山崎の合戦
光秀による奇襲を受け、業火の中に消え去った信長。
しかし、本能寺の焼け跡から信長の遺体は発見されなかった。
よもや信長は生きているのでは…。
焦る光秀は、事後の調略を狂わせていく。
そうしている間に、まさか考えられない駿足で
光秀打倒の軍が西から迫ってきた。
信長亡き後、新たな天下の主になる人物が歴史の主役に躍り出る。
中国大返し 〜 羽柴秀吉、危急の講和術
本能寺の変翌日、6月3日。備中高松城を包囲する羽柴秀吉の陣中に1人の男が突き出された。
何やら陣所の周囲で怪しい素振りを見せていたという。その男を調べると、1通の密書を
所持していた。密書の差出人は明智光秀、宛先は毛利軍。その内容は、本能寺にて光秀が
信長を倒した事、そして明智と毛利で手を結び天下掌握を狙う意志の表明であった。
この密使が捕らえられる直前、本能寺で信長に同伴し辛くも難を逃れた茶人・長谷川宗仁の
発した飛脚が秀吉に訃報を知らせており、光秀からの密書も併せて入手した事で、
光秀謀反の確証が得られた。毛利本陣に向かう密使を偶然にも捕らえた為、幸いにもまだ
毛利方に信長死亡の情報は伝わっていないが、この事実が毛利軍に知られては
攻守が逆転した事になり、秀吉は毛利と光秀の挟撃に遭う危険があった。何としても、
早急にこの戦いを終わらせねばならない。これまで秀吉は、備中高松城を攻めつつも
自軍に有利な条件で和睦を引き出す交渉も続けており、毛利方としても忠義の将
清水宗治を救援する道を探るため、毛利本隊4万の兵が布陣しても秀吉軍との直接対決は
避けて様子見を行っていた。それもこれも、信長本隊が来陣する事を見越しての
駆け引きであったのだが、頼みの綱である信長が亡き今、秀吉は決着を就けなくては
ならなくなったのである。軍師・黒田官兵衛は、和睦をまとめ速攻で京へ戻り光秀を討ち
秀吉が天下統一の覇業を継承するべきと主張。これに従い、秀吉は今まで引き延ばしてきた
停戦交渉を再開、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を自陣に呼び
和平条件を提案する。高梁川(現在の高梁市から倉敷市へと流れる川)以東の毛利領割譲と
高松城の明け渡し、城主清水宗治の切腹を引き換えに城兵5000名は赦免する内容であった。
未だ信長の死を知らない毛利方はやむを得ずこの条件を呑み、宗治もまた自らの命で
城兵が救われるならばと承諾した。この交渉中、早くも秀吉は別働隊を姫路へと先行させて
光秀討伐の準備を進める。斯くして4日午前に宗治が自刃し講和が成立した。
清水宗治、享年46歳。辞世の句は以下の通りである。
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
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その直後毛利方へも信長死亡の報が入り、秀吉は防備を固め5日まで毛利軍の出方を伺った。
毛利陣中では秀吉に嵌められ宗治を失った事を吉川元春が烈火の如く激怒、すぐさま
和平の誓紙を破棄し交戦に及ぼうとしたが、小早川隆景はそれを引き止める。
父・毛利元就の遺訓に従い「一旦交わされた盟約を破るは武士の道に在らず」と主張、
無益な戦闘を回避したのであった。この時隆景はその場に居た能役者を引見し詰問、
「目出度き処か、また修羅などの様なる処か、うたい申すべし」と命じる。これに対し
「四海波静にて、国もおさまる時津風」と能役者が歌い、騒乱する陣中を収めたという。
6日、秀吉は毛利軍の追撃を防ぐため高松城水攻めの堤防を自ら決壊させ、この機に乗じて
午後から撤退開始。「中国大返し」と呼ばれる大撤退作戦は昼夜晴雨を問わず敢行され、
秀吉は8日に姫路入城。翌9日早朝に姫路を発ち、11日には摂津国富田(とんだ)へ到着する。
先行させた別働隊の手配によって街道の宿場では行軍兵の食料を炊き出しさせており、
