室町幕府滅ぶ

信長にとって最大の脅威であった武田信玄は病に没し
実に幸運としか言いようのないタイミングで武田軍の攻撃は霧消した。
足利義昭の提唱する信長包囲網は最後の詰めにして
信玄と言う協力者を失い、完成しなかったのである。
信長は周囲から攻めかかる“包囲網”参加者を今こそ打破し
畿内を掌握、中央政権の安定化を図る時に来ていた。
信長が独力で政権を打ち立てるその日は、
それまでの武家政権が終焉を迎える日でもあった。


義昭の挙兵と敗北 〜 室町幕府の滅亡
信長包囲網
信長包囲網

1573年初頭時点における
織田家周辺の主な勢力地図。
青字で表記したのは信長・家康勢力。
赤字で表記したのは反信長勢力。
信玄が没するひと月ほど前になる1573年3月、京で反信長勢力を操る黒幕にして
室町幕府15代将軍・足利義昭が、浅井・朝倉・本願寺らと結び、遂に自ら打倒信長の兵を挙げた。
これには信長の配下に収まっていたはずの謀略家・松永久秀も参加し、畿内全域を巻き込む
大掛かりな挙兵であった。間もなく上洛してくる予定の信玄と呼応した計画だ。
しかし信長は4月、時の天皇・正親町天皇に働きかけて義昭軍を停戦させる。
実のところ、義昭軍は信長軍に歯が立たず敗北、それに加えて信玄が上洛を為せずに
陣没しており、形式的には天皇の仲介による和平ではあったが事実上、義昭の完敗であった。
しかし義昭が政権を諦めていない事は分かりきっており、信長は再戦に備え、丹羽長秀に命じ
琵琶湖での大船を建造させる。水運を使って軍勢を大量かつ迅速に移動させるためだ。
果たして信長の読み通り、腹の虫が収まらない義昭は同年7月3日に再挙兵。
義昭自身は槇島城(京都府宇治市)に籠もり、二条城にも軍勢を配置して防備を固め
中国地方の毛利氏に対して兵糧米の支援要請を行う。京都周辺で兵乱の火を起こし
畿内に隣接する反信長系大名に参加を促そうという作戦だったのだろう。
が、信長の対応は早く、7月6日は建造した大船を早速使用して琵琶湖から軍勢を進め
翌7日に京都洛中へ進軍、二条にある妙覚寺に本陣を設置。17日には稲葉一鉄・氏家卜全
安藤守就らの美濃衆、柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛・木下秀吉らの尾張勢部隊を加え
織田方の総攻撃が始まった。もちろん結果は織田軍の圧勝に終わり、挙兵からわずか14日で
義昭の兵乱は鎮圧されてしまったのだった。降伏した義昭はもはや信長に抗う事ができず
京都を追放され、毛利家の庇護下へと遁走。この瞬間、235年続いた室町幕府は幕を閉じ
足利将軍家が中央政権の頂点に座る時代が終わったのである。と同時に、織田信長による
新たな武家政権が中央政局を動かすようになり、天下統一への機運が加速されるのであった。
信長に始まり秀吉へと継承されていく武家政権の時代は、信長が安土城を本拠とし
秀吉が伏見(桃山)城を政権基盤とした事に由来して、安土桃山時代と呼ばれる。
ちなみに室町幕臣であったはずの明智光秀・細川藤孝らは既に信長幕下へと組み込まれており
義昭追放の時点で、室町体制とは決別する事になったのは言うまでもない。

織田政権と朝廷 〜 信長の“野心”
室町幕府を滅ぼした事により、信長は名実共に政権の頂点に立った事になる。
飾り物に過ぎなかった「将軍」という権威を否定し、その将軍を追放したからには
信長にとって形式的な職位など不要である、という考えがあったのかもしれない。
自身が新たな将軍になり、幕府を開くという事をせぬまま政治刷新を図る信長は
朝廷に対しても実力主義の対応をとりはじめた。義昭追放の直後、信長は朝廷に対し
改元を要請。本来、改元は天皇の大権であり、何人たりとも不可侵の権利であったのだが
独裁色を強める信長は、朝廷を威嚇するかのように元号の改定を迫ったのである。
斯くして同年7月28日、元亀から天正に改元。形の上では単なる戦国大名の一人に過ぎぬ信長が
強大な軍事力にものを言わせて朝廷権威までも屈服させたのだ。
加えて信長は、民政官として有能であった配下武将の村井貞勝(むらいさだかつ)
京都所司代の職に任じ、畿内周辺の統治実務に当たらせた。以後、貞勝の優れた采配により
流通の一元管理、禁裏修繕と朝廷監視、橋・街路・寺社の復興、不良公家の処罰など、
信長政権による京都実効支配が次々と進んでいく。京に住まう民衆や公家らは総て
信長による統治の下に置かれる事になったのであった。
室町幕府を倒し、朝廷の存在までも抑圧する強力な信長の政権。
比叡山は壊滅し、信玄という敵対者は没し、信長包囲網を提唱し暗躍した義昭を実力排除した今、
畿内周辺に残る反抗勢力を潰し、信長の独裁政権を全国へと広げ、天下布武の目標に向かって
新たなる闘争を開始する転機に差し掛かっていたのである。
室町幕府という古き政治機構から、織田政権という新しい武家政権へ。
足利将軍家などという悪しき権威に服した諸大名など、早く葬り去らねばならない。
こうして信長は、遂に浅井・朝倉討伐に決着をつける決意を固めたのであった。

