★この時代の城郭 ――― 丹波国主・明智光秀
少し余談気味な話になるが、城から見る明智光秀という人物について。
光秀の居城は近江国坂本城、比叡山延暦寺の麓に築かれ、琵琶湖に浮かんだ水城である。
比叡山攻略の褒賞として信長から築城を許された城だ。
しかし光秀が実質的に領国とし、施政に打ち込んだのは丹波国であったと言われる。
波多野氏の本拠であった山城・八上城を落とした後、領国経営に適した平山城の
丹波亀山城や福知山城を築き上げ、兵乱後の丹波国内を掌握する事に努めた。
光秀は戦乱に疲弊した領民を労わり、特産品の振興に尽力し、生産力の向上を図り
民心の安定を第一にした治世を行った。丹波と言えば黒豆、というのが有名な産物だが
これは光秀が栽培を奨励したものだという。丹波亀山城や福知山城も、戦国の世が終わり
江戸時代になった後も丹波統治の拠点として重要視された城という点からもわかるように
光秀の政策は現代にまで生き続けているのである。とかく光秀と言うと、本能寺で
「主君を討った裏切者」という悪いイメージがつきまとうが、実際の所はそうではなく、
愛民の情深き名君だったのだ。事実、波多野氏を討って丹波国を手にしたにも拘らず
丹波の民は光秀を名君として慕っており、現在でも丹波地方では光秀を敬う人が多いという。
延暦寺の焼き討ちを実行した武将でありながら、最後まで信長に放火中止を進言した光秀。
坂本城での暮らしも、焼き殺した数多の民を弔いながらの生活だったかもしれない。
坂本の城、丹波の城、いずれも光秀が信長の命令によって殺戮を行い領地とした場所だが
そうした“血の征服”を詫びるかのように善政を敷いた彼の胸中、如何ばかりであっただろうか?
丹波平定後、明智光秀率いる軍団は中国・四国方面の攻略を主任務とするようになる。
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