覇王の進軍(2)

第4次石山合戦は継続中、という時期に
丹波では波多野氏が反乱、播磨では別所氏が兵を挙げた。
毛利氏に囲まれた上月城は陥落し、尼子主従は非業の死を遂げ
織田家の領土拡大作戦は「1歩進んでは後退」という状況が続く。
それでも敵対勢力を排除しようとする信長の軍団は
この先、どのように戦っていくのか。


荒木村重の反乱 〜 黒田官兵衛、説得に赴くが…
丹波では明智光秀が波多野攻略に手を焼き、播磨では羽柴秀吉が別所氏の反乱に奔走していた
1578年10月の事。それまで秀吉と共に山陽方面に出陣し、対毛利氏の軍事活動を展開していた
信長配下の武将・荒木村重が突如居城の摂津国伊丹城へと立て籠もり、反乱を起こした。
村重という人物、もともと摂津国の武士であり一時期三好長慶に仕えていたが、信長の上洛時に
織田方へと服属するようになった。まだ足利義昭が信長の庇護下にあった頃の1569年1月、
織田政権や義昭の打倒を目論む三好軍が義昭の居所・本圀寺を攻め立てた際、明智光秀や
細川藤孝らと共に三好勢の撃退に駆けつけたという話は先にも書いた通りである。
その後にも戦功を重ねた村重は信長の信任も篤く、摂津国大名の地位を与えられるほどに
なっており、しかも武辺のみならず茶人としても名を馳せる文化人でもあったのだが、
そんな彼が突如謀反を起こしたのだから一大事である。反乱の原因は定かでないが、一説には
村重の部下が密かに本願寺と内通、石山に兵糧を運び込んだという事件があり、引っ込みが
着かなくなった事から挙兵に踏み切ったといわれる。しかし実際には信長はその事件を
知らなかったようで「全く理由のない謀反」に困惑し、藤孝や秀吉に使者を派遣させ
謀反の訳を確認しようとした。村重はこうした使者を追い返し、頑なに籠城。
織田軍・荒木軍の睨み合いが続く中、立ち上がった者がいた。秀吉配下に加わった智将、
黒田官兵衛である。官兵衛は村重と旧知の仲だったので、自分が赴けばきっと村重は籠城を解き
降伏するだろうという自負があった。確かに狙い通り、官兵衛は伊丹城内に入る事を許された。
1578年〜1579年にかけての反信長勢力図


1578年〜1579年にかけての反信長勢力図

赤字で表記したのは織田家の所領と部将名。
緑字で表記したのは反織田家の所領と勢力名。
矢印は主な武力攻勢の展開状況を表す。

しかし入ったきり全く出て来ない。今までの使者は追い返されたのに、官兵衛だけが入城し
帰らないというのは妙な話である。信長は官兵衛が村重に寝返り、共に籠城を始めたと疑った。
そして秀吉の下に残された官兵衛の嫡男・黒田長政を見せしめとして処刑するように決定する。
驚いたのは秀吉である。まさか官兵衛が裏切ったとは思えず、しかも長政を殺すなどもっての外。
が、主君たる信長の命令に逆らう訳にはいかない。困った秀吉に策を与える人物がいた。
持病の結核が悪化し衰弱しながらも播磨行軍に加わっていた軍師・竹中半兵衛である。
半兵衛は偶然事故死した少年の亡骸を引き取り、これを長政の遺体と称して信長に差し出した。
例え嘘がばれて罪に問われても、既に半兵衛の余命はいくばくもなく、恐れるものはなかったのだ。
斯くして長政は匿われたのであるが、官兵衛はどうなっていたのだろうか。長引く村重の籠城に対し
織田軍は徹底した攻撃を展開、伊丹城陥落間近となったある日、村重は城を棄てて逃亡し
その直後、残存兵の大殺戮と共に城は落城。1579年9月の事だが、陥落した伊丹城内の地下牢に
官兵衛が囚われていたのが発見された。官兵衛は寝返ったのではなく幽閉されていたのだ。
九死に一生を得て官兵衛は助け出されたが、傷を負い生涯片足が不自由になってしまった。
また、信長の疑念は晴れたものの、長政の不遇を後に伝え聞いた官兵衛は衝撃の事実に
直面する。我が子の命を救ってくれた半兵衛は―――既にこの世の人ではなかった。
官兵衛生還に3ヶ月ほど先立つ6月13日、竹中半兵衛は結核にて死去。享年36歳。
あまりにも早い天才軍師の死は秀吉にとって痛恨の極みであったが、それ以上に
官兵衛にとっては悔やむべき事であった。息子の大恩人である半兵衛に礼もできぬまま
世を去ってしまったのである。半兵衛の恩に終生報いる事を誓った官兵衛・長政親子は
竹中家の家紋を引き継いで黒田家の家紋とし、子々孫々まで半兵衛の交誼を伝えたのである。

