覇王の進軍(1)

武田家を黙らせ、東国をひと段落させたものの
いまだ本願寺は徹底抗戦を続け予断は許さない。
しかしそれでも信長の軍勢は各地へと進軍していく。
北へ、そして西へ、苛烈に領土を広げようとする信長は
果たして覇王なのか、それとも魔王なのか。
全国各地で新たな戦いの火蓋が切られていく。


能登畠山氏の崩壊 〜 天宮・七尾城の混迷
英明の君主・畠山義総によって見事な治世が展開され、国人・領民が団結し安定した統治が
続けられた能登国。しかしその義総が1545年7月に死した事で国人衆は再び独立行動を見せ始め
畠山家臣団も主導権争いを展開し、次第に守護・畠山氏の権勢はないがしろにされていく。
義総の跡を継いだ畠山義続(よしつぐ)は家臣団の離反に遭い隠居させられ、義続の後継として
擁立された畠山義綱(よしつな)の治世も長く続かず、義続・義綱親子は1566年に能登放逐の
憂き目を見た。結果、義綱の嫡子でまだ幼少の畠山義慶(よしのり義隆ともが家督を
継ぐ事になったが、これは名目的なものに過ぎず、家臣から傀儡として祭り上げられただけの
守護であった。斯くして、能登国は「畠山七人衆」と呼ばれる主要家臣団の合議制で国政が
動かされるようになる。この間、隣国の加賀国からは絶え間なく一向一揆の軍勢が押し寄せ、
畠山氏に対する下剋上と併せて能登国内は衰退の一途を辿っていた。
さて畠山家中の騒乱について概略を記そう。当時、重臣の中でも特に力を持っていた
遊佐(ゆさ)氏・温井(ぬくい)氏・長(ちょう)氏が三つ巴の政権抗争を激化させていたのである。
この3者のうち、遊佐氏は畠山氏直属の家臣として随伴していた譜代の重臣で、
能登畠山氏だけでなく畠山宗家にも同様に遊佐一族が仕えていた事がよく知られている。
能登遊佐氏は代々能登守護代を務め、能登国内の家格では畠山氏に次ぐ第2の地位にあった。
一方、在地勢力である温井氏は畠山氏の近習として勢力を伸ばした家柄。遊佐氏・温井氏は
犬猿の間柄で、両者の対立の中で成長したのが長氏という事になる。長氏は鎌倉幕府から
能登に領地を与えられ、室町期を通してもその地位を保ち続け、能登畠山氏の家臣として
実務を担当していた家柄なのである。3者は互いに牽制し合い、畠山氏衰亡後における
能登の覇権を奪おうと争い続けた。名目の守護に過ぎなかったにも拘らず、畠山義慶は
彼らの権力闘争の渦中で邪魔者扱いされ、1574年に暗殺されてしまった。そんな最中、
越後の上杉謙信が1576年11月に能登へ来攻、七尾城を包囲する。国を追われた義続・義綱らは
かねてから謙信に能登奪還を懇願し、また、義綱の弟・畠山義春(よしはる)は畠山・上杉両家の
橋渡し役として上杉家の重臣・上条(じょうじょう)氏に養子入りし上条政繁(まさしげ)
名乗っていた。こうした彼らから七尾城の回復を要請された事により、義将・謙信は
能登攻めの軍を発したのである。しかし天険・七尾城は容易に落ちず、戦いは長期化。
七尾城内に籠もる旧畠山家臣団と武神を自認する上杉謙信の軍勢。
それを南から見守るのが覇王・信長であった。

手取川の戦い 〜 軍神の軍勢、魔王の軍団を打ち破る
1575年の討伐により、越前一向一揆はほぼ壊滅。完全に織田領へと編入された越前国には
柴田勝家が配され、一揆後の復興施政が執り行われていた。と同時に、勝家は織田軍団の
北陸方面軍の最高指揮官とされ、法主国・加賀やその先の越中・越後への攻略を任務とされる。
