怨狼の牙

あらゆる敵対勢力は実力行動で排除していく信長。
非情なまでの合理性を基にした信長の行動は
次第に織田家中に対しても冷徹な裁定を下すようになっていく。
使えない者、危うい者は有無を言わさず切り捨てる。
外敵に「魔王」と恐れられる信長は、ここにきて
恐怖政治とも受け止められるような弾圧までも行うようになってしまった。
虐げられし者たちの怨みを知ってか知らずか、それでも信長は覇道を突き進む。


徳川親子の悲劇 〜 松平信康、総ての責任を背負い自害
時は1579年の事。正室・築山殿(つきやまどの)との間に生まれた徳川家康の長男
松平信康(まつだいらのぶやす)が自害した。信康は信長の娘・五徳姫(ごとくひめ)
妻に迎えていたのだが、何とその五徳姫が信長に「信康に謀反の兆し有り」と讒訴した事が
事件の発端であった。以下、事の次第を記す。
今川人質時代の家康へ縁組させられた築山殿は、当時瀬名姫(せなひめ)と呼ばれ、
当然ながら今川家の縁戚者(瀬名とは今川分家の家名)。今川義元の姪とも言われる。義元が
三河松平家を“今川家臣団の1人”として組み込むために押し付けた政略結婚だったのだ。
しかし没落した今川家は当の家康によって滅ぼされ、夫婦仲は非常に険悪であった。
桶狭間の仇である信長や今川家を倒した家康を嫌う築山殿は、次第に織田・徳川両家の
敵にあたる武田家と通じるようになってしまったと言う。同じく政略結婚で結ばれた信康と
五徳姫の夫婦仲も良くなかった事から、築山殿の所業を利用して離縁を望んだ五徳姫が
「築山殿と信康が共謀して武田家へ寝返ろうとしている」と父・信長に伝えたのだ。
これを口実にした信長は家康に対して苛烈な要求を行う。徳川家が真に織田家との安泰を
望むならば、裏切者の築山殿と信康を処刑せよと伝えたのである。家康は、筆頭家老の
酒井忠次を信長の下に派遣して弁明するが聞き入れられない。家康は進退窮まった。
不仲とは言え、妻を処罰するか。それとも思い切って織田家と手切りし独立するか。
信康は嫡男、家臣からの信望も篤く将来有望な跡取り、それを犠牲にするのは忍びない。
しかし強大な織田家を敵に回して生き残る実力はまだ徳川家にはない。悩んだ末、家康は
築山殿と信康の処罰を決断する。8月29日、築山殿は遠江国富塚の地で殺された。
一方、信康は囚われの身となり、数日毎に幽閉地を変更されてその都度移転する日々が
続いた。せめて信康だけでも助けたい家康としては時間稼ぎをして信長の許しを乞うか
いっその事信康が逃亡でもしてくれれば良いと思っていたのだろう。しかし、父の苦悩を
悟った信康は9月15日、幽閉先の二俣城で自刃して果てた。享年20歳の若さであった。
築山事件については様々な憶測が考えられている。松永久秀や波多野氏、荒木村重など
数々の裏切りを受けている信長が、家康の忠誠を試すために突きつけた難題であったとか
長篠合戦以後、勢力を弱めた武田氏に対して備える必要がなくなった信長が、今度は
家康の所領を狙って取り潰し工作を行ったという説がある。また、別の考え方によると
自分の嫡男・信忠に比べて優秀であった信康の資質を恐れ、将来信康が信忠に
取って代わる事を未然に防ぐため、信康を葬り去った信長の策略であったという話もある。
実際、信康は10万を数える武田勝頼との戦いで見事に殿軍を務め上げた経験があり、
名将の呼び声高かった。徳川家中では、軍事に関しては家康より信康の方が上だという
声さえ上がっていたほどである。ともあれ、家康は家名を守る為に妻子を犠牲にするという
苦い経験を味わう事になった。また、五徳姫は望み通り織田家へ戻る。この事件で
最も利益を受けたのは、五徳姫に他ならなかった。