三木の干殺し 〜 別所長治、兵の命と引き換えに散る
話が前後する事をお許し願いたい。別所氏が三木城で反乱を起こしてから約1年後の1579年3月、
備前国主として伸張著しい宇喜多直家が毛利氏との同盟を破棄し、秀吉と同盟を結んだ。
三木城攻略において軍事力を集中させたい秀吉は、直近の外敵であった宇喜多氏と外交交渉し
味方に引き入れ、眼前の敵を消す事に成功させたのである。波多野氏・荒木氏は相変わらず
戦い続け、別所氏も頑強に抵抗していたものの、この頃から秀吉が反撃に出るようになる。
力攻めで兵力が損耗する事を嫌った秀吉は、徹底的に三木城を包囲する作戦を展開。
次第に包囲網を狭めていき、今や三木城は蟻の這い出る隙もないほどに封鎖されていた。
同時に秀吉は播磨国での検地を実行し、統治権を充実させる。軍事面のみならず民政面からも
三木城を圧迫し、別所氏の早期降伏を図ったのであった。この後、7月に丹波波多野氏が滅亡、
9月には荒木村重の反乱は壊滅し黒田官兵衛が戦線に復帰。畿内西域で連携していた反信長の
戦線は別所氏を残すのみとなってしまう。1年半にも及ぶ籠城、秀吉軍による封鎖作戦により
三木城内は凄惨な飢餓状態に陥り、この頃になると牛馬や木の芽はもちろん戦死した兵の
人肉さえも食料とするようになっていた。「三木の干殺し」と呼ばれる凄絶な籠城戦である。
1580年(天正8年)正月、敗北を悟った城主・別所長治(べっしょながはる)は秀吉の降伏勧告を
受諾、別所一族の自刃と引き換えに城兵の助命嘆願を申し出た。秀吉はこれを受け容れ、
自刃前に酒宴を開くべく兵糧を提供した。1月15日、三木城開城。17日に長治らが切腹した。
今は只 恨みもあらず 諸人の 命にかはる 我身と思へば
長治23歳、辞世の句である。浅井長政や荒木村重と同様、別所長治も本心では信長との対立を
望んでおらず、三木城の反乱は周囲の縁者や配下に促されてのものだったと言われている。
悲惨な兵糧攻めの苦難に直面し、兵士の助命と引き換えに散った別所長治。その死を以って
播磨での戦闘は終結し、秀吉軍はいよいよ毛利氏との直接対決へと向かう戦略を始動する。

★この時代の城郭 ――― 秀吉の姫路城
現在、ユネスコ世界文化遺産に登録された日本屈指の名城・姫路城。
しかし、白壁美しく光り「白鷺城」と別称される今の姿は江戸時代になってから
再構築された城郭であり、築城当初の城郭は全くといって良いほどの小城であった。
そもそも姫路城が築かれたのは室町時代、播磨守護・赤松氏の手によるものとも、
上記した小寺氏が整備したものとも言われ、正確な創建時期は諸説あり確定できていない。
ともかく、姫山という独立丘陵に築かれたこの城が重要視されるようになるのは
やはり秀吉が入城してからの事で、その際に大掛かりな改修工事が行われた。
現実的に姫路城の存在意義が発生したのはこの時からと言っても良いだろう。
秀吉はそれまでの姫路城を改造し、石垣作りの城へと変貌させ、本丸最高所には
1580年に外観3重の望楼型天守を建てた。今まで小さな砦程度でしかなかった姫路城は
秀吉の播磨平定を象徴する大城郭になり、播州の中心となる政治的意義も兼ね備えたのである。
築城工事に領民を動員する事は、秀吉の威光を知らしめて統制を浸透させ
大規模な公共投資で播磨商人の懐を潤し、経済の活性化を促す意味もあった。
信長が安土城で天下平定を望んだのと同じ手法で、秀吉は播磨統治を進めようとした。
信長から始まる「近世城郭」としての概念は、着実に進歩を続けていたのであるが
その経過点として秀吉の姫路城は城郭史上に大きな役割を果たしていたと言えよう。
秀吉によって改修された姫路城が江戸時代になって更に大改修を受け
近世城郭の完成型ともいえる巨大城郭になった。
姫路の城は、中世〜近世の日本史そのものを体現する存在なのだ。
そして現代では、日本の歴史の語り部とされる世界遺産にまで到達するのである。

