★この時代の城郭 ――― 戦国大名の平山城
戦国大名の居城形態として挙げられる3番目の事例は、平山城である。
山城は、険峻な地形による防御力は高いものの、地形制約がマイナスにも働き
城下町の開拓や、領国経営の政庁としてはいささか不利である。逆に平城は、
大規模な開発が行いやすい反面、防衛拠点としての機能は後回しにされてしまう。
この両者の欠点を克服できる城郭、それが平山城だ。
平野部に面した丘陵を城地として選択し、山上から裾野にかけて曲輪を構成。
その周囲の平野部は城下町(商工業地)や田畑(農地)として広く利用する。
こうする事により、山城としての防御性と平城としての開発性を両立し
大名の支配を固める集約拠点、まさに「首府」と呼ぶに相応しい大城郭都市を造れるのだ。
しかし、逆に言えばそれだけの城と都市を用意するには、強大な実力がなくてはならない。
丘陵を全て要塞としての城郭に造り替え、周囲に計画都市を造成するという事は
土木技術力、経済力、そして人員動員という全ての面で高いレベルを要するからだ。
よって、こうした城郭を築ける者は数少ない。地方の小豪族などでは不可能な話で、
戦国時代後期、その地方を広く制圧できた大大名だけが、自分の権威を喧伝し
中央集権体制を構築する拠点として作る事を許される城郭と言えた。
こうした平山城で有名なものが小田原城、安土城、姫路城などで、いずれも現代まで
その名を残す名城中の名城ばかりである。特に小田原の城は、箱根山塊が背後を固め
前には相模湾と酒匂川が天然の濠として機能するという、絶好の環境にある城郭。
平野部に突出した箱根外縁部の丘陵を全て城郭として改造し、その周囲に広がる土地が
農業・商業・港湾として使用される一大城下町となった。室町中期から使われた小田原城は
戦国の戦いが最も激しくなる時期において発展を続け、謙信・信玄という両雄の軍を撃退。
見事にその防衛力を見せつけたのだが、それにもかかわらず北条氏はまだまだ城を拡張、
整備していく。戦国後期には城下町をも囲繞する総構え、つまり大外郭の塹壕まで構築し
遂に小田原城は「城下町までも囲い込む」という戦国最大の城郭へと成長するのである。
その規模は外周およそ9km。東は酒匂川河口、西は早川口までに達し、
現在の小田原市中心街が全て収まる程の巨大さであった。
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