石山合戦開始

時代が多少前後するが、1570年に蜂起を開始した本願寺派は
以後、様々な曲折を経ながら1580年まで10年に渡って信長と戦い続けた。
義昭の暗躍、信玄の侵攻、浅井・朝倉の抵抗といった戦いの中にあって
信長は常にこの武装宗教集団という強敵の動向に気を配らねばならなかったのだ。
以下、“石山合戦”と呼ばれる本願寺派との10年戦争を中心にしつつ
未だに残る武田氏との抗争、畿内から西への兵力展開と
それに対する抵抗兵乱といった信長の戦いを解説する。


石山合戦 〜 本願寺、一斉蜂起す
信長が足利義昭を奉じて上洛した当時、本願寺は祝賀金として5千貫の矢銭を供出し
織田軍の入京を受け容れた。かつて管領・細川氏による泥沼の政争に関与し、
山科本願寺(京都府京都市山科区にあった本願寺の一大拠点)を追われ、
石山本願寺(大阪府大阪市中央区、現在の大阪城公園)への移転を余儀なくされた
この浄土真宗最大の宗派は、織田軍という新たな軍事勢力と誼を通じ、畿内の安定統治や
中央政界への復権という“現世利益”を望んだのである。浄土真宗の考え方から、
(曲解だが)死ねば極楽→それまでの現世では日々の安寧なる生活を謳歌すべし、とした
本願寺勢力は、上洛当初は畿内の安定統治を為し得るであろう、と信長を歓待したのだった。
しかし織田政権は強硬な軍政を敷き、競合勢力の排除、室町幕府の打倒、信長による
独裁政権化への道を進み、次第に本願寺派の期待とはかけ離れた政策を展開していく。
事ここに至り、宗派の総帥である本願寺顕如(けんにょ)は信長との断交を決定。
斯くして1570年9月12日、信長が義昭との政争に翻弄される頃に決起した本願寺一向一揆は
石山を本拠として畿内各地で織田家と対立、交戦状態に入ったのであった。
本願寺教団の布教システムにおいて、門徒は「講」「惣」「組」といった単位で集団化されており
これを編成して組織的支配を行う事が可能となっていた。こうして民衆を指揮する命令系統が
確立している事から、「教義」すなわち法主の命令によって時に軍事的動員も為し得たのが
宗教団体であるはずの一向宗が武装集団化できた理由である。さてその「教義」であるが
現代の日本人は宗教観に薄れ、一億総無宗派というような風潮にあるものの、当時はまだまだ
「仏の教え」を忠実に信望する者は多く、特に「死ねば極楽」を簡易に保障された一向宗では
死をも恐れず、ただひたすらに法主の命令に従うという熱狂的信者に満ちており、
逆に言えば法主の命令に背けば破門、地獄に堕ちる事を意味するため、顕如の命に従って
盲目的に信長と戦う事は「仏の道」に適うものとされたのであった。加えて、寺というものは
大抵は濠を廻らし、塀で囲い、山門で封じ、鐘楼を構えており、極めて城と同様の設備を有する。
一向宗の寺院は、信仰の拠点である場所にして、一揆となればそのまま闘争の拠点となったのだ。
こうして始まった石山本願寺指導による民衆蜂起は、死を恐れず、武家支配に抵抗する
一向門徒の強烈な信仰心によって支えられ、織田軍団に苦戦を強いる事になった。
織田軍と一向宗が激突したこの戦については以下、順次記載するが、最終的に1580年にまで及ぶ
10年もの長期戦争へと発展し、単なる宗教一揆にとどまらない大規模抗争となった事から
一般に石山合戦(石山戦争)と呼ばれ、信長の覇業における対宗教巨大紛争として特記される。

★この時代の城郭 ――― 石山本願寺
石山本願寺という寺は、宗教施設でありながら完全に城郭として機能した寺である。
現代の感覚からすると「寺は拝む所、城は戦う所」という感じに“使用目的”で
別物と区分してしまうものだが、よくよく考えてみれば、寺にも塀があり、
鐘楼という櫓があり、本堂という御殿があり、境内という曲輪があり、
場所によっては濠で周囲を囲っているもので、“構造的”には何ら城と変わらないのだ。
むしろ宗教権威により絶対的存在として崇拝された寺のほうが領民の求心力を得て
石垣や土塀の多用など、生半可な城郭よりも強固な防衛設備を構築できた場合すらある。
そうした寺社の中でも特に堅城ぶりを発揮していたのが石山本願寺であろう。
一向宗中興の祖・蓮如によって築かれたこの寺院は、平野部に突出した低台地を敷地とし
周囲にはいくつもの河川が流入、これらを天然の濠として利用した平山城であった。
一向宗の本拠たる石山本願寺は、当然ながら最高格の寺として大規模な寺堂を構え
境内を囲うように石垣や土塀をふんだんに使用。立地のみならず設備面からしても
難攻不落の堅城として構成されていたのである。本願寺蜂起の一因として、
この強大な要塞を信長が欲し、立ち退きを要求した事が挙げられているほどだ。
皮肉にもその堅城ぶりは、石山の地を望んだ信長自身が身を持って味わう事になった。
石山戦争は10年に及ぶ大乱になり、乱が終結する頃には信長も没し、
最終的にこの地を手にした人物は、羽柴秀吉。そう、石山本願寺跡地に建てられた城こそ
天下人・秀吉の栄華を象徴した超巨大城郭・大坂城なのである。


