本能寺の変

運命の1582年、今まで血の征服を続けてきた織田信長が
業火の炎に呑まれる日がやってきた。本能寺の変である。
中世日本の概念を破壊した覇王は、わずかな隙を突いた
功労の家臣からの謀反に襲われ、歴史上から忽然と消えていく。
日本史上最大の謎に挙げられる事変、本能寺の変について。


備中高松城水攻め 〜 中国戦線膠着す
備前の宇喜多氏を服属させ、山名氏の鳥取城を手に入れた羽柴秀吉は、いよいよ
中国地方の太守・毛利氏と直接領土を接する事になった。これにより1582年5月
秀吉軍は備中攻略の軍を発する。対する毛利方は、最前線になる備中高松城に
屈強の忠臣・清水宗治を配置して防備を固めた。毛利家の軍制では山陰方面へ
無敗の剛将・吉川元春、山陽方面へ元就譲りの智将・小早川隆景を司令官に任じており
宗治は隆景隷下に在籍する有能な将である。その忠義心は毛利家中随一で、開戦前に
毛利家当主・輝元が宗治に対して加増しようとした所「武功も無きうちから加増とは、
万が一にも我に二心ありと疑っての事であろうが、係る心配は無用にて加増も不要」と断り
毛利家への絶対的忠誠を誓ったと言う。その言葉通り、宗治は羽柴軍に頑強な抵抗を続ける。
足守川(備中高松城の背後を流れる川)が毛利側の絶対防衛線と策定され、この川沿いに
毛利軍は「境目七城」と呼ばれる陣城を次々と築き兵士を駐屯させたが、羽柴軍の侵攻により
備中高松城以外の6城はたちまち陥落してしまう。ところが、宗治の守る高松城だけは頑なに
羽柴軍の攻撃を阻み、西進しようとする秀吉を足止めしたのだ。元々、高松城は
水田地帯の真ん中に築かれた水城で、城へ入るには泥湿地を突破するか、細い畦道を
抜けるしかない要害の地。加えて、武功の将である宗治が守ることにより、城兵5000に対し
攻城側3万という圧倒的兵力差にも関わらず、秀吉は落城させる事が出来なかった。
何とか秀吉は宗治の投降を誘うが、上に記したように忠臣の彼は絶対に寝返らない。
力攻めも謀略も効かないと悟った秀吉は持久戦へと移行。軍師・黒田官兵衛の献策を要れ
高松城が低湿地にあることを逆手に取り、城の周囲に堤防を築いて足守川の水を引き込み
世に名高い水攻めを敢行したのである。堤防を完成させた頃、梅雨時の増水も相俟って
容易く高松城は水に取り残された浮城となってしまった。こうなると城側も思うように
出入りができなくなってしまい、城内は兵糧を確保できぬ困窮に見まわれる。
毛利家は宗治を見捨てるに忍びず援軍を差し向けようとするが、これも梅雨に阻まれ
なかなか進軍できず、高松城はますます孤立するばかりであった。

★この時代の城郭 ――― 戦国の城攻め(3):水攻め
水攻めは長囲攻めの一種であり、文字通り敵の城を水没させる攻め方だ。
低湿地の水利を活用する水城は、周囲の湖沼や河川などを水濠として用いる事で
攻城軍を寄せ付けぬような構造になっている。城攻めには、船を使うか泳ぐかして
城に近づかねばならないが、それは籠城側から狙い撃ちし易い格好の的になるのだ。
しかし、低湿地という事は水が溜まりやすい地形という事であるため、城の防衛に
必要な水位よりも多い水を引き込めば、逆に城側が浸水の危機に見舞われる。
これを利用した城攻め方法が水攻めである。
城の周囲に堤防を作って囲み、その中に川の水や雨水を溜めて敵の疲労を待つのだ。
堤防を作り水を引き込むという作業は、大規模な土木工事を行う資金力が何より必要。
さらには周辺住民を動員するだけの統率力もなくてはならないし、天候や水源の確保など
いくつもの条件が重ならなければ成功しない。しかしひとたび水を引き込む事ができれば
目標城は完全に孤立し、外部との連絡は遮断される。情報や物資の遣り取りは勿論、
城側から打って出る事も出来ない。場合によっては衛生状態の悪化も考えられ、
城中で疫病が発生する事例もあるし、更に水かさが増せば兵糧切れとなるよりも前に
城内に留まる事すら不可能となるため、城攻め方法としての効果は絶大だ。
秀吉はこの方法で備中高松城を攻め立て、籠城兵や毛利援軍に圧迫を与えると共に
備中地方の領民に対しても、秀吉軍の強さや財力を見せつけたのである。