なお、1579年3月に結ばれた直家との同盟について話を少々。直家と秀吉の間を取り持った人物が
京の豪商・小西隆佐(こにしりゅうさ)とその子・弥九郎(やくろう)である。小西家は宇喜多家の
御用商人であり、羽柴・宇喜多両大名の関係を功利的に結びつけたのだ。小西親子の
手打ちによって目出度く同盟成立と相成った訳だが、しかしこの約定は信長の認めたものでは
なかった。信長は備前領を配下武将に分け与える算段だったといい、秀吉の独断専行に対して
大いに怒ったという。明智光秀が母を人質にした時と同様、羽柴・宇喜多同盟は危機を迎えたが、
直家は改めて小西家を通じて信長に和睦を申し入れ、同年10月30日にようやく許可された。
この時、直家は既に病を得ていて残る命は僅かであった。死を目前にした直家は羽柴秀吉という
名将と同盟、宇喜多家の行く末を託したのである。直家の嫡男・秀家(ひでいえ)はまだ幼く
秀吉は播磨平定の功労者である直家に恩義を感じ、秀家を後見する事を約束する。息子の安泰を
勝ち取った直家は、1581年に死去。秀家は秀吉の猶子に迎えられ、後に破格の出世を遂げていく。
また、同盟締結の立役者となった小西弥九郎も秀吉によって取り立てられ武士となり、
計算に秀でた子飼いの武将となった。これがキリシタン大名としても名高い小西行長である。
播磨平定は様々な人物の運命を変えたと言えよう。その一方、秀吉の独断専行は許されたのに、
自分の約定は破約させられた明智光秀の猜疑心は徐々に増加していったのかもしれない。

第4次石山合戦(2) 〜 第二次木津川河口戦
さて、話はまたもや移って石山本願寺の戦いである。石山完全封鎖を狙った信長軍であったが
水軍を毛利方の村上水軍に破られ、大坂湾の制海権を奪われた事でそれは成功しなかった。
幾多の河に囲まれた平地の中にある小高い丘という要害地形、しかも寺堂は見事な石垣と
堅固な塗塀に囲まれ、並みの城よりも堅城であった石山本願寺はいまだに健在で、信長軍に
果敢な抵抗を続けていたのである。水軍での完全勝利が本願寺屈服に必要不可欠と判断した
信長は、改めて九鬼水軍を編成し大坂湾の制海権奪還を厳命した。しかし、村上水軍に敗れた
経験がある以上、以前と同じ戦略では勝てないと予測した九鬼嘉隆は、軍船の刷新を図った。
村上水軍は焙烙玉で敵船を焼き討ちしてくる。ならば、燃えない船を作れば良い。それが
信長と嘉隆の出した結論であった。しかし燃えない船、耐火性を持った船とは如何なるものか。
木の船体を鉄板で覆いつくしてしまえば、炎は燃え広がらない。これが目指す新型軍船である。
織田領・美濃国の関といえば刀剣の名産地として名高い町で、優秀な鍛冶職人が多くいた。
信長はこれらの鍛冶職人に薄くて頑丈な鉄板制作を命じ、そうして作られた装甲を九鬼の軍船に
貼り付けた。ただ船体に貼り付けただけでは重くて船のバランスが保てないため、特別に船を
大型化し安定性を高めた今まで以上の巨大軍船を建造させ、その船を鉄板で覆わせたのである。
鉄船、鉄甲船などと呼ばれるこの戦艦を繰り出した九鬼水軍は、村上水軍へのリベンジを開始。
1578年11月6日、再び木津川の河口で九鬼水軍と村上水軍の戦端が開かれた。世に言う
第二次木津川河口戦である。またもや小型船艇の大量投入で九鬼水軍を圧倒する村上水軍。
一方、その重さで小回りの利かない鉄甲船団は殆ど動かない。前回以上に村上水軍が幅を
利かせ、瞬く間に九鬼水軍は包囲されてしまった。そうこうする間に焙烙玉の投擲が開始され、
村上水軍は九鬼水軍を制圧したかに見えた。しかし、鉄の装甲に身を包んだ九鬼水軍の安宅船は
防火性を最大限に発揮し、全く燃える気配がない。焙烙玉が無効と知った村上水軍は動揺し
敵船に乗り移って白兵戦を展開すべく、艦隊布陣を変えようとして右往左往する。その途端、
鉄甲船からの反撃が開始された。何と、この船は防御性を向上させただけでなく、艦内に
南蛮から輸入された大砲を備えており、攻撃力も恐ろしいほどに高めていたのである。
村上水軍の指揮艦に向かってその大砲が火を噴いた。よもや船から大砲で撃たれるなどとは
考えてもいなかった村上水軍は大混乱に陥り、砲撃によって次々と粉砕されていく。
九鬼水軍の鉄甲船はわずかに6隻、村上水軍の船艇は600隻と言われたが、この戦いでは
織田方の九鬼水軍が圧倒的勝利を収め、村上水軍は石山救援を放棄して逃げ帰った。
第二次木津川河口戦再現CG
第二次木津川河口戦再現CG [(C)NHK]