朝倉討伐 〜 織田軍、一乗谷を壊滅さす
木下秀吉らによって孤立させられていた小谷城は、1573年8月いよいよ困窮。
浅井家の弱体化を察した信長は、8月8日に岐阜を出陣し小谷城攻撃の軍を進めた。
今度こそ決着をつけたい信長は、まず小谷城の北方へ布陣し、予想される朝倉の援軍を
小谷城に近づけないよう手配。案の定、朝倉義景が援軍を率いて小谷城へ迫ったが
織田軍に妨害され連絡を絶たれた浅井と朝倉。こうして信長は朝倉軍を各個撃破し
敗走せしめた。後顧の憂いを無くすべく、織田軍はまず壊走する朝倉軍を追撃。
そのまま越前領内に侵入し、朝倉氏の本拠である一乗谷まで攻め入ったのである。
織田軍の怒涛の勢いに為す術なくなった義景は、先祖伝来の城郭都市・一乗谷を放棄して逃亡、
大野郡にある賢松寺へ身を隠した。しかしこれを柴田勝家・美濃三人衆らの軍勢が猛追し、
結局、8月20日に義景は自害した。越前太守として栄華を誇った朝倉氏はここに滅亡し、
北国の小京都として栄えた一乗谷の町も灰燼に帰したのである。
風雅の道に傾倒し、京風文化を好むあまり領国経営や軍備拡充を疎かにし、
足利義昭の後援をする事で中央進出の機会を得ながらも、時流を読む事が出来ず
それでも(無謀にも?)意地だけで信長に逆らった義景の哀れな最期であった。
織田軍に蹂躙された一乗谷の町は、これ以後復興される事無く歴史の闇に消えていく。
越前国は、完全に織田軍によって征服されたのである。

★この時代の城郭 ――― 戦国の城攻め(1):強襲(ごうそ)
兵法理論において一般的に、城を落とすには籠城軍の3倍の兵力が必要とされる。
無論、個別の状況によってその数値に上下はあるだろうが、少なくとも3倍の兵力がなくては
城を落とす事ができないものである。もし守り手が強力な城や軍勢ならば、3倍どころか
さらに多くの兵力がなくては、攻撃側のダメージも当然のように大きくなるであろう。
城攻めと言うと、追い詰められて逃げ込んだ敵にとどめを刺すような感覚で、
簡単に落城させられるというふうに考えられるかもしれないが、実はそうではないのである。
敵を侮ると、逆に攻城側の方が手痛い逆襲を受け、敗退する事もあるのだ。
(大内義隆の月山富田城攻め、上杉方連合軍の河越城攻めなどが好例)
しかし、逆に言えば3倍以上の圧倒的兵力を擁して城攻めを行うのであれば
多少の犠牲を払ってでも、短期決戦で強引に城への攻撃を敢行する場合があった。
こうした攻城方法を強襲(ごうそ)と言う。要するに、力攻めである。
城門をブチ破り、籠城側の守りを突破し、相手を叩きのめす。
時には火攻めを行って城を破壊し、あるいは城下町にも火をかけて焼き討ちし
籠城兵の戦意を挫くような事も行われた。また、夜襲や朝駆けのような奇襲作戦や
時に和議と見せかけて攻撃するような駆け引きも。
一つの城を攻めるだけで時間や糧秣を浪費しては、他方から攻撃される危険性がある故、
何よりも強襲は相手をねじ伏せ、短期で敵城を攻略する事を要求されるのだ。
城の大手門(正門)に総攻撃をかけ、正面突破を図る平攻めのような正攻法あり、
敵城に通じる間道を掘り進め、不意打ちを食らわせるような奇策もあり、
強襲の戦法は様々で、加えて、力攻めは攻城軍の戦果を見せつけるような勝利によって
その後の占領地統治にも影響を与えるような意味合いも持っていたのである。
なお、奪った城をそのまま再利用する場合もあれば、廃城にするケースもあるため
それに応じて強襲の手段も変化する。信長が義景の居城・一乗谷城を落とした事例は
強襲の中でも最も激しい攻撃と言え、城のみならず城下町までも廃絶させるような
徹底的破壊活動を行ったパターンであった。