石山折檻状 〜 織田家古参の家臣団、大リストラ!
石山本願寺陥落後の1580年夏、織田政権内部で大きな再編が始まった。まず8月15日、
織田家譜代の家臣であった佐久間信盛が息子・佐久間正勝(信栄ともと共に家中を
追放された。信盛は信秀の代から織田家に仕えてきた古参の臣で、信長が家督相続する際も
強く信長を支持(柴田勝家らは当時反信長派であった)した重臣である。信長上洛時の
対六角戦や比叡山焼討、長篠合戦等で武功を挙げ、柔軟な用兵は勇猛な柴田勝家と並び
“掛かれ柴田に退き佐久間”と評されたほど。ところが、石山攻めでは長らく戦功がなかった為
かつて三方ヶ原の戦いで戦線離脱した件まで引き合いに出され、信長から非難を書き連ねた
「折檻状」なる文書を突きつけられて追放処分となったのである。
続く8月17日、今度は林通勝や安藤守就までもが追放になる。林家といえば柴田家と並ぶ
織田家筆頭の家老職にある家柄だが、通勝は30年前にもなる信長家督相続時の行状が理由で
(通勝は信長の弟・信行を奉じていた)今回クビにされた。美濃三人衆の1人として名高い
守就も、かつて武田信玄と通じた事があるというのを(今更)指摘されての処分。
佐久間信盛は高野山に入り剃髪、2年後に寂しく病没。通勝や守就も、不遇の晩年を送る。
「使えない者は切り捨てる」という信長の方針は、家臣らにより一層の奮起を求めたものだが
見せしめにいきなり追放された信盛・通勝・守就らはたまったものではない。何より、
長年に渡って仕えてきた家臣であっても、功績がなければある日突然処分される恐怖は
織田家臣団の心中を寒からしめたであろう。武功があれば恩賞を与えられるのは当然だが
自分もいつ解雇されるかわからない、というプレッシャーも重くのしかかる。天下の覇業に
邁進する織田家の中では、ここにきて戦々恐々とした重圧に悩まされるようになっていく。

天正天覧馬揃 〜 織田信長、朝廷に対しての狙いは…
1581年2月28日、信長の命令により織田家の軍勢は京都御所東門外で天覧馬揃を行った。
馬揃とは、読んで字の如く軍事パレードのようなもので、北陸の柴田勝家・前田利家や
畿内駐屯の丹羽長秀・明智光秀ら多数の兵馬が終結して大規模な軍事演習を展開した。
信長は1578年にも馬揃を行っており、度重なる馬揃の挙行は織田家の強大な軍事力を誇示し
特に御所前で行う事は天皇・朝廷に対してのアピールを強く意識したものである。
この時までに信長は正二位・右大臣にまで官位を進めており、普通に考えれば
「織田軍は朝廷の守護者である」という意味で行われた馬揃と思われるだろう。
しかしこの直後、信長は総ての朝廷官職を辞任。足利義昭が管領・副将軍の職を薦めた際に
それを断り「義昭の風下には立たぬ」と宣言した如く、今回の辞任劇は「朝廷には従わぬ」という
信長の意思表示が垣間見える。となると御所門前での軍事活動というのは、朝廷に対する
恫喝・脅迫という意味合いを帯びてくる事になろう。織田家はこれだけの軍事力を持っており
天下最強の勢力である。であるから、信長が朝廷に従うのではなく、朝廷が信長に従え、という
恐喝だ。考えてみれば、石山本願寺に対する講和勅命も信長が天皇に「出させた」のである。
信長は武力による中央政権体制を志向し、その威勢は日本第一、天下布武とは朝廷・天皇すら
織田家に従属すべきものという信長の政権構想、朝廷打破の意思が大いに働いていた。
今や信長が軽視するようになった朝廷は、織田軍によってどうにでも倒せるという危機状態に
陥ったのである。平清盛や源頼朝、足利尊氏など、かつて天下を望んだ武士は数多くいたが、
それでも朝廷には従い、朝廷が認める官職を得る事で政権樹立を図っていた。信長のように、
朝廷を軽んじる者は殆んどいなかったのである。信長の強権思想に恐怖感を抱いた朝廷は、
翌1582年に関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかの位を与えると打診し、何とか信長の
機嫌を伺おうと努力する。が、当の信長はその打診を無視し、不気味な沈黙を続けた。
自らの唯一絶対的政権を樹立しようとしていた信長は、もはや幕府や朝廷といった従来的な
権力機構に存在価値を認めない考えに達していたのだろうか。
信長と朝廷の間は、急激な緊張関係へと暗転していく。