船体を鉄板で覆った信長の軍船は
防火性能に優れるのみならず
南蛮渡来の大砲をも装備しており、
圧倒的多数で包囲してきた
村上水軍の船を木端微塵に撃沈した。
南蛮文化を積極的に取り入れた信長の
“奇想天外兵器”による勝利である。
大坂湾の完全封鎖を為した織田軍は勢いを増して石山包囲を強化し、遂に本願寺は苦境に陥る。
長島・越前で大虐殺を受け、ここで石山までもが全滅しては一向宗そのものの存亡が危うくなると
判断した本願寺顕如に対し、信長は頃合を見計らって正親町天皇に降伏の勅命を発せさせる。
宗派の危機に際し、天皇から降伏の勅命が出たとあっては顕如もこれに従い、1580年閏3月
10年に渡った石山戦争が終結する事になった。顕如は本願寺を退去し石山の地を信長に譲渡。
「現世利益」を第一とする一向宗ゆえ、法主が死んでは救われないという発想になった顕如は
以後、信長の復讐を恐れるかのように和平路線へと転換し、各地で抵抗を続ける門徒に対し
「和睦が法主の意向であり、戦い続ける者は破門」という触れを出して慰撫に務めた。
(今までと全く逆の命令であり、門徒もさぞかし混乱したであろう)
それでも戦おうとした一向宗徒は織田軍に撫で斬りされ、法主である顕如からは破門され、
無残にも何ら救われぬまま歴史の闇に消えていったのであった。

加賀一向一揆の壊滅 〜 一向宗の組織的抵抗終了
1580年閏3月の勅命講和により石山本願寺を4月に退去した顕如は、同時に法主を引退し嫡男の
本願寺教如(きょうにょ)へ門跡を譲り渡した。しかし教如は相変わらず信長との徹底抗戦を望み、
石山本願寺に居座り続けて各地の一向門徒に継戦を指示した。このため顕如は教如への
法主移譲を取り消し、次子の准如(じゅんにょ)を新法主に据えたが、信長の教如に対する
怒りは収まらず、石山本願寺は焼き討ちの攻撃を受ける。同年8月2日、教如も信長に降伏し、
ここに石山での戦争は完全終結を見た。なお、教如と准如の兄弟はその後も本願寺教団を
二分して勢力争いを繰り広げるようになり、後に京都で東本願寺・西本願寺という2つの
本願寺を設立する事となった。結果的に、勢力を分かった一向宗は衰退してしまったのである。
さて石山陥落後も最後まで抵抗を続ける一向宗の領土がまだ残っていた。惣国・加賀国である。
加賀国は本願寺との講和条件において顕如一族の領土安堵が規定されていたが、肝心の
加賀一向宗徒らは停戦を拒否し織田軍に対する反抗を続けていた。このため、越前国にあった
柴田勝家の軍団は満を持して加賀征伐を決行し、抵抗する一向一揆勢をことごとく殲滅していく。
その結果、約100年に及んだ加賀一向一揆は壊滅。加賀国も織田領に加えられ、本願寺への
加賀返還という講和条件は反故にされた。一向宗は石山に続き加賀も失い、もはや組織的な
抵抗活動は展開できない状態になる。室町中期から戦国時代にかけて政権中枢を揺さぶり、
戦国大名に匹敵する軍事力を動員してきた一向宗は、ここに戦闘組織としての体裁を失い
この後、純粋な宗教集団として存続していくようになったのである。
加賀における本願寺勢力の本拠地とされてきた金沢御坊は柴田軍に接収され、寺は解体された。
その跡地には勝家配下の部将・佐久間盛政(さくまもりまさ)が城を築き、織田政権による
加賀支配の中心となっていく。これが江戸時代に加賀百万石を誇った金沢城の始まりである。
勝家は悲願の加賀征伐を成功させ、織田軍の北陸進出は軌道に乗るようになった。