浅井討伐 〜 浅井三姉妹とお市の方無残
朝倉氏を滅ぼした信長は、再び小谷城へと戻り浅井攻撃の態勢を整えた。
同月26日に小谷城下へと着陣した信長は、全軍に総攻撃を下知する。これに伴い、織田軍は
難攻を誇る小谷城へ突入を開始した。既に朝倉の援兵なく、疲労の極限に達していた
長政率いる籠城軍に勝機は失せ、さしもの小谷城も次々と曲輪を落とされていく。
翌27日、木下秀吉の部隊が城の中核部分である京極丸を占領。次いで28日、信長自身が
本丸を陥落させ、ここに小谷城は完全制圧されたのであった。
もはや進退窮まった浅井一族は自害の道を選ぶ。反信長筆頭であった先代・久政が自刃し、
その直後、湖北の俊英と謳われた長政も自害した。しかし、政略結婚とはいえ仲睦まじかった
長政夫人、信長の妹でもあるお市の方は、長政との間にもうけた3人の娘、
茶々(ちゃちゃ)初(はつ)小督(おごう)と共に城を落ち延び、信長に引き取られた。
当初、お市の方は長政と共に自決を覚悟したものの、娘共々何とか生き延び、
幸せになって欲しいと望む夫・長政の説得により城を出たという。妻子の生還を願う夫と
死別の悲劇を受け容れねばならなかった妻。互いを愛するが故、辛い別れを耐えねばならない。
しかも、市姫にとって最愛の夫を奪うのは、他でもない、最も近しい存在である
実の兄だったのである。皮肉な運命に流されたお市の方。
夫婦、親子、兄妹の愛憎が入り組んだ、戦国史で最も有名な落城悲話だ。
加えてお市の方、そして浅井三姉妹は後年再び落城の憂き目を見る(後頁にて記載)。
政略結婚、夫婦の別離、そして落城。戦国時代の女性は、独立自尊の気風で自活する者もいたが
このようにして政争・戦争に翻弄される者が多かったのもまた事実である。

織田家と浅井家

織田家と浅井家 (赤字は女性)
―は親子関係 =は婚姻関係
長政には嫡男・万福丸(まんぷくまる)がいたと言われるが(三姉妹とは異腹?らしい)
落城に伴い、織田方によって処刑された(他に次子の幾丸(いくまる)がいたとも)。
久政・長政・万福丸の浅井家男系が総て落命した事で、浅井氏は断絶。信長包囲網は、
信玄の病没、義昭の追放、朝倉・浅井の滅亡を経て、ほぼ消滅する。
こうして信長は当面の敵となる勢力を排除した事により、畿内掌握の完成作業と
西国・北陸方面への侵攻準備を進めるように政策転換が可能となった。
織田政権にとって、小谷城でしぶとく残っていた浅井氏を滅ぼした事は
実に大きい意義を持っていたのである。これを喜んだ信長は、浅井討伐において
数年もの下準備を続け、小谷城落城に軍功大きかった木下秀吉に第一の恩賞を与えた。
そこで秀吉が望んだ恩賞とは、木下に代わる新たな姓であった。新しい名は羽柴秀吉
織田家古参の重臣である丹羽長秀から「羽」と、筆頭家老の柴田勝家から
「柴」の字を貰い、「羽柴」としたのである。丹羽、柴田という両先輩から字を貰う事で
秀吉は家中での名を高めつつ、彼らを崇敬するような態度を見せたのだ。
しかしこの改名案は、半兵衛が秀吉の保身の為に授けた策であると言う。
秀吉は武功を挙げ、名を高め、巧みな人心操作で出世への道を歩んでいた。
加えて秀吉は、浅井家の旧領となる小谷城周辺の領地を信長から与えられ
その統治を任された。明智光秀が陥落させた比叡山周辺を与えられたのと同じく
秀吉は北近江の領有と統治責任を負ったのである。こうして秀吉は光秀に続いて
万石以上の領地を獲得、遂に「城持ち大名」の地位を得た。小谷落城では、
悲劇を味わった市姫のような例もあれば、秀吉のように栄達を掴んだ者もいたのである。
秀吉は当初、落とした小谷城に入ったものの、山深い険峻な山城は統治に不便と考え
琵琶湖畔にあった平城、今浜城へ本拠を移す。1574年に今浜城の改修工事を開始し
同時に「今浜」の名を「長浜」に改めた。これもまた信長から「長」の字を貰い受け
主君に対する忠誠の念をことさら大きく喧伝し、保身と出世への大パフォーマンスを
展開したのである。“人たらし”の秀吉は、こうして更なる立身を続けていくのであった。

