信長包囲網
信長が中央へ進出した政局と時を同じくして、以前記したように
全国各地でも強大な戦国大名による地方再編が行われていた。
小勢力の小競り合いから、大大名による集約統治へ。
そうして成長した各地の強豪は、やがて結集し
「天下布武」を宣言した信長を包囲するようになる。
四方八方敵だらけ、まさに四面楚歌の状況という
信長にとって最大の危機が迫っていた。
信長と義昭 〜 協力関係から反目へ
前にも書いたが、信長にとって義昭の存在は“利用価値の高い”ものであった。
足利将軍家に協賛する事で、自分が中央政権を握る正当性を得るのが目的であり、
落ちぶれたとは言え、将軍家の権威を利用して他国の諸大名の上位に立つ事を狙ったのだ。
しかし信長は、義昭に“服属する”つもりは毛頭なかった。「天下布武」即ち、織田家の武力で
天下を支配する事が信長の真の目的である以上、義昭の配下になる事はない。
だからこそ、管領や副将軍という「室町幕府の職制」に組み込まれる事を拒否したのだ。
一方の義昭は、晴れて15代将軍に就任した事で自ら政務を行う気になっていた。
自分こそ将軍、天下の主である。そう思っていたに違いない。当然、信長はこれを
許さなかった。既に将軍職など飾り物程度の権威であり、実務は担うべきでない。
信長は独走しようとする義昭を制するため、1570年1月に「殿中の掟」と呼ばれる意見5ヶ条を
突きつけた。義昭は政治に口出しせず黙っていろ、という“信長の本音”だ。
これを受けた義昭は愕然とする。天下の主となるべく将軍職に就いたのが、信長に煙たがられ
政務から遠ざけられる立場になったのだ。こんな事ならば、信長を頼るべきではなかった。
優柔不断とは言え、義昭を敬拝してくれた朝倉義景のほうがよほどマシである。
協力者であったはずの信長に裏切られたと感じた義昭は、いつしか信長と反目し
かつての庇護者であった義景と再び親交を結ぶようになっていく。
信長、越前侵攻 〜 浅井家の憂鬱
徳川家康・浅井長政を盟友にし、足利将軍家の権威を見せつけて他国への統制を図る信長。
武田信玄・上杉謙信といった名家を出自とする大名は、(一時的ながら)その権威に従い
信長と和平関係を結んだ。さしあたって信長が次に従えるべき相手は、畿内に近い北陸の要地
越前国・若狭国(共に現在の福井県)を領有する有力者、朝倉氏であった。将軍・義昭に服すべく
上洛せよ、という命令を朝倉義景に発した信長。簡単に言えば、信長に服属せよという意味だ。
しかし義景は、この命令を蹴った。本来、朝倉氏は織田氏と同じく守護・斯波氏の被官たる
守護代の家格である。つまり義景にしてみれば、同格の織田家に命令される云われはない。
いや、信長は織田家の中でも分家筋に当たる家の出自なのだから同格以下である。
そもそも自分は遠路はるばる京都まで出張るつもりはないし、何より今再び義昭から直接の
内示を貰うようになっているのだから、“威を借りているだけ”の信長に従うなど存外。
義景の考えはそんな所であっただろう。義景は、再三にわたる上洛要請を無視し続けた。
これに怒った信長は、遂に朝倉討伐に着手する。しかし、信長の同盟者である浅井氏は
長年に渡る朝倉氏との同盟者でもあった。織田家と朝倉家が戦うならば、両者に挟まれる
浅井氏の去就が問題となるのは明白である。そうした懸念もあってか、長政は
信長と義景が対立するようになる頃から、もし織田軍が越前へ侵攻するならば、前もって
浅井家へ連絡をするように申し入れていた。ところが信長は(直情的な性格からか)