一方、秀吉側も毛利本隊が来援しては軍勢的に不利、仮に高松城を落としても
その後の毛利軍との戦闘は危険と判断し、信長本人の出陣を要請した。
高松城を巡る攻防は両者共に一歩も譲らない状況となったのである。

本能寺前夜(1) 〜 信長は京へ、家康は堺へ
秀吉が毛利氏と対陣中の5月15日、安土城へ徳川家康が来訪した。信長と家康は2月、共同で
甲斐武田氏を滅ぼし、武田遺領のうち駿河を家康が領有する事になったため、その返礼として
安土に赴き、信長への挨拶を行ったのだ。その家康の供応役に任じられたのは明智光秀。
有職故実に通じる文化人である光秀は、あらん限りの贅を尽くして家康をもてなす。
万事順調に進み、光秀の差配によって信長・家康の会見は滞りなく終了する…はずだった。が、
数日に渡る家康の歓待行事のさなか、突然光秀は接待役を外され出陣準備を命じられる。
あまりに唐突な信長の心変わりから面目を潰された光秀。接宴に出す食事に不手際があった事が
理由とされ、後進の堀秀政に応接役を取って代わられたらしいのだが、この侮辱的な異動は
光秀にとって憤懣やる方なき出陣命令だったであろう。それでも、主君・信長の命令には
従わねばならない。家康の応接を途中で取り止め、光秀は急遽軍勢の編成に取りかかった。
一方、家康は信長との対面行事を終了した後に京都・堺へと向かう。信長の勧めにより
京の都や南蛮貿易で栄える堺の町を見物する事にしたのだ。戦国の世に観光とは悠長な話だが
この時の畿内は各地の騒乱が鎮圧された直後で、軍事的に最も安定した時期だったと言える。
松永久秀・本願寺・荒木村重・波多野氏・別所氏と云った信長に敵対した畿内の勢力は
総て壊滅、信長の敵と言えるのは越後の上杉景勝・関東の北条氏政・四国の長宗我部元親
それに中国で秀吉と対決中の毛利輝元といった勢力で、いずれも畿内から遠く離れた
織田領の僻端で領土を接する外敵だけだったのだ。上杉氏に対しては北陸方面軍の柴田勝家
前田利家・佐々成政らが魚津城を巡って攻防を行い、北条氏に対しては関東方面軍の
滝川一益・河尻秀隆らが備え、上記した通り毛利氏とは羽柴秀吉軍が対戦中、四国に関しては
大坂で丹羽長秀・神戸信孝らが長宗我部氏征伐の出陣準備を行っていた。つまり、京・堺などの
畿内主要部には軍事的問題がなく、家康も気兼ねなく視察が行えたという訳だ。
家康一行は5月21日に京都へ入り、29日に堺へと入った。
家康が堺に向かった29日、信長も続いて京都へ赴く。洛中で茶会を開催し公家・商人・僧侶らとの
懇談を行った後、秀吉からの出陣要請に基づいて中国出陣の準備を始めるつもりだったからだ。
信長は京へ、家康は堺へ。戦国覇王とその忠実な同盟者は、僅かな畿内の平穏を謳歌し、
彼らの威光を日本全土へ広げる為の鋭気を養っていた。
本能寺の変直前の織田軍展開状況
本能寺の変直前の織田軍展開状況

中国方面軍は備中高松城にて毛利軍と交戦中、
北陸方面軍は魚津城にて上杉軍と交戦中であった。
関東方面軍は厩橋城で滝川一益が北条軍に備え、
四国方面軍は大坂で軍を編成し出陣準備を行っていた。
畿内は一時的に軍事的空白状態となって、
信長は京へ、家康は堺へ赴いており、
唯一、明智光秀の軍勢だけが
出陣命令を受けて集結している状況であった。

