価され、遂に長浜12万石を
信長から与えられ、長浜城に母・なか達といった家族を迎え入れた。農民出身の者が、
才覚を活かして何と大名にまで登り詰めたのである。朝廷官位も従五位上・筑前守にまで昇進し
播磨攻略や毛利攻めといった織田軍中国方面総司令官としての仕事ぶりは今まで記した通り。
そして今、“稀代の成り上がり者”秀吉は、天下統一レースの最有力候補に躍り出たのであった。

後嗣不在の空白 〜 羽柴氏の「家庭の事情」
そんな秀吉の最も大きな悩みは、寧子との間に後嗣となる子供が産まれなかった事である。
清洲会議で信長の後継者が紛糾した通り、武将にとって跡継ぎの育成たるや御家の存亡に関わる
最重要問題なのだ。しかも農民出身の秀吉は、「父祖の代から続く歴代の家臣」となる者がいない。
家名を繁栄させるためには1人でも多くの家臣が必要だし、特に信用の置ける親族衆とならば
益々以って多くの人材を確保しなくてはならないのだ。ところが寧子と結婚して以来20余年、
秀吉には子が恵まれなかった。家を興した武将としての必要性からも、そして夫婦として
子を産み育てる幸せを寧子と共有するためにも、秀吉は子を欲しがったのである。
このため、秀吉は数々の養子・猶子を譲り受けた。小者時代から「サル」「犬千代」と呼び合った
大親友・前田利家からは4女・豪姫を養女に迎え、主君・信長からは4男・秀勝を養子に貰う。
さらに播磨攻略で縁を得た宇喜多直家は嫡男・秀家を秀吉に託した。その上、姉・ともの産んだ
3人の男子のうち2人までも養子に迎え入れている(羽柴秀次秀勝)。
1人でも多くの配下を得たい秀吉は、寧子の縁戚として木下(杉原)家も羽柴家一門衆として
取り立てているし、寧子は少しでも血縁のある子供を積極的に引き取って我が子同然に育て
“秀吉子飼いの武将”として役立つよう、熱心に武術や学問を教え込んだ。虎之助市松
それに佐吉といった面々がこうした子供達で、それぞれ長じて加藤清正福島正則
石田三成となり、秀吉の政権を政軍の得意分野で支えていった事はよく知られている。
それでもまだ“人たらし”秀吉は家臣確保に躍起となり、商人出身の小西行長や、還俗した僧の
前田玄以(まえだげんい、利家の前田家とは無関係を抱え込み、さらには丹羽家の
重臣であった長束正家(なつかまさいえ)溝口秀勝も引き抜き家臣団に加える始末。
人の心を掴むのに天才的才覚を持った秀吉ならではの人材確保術ではあったが、いやはや
四方八方に手を出す行動には恐れ入ったものである。秀吉は以後もまだまだ多くの人材を欲し
それと同じく、何としても実子を得るために様々な女性を側室に加えていった。
秀吉の節操無さ(?)を容認した寧子の寛容さにも頭が下がるものである。




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