長政への事前通告もなく、1570年4月20日に3万の大軍を以って朝倉討伐を開始。
瞬く間に朝倉方の2城を攻め落とし、そのまま若狭の要衝・金ヶ崎城の攻略に取り掛かった。
怒涛の進撃を行う織田軍の前に、惰弱な義景の命運が尽きるのも時間の問題に思われた。
金ヶ崎退却戦 〜 木下秀吉、決死の殿軍を務め上げる
「信長、朝倉家へ攻めかかる」との報に誰よりも驚いたのは長政であろう。事前の連絡は
どこへやら、完全に浅井家の立場を無視した行軍である。この行いに怒ったのは、長政よりも
先代・亮政と浅井家の家臣団であった。裏切り者の信長との盟約は破棄し、旧来から親交ある
朝倉家の救援をすべきであるという意見が今や家中を占めていた。市姫を娶る若き英才君主
長政は、強大な信長に抗う事が御家滅亡を招くと知りつつもこの流れを止められず
仕方なく先の見えぬ父や家臣に動かされ、遂に朝倉救援の軍を派遣する事にした。
一方の信長は、金ヶ崎城が落ちるのを今や遅しと待ちわびていた。ところが時に4月27日、
信長の本陣に馳せ参じた軍使が伝えたのは金ヶ崎城の戦果ではなく、浅井家の挙兵である。
朝倉を攻め立てるはずの信長に、背後から長政の軍が迫ってきたのだ。これでは朝倉討伐どころか
信長の方が袋のねずみになってしまう。かつてない危機に瀕した信長は、金ヶ崎攻略を諦め
その場から即時撤退する事を決定。朝倉討伐に加わっていた先鋒の徳川家康をはじめ、
織田軍の諸将もこれに従い、続々と撤収作業に入った。しかし、戦闘における撤兵時こそ
敵に背後から攻撃され、甚大な被害を出す確率が最も高い時である。故に、そこに踏みとどまり
敵の攻撃を一手に引き受け、他部隊の撤収が完了するまで囮になる部隊が必要となる。
こうした部隊を殿軍(しんがり)と呼ぶが、殿軍は即ち死に直結する危険な仕事であった。
この時、その殿軍に名乗りを挙げた者がいる。木下藤吉郎改め木下秀吉だ。
秀吉は岐阜攻略で“人たらし”の功績を挙げ、墨俣一夜城の建築などの功労があったものの
織田家古参の重臣からは相変わらず新参者と蔑視され、武将としての器量は認められなかった。
そんな中で秀吉が最も危険な任務を買って出たのである。信長は、この申し出を受け容れた。
ぐずぐず迷っている時間はないのだ。秀吉の部隊を残し、金ヶ崎から逃げる織田軍。
やがて体勢を立て直した朝倉軍と、信長打倒に逸る浅井軍が大挙して襲来する。殿軍の秀吉は
蜂須賀小六ら配下の兵卒と耐えに耐え、その役割を果たし切った。斯くして信長は京に帰還し
秀吉も命からがら落ち延びる。天才軍師、竹中半兵衛の智略があってこそ為せた殿軍であった。
戦場における秀吉の器量はこうして各将に認められる事となり、織田家重臣の仲間入りを果たす。
姉川の戦い 〜 織田・徳川連合軍vs浅井・朝倉連合軍
間一髪のところで浅井軍に助けられ、命脈を永らえた朝倉義景。信長に対立する愚を知りつつも
長年の盟邦関係にある朝倉氏の救援をせねばならなかった浅井長政。その長政に邪魔をされ
朝倉討伐を屠られた信長の怒りは収まらなかった。体勢を立て直した信長は、1570年6月19日
岐阜を出陣し、浅井・朝倉討伐に赴いた。その総勢はおよそ2万にもなる大軍である。
同月21日、浅井氏の本拠にあたる小谷城を包囲した信長軍は、長政を挑発すべく城下町を焼討。
しかし長政はこれに乗らず、ひたすら耐えた。そして25日、長政の救援に朝倉の援兵1万が到着し
浅井・朝倉連合の総数は1万5000となった。一方、信長方には27日に徳川勢5000が来援し