本能寺前夜(2) 〜 意味深き“愛宕百韻”
一方光秀は信長の命を受けて5月17日に近江坂本城へ戻った。然る後に出陣の準備を行い
同月26日に丹波へと移動し軍を編成、居城の丹波亀山城に集結させる。信長の方針は、
秀吉の救援要請を受けて信長自身が出征するものの、その先行部隊として光秀軍を
中国地方に派遣する予定であるとの事。しかし、話はそれだけで終わらない。
光秀の下に、信長からの驚くべき知らせが伝えられた。それによれば、光秀の領地を国替えし
近江国坂本・丹波国に替えて出雲国・石見国を与えるというのである。出雲国・石見国は、
未だ毛利家の領地となっている土地である。奮戦して必ずや出雲国・石見国を奪えという
激励の意味にも受け取れるが、常識的に考えればまだ織田家の領地になっていない土地を
与えるなどという話はあり得ない事で、毛利攻略が失敗すれば単に近江国・丹波国の領地を
召し上げられるだけ、という事態にも繋がる。この通告は、実質的に光秀の領地を
没収する意味に受けとめられよう。出陣を前に、光秀は愕然としたに違いない。
この先よもや、佐久間・林のように自分も追放されるのでは…?
苦悶する光秀は、戦勝を祈願するために27日、山城・丹波国境にある愛宕神社へ参詣した。
この社で光秀は、何を思うか3度も籤を引いて吉凶を占ったと言う。その翌日、28日に
愛宕山西之坊威徳院にて連歌の会を催す。有名な“愛宕百韻(あたごひゃくいん)”である。
そこで光秀が読んだ発句が次の歌であった。
ときは今 あめが下(した)しる 五月哉(さつきかな)
旧暦5月末といえば新暦で7月初旬、梅雨真っ最中という季節である。何の事はない、
ただ文面を見ただけでは「梅雨時の5月という今、雨がよく降っている」という気候の句であり
知識人の光秀らしからぬ、むしろ面白みに欠ける駄作にすら思えてくる。
しかし、「とき」を「土岐」、「あめ」を「天」と変換すると、全く違う意味に変貌する。
「土岐氏の末裔たる光秀が、今こそ天下を手にする五月の決意」となるのだ。
(明智家は遡ると土岐一門に連なる系譜である)
光秀の心は、この時固まったようだ。丹波亀山城から軍を率い、討って出るその先は―――。

本能寺の変 〜 “敵は本能寺に在り !!”
5月29日に上洛した信長の伴回りはおよそ200人。宿館は信長が京での定宿とした本能寺である。
(これに先立ち21日に信長の嫡男・信忠も上洛しており、そちらは妙覚寺を宿所としていた)
上洛した翌日の6月1日、本能寺には公家ら40名以上の客が来訪し信長と対面。慌しい1日が過ぎ
信長が就寝した頃、丹波亀山城では光秀が軍を発していた。予定では信長の命令により
秀吉の援軍として中国地方へ向かうはずだった。となると、軍勢は西へ進むはずである。
しかし光秀は京都方面、つまり東への進路を取り亀山と京都の間にある老の坂峠を越えた。
ここで彼は全軍に下知する。「我が敵は本能寺に在り !!」
光秀は主君に叛旗を翻し、信長の居館となっている本能寺の攻撃を決断したのだ。
かねてより光秀の苦悶を知っていた斎藤利三や光秀の娘婿・明智秀満(ひでみつ)
家臣武将はこの命令に同意し、ある者は歓喜し、雪崩を打って京都へと進軍した。
亀山城から本能寺までは直線距離で約15km弱。一晩で十分走破できる程の近距離であり、
翌6月2日の早暁薄明時、明智軍は本能寺を取り囲み攻撃を開始する。
一方、軍勢来襲の報に信長は飛び起きた。すぐに物見を走らせ情報確認に当たると同時に、
体一つで合戦準備に取り掛かる。弓矢と長槍を持ち出し、供の者に防戦の命令を次々と発した。
そこに伝えられたのは「旗印は桔梗紋、敵は惟任日向守(これとうひゅうがのかみ、光秀の事)!」
光秀の謀反と聞き、信長は呟いた。「是非に及ばず…」軍略優れる光秀が攻めて来たのならば、
逃げる事は不可能だ。せめてこの場で一戦交え、華々しく散るしかない。
部屋の外に出た信長は、自ら弓を取り矢を放つ。寄せ来る光秀の兵卒は射抜かれるものの、
形勢は圧倒的不利、遂に弓の弦が切れて矢は撃てなくなった。と、今度は長槍を取り出し
敵の兵士を突き倒していく。既に明智軍は寺に火をかけ、信長の伴回衆は大半が討たれていた。