勝家軍団の麾下には鉄砲戦術を得意とする佐々成政(さささっさとも)なりまさ)や、
“槍の又佐”こと前田利家など勇猛な将が集められ、加えて羽柴秀吉の軍勢も折に触れ
援軍として加えられていた。信長の北国進出はいよいよ本格化し、加賀一向一揆の討伐へと
準備が進められていたのである。こうした中で発生したのが七尾城の攻防。
1576年の謙信来攻は何とか凌いだものの、冬を越した翌1577年7月、再び上杉軍が3万の大軍で
七尾城を包囲した。運悪くこの時期、七尾城内では疫病が流行。いかに要害堅固な七尾城でも
この状況では籠城も難しく、加えてその疫病によって義慶の嫡子・春王丸が死亡。わずか2歳の
春王丸に実権はなかったものの、名目上の城主が亡くなり、しかもこれによって畠山家嫡流が
断絶したとあっては城内の動揺激しく、畠山家臣団は進退を迫られる事になった。この時、
遊佐続光(つぐみつ)温井景隆(かげたか)らは謙信への降伏をして保身を図ろうとしたが、
長続連(つぐつら)は能登併合を狙う上杉軍へ降る事を断固拒否、むしろ中央政権を握った
織田軍の救援を請うべきと主張、遊佐・温井と長の間で決定的な確執を生じた。
一刻の猶予もならない続連は、次子・連龍(つらたつ)を織田家へ派遣し能登救援軍の出陣を
求める。これにより、七尾城の攻防は上杉・織田の対決へと移行する事になったのだ。
しかし、ここで焦点となる問題がひとつあった。七尾城の攻防が行われている能登国と、
勝家が治める織田領最北端・越前国の間にあるのは加賀国。即ち、一向宗の動向である。
かつて信玄存命時代、信長包囲網が敷かれていた頃は鎮護国家の宗派・天台宗を信ずる
謙信にとって“念仏だけの俗宗(と、謙信は思っている)”に過ぎない一向宗など
むしろ国の統治体制を崩す俗悪なものとして捉えられ、上杉家と本願寺派は対立関係にあった。
しかし現在において上杉家と織田家が対立関係になり、その織田家に真っ向から敵対するのが
本願寺派とあっては、謙信も態度を転じ一向一揆との共闘に傾いた。“敵の敵は味方”という
理屈である。こうして加賀一向宗と謙信の間には同盟が成立、越前から能登へ向かおうとする
織田軍の足止めを一向宗が担う事となった。このため、勝家率いる能登救援軍は加賀国内で
進軍を遅滞、七尾城まで到達する事ができない。もともと、加賀侵攻はまだ完全に準備が
整った訳ではなく、長一族からの救援要請を受けた事で「見切り発車」してしまった状態でもあった。
そうこうしている間に、七尾城内の対立には決着がついてしまう。9月、謙信への降伏を
押し切ろうとした遊佐続光が上杉軍へと内応、城内に残る続連ら長氏一門を殺害し城を開き
謙信に明け渡してしまったのだ。この功績で続光は謙信から七尾城の城代格を与えられ、
当面の能登統治を任される事になった。
七尾城跡七尾城跡(石川県七尾市)
一方、何とか加賀を突破し北上しようとした柴田勝家の軍勢は松任付近まで到達した所で
七尾城の落城を知る。もはや能登まで軍を進める必要がなくなった彼らは、仕方なく越前へと
引き返そうとしたが、七尾城を落とした上杉軍は余勢を駆って織田軍の追撃を展開、
勝家の軍勢は手取川(加賀中部を横断する川)で上杉軍に追い付かれ、ここで交戦に及ぶ。
退却渡河中だった織田軍に上杉軍が攻勢をかける形となったこの戦い、言うまでもなく結果は
上杉軍の圧勝に終わり、勝家は手痛い打撃を受けた。しかもこの時、勝家と
共同作戦中だったはずの羽柴秀吉部隊は「作戦上の行き違い」と称して独断で戦線を離脱、