合計2万5000の軍勢になる。役者が揃った小谷城下、28日の未明から姉川を挟んで両軍が開戦し
血で血を洗う激戦が繰り広げられた。世に名高い姉川の合戦である。
朝倉軍vs織田軍で朝倉優勢、浅井軍vs徳川軍で徳川優勢という構図で展開されたこの合戦、
時間と共に織田軍が崩れかけていく。しかしこの時、小谷城の支城である横山城の包囲に回されていた
織田方の美濃勢が浅井軍の側面攻撃に駆けつけ、同時に徳川四天王に数えられる勇将
榊原康政(さかきばらやすまさ)の部隊が信長を援護するために朝倉軍の背後に回り込み
一気に突き崩した。稲葉一鉄をはじめとする美濃勢、そして康政の機転により戦況は逆転し
浅井・朝倉連合は総崩れになり小谷城へと敗走していった。
織田方は浅井家のものであった横山城、佐和山城を接収。それぞれの城に木下秀吉と
丹羽長秀を入れ、浅井家の包囲・監視に当たらせた。これにより長政は小谷城へ封じ込められ
次第に弱体化していく。風雅の将・朝倉義景も同様で、以後織田家と徹底抗戦しつつも
大勢を覆すには至らなかった。とは言え、この戦いで全てが終わったわけではない。
信長と浅井・朝倉の戦いは、これ以降3年に渡って続けられていく。
六角氏の反抗 〜 “瓶割り柴田”、甲賀軍団を撃退
話は変わって南近江へ。信長上洛の際に対立しつつも、織田家の軍事力に叶わず
居城である観音寺城を棄てた六角氏は、甲賀地方へ逃亡・潜伏しながらゲリラ活動を展開、
信長に一矢報いる機会を狙っていた。そして1570年、浅井・朝倉との抗争を始めた信長に対し
今こそ復活の烽火を挙げる時と見た六角承禎は、甲賀武士団を編成し挙兵に及んだのである。
6月4日、野洲川(滋賀県南部、甲賀地方を横断する川)の河畔に布陣した六角承禎・義治親子。
これを討つべく、織田方からは筆頭家老の柴田勝家と用兵上手の佐久間信盛が出陣する。
この戦いで六角方は敗れ、いったんは撤兵を余儀なくされるが、すぐに勢力を建て直し
勝家が守る長光寺(ちょうこうじ)城(滋賀県近江八幡市長光寺町)を取り囲んだ。
六角方に翻弄される織田軍は、遂に織田軍団きっての勇将・勝家が追い詰められるという
危機を迎えるに至ったのである。ところが勝家は流石に名将、常識外れの行動をとる。
城が包囲されているにも関わらず、自ら城内の水瓶を叩き割り水の蓄えを無くしたのだった。
つまり、城内で飲む水はこれにて終わり、これより城外へ討って出て敵を粉砕し
勝利の凱旋で思う存分の水を浴びよう、という鼓舞で兵の士気を上げたのである。
常識で考えれば、籠城においては何よりも飲料水が大切なのだが、勝家は水断ちをして
兵の気を引き締め、決戦に臨んだのだ。この鼓舞で死にもの狂いとなった城兵は
六角の軍勢を散々に蹴散らし、敗走させる。こうして見事に六角軍を撃退した勝家は
この逸話から“瓶割り柴田”の異名をとり、武名を上げたのであった。
とは言え、敗れた六角一党は再び甲賀地方へと潜り、南近江各所で散発的抵抗を試みる。
かつて足利将軍家を擁護した江南の名門・六角氏は、信長に勢力を削がれながらも
簡単には屈服せず、まだまだしぶとく戦い続けた。勝家の活躍で更に弱体化したものの
六角氏と織田氏の決着が付くのはなおしばらく後、1574年になってからである。
摂津攻略 〜 織田軍、四方に敵と戦う
畿内に進出した信長に対し、反抗したのは浅井・朝倉・六角だけではない。
かつて京の支配権を維持し、信長の上洛によって追われた三好軍もまた反撃の機会を狙っており、
姉川の戦いに際して京から信長が離れた隙を狙い、三好三人衆が再び挙兵したのである。