対四国政策 〜 一転、長宗我部元親に対し同盟破棄
第4次石山合戦の項目で少し記したが、信長は四国の長宗我部氏と誼を通じていた。土佐を
統一した長宗我部元親は、四国統一という次の目標へ駒を進めるために阿波国の三好氏や
伊予国の河野氏への攻略を開始し、その作戦は順調に消化されていた。これにより紀伊水道の
四国側沿岸は長宗我部氏が領有する事となり、かつて中央政界を握っていた三好氏や、
古来より独立を保つ河野氏は共に防戦一方へと凋落していく。徐々に四国で領土を広げ、
優勢になっていく元親に対し、畿内制圧を急務とする信長は同盟を持ちかけた。紀伊水道の
制海権を利用して、当時敵対していた石山本願寺への挟撃を目論んだ為である。
この同盟交渉を担当したのが明智光秀。有職故実に通暁する光秀は外交に明るい人物である上、
光秀の家老・斎藤利三(さいとうとしみつ)が元親の義兄にあたる事から抜擢された人選だ。
同盟にあたり、信長は長宗我部氏が四国を征服する事を容認。事実上の中央政権である織田方が
元親の四国統一を認めた事により、長宗我部氏の領土拡張は正当性を得た(と、思われた)。
これに満足した元親は同盟を承認。光秀の奔走による織田・長宗我部同盟が成立したのである。

斎藤家と長宗我部家
元親の正室は旧室町幕府
奉公衆の1人であった
石谷(いしがや)氏の出身。
その石谷氏に養子入りしたのが
利三の実兄・頼辰(よりとき)
この系図を遡ると、元親の妻の
義兄が利三、という事になる。

斎藤家と長宗我部家 (赤字は女性)
―は親子関係 は養子関係 =は婚姻関係
一方、阿波・讃岐を領有し、かつて長慶の活躍で畿内進出を果たした三好氏は
その長慶の死・三好三人衆と松永久秀の対立・信長の畿内制圧という事変を経過し
すっかり勢力の減退を余儀なくされていた。そこへ持ってきて南から元親が侵攻。
長慶の片腕として活躍した義賢の子・三好長治(ながはる)がこの頃の三好氏
当主であったが、没落していく混乱の中で1578年に暗殺されてしまい、いよいよ阿波国は
長宗我部氏に侵食されていく。こうした劣勢の中、長治の実弟にして十河一存の養子に入り
十河家の家督を継いでいた十河存保(そごうながやす)が三好一門の長に立った。
存保は従来織田家と敵対していた関係を見直し、当面の敵である元親を倒すためには
信長の助力を得る事こそ必要と考える。こうして十河家から織田家へ交渉の使者が
派遣されたが、存保の服属・救援要請を受けた信長にとっても、この話は対四国政策の
良い転換点となった。元親と盟約を結ぶ最大の理由であった石山本願寺は既に倒しており
長宗我部氏と手を組む必要は全く無くなっていたし、何より力を付け過ぎた元親は
今後織田軍が西進するに当たって邪魔者になるであろう事が予測されたからである。
十河家の話に乗った信長は、1581年に長宗我部との同盟を一方的に破棄。
以後は十河家を支援し、長宗我部氏を征伐するという方針転換を急遽決定した。
当然、元親は信長の裏切りに激怒し、織田家と長宗我部家の関係は急激に悪化する。
織田家の四国侵攻に備えつつ、それまでに出来るだけ早く四国制圧を完了すべく
十河家に対する攻勢も強めた。また、この同盟破棄で面目を潰された人物がもう一人。
同盟交渉にあたった明智光秀だ。光秀の取り成した織田・長宗我部両家の関係が
一触即発の状態に陥った事で、彼は両家の板挟みに遭ったのである。信長、元親と
その間に立った光秀。三者の間にあった信頼は、突如として憎悪へと転化したのだった。
家康一家・佐久間親子・林・安藤・元親・利三、それに光秀。信長の存念で、この時期に
人生を狂わされた者は数知れない。加えて朝廷に対する無言の圧力。
織田信長という人物は、天下布武の理念から何を導き出そうとしていたのだろうか。
ともかく、長宗我部氏征伐に目を向け始めた織田軍団は、翌1582年に丹羽長秀や
神戸信孝らを大将にして四国討伐軍の編成を開始する。