いち早く京都へ帰還してしまっていた。面目を潰された勝家と思うままに軍を退いた秀吉、
後に相争う両名はこの時から互いに反目する間柄になっていたのかもしれない。
ともあれ、能登を巡る織田と上杉の戦いは上杉方に軍配が挙がり、一応の決着を見た。
勝家は今しばらく越前で北伐の下準備に専念せざるを得ない状況を余儀なくされ、
それを受けた謙信は越後から越中・能登までという西への領土拡張は一段落と見て、
関東管領たる職務に専念すべく小田原後北条氏との対決へと軍を翻す。
しかし、勝家が北への進出を諦めた訳ではない。
北陸の戦乱は、これからが本番となるのである。

松永久秀爆死 〜 天下の大名物、信貴山城と共に消ゆ
謙信の攻勢に呼応したのか、はたまた毛利・本願寺連合の反抗に触発されたのか、
七尾城の攻防が緊張の度合いを増していた最中の1577年7月17日、信長から大和支配を
託されていた松永久秀がまたもや反乱を起こし、居城であった信貴山城に立て籠もった。
久秀の経歴を少し遡ってみよう。主君・三好一族を謀略で抹殺し、時の将軍・足利義輝を弑逆し、
東大寺大仏を焼き払うという3つの大罪を犯したこの男は、信長が畿内進出を果たすや降伏し
織田政権の傘下に加わった。松永久秀と言えば、天下の大名物と呼ばれる茶器を2つも
所有していた事でも有名。大名物とは、茶道の始祖とされる芸術将軍・足利義政が自ら選定した
茶道具の名品の事で、このうち久秀が持っていたのは九十九髪茄子(つくもがみなす)という
茶入れと古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)なる茶釜であった。久秀はこの名物を政治的に
利用、信長へ臣従する際に忠誠の証として九十九髪茄子を献上し、上に記した3つの罪を
赦してもらうように懇願する。茶の湯政道を推進する信長はこれを大いに喜び、久秀を
家臣に加え大和平定を委ねたのだ。しかし謀略好きの久秀は忠誠を誓ったものの、その実
常に反乱の機会を窺って天下への野望、国家への反逆を画策し続けていたのであった。
彼は1571年5月に反信長連合へ内通し、1573年2月にも武田信玄の上洛と呼応して
兵を起こしている。形勢不利を悟るや降伏しその都度信長に許された久秀であったが、
1577年の今回、またもや反乱の兵を挙げたとあってはもう許しを乞える状況ではなかった。
手取川の大勝で矛先を収めた謙信は畿内に攻め込まず、内陸の大和国に対して
大坂湾岸に展開する毛利・本願寺連合では連携する手がなく、結果として久秀は孤立。
度重なる裏切りに怒り心頭の信長は大軍を派遣して松永一党の殲滅を図った。信長は唯一、
古天明平蜘蛛を差し出せば降伏の道を残すとしたが、もはや後に引けない久秀は
この要求を拒絶。織田信忠・細川藤孝・明智光秀らの猛攻を受けた後、10月10日に
信貴山城は落城、久秀は燃える炎の中に消えていった。平蜘蛛の他、久秀が所有していた
数々の宝物も城と運命を共にし、一説によれば信長が持ち出す事を妨ぐ(「防ぐ」ではなく)ため
久秀は茶釜に火薬を盛って腹に抱え、自身もろとも爆破したという。
久秀敗死の後、大和国は筒井順慶(つついじゅんけい)に与えられる。筒井氏は古くから
大和国に勢力を持つ有力国人であったが、松永氏の台頭により勢力を削がれていた家柄。
今回、久秀が滅んだ事で悲願の領地回復が叶ったのであった。順慶は明智光秀と懇意を深め
大和治世の展開、織田政権内での地位確立を推進していく。

丹波攻略 〜 本能寺の変の遠因?