1570年の夏、三好勢は四国から渡海し摂津国中島へ進撃。周辺一帯に砦を築き、
三好康長(みよしやすなが)や斎藤龍興らの武将に守らせて立て篭もる。
浅井・朝倉と連動した作戦を展開する事で信長を周囲から攻め上げようという魂胆だった。
京の南北に敵を抱える事になった信長は、姉川の戦いに蹴りをつけた8月20日に岐阜を出陣し
同月26日、摂津攻略に取り掛かる。三好政康の弟、三好政勝(まさかつ)を調略すると共に
三好軍を包囲する作戦を取り、硬軟織り交ぜた戦術で三好方を圧倒しようとした。
さらに9月3日、京から義昭を呼び寄せ、将軍自らが逆賊・三好勢を討伐する形式を整える。
信長と反目しつつあった義昭ではあるが、兄・義輝の仇である三好勢が相手とならば話が別で
この戦いに関して言えば、義昭は信長の要請に従ったのであった。
ところが9月12日夜半、織田政権の強圧的姿勢を嫌った石山本願寺が蜂起を開始。
信長は摂津国内において、三好軍だけでなく一向宗までも相手にせねばならなくなった。
(本願寺派の蜂起については後頁で詳しく記載したい)
追い討ちをかけるように、9月16日には浅井・朝倉勢が再び挙兵し、天険の地・比叡山に陣取った。
信長は、三好軍・一向宗・浅井・朝倉・延暦寺の連動包囲という四面楚歌の状況に置かれたのである。
どうにもならない信長は、9月23日に摂津国の陣を引き払い、浅井・朝倉討伐へと向かった。
反信長の炎はとどまる所を知らず、南近江を退いた六角の残党は伊賀でゲリラ戦を続けた上
1570年の秋には伊勢国長島でも一向一揆が勃発、信長の本国たる美濃・尾張を危機に陥れる。
長島の一揆は、鎮圧に向かった信長の弟・織田信興(のぶおき)を11月に討死させる勢いであった。
一度にこれだけの敵と戦うのは、さすがに信長といえど不可能な話で
個々の相手と和睦を図るのが妥当な策であった。浅井・朝倉・延暦寺とひとまず和し、
三好勢に対しても同年12月、松永久秀を通じて和睦。本願寺に対しては朝廷から勅命を引き出し
ようやく和平にこぎつけた。中央政権に進出した事は、その権益を狙う他者を敵対させ
政治勢力にもなっていた宗教諸派までもが信長の政治姿勢に反抗するという事態を惹起した。
何より、傀儡のはずであった義昭が裏で暗躍しつつある状況において、順調に思われていた
信長の畿内平定は、一進一退という困難な作業になってしまったのである。
延暦寺焼討! 〜 鎮護国家の大道場、灰燼に帰す
その後も一向一揆はくすぶり続け、信長は1571年5月に長島討伐を行うが失敗。
浅井・朝倉との戦いは小競り合いが続き、六角氏も相変わらず伊賀に潜伏していた。
敵対勢力を何とかしたい信長は、1571年の夏に延暦寺攻略へと着手する。伝教大師・最澄が開いた
鎮護国家の大道場である比叡山延暦寺であるが、平安時代後期における僧兵の狼藉に見られるように
次第に政治介入を図る政治組織へと変化し、戦国時代においては大名と拮抗して畿内に影響力を及ぼす
巨大な軍事力をも保持する団体になっていた。加えてこの当時の延暦寺僧侶は、修行よりも
世俗にまみれ、乱行を行い、権勢を欲して政治力を行使するという悪習・堕落が茶飯事であった。
信長は敵対勢力を倒すと共に、仏教界の腐敗を正す目的をかざして延暦寺討伐を決定したのだった。
要するに、信長にとって比叡山は延暦寺という道場ではなく敵対勢力の城でしかなかったのである。
9月、3万の織田軍は比叡山を包囲。延暦寺に対して降伏を勧告したが、僧侶らはこれを拒絶。
怒り心頭に達した信長は、9月12日に明智光秀らに命じて全山への焼討攻撃を開始した。