鳥取の渇殺し 〜 奇策“商人を使った攻撃”?!
西へ進む織田家の敵は長宗我部氏だけではなかった。中国地方の太守・毛利氏である。
播磨平定をひと段落させた秀吉は因幡・但馬の国主、山名氏を次なる攻略対象とし
日本海側への侵攻を盛んに行っていく。かつて「六分の一衆」と呼ばれるまで勢力を広げ
応仁の乱では山名宗全が西軍総大将として活躍した山名氏ではあったが、今や昔日の面影なく
わずかに因幡国と但馬国を、分家した2つの山名家がそれぞれ領有するに過ぎぬ状態であった。
秀吉の攻撃に抗しきれなくなった山名氏は、但馬山名家が領地を失い滅亡し、因幡山名家は
1580年9月、降伏の道を選ぶ。こうして因幡山名家当主の山名豊国(やまなとよくに)は辛うじて
鳥取の所領を安堵されたが、しかし織田家への従属を良しとしない山名家臣団は談合して離反、
秀吉軍が播磨に帰陣した隙を見て豊国を鳥取城から追放し、毛利氏の保護を求めた。
この結果、1581年3月に毛利家から鳥取城の守将として吉川経家(きっかわつねいえ)
派遣され、秀吉との対決に備えるようになる。経家は吉川の分家筋にあたる家柄の出自だが、
武勇に優れた将とされ、その勇猛さを見込まれて鳥取城に派遣されたのであった。斯くして、
旧山名領を吸収する事で毛利家はより一層の領土拡大を為したものの、秀吉軍との直接対決が
避けられない状況になったのである。対する秀吉は、播磨を押さえつつ鳥取城を奪還するため
兵力の温存を図る事を第一にした戦略を展開。鳥取に軍を派遣する前段階の準備として
自分の所領である長浜の商人に命令を下した。鳥取近辺の五穀を徹底的に買い漁らせたのだ。
長浜を中心とする近江商人と言えば、堺や博多と並び全国でも有数の財力を持つ事で知られ
現在も滋賀県を本店とする企業は数多い。この近江商人が鳥取の米穀を買い占める動きを
見せた事で、現地の相場は急騰。鳥取はにわかに“軍事特需”で沸き、町にある米は総て売られ
町民や国人衆らはその利益による恩恵を受け、彼らは巨利を生み出した秀吉に協力的となる。
しかし、加熱する特需で鳥取城内の兵糧までもが高値を当て込んで流出するようになった。
これが秀吉の狙いで、三木城攻略に1年以上の歳月を費やした経験から、先手を打って
籠城軍の兵糧を放出させたのである。城内の食料備蓄が無くなった頃の6月、秀吉が出陣し
鳥取城を包囲した。もちろん、民衆や国人らは秀吉軍を歓待し攻城作戦に協力。鳥取城は
蟻の這い出る隙もなく囲まれ、城内の兵糧も少なかった事からたちまち飢餓に陥った。
これが世に言う「鳥取の渇殺し」である。戦う前から決していたような勝負であるが、
それでも良将・経家に率いられた籠城軍は粘り強く持ち堪えた。とは言え、それも限度があり
秀吉の狡猾な包囲網により毛利本領からの救援も届かず、凄惨を極めた鳥取城は屈して
10月25日、遂に落城する。城主・経家は、自らが自刃する事で城兵の赦免を申し入れ、
秀吉はこれを受諾。結局、秀吉軍にはほとんど損耗が発生せず、残った鳥取城兵も帰還、
民衆らは好景気で富を築き、秀吉の鳥取攻略はその後の統治までも順調に行う事ができた。