★この時代の城郭 ――― 戦国の城攻め(4):奇襲
城攻めに限った話ではないが、敵の虚を突き攻め落とすのは戦いの常道である。
まさか敵から攻撃を受けるとは思えない時、場所、状況を見計らって攻め掛かる奇襲は
短期決戦で相手と決着をつける、最も効率的な戦法であろう。
「夜討ち」「朝駆け」といわれるように、深夜や早朝といった即応し難い時間に攻めるとか、
敵の襲来を予想だにしない場所に兵を配置し攻略する方法、
竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったように、効果的な謀略を用いて攻め落とすなど、
奇襲という攻撃は様々な状況で、予想だにしない方法で展開される。
織田信秀が今川氏の那古野城を奪った例などが、奇襲による城攻めの例であろう。
河越夜戦で北条氏康が策を弄し、和睦すると見せかけて攻勢をかけたというのも
相手の油断を誘う方法の好例であり、何より奇襲とは敵の心理を逆手に取る事が肝心なのだ。
光秀が信長の宿館を襲撃した本能寺の変は、奇襲の極致と言える。
本能寺は城館と似たように周りに濠を構え、櫓や築地で防備した拠点であったが、
光秀の大軍に抗する事ができるほど堅固な場所ではなかった。加えて、畿内には
明智軍以外に大規模な軍勢がおらず、本能寺における信長の伴回りもわずか200人程度。
信長の出陣命令を受けていたのだから光秀の行軍が疑われる筈もない。
亀山から京都までわずか一晩、しかも早朝の奇襲とあればこれを妨げるものは何もなく
光秀が信長を襲うのに絶好の場所・時・状況が揃っていたのだ。
中国地方へ向かうはずの光秀が、忽然と本能寺に現れる。今まで幾多の困難に囲まれても
自ら活路を切り開いてきた覇王・信長と言えど、この奇襲には対処のしようが無かった。

明智軍は蟻の這い出る隙もなく本能寺を取り囲み、もはやこれまで、と観念した信長は
寺の堂内に消えていく。既に明智軍の放った火は業火となって本能寺を焼き尽くしており、
信長の命はこの炎の中で燃えていった。信長の小姓として常に付き従った森蘭丸など
信長の近習もこれに殉じ、本能寺は壊滅。戦国の風雲児として邁進した織田信長、享年49歳。
彼が愛した幸若舞「敦盛」一節にあるように“人生五十年、夢幻の如く”消えていったのである。
本能寺での事変に気付いた妙覚寺の信忠は、防備を整えるために急遽軍勢を二条城に移し
光秀の来襲に備えた。しかし多勢に無勢、二条城も明智軍によって包囲され、陥落。
信忠もまた、父・信長と同様に火焔の中で滅したのである。これが本能寺の変の顛末で、
信長・信忠親子が斃れたために天下の行方は全く分からなくなった。
京都周辺は事後制圧に奔走する明智軍で埋め尽くされにわかに恐慌を来たし
朝廷や豪商、文化人、それに各武将などは明智に味方する者・敵対する者、そして
中立を保つ者に分かれ、様々な思惑が錯綜する。加えて、各地で戦う織田家の将や
徳川・毛利・長宗我部らの諸大名は、この事件にどう対応するのか、先行きは不明。
果たして、信長を討った光秀は天下を掴むのであろうか。