延暦寺の僧侶らは、いくら信長と言えど仏法に逆らう事はしないとタカをくくり降伏しなかったのだが
思いもかけない放火という手段に為す術はなく、次々と業火に焼き尽くされていった。
その火は3日間に渡って燃え続け、延暦寺の寺堂はことごとく灰燼に帰し、山中にいた僧侶や庶民ら、
延暦寺側の人間は老若男女を問わず撫で斬りにされる。この焼討での死者は数千人とも言われ
信長の強さと共に恐ろしさを世に知らしめる結果となった。
この戦いで、信長は琵琶湖南岸の支配権を確保。京都の町に隣接する比叡山を陥とした事で
信長の中央政権掌握は一応の安定を見た。さらに、戦功の著しかった光秀に対して坂本の地を与え
大名格に取り立てた。坂本は比叡山の麓、滋賀県大津市の地名である。
織田家臣の中で万石以上の領地を与えられたのはこれが初めてであった。
比叡山を落とした信長は、有能な家臣に占領地の統治を任せると共に責任を負わせ
自身の勢力拡大に役立たせようと考えたのである。
信長包囲網 〜 東海の巨人、遂に動く
延暦寺を壊滅させ、浅井・朝倉に対する締め付けを強めた信長。この流れのまま北陸方面を叩くべく
1572年7月21日、信長は元服したばかりの嫡男・信忠(のぶただ)を連れて小谷城攻略に向かう。
ところが8月2日、浅井家救援の為に朝倉義景が1万5000の兵を率いて信長と対陣する。
四方に敵を抱える信長としては、ここで戦線を膠着させていては他方面からの侵攻を招くと考え
小谷城の監視役として木下秀吉らを残し、岐阜へ帰還する事になった。姉川で敗戦した後でも
浅井・朝倉はしぶとく戦い続け、信長の動きを封じ、苦しめていたのである。
さてその頃、京の都にいる人物も信長を封じ込めるべく暗躍の手を広げていた。
将軍・義昭である。何としても自分が天下の主として政権を掌握したい義昭は、織田領を囲む
各地の強豪を参集させ、信長包囲網を形成しようとしていた。もちろん、浅井・朝倉はその一翼を
担っていたし、この年になると義昭は兄の仇であった三好三人衆とも手を結ぶようになる。
その上、一旦は上洛した信長に降伏したはずの松永久秀も、中央政権の転覆を狙ってか
1571年の5月頃から本願寺や武田信玄と密かに内通しており、義昭はこの久秀とも手を組む。
三好三人衆と久秀は義輝を弑逆した張本人にも関わらず、それでも通じるとは
義昭がいかに信長を排除しようと躍起になっていたかが伺えよう。
義昭との化かしあいに悩まされる信長は、こうした包囲網を打破する事に追われ、
1572年の8月、三好三人衆の筆頭であった岩成友通を淀城で討ち取り
9月には義昭に対し「意見十七ヵ条」という諌言を突きつける。1570年1月の「殿中の掟」に続く
2度目の義昭封殺文書だ。にも関わらず義昭は諦めず、1572年秋、遂に武田信玄を動かした。
甲斐・信濃・飛騨・西上野に加え、駿河までも領有するに至った武田家は
織田・徳川連合の東にそびえる巨大な勢力であり、無敵を誇る武田騎馬軍団の武威は
遠く京にまでとどろいていたのである。この信玄が義昭の提唱する信長包囲網に加わったのだ。
畿内周辺だけでなく、東海からも脅威が迫りつつあった織田信長。その敵は浅井・朝倉
三好・松永・本願寺、そして武田という強者揃い。“利用価値の高い”だけのはずだった義昭が
これほどまでに権威の力で難敵を参集させ、締め付けてくるとは予想だにしなかっただろう。
三方ヶ原の戦い 〜 信玄の上洛作戦発動
前の年、1571年の事になるが、駿河の領有を巡り信玄と対立していた北条氏康が10月3日に死去。