★この時代の城郭 ――― 戦国の城攻め(2):兵糧攻め
強襲の項目で書いたが、城を落とすには籠城軍の3倍以上の兵力が必要とされる。
攻める側と言えども、多大な犠牲を払わねば城を攻略する事は不可能なのだ。となると、
被害を最小限に抑えるには籠城側に大いなる疲弊を強いる作戦を用いねばならない。
古来から戦争の際にはそうした戦略を念頭にして軍を動かす戦法が確立されてきた。
その最たるものが兵糧攻めであろう。読んで字の如く、城内の兵糧を消費させ
城兵が飢餓に陥るのをひたすら待つ持久戦法だ。しかし、籠城側も兵糧の確保が
城を守る最重要項目と認識しているのは当たり前。食料の消費は最小限に抑え
何とか城外から物資の補給を得る手段を取ってくる。という事は、兵糧攻めを行うには
城を完全に外部と遮断し、籠城軍が食料を入手する隙を与えぬようにしなくてはならない。
時に陣城を構えるなどして攻略対象城を長期に渡り包囲し、城兵を外部と完全に遮断し、
敵を孤立させるのだ。兵糧が尽きれば城内は飢餓に陥り、自ずと降伏せざるを得なくなる。
こうした包囲を長囲攻めと言い、労力や時間、軍資金を多く必要とするものの
力攻めに比べれば格段に自軍兵士の犠牲が少なくて済む利点がある。
特に秀吉はこういった長囲攻めの名人で、上記した鳥取城をはじめ
三木城の別所氏攻略、浅井氏の小谷城攻めなど、数々の攻略を成功させている。


天正伊賀の乱 〜 魔王の軍勢、伊賀を蹂躙
鳥取城での攻防戦が続く中、1581年9月に伊賀国でも戦いが起きていた。
畿内の地図に穴を空けた空白地、未だ織田軍の攻略を受けていなかった伊賀地方は、
在地の土豪が割拠し、険峻な地形と相俟って独立自尊を遂げていた地域であったが
畿内制圧の仕上げ段階に入った信長は、満を持して伊賀征服の軍を自ら進発させたのだ。
鎌倉時代以来、伊賀国は守護勢力が入れぬ国人割拠の国となっており、案の定今回の
信長親征に対しても激しい抵抗活動が発生する。伊賀と言えば伊賀忍者で知られる
乱波(らっぱ、忍者の事)の地でもあり、その中でも伊賀上忍三家の一つとして有名な
百地三太夫(ももちさんだゆう)率いる百地党の抵抗は激烈を極めた。伊賀国内各地に
多数の砦を築いて織田軍を足止めし、果敢なゲリラ戦を展開したのである。
しかし、そうした激しい抵抗よりも信長の軍はさらに苛烈な作戦を繰り広げた。伊賀領内、
特に百地党にゆかりの土地に対して徹底した根切り攻撃を行い、その場にいるものは
武士のみならず一般庶民、老若男女を問わずことごとく殺害していったのである。
強大な魔王・信長の軍勢は伊賀国内の人間を全滅させるかのように殺戮を進めて行き
惨い蹂躙の末、百地党は歴史の舞台から消え去った。この戦いを天正伊賀の乱と呼び
畿内で織田家に従わぬ土地は雑賀衆が支配する紀伊国を残すのみとなった。

天目山の戦い 〜 甲斐源氏の名門・武田家の滅亡
明けて翌1582年。次なる戦いは東で発生した。この戦いの端緒は信濃国木曽地方の名家、
木曽氏が織田家への服属を申し出た事である。木曽義仲の後裔と伝わる豪族・木曽義昌
武田信玄の攻略を受けて以来武田家に臣従していたものの、信玄没後約10年にして
武田勝頼の無理な統治を見限り、織田家へと寝返ったのだ。元来、甲斐・信濃の民は信玄の
絶妙な富国強兵策によって生活基盤を維持していたのだが、勝頼に代替わりしてからは
一方的な軍拡政策に転じたため、税務・労務において多大な重圧がかかるようになっていた。
長篠での敗戦以後、国防の必要性がいよいよ増した事でその傾向は更に顕著となり、
豪族の中には勝頼の統治へ不満を募らせる者が出てきたのである。そうした中、落ち目と
なりつつあった武田家に対し徳川家康が攻勢を強め、1581年3月22日に因縁の高天神城が
落とされた。勝頼が自信に満ちて奪った遠江の要は、今再び徳川家の手に渡ったのである。
武田家の絶対国防圏が南から侵食され始めた事で危機感を募らせた勝頼は、平城の居館
躑躅ヶ崎館を放棄しより堅固な城砦となる新城の構築を開始した。これが山梨県韮崎市にある
新府城で、1581年2月に工事開始、同年12月に完成して勝頼が入城。「新府」という名から
伺えるように、勝頼はここを新たな甲斐府中として整備し、来たるべき織田・徳川軍との決戦に
備えようとしたのである。が、新規の大規模な築城工事でますます国政の負担は増加し、
甲斐・信濃の豪族らは不安感を強めてしまった。そして1582年2月、武田領西端に位置した
木曽義昌が信長に帰順したのである。義昌の裏切りに怒った勝頼は、木曽討伐を決断し
1万5000の大軍を編成して出陣を命じようとした。