本能寺原因考 〜 諸説ある光秀謀反の理由
織田政権中枢にある明智光秀という武将が叛旗を翻した奇襲により、信長は討たれ
本能寺の業火に消えていった。戦国史における最重要人物であった信長は、
以後の消息を絶ち、歴史上から総ての痕跡を消してしまう。本能寺の変は、日本史上
最大級の謎とされ、信長の生死すら定かでない事件であるが、それ以上に様々な推測が
飛び交うのが、光秀が反乱を起こした理由についてである。これまでの数頁、光秀と信長の
確執について特に細かく取り上げては来たが、いったい光秀は何故謀反を行ったのだろうか。
以下、歴史家が提唱する光秀反乱の原因のうち代表的なものをいくつか列挙する。

1.怨恨説
信長から受けた数々の仕打ちを蓄積し、その怨みつらみが爆発して信長を襲ったとする説。
丹波平定の項目で記した通り、光秀が苦労して波多野氏と和平にこぎつけたものを
信長は何ら顧みる事無く破約し、そのために光秀の母は見殺しにされた。また、直情的な
信長は、腹立ちを紛らわす為に家臣へ当たる事が多々あり、光秀も手酷い乱暴を振るわれた
事がある。容貌を「キンカン頭」と罵られ柱に頭を打ち付けられたり、この年の2月〜3月
武田攻略の戦勝会に加わった際、信長から「お前は何の働きも為していない」と足蹴にされ
諸将の面前で恥をかかされた事もあった。滝川一益や河尻秀隆が加増・昇進を受けたのに対し
それよりも重臣である光秀への冷遇はこれ以上ない恥辱であっただろう。加えて、変の直前
家康の饗応役を罷免され邪魔者扱いのような出陣命令を受けた事は、文化人の自負があった
光秀にとって、自信と誇りを踏みにじられる思いだったに違いない。

2.焦燥説
足利義昭の直臣から信長陣営に迎え入れられた頃より、光秀は教養ある武将として重用され
数々の加増を受けてきた。近江国坂本の地や丹波国を領有したのはその戦功が評価された為で
明智光秀という存在は、織田家中でも上位の地位を占める重臣であった。しかしここ数年、
信長は光秀を疎むようになってきた感があった。秀吉が宇喜多氏を擁護したのは認められたのに
光秀が波多野氏と和睦したのが許されなかったのは、明らかな差別待遇である。また、
秀吉の援軍として中国地方へ出陣させられるというのも、光秀が秀吉の指揮下に入れられるという
意味だ。今まで羽柴秀吉という人物は光秀の同輩格であり、出自・家格や教養面から考えれば
秀吉よりも光秀の方が上であろうという周囲からの評価があった。しかし信長は秀吉ばかりを遇し
光秀に秀吉の下につけという意味の指示を出した。何より、近江国・丹波国に替えて
まだ得ていない出雲国・石見国を与えるという“カラ手形”の命令は、光秀の所領を奪い
行く行くは佐久間親子や林通勝のように追放対象となる懸念さえ抱かせた。
このまま座して朽ち果てるよりも、自ら活路を切り開かねばならないという焦りは、
光秀の精神に大きなストレスを与えていたのかもしれない。

3.野心説
美濃国主・斎藤家の混乱に煽りを受け故郷を失った明智家の人間として、将軍・義昭や
天下人・信長に仕えたというのは、出世のためという功利心が少なからずあったと
想像できよう。何より、戦国乱世に武略を以って活躍する武将として、天下を望むという
野望は光秀にもあったと考えられる。しかも、本能寺の変当日の状況はまるで
謀反を起こしてくれと言わんばかりの状況が揃っており、光秀が天下を奪うための
またとない好機であった。こうした情動から軍を動かし、信長を襲撃したという説。
しかし松永久秀のような策謀家ならまだしも、律義者として名の通った光秀が
己の欲望だけで謀反を起こすという説には異論を唱える学者も多い。