御館の乱 〜 軍神の死によって訪れた家督騒動
ここでいったん織田家を離れ、越後上杉氏の状況について。手取川合戦で織田家を蹴散らした
上杉謙信は、畿内の状況が決着したとしてまたもや関東平定の準備に取りかかった。
関東管領の職を全うする事が彼にとって何よりも大きな関心事だったのである。
1578年の春を期して関東出陣を予定していた謙信。ところが出征直前の3月9日、春日山城内で
突如倒れ、そのまま13日に死去。死因は脳溢血と言われる。謙信の関東再出兵はならなかった。
以前にも書いたが、毘沙門天の生まれ替わりを自負した謙信は、その教義ゆえに妻を娶らず
生涯独身を貫き、当然ながら実子はいなかった。とは言え、後を継ぐ者がいなくては
国主としての職務は永らう事ができない。そこで謙信は生前、養子を2人迎えていた。
1人は謙信の重臣・長尾政景の子である景勝(かげかつ)。政景の妻は謙信の姉で、景勝は
謙信にとって甥にあたる人物であった。もう1人は北条氏康の末子・氏秀(うじひで)
武田信玄が駿河侵攻、甲相駿三国同盟が崩壊し越相同盟が成立した際、北条氏から不戦の証として
謙信の養子に送られた人物である。義を重んじる謙信は氏秀を厚遇し、自分の旧名を彼に与えた。
以後、氏秀は上杉景虎(うえすぎかげとら)と名乗り、謙信後嗣の筆頭格に位置する。
謙信が急死した事によって家督継承を為さねばならなくなった上杉氏。この時、跡継ぎの座に
一番近かったのは景虎であった。謙信から重用され、強大な関東の大名・北条氏の血縁とあれば
否応なく大きな力を持っていたからである。信玄の死後、謙信を頼っていた武田勝頼も
当初はこの景虎に誼を通じていた。ところが、血縁として謙信に近い存在だったのは勿論
景勝の方である。上杉家の血筋を守る為、家臣団と共に動いた景勝が先手を取り、謙信没後の
春日山城を占拠、出遅れた景虎の入城を拒んだ。城外に取り残された景虎は、止むを得ず
前関東管領・山内上杉憲政の居館であった御館(おたて)に入る。以後、春日山城の景勝と
御館の景虎は対立を激化させていき、家督騒動は1年近くに渡って続いていく。この間、常に
主導権を握り続けたのは景勝の方で、武田家に対して積極的に外交活動を展開し、遂には
勝頼を景虎から引き離し、景勝・勝頼間での同盟締結に成功した。越後国内のみならず
甲斐・信濃太守の武田家までもが敵対するようになった景虎は万事窮し、実家の北条氏に
庇護を求めたものの、救援を受ける前に景勝が討伐軍を発してしまう。1579年3月17日
御館を攻められた景虎は逃亡、関東方面を目指して南下したものの追い詰められ
同月24日、自刃して果てた。享年27歳。この騒動を御館の乱と呼び、上杉家中は
景勝によって掌握されたのである。しかしこの乱によって上杉氏の勢力は一時的に後退、
謙信が拡張した越中・能登といった領土は加賀から北上する織田家の勢力圏に取り込まれていく。




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