秀吉軍は移動しながら食事を摂れるようになっていた。また夜間には街道沿いに松明を
焚かせて進軍の目印とさせており、こうした差配によって安全かつ迅速に軍勢は畿内に
戻る事ができたのである。備中高松から摂津富田まで150km以上、わずか5日での移動は
当時の常識では考えられないほどの高速であり、驚異的な大返しと言える。
信長の敵討ち、そして天下取りへ向かう秀吉の決意は、距離も時間も縮ませたのである。
光秀の動向 〜 細川の果断と洞ヶ峠の日和見
一方、明智光秀は困惑していた。本能寺で倒したはずの信長は遺体が発見されず、間違いなく
死んだという確証がない。まさか逃げ延びているのでは…。光秀は大きな不安に悩まされる。
しかし、それだけに構っている暇は無い。他の武将たちが動く前に事態を沈静化させ
畿内の安定統治を図り自身の正当化をしなければ、逆賊となった光秀の未来はないのだ。
光秀は一刻を争って朝廷・諸大名・家臣・民衆・寺社勢力などとの交渉に当たらねば
ならなかった。以下、時を追って光秀の動きを記していく。
6月2日当日、光秀は信長の落ち武者狩りを京都全域で展開、同時に上杉・北条・長宗我部
毛利といった諸大名に連絡を取り、信長の死を報告すると共に同盟・従属を求める。
このうち、毛利家宛ての使者が秀吉に捕らわれたのである。然る後、安土城の接収を図るも
琵琶湖南部周辺を守る瀬田城主・山岡景隆(やまおかかげたか)が光秀に味方せず、
瀬田橋(琵琶湖南端を渡る橋)を焼き落としてしまったため明智軍は進めず、止む無く
坂本城へと帰還する。翌3日から4日にかけて、近江・美濃といった信長旧領の武将達に
同心を促す指示を発す。丹後国(京都府・福井県の若狭湾沿岸地域)を守る織田家重鎮
細川藤孝や、大和国を預かる筒井順慶らにも味方を要請した。5日に瀬田橋の復旧が成り
光秀は安土城に入る。同日、羽柴秀吉の城である長浜城を家老の斎藤利三に占拠させ、
同様に丹羽長秀の佐和山城を家臣の山崎片家(やまざきかたいえ)に奪わせた。
秀吉の家族はいち早く長浜城から脱出し、付近の山中で身を潜めたという。利三・片家は
そのまま城を守り、後日の備えとする。7日、勅使の吉田兼見(よしだかねみ)が
安土城を来訪、光秀と会談。翌8日には明智秀満を安土に残し、光秀は坂本城へ戻る。
9日、朝廷に参内。銀500枚を献上し、朝廷から信任を貰うべく交渉し、同様に各寺社へ
銀子を配って宗教勢力からも公認を取り付けようとした。京都町民に対しては免税の約束をし
何とか支持を得ようと奔走。しかしそれでも光秀に味方する者はほとんどいなかった。

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本能寺の変直後の畿内勢力状況 .
赤字で示したのは明智方の武将
青字で示したのは羽柴方の武将(含中立)
赤矢印は光秀軍の進路で
青矢印は秀吉軍の進路を示している。
秀吉軍は各勢力を集め4万近い大軍に増加したが
光秀軍は逆に配下武将を分散配置する結果となり
わずか1万3000程度の兵力で戦わざるを得なかった。
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光秀が特に頼りとした勢力が2つ。丹後宮津城の細川藤孝・忠興(ただおき)父子と、
大和郡山城に居る筒井順慶である。細川藤孝は言うまでもなく足利義昭に仕えていた頃から
光秀と行動を共にしてきた無二の友人で、両者の交誼をより一層深めるため、藤孝の嫡男である
忠興には光秀の娘・玉子が嫁いでいた。管領細川氏の家柄を継承する由緒ある家格にして
当然、朝廷にも顔が利く名士の藤孝は、武人としてのみならず文化人としても有名であり、
古今伝授の正統継承者(後述)である。その子である忠興も、父に劣らぬ風流の人で、
茶道においては千利休の直弟子として知られている。そんな当代一流の知識人父子たる