話は前後して1576年1月、丹波国で大規模な反織田方の兵乱が勃発した。挙兵の主は
波多野秀治(はたのひではる)。波多野氏の正確な出自は不明だが、相模国の
波多野(秦野)荘から移住した一族とも言われ、室町期には管領・細川氏の家臣として
丹波周辺に地盤を築いたともされる。信長が上洛した当初、秀治は織田方に誼を通じたが
この時突如信長に反抗を始め、丹波平定・山陰進出準備の為に駐屯していた明智光秀軍に対し
いきなり攻撃を開始した。瞬く間に丹波全土を挙げた大掛かりな戦乱に発展したこの戦い、
山に囲まれた丹波地方は国そのものが城郭とも呼べる地形であり、波多野方に対して織田方は
なかなか攻略の軍を進める事ができなかったようだ。光秀軍は一時撤退し、態勢を立て直して
丹波へと再攻略をかけたものの、秀治の籠もる八上城は天険の要害、加えて波多野勢には
丹波の赤鬼こと赤井直正(あかいなおまさ)、同じく青鬼こと籾井教業(もみいのりなり)
勇猛で鳴らす国衆たちが続々と参集、光秀の攻略を跳ね除ける。さらに翌1577年からは
播磨国での別所氏蜂起、摂津国での荒木村重の反乱(それぞれ後記)までもが発生、畿内西辺の
丹波―播磨―摂津―石山本願寺ラインで反織田戦線が成立し、波多野討伐はますます難渋した。
長引く丹波平定に窮した光秀は、何とか和睦の道を模索するようになり1579年の夏
波多野一党と和平交渉の約定を交わした。それによれば、秀治をはじめとする主要な将は
安土に赴いて信長と直接の会談に及び、今後の丹波統治に関する取り決めを行う。対する光秀は
八上城に人質として母親(伯母、乳母という説もある)を送り、会談期間中における停戦の
保障とする、という内容であった。これに基づき秀治らは城を出て安土に向かい、光秀の母は
八上城中に留め置かれる事となる。しかし信長は「この約定は知らぬ事、光秀の勝手な専断」とし
何ら配慮する事無く秀治らを磔刑に処してしまった。織田方の破約を大いに怒った八上城内の兵は
当然の事ながら、光秀の母を報復として殺害。光秀が平和的に解決しようとした努力は
総て無に帰してしまったのである。秀治ら戦闘を指揮する将が亡くなった事から、この後わずかで
丹波の反対勢力は光秀軍によって掃討され、同年7月に丹波平定が完了。丹波国は光秀の領地に
加えられるようになったが、母を見殺しにされた光秀が信長に抱く思いはどう変化していくのか。
本能寺の変まで、あと3年―――。

★この時代の城郭 ――― 丹波国主・明智光秀
少し余談気味な話になるが、城から見る明智光秀という人物について。
光秀の居城は近江国坂本城、比叡山延暦寺の麓に築かれ、琵琶湖に浮かんだ水城である。
比叡山攻略の褒賞として信長から築城を許された城だ。
しかし光秀が実質的に領国とし、施政に打ち込んだのは丹波国であったと言われる。
波多野氏の本拠であった山城・八上城を落とした後、領国経営に適した平山城の
丹波亀山城や福知山城を築き上げ、兵乱後の丹波国内を掌握する事に努めた。
光秀は戦乱に疲弊した領民を労わり、特産品の振興に尽力し、生産力の向上を図り
民心の安定を第一にした治世を行った。丹波と言えば黒豆、というのが有名な産物だが
これは光秀が栽培を奨励したものだという。丹波亀山城や福知山城も、戦国の世が終わり
江戸時代になった後も丹波統治の拠点として重要視された城という点からもわかるように
光秀の政策は現代にまで生き続けているのである。とかく光秀と言うと、本能寺で
「主君を討った裏切者」という悪いイメージがつきまとうが、実際の所はそうではなく、
愛民の情深き名君だったのだ。事実、波多野氏を討って丹波国を手にしたにも拘らず
丹波の民は光秀を名君として慕っており、現在でも丹波地方では光秀を敬う人が多いという。
延暦寺の焼き討ちを実行した武将でありながら、最後まで信長に放火中止を進言した光秀。
坂本城での暮らしも、焼き殺した数多の民を弔いながらの生活だったかもしれない。
坂本の城、丹波の城、いずれも光秀が信長の命令によって殺戮を行い領地とした場所だが
そうした“血の征服”を詫びるかのように善政を敷いた彼の胸中、如何ばかりであっただろうか?