長島一向一揆 〜 信長の弟・信興の敗死
石山蜂起からひと月ほど後、1570年10月に伊勢国長島地域でも一向一揆が勃発。
信長の足がかりとなる尾張国と隣接した場所での門徒蜂起は、織田政権の根幹を揺るがし
京都・大坂周辺だけでなく地方にも一向一揆が伝播し、信長と対立するという危機を
具現化させたものであった。伊勢中心部と尾張国を繋ぐ重要拠点である長島には、
信長の弟・織田信興(のぶおき)が配されていたのだが、一揆勢は小木江城に籠もる
この信興に攻めかかり、何と11月には彼を敗死させてしまったのである。三好氏や
浅井・朝倉連合との戦いに奔走する信長にとって、これほどまでに強力な一向宗までもが
戦線に現れるのは得策ではなく、止むを得ず朝廷に周旋してもらい同年末に各勢力と和睦。
信長にとって、一向宗の蜂起は天下布武の大障害となる由々しき問題となったのだ。
極端な話、他の大名との抗争とは「領土の奪い合い」である。しかし、民衆蜂起との対決とは
武士による統治の否定、政権への不服従を意味する。例え領土を得たとしても、
民衆が従わない限り領国経営は不可能な話となり、領土を得る意味自体が無くなるのだ。
何としても一向一揆を平定せねばならなくなった信長は、翌1571年に長島侵攻の軍を発し
歴戦の将である氏家卜全や柴田勝家に指揮を担当させる。しかし一揆勢は織田軍の侵攻に備え
各地で防戦態勢を整えていた。伊勢長島は木曽三川の河口にあたる場所であり、
川の中洲が多数分散する土地。一揆勢はこうした川に堤防を張り巡らせておき、
織田軍が進軍してきたところで決壊させ、中州ごと軍勢を沈める作戦に出たのである。
この年の5月、わずか数日間の、戦闘とも呼べない戦闘により、卜全は戦死してしまい
勝家も負傷して撤退した。さらに1573年にも信長は長島侵攻を指示するが
これまた一揆勢力によって排除されてしまう。長島一向一揆は、信長が想像する以上に強く
それ故、信長にとって絶対に許す事のできない“目の上のたんこぶ”となっていた。

長島大虐殺 〜 顕如、本格的抗争への決意
この抗争の間、畿内では比叡山延暦寺が焼き討ちされ壊滅。室町幕府は滅亡し、
浅井・朝倉も滅びた。いよいよもって長島一向一揆を処断したい信長は、1574年7月に
決戦の軍を発し、長島地方の平定を目論んだ。過去数回の出兵における反省として、
今回の軍では伊勢水軍の大将・九鬼嘉隆(くきよしたか)を伴い、伊勢湾の海上封鎖も
行った信長。今までの戦いでは、石山から長島に海路で支援物資が運び込まれ、そのため
一揆勢は長期継続戦闘が可能となり織田軍の敗北を招いたのである。嘉隆の海上封鎖により
今回は石山からの支援が行われず、長島一揆勢は孤立する事になった。この状態で投入された
7万とも言われる織田の大軍は、一揆の拠点となる数箇所の砦や寺坊に対して激しい攻撃を加え
次第に一揆勢は敗色が濃くなっていく。遂には大鳥居砦に籠もる一揆勢が降伏を申し出たが
何と信長はこの申請を拒否し、8月2日に総攻撃を行った。この戦いで大鳥居砦の兵は
老若男女を問わず全員(!)が惨殺され、その死者は1000人以上にもなったという。
続けて9月29日、一揆勢最大の拠点であった長島願證寺砦も降伏を表明したが、信長は
この申し出も認めず、鉄砲の一斉射撃で砦内にいた者全員を殺害。更には中江砦や
屋長島砦に対して焼き討ちを敢行、総ての門徒を焼き殺すという大虐殺を行った。
延暦寺同様、信長は特に対立する宗教勢力に対して厳しい処断で臨む事が多く
長島一向一揆は約2万人という信徒全員が殺戮されるという凄惨な結果に終わったのだった。
長島での大虐殺という結果を受け、石山本願寺の顕如は信長との講和を図る。
しかし、顕如は信長に恐れを為したというよりも、もっと本格的な対決を準備するため
講和を決めたというのが正しいだろう。この年の1月から越前・加賀でも一向一揆が本格化し
北陸地方でも織田軍と本願寺派との対決が始まっていたのである。長島は壊滅したが、
北陸方面、そして本拠地である石山で武装闘争を展開し、織田政権に対抗するのが
顕如の目標であり、石山合戦はまだまだ先まで続くのであった。
長島願證寺
長島願證寺(三重県桑名市長島町)