藤孝・忠興の両者は、光秀の誘いに対して明快な答えを出した。反乱への加担など、真平御免。
例え親友の依頼であっても理に適わぬ方法で天下を望む意志はなく、反逆と言う大罪を犯した
光秀に協力する事などあり得ない、という結論だ。信長の横死を知るや、藤孝は出家して
幽斎(ゆうさい)と号し、主君の菩提を弔う態度を明らかにした。また、忠興と玉子は
仲睦まじい夫婦として有名であったにもかかわらず、反逆者たる明智家に対する非難の証として
忠興は玉子を幽閉し、夫婦の間柄を切り捨てる。幽斎・忠興の父子は、光秀からの降誘を
頑として拒否し、今回の政変における不戦の態度を明確にした。細川親子の協力を期待し、
頼みとしていた光秀は大いに焦り、6月9日に再度の嘆願状を発したものの、遂に細川氏から
助力を得る事はできなかった。事後掌握を図る光秀の計算は、これで大いに狂ってしまう。

明智家を中心とした本能寺の変関係者(赤字は女性)
―は親子関係 ―は養子関係 =は婚姻関係
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筒井順慶に関しても同様の結果であった。大和国の国人勢力であった筒井氏は、戦国初期に
奈良興福寺という強大な寺社との関係を深めて他の国人衆を圧倒、大和最大の勢力になったが、
三好家の大和進出担当であった松永久秀の侵攻を受けて衰退、順慶の代となった頃に
久秀が信長への謀反で落命、光秀の助力を得てようやく大和国の領土を回復した経緯を持つ。
その後も順慶は光秀の協賛により織田家中での地位を高めており、言わば光秀は順慶の
恩人とも呼べる人物であった。当然、光秀は本能寺の変後の畿内掌握において、順慶から
「恩を返して貰えるであろう」という期待があったに違いない。しかし、順慶もまた細川親子同様に
謀反の片棒を担ぐ事などせず、せっかく回復した大和の領地を守る道を選んだ。再三に渡る
光秀からの援軍要請を無視し続けて「自分は如何なる勢力にも属さぬ」と彼は沈黙する。
返事の帰って来ない順慶を待ち、光秀は10日に洞ヶ峠(ほらがとうげ、山城・大和国境)まで
出迎えに行くものの、とうとう彼は姿を見せなかった。果断の決意で光秀と断交した幽斎に
比較され、消極的な傍観者に徹した順慶の態度から「洞ヶ峠」は日和見の代名詞になったが
いずれにせよ光秀は同盟勢力を得られず孤立無援、独力で事態を切り抜けるしかなくなった。
そうこうしている間に秀吉の大返しが知らされる。劣勢のまま、光秀は出陣を余儀なくされた。
山崎の合戦 〜 勝負の分かれ目は“天王山”
中国地方から大返しを果たして摂津まで迫った秀吉軍。この軍勢には各所の反光秀勢力が集まり
大坂で四国遠征準備を行っていた丹羽長秀や織田信孝(本能寺の変後、神戸から織田に復姓)の
軍も合流した。長秀や信孝は、大坂で共に出陣準備を行っていた津田信澄(つだのぶずみ)を
討ったものの、その後の動向を様子見するだけで動けず、秀吉帰還の報に接してようやく
軍の合流を決したのであった。ちなみに信澄は、かつて信長と織田家の家督を争った信行の
子(つまり信長の甥)にして、光秀の娘を妻に娶っていた人物。信行・光秀という信長の敵を
2人も縁者にしていた事から、彼は本能寺の変に加担したものと(確証はないのに)疑われ、長秀や
信孝に討たれてしまったのであった。信澄の件はともかく、長秀・信孝の軍をも味方につけた
秀吉の軍兵は総勢3万8000にも増加。一方、急遽その秀吉軍を抑えなくてはならなくなった光秀は
長浜や安土に家臣を分散配置して防備を固めようとした事が裏目に出て僅か1万3000程度の兵力で
戦う事になった。6月13日、山城国南端の山崎へと進出した明智軍。細川や筒井の援軍なく、
畿内の制圧もままならぬまま、まさかこんなに早く秀吉が引き返してくるとも考えておらず、
圧倒的苦境に立たされた状態での迎撃出陣である。逆に心理的にも戦力的にも優勢な秀吉は、
明智軍が山崎へ進んだと聞くやあっという間に軍を動かした。秀吉軍が布陣したのは天王山。