丹波平定後、明智光秀率いる軍団は中国・四国方面の攻略を主任務とするようになる。


別所氏の反乱 〜 播磨攻略司令官・羽柴秀吉の動き
丹波で乱が発生した頃の1577年、信長の命を受けて羽柴秀吉の軍団が播磨国へと出征した。
石山本願寺は毛利家だけでなく紀伊の雑賀衆、播磨国内の一向宗徒からも支援を受けていたため
本願寺封鎖作戦の一環として、また、来るべき毛利家との戦いに備える意味でも畿内から西進し
播磨国を織田家の領土に加える必要があったのだ。この年の10月、播磨国内に入った羽柴軍は
西播磨の有力者・小寺政職(おでらまさもと)の城であった姫路城に入城する。当時、政職の下で
働いていた部将が黒田孝高(くろだよしたか)。智略に長けた孝高が強大な羽柴軍に協力する
利を説いて政職に姫路城の明け渡しを実現させたのであった。暫くして政職は勢力を失い凋落、
孝高は秀吉に仕えるようになる。この孝高こそ、秀吉傘下で竹中半兵衛と並ぶ名軍師と評された
黒田官兵衛である。彼は出家して如水(じょすい)の法号を名乗り、キリスト教の洗礼を受け
シメオンというクリスチャンネームも持つ。(印判は“シメオン如水”と使用、謎の基仏混合?)
守護・赤松氏の没落後、播磨国内は多数の豪族が割拠していたが、秀吉が平定に乗り出した事で
これらの豪族は服属の構えを見せ、姫路城には各豪族から不戦の証として人質が差し出された。
抵抗を続けた上月(こうづき)城は秀吉軍に攻略され落城。同時に秀吉は日本海側へも進出し
但馬国に対する軍事行動を展開、天険の要塞であった竹田城を陥落させる。この状況下、
布部山の敗戦以後秀吉に庇護されていた尼子勝久・山中鹿之助主従は、毛利領と肉薄する
位置にある上月城の守備を秀吉から任された。彼らは羽柴軍との共同作戦を展開して御家再興の
時節を窺ったのだ。秀吉の西国平定作戦は一応の成功を収めつつあり、このまま行けば
毛利家と同盟した宇喜多氏が領有する備前国への侵攻も時を置かずに可能という状況であった。
ところが1578年2月、播磨諸豪族の中でも大きな勢力を誇った別所氏が突如反乱、本拠である
三木城に立て籠もり羽柴軍の作戦を妨害する挙に出た。反乱の理由は定かではないが、
この地方に根強い一向門徒の継続的反織田方戦闘意識と同調して大規模な戦乱に発展する。
秀吉は来たる備前侵攻作戦において別所氏を先鋒に立てて戦う算段だったと言われ、
期待も大きかっただけにこの反乱は手痛いものであった。また、別所氏と呼応して毛利氏が
尼子主従の籠もる上月城に来襲、激しい攻撃を開始する。順調であった秀吉の播磨平定は一転し
大きな危機に直面する事態に変化したのである。別所氏の鎮圧と上月城の救援を同時に為す事は
不可能と判断した秀吉は、止む無く三木城攻略に専念し、毛利氏との対決は諦めた。
これにより上月城は落城。勝久は自刃し、鹿之助は捕らえられ、無念の最期を遂げる。




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