信長の攻撃で壊滅した長島一向一揆の総本拠。
現在の寺は当時のものとは場所も規模も異なるが
写真中央にある石碑は、一揆全滅の供養塔で
信長の攻撃が如何に凄まじかったかを今に伝えている。

越前一向一揆 〜 織田家への反抗、一揆内一揆、混乱の坩堝…
さて、上の項で少し出てきたが、北陸方面でも一向一揆の火の手が上がっていた。
朝倉氏滅亡後の越前国において、織田家の支配に反抗する大規模な民衆蜂起が起きたのだ。
元々北陸地方は一向門徒の多い土地であり、加賀国では守護・富樫氏が討たれて以来
約100年近くに渡って“百姓の持てる国”、惣国の状態が続いていた。これが越前にも飛び火し
加賀・越前両国をまたぐ大規模な一向一揆に拡大したのである。1574年1月の事だ。
この一揆は当初、民衆の自主的蜂起によって開始された。強圧な信長の政治は、
朝倉氏の統治によって安寧を享受していた越前の民にとって受け容れ難く映ったのだろう。
一揆勢は地の利を活かし、ゲリラ活動を展開。これには織田軍が翻弄され、長島同様
簡単に平定できるような状況ではなかった。
一方、石山の本願寺首脳部にとってもこの一揆は偶発的に発生したようなものだったので、
一向一揆、即ち教義(=法主の命令)に基づく宗教的自己防衛策という大義名分は
「追認」という形になってしまい、対応に混乱が見られた。勝手に起きてしまった民衆蜂起を
一向宗による「正義の戦い」とすべく石山本願寺からあわてて一揆指導者を派遣、
一揆開始後になって七里頼周(しちりよりちか)下間頼照(しもずまらいしょう)といった
坊官が現地入りする事になったのである。「本願寺による命令系統の確立」を目指す彼らは
躍起になって一揆衆の統合を行おうとしたが、しかしこれはむしろ戦力の弱体化を招いた。
ゲリラ戦であるからこそ、農兵が正規兵である織田軍と戦い得たのだが、本願寺坊官らは
農兵を組織部隊として運用しようとした上、農兵の指揮官として「命令する立場」である事を
強要したのである。この作戦変更により一揆部隊は混乱するのみならず、高圧的な坊官らを
むしろ「敵」として認識するようになった。その結果、1574年閏11月には何と
「一揆内一揆」が発生、本願寺坊官らを排除しようとする運動になってしまった。
この間隙を突いて織田軍が反撃に移り、1575年8月に羽柴秀吉・明智光秀らが率いる
3万の大軍が越前に来攻。本願寺坊官らは一揆勢に討たれ、一揆勢は織田軍に壊滅させられ
越前国では伊勢長島を更に上回る混乱と虐殺の後に平定されたという。
越前一向一揆壊滅後の1575年10月、顕如は三度目の講和を信長と交わす。
しかしこの講和もやはり時間稼ぎのものに過ぎず、石山や加賀では相変わらず一向宗の
自治が続き、本願寺派は信長との再戦を期すための準備を進めるのであった。

