長篠の合戦
石山や越前で一向一揆に悩まされ、本願寺との戦いは長く続く中
西には新興勢力の宇喜多氏が国持ち大名となり、
その後ろには大国・毛利氏が控える。畿内と、更に西へ
信長が先を見据える時節において、東から遮二無二突撃してくる
猛き武田の新当主・勝頼が織田領へと迫ってきた。
天下無敵の甲州騎馬軍団、それに対抗する信長・家康の作戦とは。
長篠・設楽ヶ原の合戦(1) 〜 長篠城主・奥平信昌、徳川家に降る
信玄死去の直後になるが、三河国長篠城主であった武田家の将・奥平信昌が徳川家に降る。
これまで絶妙な舵取りで富国強兵に努めた信玄の死を受け、また、武田家の家督を継いだ
勝頼の力量に疑問を感じての寝返りであった。三河東部の要衝である長篠を手にした事に
家康はたいそう喜び、娘の亀姫を信昌の嫁として縁組させ、本領など3000貫文の知行を与える。
しかしその代償として信昌は、甲府に人質として置いていた許婚や弟を処刑されてしまった。
更に1574年、信玄の偉業を超えるべく躍起になる勝頼は遠州高天神城を攻略、攻め落とした。
人質であった身内を失った信昌はこう考えたに違いない。領土拡張に燃える勝頼は、
信昌の裏切りに激怒し、必ずや長篠城を奪還し信昌に復讐を果たすつもりであろう、と。
今更勝頼に許しを請う事は成らず、徳川家の下で生き延びるしか道がなくなった信昌は
長篠城を死守し、武田軍へ備える事に心血を注いだ。果たしてその考え通り、翌1575年の4月
信玄同様に東海奪取の軍を発した武田勝頼は、1万5000の兵を率いて5月11日、信昌が守る
長篠城を包囲した。対する城内の兵はわずかに500。何と30倍もの敵兵に囲まれたのである。
長篠城は寒狭川・三輪川の合流地点に造られたいわゆる「後ろ堅固の城」であったが、
それでも30倍の敵、しかも無敵と謳われる武田騎馬軍団を相手に支えられるものではない。
窮した信昌は、軍使として足軽の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を岡崎城に派遣し
家康の救援を請うた。これを受けた家康もまた、信長に助力を求めた。あまり知られない事だが
この時家康は3度も信長に使者を立てて援軍を要請している。石山合戦に注意を払う信長は
勝頼と家康の戦いにさほど関心はなかったのであろう。しかし、家康にしてみれば
高天神城を奪われ、今再び武田軍が来襲したとあれば死活問題である。姉川の合戦で
織田軍の窮地を救ったのにもかかわらず、武田との戦いに援軍を遣さないのならば、もはや
信長との同盟に意味はない。家康は「過去の功労に報いないのなら武田と組む」とけしかけ
ようやく信長の援軍を引き出したのであった。時代劇などでは、信長が武田との決戦に
即応したかのように描かれる場面ではあるが、実は虚々実々の駆け引きがあったのである。
長篠・設楽ヶ原の合戦(2) 〜 強右衛門、命を賭して長篠城を救う
家康と信長の派兵が決定し、武田騎馬隊vs織田・徳川連合軍という図式が成立。しかしその援軍も
長篠城が持ちこたえなければ決戦となる戦いには間に合わない。これを受けて強右衛門は岡崎から
急ぎ長篠城へ戻り、援軍が来る事を知らせようとした。ところがその途中、城を包囲する
武田軍に捕らえられ、勝頼の前に突き出されてしまった。そこで勝頼は強右衛門に語りかける。
「援軍は来ないので無駄な抵抗は止めて開城せよ、と伝えれば命を助けてやる」と。