4.家臣擁護説
光秀の家老・斎藤利三は、以前にも書いた通り長宗我部氏との交渉にあたって切り札となり
同盟締結の原動力となった。しかし、信長の変心によりこの同盟は破棄され、逆に
光秀・利三主従は四国征伐の軋轢に悩まされる事となってしまった。また、利三という人物
元々は稲葉一鉄に仕えていた者だったのだが、それを辞して光秀の下に駆け込んできた
経緯がある。一鉄は光秀に対して利三の返還を求めたが、家臣を擁護する光秀はこれを拒否。
この騒動に信長が乗り出した事で話は更にややこしくなり、短気な信長は何と利三に
切腹の命令を下したのである。周囲の者の取り成しによってこの切腹命令は撤回されたが
家臣を使い捨てのように扱う酷薄な信長に対し、主従の絆を重んじる光秀が反感を抱き
反乱へと繋がったと言う考え方である。

5.源平交代説
鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、いずれも将軍職を拝命した武将は
源氏の血筋に繋がる家柄の出自である。ところがこの年、織田家の圧力に恐怖した朝廷は
信長に関白・太政大臣・征夷大将軍の職のいずれかを与えると打診し懐柔を図った。
しかし、織田家は遡れば平家の血縁に当たる家柄なのだ。有職故実を知る光秀は、このままでは
源氏将軍の原則が破れ、平氏出身の信長が将軍になってしまうと危惧した。ために、
信長の将軍就任を阻止するべく決起し、信長を襲殺したという説である。
しかし、源氏将軍説が一般化するのは江戸時代になって朱子学が広まった事に拠るものなので
この当時、光秀が源平交代の懸念から反乱を起こしたというのにはやや無理があるとも思える。

6.保守反動説
革新的手法で天下を手中に収めた信長。しかしそれは、従来の権益や社会風習を大きく逸脱し、
極端に言えば破壊行為と受け取れる程の方策ばかりであった。これに対し光秀は、もともと
室町幕府再興の為に奔走し信長に接近した人物。有職故実にも通暁し、古きものの尊さ、常識や
伝統習俗などの重要さを理解していたのである。日本古来の道徳観や社会通念の価値を重んじる
光秀にとって、幕府どころか朝廷すら軽視し独裁政治を敷き、手段を問わず冷酷に敵対勢力を滅し、
宗教権威までも屈服させようとする信長の恐怖政治は耐え難いもので、これに我慢ならず
謀反に及んだという説。

以上、6つほどの説を挙げたが、これ以外にも歴史学者から挙がる説は多数ある。
また、ここに挙げた説が正しいとも限らないし、いくつもの原因が引き金になったとも考えられる。
総ては光秀の存念次第、歴史の闇に消え去った謎なのである。
さらに付け加えると、本能寺襲撃の実行犯は間違いなく光秀であるが、彼の単独犯行ではなく
他に黒幕となる勢力がいたと考える向きもある。これについてもいくつか考えられる勢力を
以下に列記しておく。

1.羽柴秀吉説
皆さんご存知であろうが、この直後に光秀を倒し天下を手にした人物は秀吉である。
然るに本能寺の変直後からの秀吉の動きは、あまりにも迅速的確なもので、まるで秀吉が
信長が討たれる事を知っていたかのような節がある。故に歴史家は、実は光秀と秀吉が
共謀して信長を倒し、その後に秀吉が光秀を裏切って天下を簒奪したと考える。
信長に忠実であった秀吉が謀反を考えたかどうかは難しい所だが、状況証拠から類推すると
こうした可能性は決して否定できないし、“人たらし”秀吉の人心掌握術があれば
光秀を唆して兵を挙げさせる事も不可能ではなかっただろう。

2.徳川家康説
先に記した通り、家康は信長によって妻子を失っている。また、三方ヶ原合戦や長篠合戦では
信長を焚きつけてようやく援軍を派遣してもらったものの、姉川合戦で家康が積極的に
加勢したのに対すればあまりにも不公平な待遇であった。清洲同盟の現実は、対等同盟ではなく
信長が家康を配下として扱うような感じがあり、家康の不満が増大していたという説。
歴史の裏を勘ぐると、家康のブレーンであった僧侶・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
光秀と同一人物ではないかという仮説がある事から、家康と光秀が共謀して信長を倒したという
考え方である。しかし実際の所、本能寺の変によって堺から落ち延びた家康は(詳しくは後記)
死に直面するような危機に襲われている事から、このように危険な謀反計画を家康が考えるとは
想像し難いものがある。