高天神城の攻防 〜 武田勝頼、偉大な父を超える決意
ここで少し話を変えて東国へ。信玄の死去以後、武田家の家督を継いだ勝頼は、信玄以上に
軍拡政策を標榜し、東海への領土拡張を狙っていた。若い勝頼は、無敵と謳われる
武田騎馬軍団の軍事力に絶対の自信を持っていた上、勝気な性格で更なる南方の領土を
欲していたのだ。しかし武田家の旧臣は、勝頼の政策を危ぶみ危惧していた。それというのも、
信玄は軍備を為しながら富国にも力を入れていたのに対し、勝頼はただひたすらに領土を欲し、
戦争を起こす事を志向していたからだ。ところが、こうした老臣の忠告は勝頼にとって
鬱陶しい意見であり、まるで父・信玄よりも自分が無能であると言われているように
感じるものであった。何としても信玄以上の戦果を勝ち取り、家臣たちに示しを付けねば―――。
1574年5月、固い決意で2万5000人という大軍を発した勝頼は、かつて信玄が落とせなかった堅城
遠江国の高天神城に対して攻撃を開始した。徳川家の城であった高天神城、城主の小笠原長忠
必死の防戦に努め、長忠は家康に、家康は信長に援軍を求める。しかし、当時信長は北陸方面の
一向一揆対策に追われており援軍は出せず、家康もこの苦境を支える余力はなかった。
結果、長忠は武田勢に降伏を余儀なくされ開城。勝頼念願の高天神城奪取は成功を収めた。
勝頼とってはこの勝利が「それ見た事か、亡き父を引き合いになど出さずとも何ら問題ない」という
自信になっただろう。しかしこれで有頂天になった勝頼の慢心を見ぬいた武田家宿老の高坂昌信は
戦勝の祝宴で「これは御家滅亡と定まった盃である」と洩らしたという。
何はともあれ、勢い勇んで高天神城奪取を成功させた武田勝頼。無敵の武田騎馬軍団、
その統率に賭ける勝頼の思いは果たして自信か、それとも過信なのか。答えは翌年に出される。
高天神城高天神城(静岡県掛川市)

宇喜多氏の勃興(1) 〜 梟雄・直家、復讐の開始
ついでと言っては何だが、西国にも目を向けてみたい。この時代に急成長し、下剋上を達成し
一国の主となった名将・宇喜多(浮田とも記す)直家(うきたなおいえ)の話だ。
時代をやや遡って室町体制下、備前国(現在の岡山県東部)は播磨国(兵庫県南部)の赤松氏が
守護を兼ねる地で、在地国人の有力者・浦上氏が備前守護代に任じられ、統治実務に当たっていた。
細川高国政権の時に名が出た、あの浦上氏である。その浦上氏の配下にあったのが宇喜多氏だ。
嘉吉の乱以後、室町幕府重鎮であるはずの赤松氏は没落していき、赤松領内は国人らが実権を握り
独立する風潮が見られるようになった。後頁に名が出るが、姫路周辺を領した小寺(おでら)氏や
その被官である黒田氏、東播磨の雄・別所氏などが好例で、浦上氏も同様にして次第に赤松氏の
支配から脱していく。1521年には浦上村宗(うらがみむらむね)が主君である赤松義村(よしむら)
謀殺し下剋上を為すほどであった。この後、村宗は義村の後嗣・赤松晴政(はるまさ)に討たれるが
村宗の遺児・浦上宗景(むねかげ)は父同様に赤松氏と対立し独立、備前国天神山城で
独自の権益を確立していく。そんな宗景が勢力を拡大する際に中心的活躍をしたのが、
浦上家中第一の実力を持つ重臣・宇喜多能家(よしいえ)。宗景は能家の助力あってこそ勢力拡大に
成功したと言っても過言ではなく、既に旧主・赤松氏以上の権勢を誇るようになっていた。
ところが宗景は、功臣とも言える能家の有能すぎる能力を次第に危険視し、疎むようになり
遂には1534年、腹心の島村盛実(一般に貫阿弥(かんあみ)の号が有名に命じて能家を暗殺、
宇喜多一門のほとんどを粛清したのである。生き残った数少ない宇喜多一族の中、能家の孫にあたる
直家が御家を再興し、宗景に仕える事を許されたが、彼にとってこれは復讐の始まりであった。
三好長慶が細川晴元に復讐した如く、当初直家は宗景に臣従して勢力を拡大、宇喜多家の権勢を
回復する事に努め、時節を窺う。能家以上に優秀であった直家は、瞬く間にこの作業を成し遂げ
没落していた宇喜多の家を建て直した。さらには1559年、一門の仇である貫阿弥に対し
「主家への謀反の兆し有り」として殺害。宗景に疑われる事なく仇討ちを成功させたのである。