明智軍の展開する山崎の地を俯瞰する山で、「高所から低所へ攻めかかる」事が戦闘のセオリーで
ある以上、当然手にしておくべき場所であった。光秀は兵力に劣り、布陣地形も劣り、加えて
この日はあいにくの雨天。戦況を覆す鉄砲のような火器も使えぬまま、戦闘が始まってしまった。
もちろん、この戦いは秀吉軍の大勝。戦闘開始から2時間ほどで光秀軍は壊走し、敗残兵は
付近の勝龍寺(しょうりゅうじ)城へと逃げ込んだ。勝利に欠かせぬ地形・天王山を奪った事で
秀吉軍の勝ちが確定した事実に由来し、以後「天王山」は“勝負の分かれ目”という意味を持つ
慣用句になったのはよくご存知であろう。この戦いを山崎の合戦という。
(しかし両軍とも死傷者はほぼ同数で、そういった意味では光秀軍が大健闘したと言える)
明智光秀、消息を絶つ 〜 “三日天下”の顛末
山崎で善戦の末に敗北(?)した光秀は、13日夕刻いったん勝龍寺城に退却。
そこへ羽柴軍が攻撃をかけてきたが、夜陰に紛れて光秀は数名の供を引き連れ城から脱出、
本拠である坂本城を目指した。何とか自分の城に戻り態勢を整え、再起しようと考えたのだ。
しかしその夜、山城国小栗栖付近の山中で光秀は消息を絶った。この近辺には落武者狩りの
土民が多数出没しており、恐らく光秀もそうした農民の手にかかったと見られている。
この後、光秀のものと言われる首が羽柴陣中に差し出され、これを以って光秀が死亡したと
確定された。しかし、“切れ者”の光秀が本能寺の変後の事後掌握を余りにも無様に狂わせ、
大健闘した戦いで敗北・逃走し、勝龍寺城から脱出を成功させたにも関わらずあっけなく
土民の手で殺され、本物かどうかよく分からない首が出されて決着、という筋書きは多分に
不自然な点が多く、こうした事から本能寺の変〜光秀死亡のスケジュールはあらかじめ
秀吉と光秀が示し合わせたのではないかという「本能寺の変秀吉黒幕説」が囁かれるのである。
事の真偽はともかく、こうして光秀は歴史の表舞台から抹殺された。本能寺の変からわずか
12日間という短期間の天下に終わった光秀の無残な敗れ方は“三日天下”という言葉も生んだ。
残された明智残党も同様の末路を辿る。光秀敗死後、斎藤利三は近江国堅田で捕らわれ、京都の
六条河原で斬首された(山崎で戦死し首を挙げられたという説もある)。安土城にいた明智秀満は
坂本城に撤退するも、明智方の再起不能を覚悟するや光秀の妻子らと共に自害、明智一族は
ここに果てたのである。光秀・利三など、討たれた明智方の主な者は秀吉によって本能寺跡で
首を晒されたという。
なお、ここで付記しておくが安土城は本能寺の変以後の混乱で炎上し、灰燼に帰した。
出火の真相は謎に包まれているが、どうやら明智方の放火ではなく、信長の2男である信雄が
明智へ与する者に使われないようにと焦って自焼させたというのが有力説になっている。
と言っても秀満退去の後はそのような事がなかったのだから、ひとえに信雄の早とちりである。
無用の損失で、信長が精魂込めた“夢幻の城”は、まさに幻と消えてしまったのであった。
さて、こうして神速の勢いで信長の敵討ちを果たし、事後の鎮圧を為した秀吉。山崎の合戦から
彼の勇躍が開始される事になるが、その一方で他の織田家武将たちはどうしていたのか。
家康の伊賀越え 〜 九死に一生を得るも、穴山梅雪は落命
まず最初に記すべきは、信長との会見後に堺見物を楽しんでいた徳川家康の動向であろう。
武田家重臣であったものの勝頼の将器を疑い、徳川家に寝返った穴山信君(あなやまのぶきみ)
(出家後に梅雪(ばいせつ)と称した)と共に堺で信長横死の報せを受けた家康。
この梅雪、武田信玄の娘を娶っており(信玄の姉という説もある)、しかも穴山氏は
武田家傍流の家柄であった事もあり、武田家親族衆の筆頭格とされていた重要人物だ。
梅雪もまた、武田氏滅亡後も本領を安堵された事から家康と共に安土へ赴き信長に挨拶し
