★この時代の城郭 ――― 秀吉の姫路城
現在、ユネスコ世界文化遺産に登録された日本屈指の名城・姫路城。
しかし、白壁美しく光り「白鷺城」と別称される今の姿は江戸時代になってから
再構築された城郭であり、築城当初の城郭は全くといって良いほどの小城であった。
そもそも姫路城が築かれたのは室町時代、播磨守護・赤松氏の手によるものとも、
上記した小寺氏が整備したものとも言われ、正確な創建時期は諸説あり確定できていない。
ともかく、姫山という独立丘陵に築かれたこの城が重要視されるようになるのは
やはり秀吉が入城してからの事で、その際に大掛かりな改修工事が行われた。
現実的に姫路城の存在意義が発生したのはこの時からと言っても良いだろう。
秀吉はそれまでの姫路城を改造し、石垣作りの城へと変貌させ、本丸最高所には
1580年に外観3重の望楼型天守を建てた。今まで小さな砦程度でしかなかった姫路城は
秀吉の播磨平定を象徴する大城郭になり、播州の中心となる政治的意義も兼ね備えたのである。
築城工事に領民を動員する事は、秀吉の威光を知らしめて統制を浸透させ
大規模な公共投資で播磨商人の懐を潤し、経済の活性化を促す意味もあった。
信長が安土城で天下平定を望んだのと同じ手法で、秀吉は播磨統治を進めようとした。
信長から始まる「近世城郭」としての概念は、着実に進歩を続けていたのであるが
その経過点として秀吉の姫路城は城郭史上に大きな役割を果たしていたと言えよう。
秀吉によって改修された姫路城が江戸時代になって更に大改修を受け
近世城郭の完成型ともいえる巨大城郭になった。
姫路の城は、中世〜近世の日本史そのものを体現する存在なのだ。
そして現代では、日本の歴史の語り部とされる世界遺産にまで到達するのである。
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