蘭奢待切り取り 〜 信長の権勢ここに極まる
室町幕府を倒し、改元を為して朝廷権威まで制圧しつつあった信長。武田・朝倉・浅井といった
反信長連合も霧消し、形勢不利を悟った松永久秀も1573年11月に居城・多聞山城を開城し降伏する。
無類の“謀略好き”である久秀も、さすがに信長包囲網が消えては勝ち目がなく、自分の保身を考え
掌を返して信長の下に帰参したのであった(だがこの後も久秀は謀反を企む。後頁にて記載)。
東海から畿内にかけての広い地域を掌握し、事実上の天下人と言えるほどの権力を手にした彼は、
朝廷での官位も従四位下・参議にまで昇進し、権勢並ぶ者ない程になっていた。
しかしそれにも飽き足らない信長は、東大寺正倉院に収められた秘宝の香木
蘭奢待(らんじゃたい)の切り分けを1574年3月28日に行ったのである。本名を黄熟香という蘭奢待、
蘭という字の中には東、奢の中には大、待の中には寺の字が隠されており、この香木の存在は
即ち東大寺そのもの、聖武天皇以来、国家統治者の象徴として厳重に保管されていた秘宝中の
秘宝と言えるものである。かつて朝廷からこの香木の切り取りを許された者はわずかに3人。
明の皇帝から“日本国王”と認められた足利義満、強権を以って室町幕府権威の向上に努めた
足利義教、類稀なる見識で芸術の道を極めた足利義政、いずれも武家の棟梁たる
将軍職にあった者たちだ。信長はこれらの3人に並び、蘭奢待の切り取りを許された。
いや、許されたというよりも朝廷に圧力をかけ、有無を言わさず切り取ったというのが正しい。
時代の革新者である信長は、室町旧体制の打破のみならず、朝廷権威までも自分の格下にある
存在として扱うようになっていたのである。延暦寺に対する過激な宗教弾圧、反乱を起こす
民衆一揆に対する大虐殺、そして朝廷の軽視など、時に信長は「変革」以上の勢いで旧来の伝統を
「破壊」する事もあり、英雄であった半面、いつしか魔王のような残虐性も見せるようになっていた。
横暴とも受け取られかねない信長の果断さは、果たしてどのような結末を迎えるのか―――。

文化と政治の融合 〜 信長の革新性による新制度
新たな時代を創ろうとする信長の動きはこれだけに留まらなかった。キリスト教をはじめとする
西欧文明の積極的吸収、御茶道政治の効果的利用などだ。当時としては開明的と言える
信長の思考は、宣教師ルイス=フロイスを謁見した際、地球が丸いという説明を即座に理解し
天文学・航海術など西洋の科学技術を日本の発展、自身の統治政策に活かそうとした。
西洋技術の吸収は、鉄砲や火薬の調達といった軍事的活用、キリスト教文化浸透による新たな
権威向上策という政治的活用など、多岐にわたって織田政権の権力基盤固めに貢献したと言える。
なおフロイスはこの後、信長の手厚い保護を受けてキリスト教布教を推進、その返礼として
信長の外交顧問的役割を担うようになっていく。一方の御茶道政治(茶の湯政道)については
当時の文化的ステイタスであった茶道に政治的な意味合いを持たせて統制し、巧みな心理操作で
功利主義に昇華させたものである。堺の町衆など、一部の特権的上流階級から流行り始めた
茶の湯に信長が関与して、茶会開催の次第や茶器の格付けに重大な意義を持たせたのだ。
これにより武将が茶会を開くには信長の許可が必要となり、茶会を開催できる武将こそ
信長に認められた一流の将という事を意味するようになった。更には、そうした茶会で
用いられる茶器に格付けを行えば、皆がこぞって名物とされる茶器を欲しがるようになり
そのような茶器を褒美として与えれば、領土を得る以上の栄誉を浴する事になるのだ。
しかも信長の審美眼は正確で、家宝の優劣判断に誤りは無かったと言う。
茶器一つは一城に値する価値を持つとし、限りある領土の分配ではなく、宝物としての
意味を持たせた無数の名物茶器を家臣に与え、効果的で経済的な論功行賞制度を
確立した信長。たかが茶道にそれほどの価値があるのか?と思うかもしれないが
現代ならばゴルフやカラオケの接待で出世の糸口とするような感覚と言えば解り易いだろうか。
信長の時代とは、軍事・政治と文化が融合し、新たな気風が芽生える変化の時代だったのである。
さて、足利将軍家や甲斐武田家、浅井・朝倉連合といった名族・戦国大名家が廃される中
畿内には最後にして最大の反信長勢力がまだ残っていた。一向一揆を束ねる本願寺である。




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