氏康は死にあたり武田家との和睦を遺命していたため、跡を継いだ北条氏政はこれに従い
武田家との同盟を再び締結した。当然、越相同盟は解消される事になり、小田原の後北条氏は
父祖以来の関東北上作戦へと政策を変更し、上杉謙信との領土争いが再燃した。
一方、北条氏との和睦が成立した事で信玄は後顧の憂いがなくなり、自然と上洛へと目が向いた。
既に信玄は老齢とよべる年齢に達しつつあり、自身の余命を計算しつつ武田家の隆盛を引き出すには
京の都を征し、中央政権に食い込む事が最良の策だったからである。加えて足利義昭からは
信長包囲網への参加を呼びかけられ、京の都では次のような狂歌が流行るようになっていた。
都より 甲斐の国へは 程遠し
お急ぎあれや 日は武田殿
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1572年10月、甲府を出発した武田軍は総勢3万ほどの大軍。西進し、遠江国へと侵攻を開始した。
かつての今川領は、共同作戦により駿河を武田が、遠江を徳川が切り分けたわけだが、
今川家が滅亡した時から、この両者は国境を接する敵同士になっていた。もちろん、家康も
今川の次は武田が相手になるというのは分かっていた事であり、越後の上杉謙信と盟約を結び
暗に武田家との対決姿勢を明確にしていた。しかし、甲信飛上駿の5ヶ国を束ねる武田家と
三遠の2ヶ国のみを領有する徳川家とでは明らかに格違い。信玄の侵攻に対し、
家康は有効な打開策がなく「嵐が通り過ぎるのを待つだけ」という感じであった。
信長の同盟者である家康を叩く事は、信玄の信長に対する宣戦布告であり、それ故に
信玄の遠江侵攻は激しいものだったのだ。苛烈で、しかもじっくりとした信玄の行軍は
12月22日に天竜川を渡り、家康の居城である浜松城の目前に出た。しかしここで信玄は
まるで家康をあざ笑うかのように浜松城を無視し、そのまま西へと通り過ぎ
浜松城の北方にある台地、三方ヶ原へと進んで行く。家康を相手にせず、浜松城に背を向けて
呑気に三方ヶ原を闊歩する武田軍。この仕打ちに対し、さしもの家康も怒った。
ここまで馬鹿にされ、それでも城に籠もったままであったら武将の名折れ、領民にも蔑まれ
戦国大名たる家康の権威は地に落ちる事になる。血気にはやった家康は浜松城から出陣、
武田軍を追撃すべく三方ヶ原へと向かった。その軍勢はおよそ1万。信長から援軍として
佐久間信盛の軍勢が浜松に来援していたものの、この信盛は明らかに勝てぬ戦と見切りをつけ、
尾張へと撤収してしまった。結局家康は独力で武田方と戦わざるを得なくなった訳だが、
東海の巨人・信玄の攻撃は容赦のないものだった。武田軍が三方ヶ原へと出たのは、
明らさまに家康を挑発し浜松城から引きずり出すための行軍で、家康が現れた途端、
武田軍は総攻撃態勢を整えていたのだ。それを知りつつ出陣したとは言え、やはり家康は
完膚なきまでに叩きのめされた。もともと、兵力差は2倍以上。加えて、武田軍は勇猛果敢な
騎馬軍団であったのに対し、家康方は足軽中心の歩兵部隊。兵装の差も明らかだった。
徳川軍は1200以上もの戦死者を出し、わずか2時間程度で壊滅。家康自身も敵兵に取り囲まれ
あわやという窮地に立たされながら、ようやく浜松城へと帰り着いた。
この三方ヶ原の合戦において、徳川軍は叩き潰され、浜松城は風前の灯火となる。
信玄の死 〜 東海の巨星、志半ばにして堕つ
もはや浜松城を守る兵力は残っていなかった。三方ヶ原から武田軍が押し寄せれば