★この時代の城郭 ――― 武田流築城術
武田信虎・信玄・勝頼の代に渡り、甲斐武田氏の本拠とされた城館は
甲府盆地の中に置かれた躑躅ヶ崎館であった。この館は平地の武家居館形式で
堀と土塁に囲まれてはいたが、他の戦国大名の居城のような大規模なものではなく
中世以来の伝統的な武士の館と言った感じである。内憂を克服し、外征を果たし続けた
強大な武田氏にとっては、本拠地を敵に攻められる事態など考えられなかったからだ。
一応、非常時の備えとなる詰めの城、要害城が近隣の山中に設けられていたが
そもそも、2段構えで城郭を用意する防衛思想自体、中世的な城郭概念である。
その一方、甲斐の外に領土を拡大した武田氏は、外征先で前線基地となる城郭を
多数構築していた。旧来からある城郭をそのまま使用・改良する事もあったが
特に信玄が駿河や遠江に侵攻するようになる頃から、城郭を新造する例が増えていく。
大井川の渡河拠点となる諏訪原(すわはら)城、駿河平地部の中継点となる田中城などが
それらの好例と言える。諏訪原城は河岸段丘を後背地としたいわゆる「後ろ堅固の城」で、
地形を上手く利用した、約90度の扇型をした縄張りが特徴的。扇の要の位置にあたる
最奥部に主郭を置き、その周囲に兵員の居留地・物資集積地となる比較的広い曲輪を配置、
さらに曲輪の出入口では火力制圧拠点となる丸馬出しを構え、敵の襲撃を防いでいる。
この構造は自軍の出撃拠点という戦略的意図と、敵軍の攻勢を単独で跳ね返せる
戦術的防備思想を兼ね備えるもので、本拠地(甲府)から遠く離れた外征城郭として
理想的な装備を有していると言えよう。また、田中城は世にも珍しい円形をした城郭で
航空写真で城跡を見ると、見事なまでにまん丸の同心円が並ぶ縄張りとなっている。
(江戸時代になって拡張されている部分もあるのを注記しておく)
東西南北の4箇所に、やはり出入口を守る丸馬出しが構えられ、城兵の防御戦術行動を
統一マニュアル化できる円形の縄張りと併せる事で「難攻不落の城」という評価が高い。
「円形の縄張り」というと、一般の城の構えと比較して異端のような感じがするが、
「90度の扇型をした諏訪原城を4つ並べた縄張り=田中城の円形城郭」になるのである。
要するに、諏訪原城の堅固な構えを拡大したものが田中城の縄張りとなり
この両者は全く同じ築城理念によって設計された城郭である、と結論付けできるのだ。
戦国大名ごとに得意とする戦略・戦術があり、それに基づく築城術が成り立つ事は当然だが
その中でも武田氏によるこれらの統一的な築城術は「武田流築城術」と呼ばれ、
後記する北条流築城術と並び、最も有名な戦国築城術の一つとして定義されている。
諏訪原城の紹介で記した通り、地形を巧みに利用しながら、土塁と堀により明確な
防衛線を策定し、中心の主郭を囲うように比較的大きな曲輪を配置するのが
武田流築城術の基幹。また、必ずと言って良いほどに丸馬出しで出入口を塞ぐのが
特徴となっている。多くの兵員を収容可能で、虎口は投射兵器で堅固に守る。
同心円や丸馬出しなど、円に基づく縄張りは、戦術的に見て本来あるべき柔軟な姿でもある。
そもそも馬出しという仕掛け自体、築城術において最も発達した防衛構造物と定義されている
事からも、如何に武田流築城術が先進的で優れたものだったかが想像できよう。
こうした強力で画一化された城郭を各地に築く事により、武田軍は素早く最前線に前進し
領土の維持・拡張を果たす事ができた。長篠の合戦以来、防戦一方となったものの
武田家の新たな本拠地として築造された新府城もまた、こうした武田流築城術を活かして
縄張りされている。特に新府城では、従来の丸馬出しだけでなく、鉄砲による敵兵銃撃を狙い
火器専用の陣地も付け加えられるなど、更なる進化を見せる設計となっていた。
不幸にして新府城は真価を発揮せぬまま放棄され、衆寡敵せず武田氏は滅亡する事になるが
各地に残された武田流の城郭遺構は、現在にまで強烈な個性を放っている。
新府城跡
新府城跡(山梨県韮崎市)