止むを得ずこの提案を呑んだ強右衛門は、武田軍に拘束されたまま城を望む場所に引き出された。
そこで口を開いた強右衛門は大声で叫ぶ「援軍じきに到来、お味方の勝利間違いなし!」
慌てた勝頼はその場で強右衛門を処刑したが、時既に遅し。命を賭けて伝令の役を果たし、
その最期を目前に見た城兵らは奮起し、援軍到来まで何としても持ち堪える覚悟を決めた。
強右衛門の思いに応えるためにも、絶対に城を支えなければならないのだ。
結束して防戦に努めた城兵らは、いくつかの曲輪を武田方に奪われつつもしぶとく残り
1週間以上に渡って武田軍を釘付けにした。
一方この間に信長の援軍3万と家康の手勢8000は続々と移動し、長篠城の西に広がる平原
設楽ヶ原(したらがはら)に集結していた。信長軍は3000挺もの鉄砲、それに大量の丸太を
持ち込んでいた。武器である鉄砲は当然として、戦場に材木を持ち込むというのは不可解であるが
信長には武田騎馬隊に対抗する作戦があったのだ。設楽ヶ原はいくつもの小川が流れる低盆地、
長篠の山から駆け下りてくる武田騎馬軍団に対し、丸太で大量の柵を並べてしまえば
小川と馬防柵で騎馬隊を足止めできる。機動力が命の騎馬隊が否応なく止まらざるを得ないなら
味方は恐れる事無く戦う事が可能であり、じっくりと鉄砲を構えられるようになるのである。
柵を築くのには、鉄砲の射撃台とする効果もあった。また信長は鉄砲隊を3隊に分け、
射撃担当、弾薬装填担当、その控え役、という役割分担を与える。合理化した部隊運用で
敵騎馬隊を狙い撃ちする環境を整え、鉄砲の効果を最大限に引き出す戦術を打ち出そうとしたのだ。
何より、3000挺という鉄砲の数は前代未聞の大量さ。この戦いに臨む信長の決意が窺える。
決戦の舞台は整った。無敵の騎馬隊と大量の鉄砲隊、勝利を掴むのは―――。
長篠・設楽ヶ原の合戦(3) 〜 鉄砲戦術の確立
5月21日早朝、戦いの火蓋は切られた。無敵の騎馬隊に絶対の自信を持つ勝頼は、長篠城攻略を
いったん中断し、目障りな織田・徳川軍を蹴散らそうと山上から突撃を開始したのである。
勿論この時、武田軍の老臣たちは慎重策を唱え勝頼をとどめようとした。何やら設楽ヶ原に
工作を行った信長の大軍が罠を張っているのは明らかだったからだ。しかし勝頼は
高所から低所に攻勢をかけるのは戦闘のセオリー、罠があろうと正面から打ち破ってくれよう、と
こうした諌言を退けたのである。鉄砲などという小癪な飛び道具など、武田騎馬隊には
叶うはずもないと思っていたのであろう。が、これは信長が思う作戦通りであった。
勢い込んで山から駆け下りてきた騎馬隊は、加速をつけたまま馬防柵に突っ込んだ。
そこに向けて鉄砲が一斉に火を噴く。次の瞬間、騎馬隊はことごとく打ち倒された!
なおも鉄砲隊は途切れなく射撃を続け、後続の騎馬隊も壊滅。数度の波状攻撃を加える
武田騎馬隊は、その都度鉄砲の斉射を食らい屍の山を築いていったのだ。
午前5時頃に始まった戦いは午後3時過ぎに終わったと言われるが、結局、武田軍は
織田・徳川軍を打ち破る事ができずに大敗、武田方の死者は1万2000にも上ったとされる。
わずか1日で大軍勢を失った勝頼は命からがらに甲府へ逃げ帰り、長篠城は死守された。
戦にはやる勝頼の思いはやはり過信に終わり、信長の新戦術にもろくも打ち砕かれたのだった。
この戦いが戦国史上の一大転機とされる長篠・設楽ヶ原の合戦である。
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