家康の命はそこで終わりである。観念したのか、家康は浜松城の城門を全て開放した上、
何を思ったのか櫓の上に太鼓を据え、宿老の酒井忠次(さかいただつぐ)にそれを叩かせた。
日が暮れた頃には城内の至る所にかがり火を煌々と焚かせ、外から城を目立たせる。
およそ籠城作戦とは全く逆の事ばかりを行ったのである。一説によれば、家康が健在だと示し
三方ヶ原から敗走して来る味方の兵士を迎え入れるための手配だったともされるが、
この奇妙な行動に、武田軍は迷ったに違いない。何か策略があるかとも勘繰り、
敢えて浜松城の攻撃は行わなかった。いや、信玄にしてみれば当初から城攻めはせず
西への進撃を優先させるつもりだったのかもしれない。兎に角、武田軍はそのまま西進し
浜松城の家康は一命を取り留めたのである。

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浜松城(静岡県浜松市)
当時、家康が居城とした浜松城。
三方ヶ原台地はこの城の北方にあり
武田軍は浜松城に背を向け、台地を緩やかに登って行く。
通常ならば後ろから攻撃を食らい壊滅する陣形のはずだが
無敵の武田騎馬隊にしてみれば余裕の行軍、
家康をあざ笑い、おびき寄せる為の作戦であった。
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三方ヶ原合戦後、信玄は行軍を急ぎ遠江国を通過。三河国へと入り、徳川方の諸城を攻撃しつつ
京都への上洛路を切り開こうとしていた。ところがそんな最中、家康の支城であった
野田城(愛知県新城市)を包囲していた武田軍は、突如囲みを解いて甲府への引き上げに転じる。
野田から長篠城(愛知県南設楽郡鳳来町)に返し、そのまま信濃方面へと進んだのである。
実を言えば信玄はこの遠征において持病の結核が悪化し、
もはや上洛を為す体力を残していなかったのだ。病状が進行した1573年4月12日、
信州駒場(こまんば、長野県下伊那郡阿智村大字駒場)の陣所において、信玄は没した。
享年53歳。内憂の甲斐を強国に育て、信濃や飛騨、駿河までも領土とした無敵の名将は
最後にして最大の夢、上洛だけは果たせぬまま病に敗れたのであった。
この結果、武田軍の上洛作戦は消滅し義昭の信長包囲網は遂に完成しなかった。
信玄の病状急変には疑問を唱える者も多く、上洛阻止を狙う信長や家康の暗殺説も囁かれるが
ともかく、東海の巨星が堕ちた事によって織田・徳川の両家は最大の危機を脱したのである。
ここでもう一つ余談。信玄はその死に際し、後継者となる4男・勝頼(かつより)に
遺訓を残した。曰く、自分の死は向こう3年の間秘密にせよ。そして、今後の国政で迷う事があれば
上杉謙信を頼れ、としたのである。戦国大名の死、しかも信玄のような大名士の死とあらば
動揺を呼び、他国に付け入る隙を与える事が容易に想像できるため、喪を秘すのは当然だが
何と長年の宿敵であった謙信こそ頼るべき相手と依命したのは驚きであろう。
しかし信玄は、強大な好敵手であるからこそ、謙信の実力を認め、その義勇に心服し
必ずや若き勝頼を手助けしてくれるだけの信義を備える相手と確信していたのである。
謙信もまた、信玄の死を知った家臣が「武田家に攻め入る好機到来」と進言した事を退け
相手の喪を利用するなど不本意な事、と訓示し信玄の遺志を汲み取ったと言う。
名将は名将を知る。信玄の人物評は正しかったのだ。
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