信長の攻撃に備えて新造した勝頼の要塞。
険峻な地形を利用した大規模な城郭で
特に鉄砲での銃撃戦を考慮した曲輪構造が特徴。
今まで騎馬戦を主体とした武田軍にあって、
近代戦術への転換を図った城として評価できるが
時既に遅く、武田家を守る城砦とはならなかった。

勝頼出陣を察した信長も対抗して軍を発した。今こそ武田家と決戦の時と睨んだ織田・徳川の
連合軍は、木曽方面のみならず駿河からも、飛騨からも軍を侵攻させ、武田領を全周から
攻略したのである。勝頼から出陣の命を受けた甲信の豪族らは、織田・徳川連合軍による
怒涛の進撃に抗すべくもなく、また、かねてから勝頼の手法に疑問を抱いていた事もあり
大半が戦わずして降伏。勝頼が1万5000の兵を編成しようとした目論みは瞬時に霧散し、
信濃国は僅かな間で信長の手に落ちていく。戦いらしい戦いと言えば、高遠城に籠もる
勝頼の弟・仁科盛信(にしなもりのぶ)の抵抗だけで、この籠城戦も織田信忠軍の突撃で
落城、盛信は戦死して果てた。信長自らが率い、家康が援軍を発した織田・徳川連合軍は
信長の長男・信忠、用兵上手で知られる滝川一益(たきがわかずます)、信長の忠実な部下
河尻秀隆(かわじりひでたか)、それに明智光秀らが参加した大軍で、高遠城を落とした後
速攻で信濃・甲斐国境を突破していく。もはや勝機を失った勝頼は完成したばかりの新府城を
使う事無く棄てて東へと落ち延びるしかなかった。目指すは甲斐国東端にある岩殿山城。
都留郡を治める古豪・小山田信茂(おやまだのぶしげ)の有する山城で、断崖絶壁の上に
築かれた城はそう簡単に落とせるものではなかった。勝頼はこの城に入って再起を期そうと
図ったのである。ところが甲府を通過し笹子峠へ差し掛かる頃になって当の信茂までもが離反。
伊勢長島や比叡山、越前、加賀それに伊賀など、今まで信長は敵対する相手は領民さえも
殺戮していたため、信茂はこのまま勝頼を匿えば岩殿山城下の町・大月が蹂躙されると
危惧したのだ。自領の消滅に恐怖した信茂は、最後の最後という土壇場で主君・勝頼を
見限ったのである。行く当ての無くなった勝頼は、たった41騎で天目山(笹子峠手前の山)に
逃げ込んだが、一益・秀隆らの軍勢は容赦なく猛追撃をかけた。観念した勝頼は3月11日、
天目山の山中で妻子共々自害して果てる。この時、主君が敵の手にかかる事を阻もうとした
勝頼の臣・土屋昌恒(つちやまさつね)は孤軍奮戦し「片手千人斬り」という伝説を残した。
勝頼最期となるこの戦いを天目山の戦いと言う。
また、武田の残党は甲府の北にある武田家の菩提寺・恵林寺(えりんじ)に籠もり抵抗、
信長・信忠の軍は寺の住職にして有名な高僧であった快川紹喜(かいせんしょうき)に対し
敗残兵の引渡しを求めた。しかし紹喜は弱者を守るとしてこの要求を拒否し、4月3日に
信長軍が放った焼討の炎に自ら飛び込み往生した。「心頭滅却すれば火もまた涼し」という
言葉は、火炎に消える紹喜が発した最期の覚悟である。昌恒や紹喜など、勇将・名士と共に
甲斐源氏の名門・武田氏は滅亡、信濃・甲斐は信長が、駿河は家康が領有する事になった。
岩殿山城跡
岩殿山城跡(山梨県大月市)