3.足利義昭説
室町幕府を信長に滅ぼされ、京を追放された足利義昭であったが、再起を諦めたわけではなく
毛利家の庇護を受けながら信長打倒の思いを巡らせていた。かつて全国各地の諸大名を糾合し
信長包囲網を結成した義昭は、同様にして光秀を操って信長を襲わせたという説。
既に実力を無くした義昭の命令に光秀が従ったかどうかというのはかなり疑問だが、
中国地方の太守・毛利家が一枚咬んでいたのならば、ひょっとしてあり得る話かもしれない。
少なくとも義昭本人は、かつての家臣であった光秀が憎き信長を倒したという報せに
「我が家臣が仇を討ってくれた」と喜んだに違いない。

4.長宗我部元親説
信長との同盟を一方的に破棄された上、大坂で四国遠征軍が編成されて、遠からず織田家との
戦いに入ると思われた長宗我部元親が、同盟交渉者として旧知であった光秀を通じて
信長を暗殺したという説。確かに、本能寺の変によって四国征伐は中止となり、長宗我部氏は
四国統一事業を継続する事ができたので、元親は信長横死によって最も利益を享受した
人物と言えるだろう。

5.堺会合衆説
信長上洛時に矢銭を要求されて以来、堺の町は信長に従属を強いられてきた。一部の豪商は
信長に接近する事で巨利を得て政商にもなったが、強圧的な信長の施政に悩まされてきた事は
事実である。茶の湯政道を推進する信長は、家臣の心理を掌握するための茶器を求め
特に堺の豪商が保有する名物を供出させる事があったからだ。世に言う「名物狩り」である。
信長に逆らう事はできず、泣く泣く名物を手放した堺の会合衆ではあったが、その恨みは
蓄積され、光秀と共謀して謀反を起こしたという説がある。愛宕百韻で光秀の句を返した
連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)は会合衆と深い繋がりのある人物で、
この連歌会は、実は堺会合衆と光秀が謀反計画を談合する集まりだったとされるのだ。

6.朝廷説
全ての官位を返上し、朝廷の機構に従う事を拒否した信長。焦った朝廷は、信長に対して
関白・太政大臣・征夷大将軍を選ばせて機嫌を伺うが、これを信長は無視し、不気味な
沈黙を保った。また、信長はイエズズ会の宣教師に対して「自分がこの国の王である」と発言し
朝廷権力を認めぬ素振りも見せていた。危機感を増大させた朝廷は、光秀に命じて信長を
討たせたという説が考えられよう。信長が京都に居る時ならば、朝廷も動きを把握しやすいし、
光秀もまた、織田政権の中で朝廷との交渉役に当たる職務を担っていた事から関係が深く、
両者が共謀して信長打倒の機会を狙い、本能寺を襲撃したと仮定できるのである。
知的な光秀ならば、破壊的な信長の方針に反感を抱くと共に、古来からの伝統ある朝廷を
重んじ、その尊重に奔走する事は十分あり得る話であろう。

7.イエズズ会説
信長は西洋文明を積極的に取り入れる開明的思想の持ち主として知られている。しかしそれは、
織田政権の権威向上の為、あるいは織田軍の軍備拡張の為に西洋の文化や科学技術を
導入したに過ぎないという見方もある。日本全国を手にしていく過程を消化していくうち、
次第に信長は自らを絶対的な権力者として定義付けするようになり、自分の存在は即ち
“生き神”であると宣言するような態度を見せた。今までキリスト教布教拡大のために信長への
協力をしてきたイエズズ会の宣教師たちにとって、信長のこうした行動は“神への冒涜”と
受け止められ、このまま信長に協賛するのは危険と考えて暗殺計画を練ったと言う説がある。
とは言え、仮にそういう計画があったとしても光秀がそれに乗るかどうかは疑問であろう。

果たして光秀の単独犯行なのか、それとも協力者が居たのか、今となっては全くわからないが
それだけに本能寺の変という事件は歴史家の興味を惹いて放さない多くの謎を抱えている。
時代の革命者であった信長は、余りに性急な方法で旧態を倒し、多くの者を抹殺してきた。
それらの怨みや反感・反動が、光秀という人物を通して信長を葬り去ったという点だけは
間違いない事実であろう。
織田信長像織田信長像




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