宇喜多氏の勃興(2) 〜 備前周辺との関係、直家の下剋上
備前国の北に位置するのが美作国。その美作において覇権を握っていたのが三村氏である。
元来、三村氏は備中国の豪族であったが、戦国時代に勢力を広げ、美作や備前方面へと
領土を増やしていたのだ。三村氏を後援していたのは山陽の太守・毛利氏。
当時の毛利氏は尼子氏との最終決戦を迎えた時期であり、東からの脅威を防ぐために
備中の三村氏と手を組み、美作・備前方面への押さえとしていたのである。
この三村氏が東方進出のため、浦上領を侵犯。特に攻撃目標とされたのが、直家の統括する
地域の諸城であった。当然、直家は防衛作戦を展開する。抗争は日増しに激化していったが
1566年、美作・興善寺に在陣中の三村氏当主・三村家親(みむらいえちか)を直家の刺客が急襲し、
暗殺に成功する。これにより三村氏の攻勢は押し留められ、直家は領土を守りきった。無論、
浦上家中での地位は更に向上し、直家はなお一層の勢力拡大へと歩を進めた。
一方、織田信長が畿内に進出したのもこの頃。浦上宗景はいち早く信長と誼を通じ、
中央との繋がりを太くする事で自国の支配権強化を狙ったのだが、こうなると邪魔になるのが
いつの間にやら能家同様に家中第一の勢力を持つようになった直家の存在であった。
1573年、宗景は直家討伐に動き始めたが、これを察知した直家の対応は素早いものだった。
宗景が信長という後援者を味方にしている事に対応し、何と今まで敵対していた三村氏に通じる
毛利家と同盟を結んだのである。昨日の敵は今日の友、昨日の主君は今日の敵、という感じで
見事な変わり身を演じ、毛利家の助力を得た直家は宗景との全面対決に臨んだ。もともと、
宗景は宇喜多一族の仇。宗景打倒の機を待っていた直家の攻勢は容赦のないものであり、
加えて今や宗景にかつて赤松氏に対する下剋上を為した程の精彩はなかった。他方、直家は今まで
謀略・暗殺も問わず勢力拡大に邁進してきた怒涛の勢いがある。結果は言うまでもなく、直家の圧勝。
1577年、浦上宗景は居城の天神山城を落とされて逃亡、そのまま行方知れずとなる。
ここに直家の仇討ちと下剋上は完成し、備前一国を手中にした戦国大名と成り上がったのである。

天正備中兵乱 〜 壮絶備中松山城、三村元親は仇討ち成らず
このまま更に西国の話を続けてみたい。今度は三村氏の動きである。毛利氏の援助を受けていた
三村家親は、宇喜多領を狙った事で直家に暗殺され落命した。これにより三村家の軍事活動は停滞。
跡を継いだ家親の子・元親(もとちか)は直家を深く怨み、宇喜多家の打倒を誓う。
ところが上記の通り、この後に直家と毛利家が提携するようになってしまった。
元親にしてみれば、共同歩調を取っていたはずの毛利家が寝返り直家方に付いたのだから
許しがたい裏切り行為に感じたのだろう。毛利・宇喜多同盟が成立するや、自身は毛利家と
手切りを行い、敵対関係に変じた。苦境の三村家は、東に怨敵・宇喜多家、西に大国・毛利家と
周囲総てを敵に回した事になる。運が悪い事に(?)、この頃毛利家は宿敵・尼子氏の打倒も終え
山陰方面の制圧を完了。となると、敵らしい敵は九州の大友家と備中の三村家という事になった。
強敵・大友家に対しては硬軟織り交ぜた戦略を展開し一進一退の攻防が続くものの、
備中の小豪族に過ぎない三村家を相手にするのは容易い事である。こうして1574年、
毛利家と三村家の間で戦端が開かれた。この兵乱に際し、三村家中は動揺。
家親の弟にして元親の叔父・三村親成(ちかなり)は毛利家との戦争に反対の立場を貫き
遂には元親と決別、毛利方に身を投じた。片や元親は、宇喜多家と通じた毛利家に服するなど
絶対に許せぬものと決意、居城の備中松山城に籠って対戦に臨んだのである。
開戦後、親成が松山城への先導役となり怒涛の勢いで毛利軍が備中に侵攻、
これに宇喜多の援軍も加わり、三村家の領土であった備中国には戦乱の嵐が吹き荒れ、
終いには松山城が包囲された。天険の要害である松山城に陣取り、決死の覚悟で
籠城戦を続ける元親であったが、武運拙く翌1575年に落城、元親はじめ三村軍は殲滅された。
結局、備中国は毛利家の領土に加えられ、騒乱に幕が下ろされる。この戦争後、備中は毛利領、
備前は宇喜多領という事で決着し、山陽方面では安定した統治が進められる事になった。
元親復讐の念から始まった、1574年〜1575年の備中国における三村・毛利・宇喜多の
3氏にまたがる戦闘を備中兵乱と呼ぶが、儚くもその仇討ちは叶う事無く、三村氏は滅亡した。




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