土壇場で勝頼を見限った城主・小山田信茂は
酷薄な裏切者というレッテルを貼られ、
戦後、信長から自害を命じられた。
しかし信茂は領民を慈しんだ将として
止むを得ず勝頼を見捨てたと言う。
裏切者か、慈愛の将か。歴史の判断は難しい。
結果として、大月の民が迫害される事はなかった。
戦後、信長は甲斐国主に河尻秀隆を任じる。その昔、織田信友から鞍替えして信長に
仕えるようになった秀隆は、武勇に優れた剛の者であり、信長の親衛隊と呼べる武闘集団
黒母衣衆(くろほろしゅう)筆頭の格にいた猛将。美濃攻略や浅井長政征伐に従軍し、
伊勢長島攻略では一向門徒の殺戮作戦を忠実に遂行した人物として知られている。一方、
滝川一益には旧武田領のうち西上野地域と信濃2郡が与えられると同時に、以後織田軍の
関東方面攻略軍団長の任務に就いた。今まで記載する機会が無かったが、一益という人物、
元々は六角氏の家臣であったと言われ、六角家中の紛争から出奔、柴田勝家の推挙により
信長へ仕えるようになった武将で、以来、桶狭間や伊勢平定など数々の激戦を渡り歩いた
勇将である。信長直属の将として遇された彼は智略にも優れ、九鬼嘉隆が鉄甲船を
建造した際に共同参加して実用化させた経歴も持ち、これら戦歴の功として伊勢長島という
かつて一向一揆の一大拠点であった難しい土地を領土として与えられていた。一益の智勇を
上手く活用する信長ならではの論功行賞で、彼もまた、信長の期待に沿うべく一揆平定後の
長島地方を的確に経営している。何より、武勇優れる一益は“先駆は一益、殿軍も一益”と
評されるほどに用兵上手で、こうした経緯から関東方面軍の総大将に任命されたのである。
関東攻略の任務を与える際、信長は一益に関東総目付(関東管領)という高職を授けた。
さぞや一益は喜んだ筈…と思いきや、彼は落胆。それというのも、一益はかねてから
茶器の名物・珠光小茄子(じゅこうこなす)の拝領を希望しており、甲斐攻略の恩賞には
必ずやそれが貰えるものと期待していたからだ。が、信長はそんな一益の気持を知った上で
茶器は与えず、信濃・上野の領土と関東管領職を褒美としたのである。欲しい品は
お預けにしてより一層の忠勤を家臣に期待する、これまた信長一流の論功行賞であった。
また、この事実は信長配下の武将が領土や職位よりも茶器を重んじるようになっていた事を
物語っている。現代の常識として考えれば、茶入一個よりも領土の方が良いと思えるし、
関東管領と言えば東国武士の最高位と呼べる程に名誉ある重要職であるはずなのだが、
当時は茶器の方に価値を求めるようになっていたのだ。信長の推し進める茶の湯政道は、
これほどまでに浸透していたのである。
戦後処理が確定したところで、信長は安土に引き揚げた。武家の名門・甲斐武田家の嫡流は
ここに滅亡し、甲信の統治は一益や秀隆に任される。しかし、あまりに苛烈な手法で
滅ぼされた武田家の怨嗟は、半年と経たずに彼らへ復讐を為す事になる。
一向一揆の民、延暦寺、浅井・朝倉氏、波多野氏、別所氏、伊賀衆、そして甲斐武田氏。
織田軍によって凄惨な滅亡に追い込まれた勢力は、あまりにも多かった。
加えて、交戦中の毛利氏や長宗我部氏、越後の上杉氏など、敵対する大名も手強く
織田家中でも歴戦の将が追放される有様。怨みを抱く狼の牙は、何処へ向かうのか―――。




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