★この時代の城郭 ――― 石山本願寺
石山本願寺という寺は、宗教施設でありながら完全に城郭として機能した寺である。
現代の感覚からすると「寺は拝む所、城は戦う所」という感じに“使用目的”で
別物と区分してしまうものだが、よくよく考えてみれば、寺にも塀があり、
鐘楼という櫓があり、本堂という御殿があり、境内という曲輪があり、
場所によっては濠で周囲を囲っているもので、“構造的”には何ら城と変わらないのだ。
むしろ宗教権威により絶対的存在として崇拝された寺のほうが領民の求心力を得て
石垣や土塀の多用など、生半可な城郭よりも強固な防衛設備を構築できた場合すらある。
そうした寺社の中でも特に堅城ぶりを発揮していたのが石山本願寺であろう。
一向宗中興の祖・蓮如によって築かれたこの寺院は、平野部に突出した低台地を敷地とし
周囲にはいくつもの河川が流入、これらを天然の濠として利用した平山城であった。
一向宗の本拠たる石山本願寺は、当然ながら最高格の寺として大規模な寺堂を構え
境内を囲うように石垣や土塀をふんだんに使用。立地のみならず設備面からしても
難攻不落の堅城として構成されていたのである。本願寺蜂起の一因として、
この強大な要塞を信長が欲し、立ち退きを要求した事が挙げられているほどだ。
皮肉にもその堅城ぶりは、石山の地を望んだ信長自身が身を持って味わう事になった。
石山戦争は10年に及ぶ大乱になり、乱が終結する頃には信長も没し、
最終的にこの地を手にした人物は、羽柴秀吉。そう、石山本願寺跡地に建てられた城こそ
天下人・秀吉の栄華を象徴した超巨大城郭・大坂城なのである。
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