堺見物にも同行していたのである。その最中に発生した京都での大事変。
京都から堺はほど近く、その気になれば光秀が家康と梅雪を同時に葬ろうとして軍勢を
派遣してくる事も考えられた。信長と言う支えが亡くなった今、ここに留まるのは危険極まりなく
家康と梅雪は早急に畿内を脱出し、領国に帰還して防備を固めなくてはならなくなったのだ。
即刻堺を引き払い東へ歩みだした両者は、二手に進路を分かつ。2人が共に行動した場合、
もしも襲撃者が襲ってきたのなら2人ともが討たれてしまうからである。家康は山深き伊賀に潜み、
梅雪は最短距離の道になる宇治を通って東国に逃れようとした。しかし事態は本能寺の変直後、
光秀軍だけでなく各地の土民までが混乱に乗じて蜂起しつつある時である。彼らの逃避行は
幾多の困難に襲われる道のりとなってしまった。堺から大和を通過し、山城南端の宇治を
抜けようとした梅雪は、その途中の宇治田原で土民の襲撃に遭遇、奮戦虚しく討ち取られる。
一国を預かる太守でありながら、不運にも落武者狩りの手にかかって落命するとは
如何にこの脱出が危険なものであったかという事が想像できよう。
一方の家康は、かつて信長が蹂躙した伊賀の国衆を味方に取り込んで難を避けようとした。
ここで活躍したのが伊賀上忍三家の一つ、服部氏の総帥であった服部半蔵正成である。
家康は追手の目を掻い潜るべく、目立たぬように大和・伊賀の山を通り抜けて行ったが
それでも途中では梅雪と同様に土民らの攻撃を受け、更には厳しい山道で遭難しそうになりながらも
半蔵の手引きによって何とか危難を突破して伊勢まで辿り着き、そこから海路で本国・三河まで
帰り着く事ができたのだった。この功績によって半蔵は家康に引き立てられ、徳川家臣団の中でも
重鎮に取り立てられると同時に、後に伊賀衆全般の総頭領として君臨する地位を得た。
東国防波堤の決壊 〜 河尻は戦死、滝川は大敗北
羽柴勢が毛利より先に変事を察知し、丹羽勢が上手く山崎の合戦に便乗したのに対し、
東国を預かる河尻秀隆・滝川一益らの運命は悲惨なものであった。「信長斃れる」の報は
瞬く間に反織田勢力に伝わり、甲斐や上野で大規模な戦乱が勃発したのである。
まずは甲斐国。武田氏滅亡から3ヶ月、河尻秀隆が甲斐国の統治を任されてわずか2ヶ月。
いまだ武田支配の気風が根強く残っていた時期に起きた突然の信長横死というのは
あまりにも間が悪すぎた。織田家の動揺を見るや、武田の残党や甲斐領民は一斉に
秀隆の統制に叛旗を翻し、国を挙げての大反乱が勃発してしまったのだ。こうなっては
歴戦の武闘派である秀隆と言えど、国一揆を抑えることなどできずに敗北。
秀隆は領地を失うどころか、一揆勢の攻勢を受けて戦死してしまったのである。
その昔、秀隆は伊勢長島一向一揆で領民の大虐殺を敢行した経緯があり、その報いが
はるか東国の甲斐で回ってきたのかもしれない。同時に、まだ征服したばかりの甲斐国は
武田家の復興を願い織田家に反対する者が数多く残っていたとも言えよう。
苛烈な信長の征服政策は、時として被支配地の民には受け容れがたいもので、
武田家からの怨嗟の声は信長の代官である秀隆に痛烈な牙を剥いたのであった。
一方、上野国を預かる滝川一益には他大名からの攻撃が襲いかかった。
光秀からの密書により、関東制圧を目標とする小田原後北条氏が即座に動き
武蔵国から上野国に対して大規模な攻勢が開始されたのである。秀隆同様、まだ関東での
支配権を確立していなかった一益は防戦態勢が整わずに神流川の合戦で大敗北を喫す。
さすがに落命こそしなかったが、北条氏の襲来を抑えられなかった彼は
上野国を放棄して旧領・伊勢長島まで逃げ帰る憂き目を見る。
河尻・滝川という最高指揮官を失った織田領東端は、僅かの間に政治的・軍事的
空白地となってしまったのであった。
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