信玄の胎動

信長にとって最大の脅威となる戦国大名、と言われるのが
甲斐・信濃を領有し、屈強な騎馬軍を擁した武田信玄だ。
越後の上杉謙信と度重なる死闘を繰り広げ、
戦国最強と謳われた無敵の武田騎馬軍団は
次第に南へと目を向け始める。その先にあるものは、
駿河の今川家、三河の徳川家、尾張の織田家…そして京の都。
来るべき信長との対決を前に、信玄の動きはどうなっていたのか。


三河一向一揆 〜 強力な宗教勢力と家康の三河制圧
信長の盟友、徳川家康が本拠とする三河国。家康の祖父、松平清康の時代において
三河国の在地武士はほとんどが松平(徳川)氏の配下に組み込まれていた。
清康・広忠の横死、今川支配時代という苦渋を経験したものの、家康が三河に帰参した事で
生来、忠孝無比を旨とする三河武士は、家康という主君の下にて再び力を団結させ
愚直なまでに奉公する性質で働き、徳川家の隆盛を得るべく努力していたのであった。
ところが1563年頃、この三河国で大騒動が持ち上がる。戦国時代の日本において、
現世利益の為の独立自尊と来世での成仏を約束し、大きな勢力を有した宗教組織である
一向宗が、三河国で決起し、巨大な一向一揆となって徳川家と対立したのである。
一揆の発端は明らかではない。一説によれば、三河武士の何某が本願寺派の寺院で
狼藉を働いたとか、信者からの御布施で裕福だった本願寺派寺院から矢銭を取ろうとしたとか、
様々な説が考えられている。ともかく、信仰心に篤い一向宗徒は(何せ「死ねば極楽」なのだ)
寺の命令、即ち仏の御心に従って一斉蜂起。これを鎮圧する必要に迫られた家康もまた
派兵を決定、事態は一向一揆衆vs家康鎮圧軍という戦乱にまで発展してしまう。
驚くべき事に、ここで家康配下の武将たちの数名が一揆方に加勢。忠誠心の篤い三河武士は、
主君に仕えるのと同じように宗教心にも篤く、寺への忠節を尽くしたのだった。
斯くして、一向宗を信ずる三河武士は一揆軍の主力となってしまい、家康は思わぬ苦戦を
強いられる事となる。結局、家康はこの一揆を鎮圧するのに半年もの月日を費やす嵌めになり
一向宗の強さを思い知らされる事になった。しかし、この一向一揆を平定する事により
結果的に家康の三河支配は強固なものとなった。武装組織へと変貌する宗教集団、
一向宗を統制する必要性とその手段を学び、一揆に加担した配下を許し帰参させる事で
家臣への心配りと再団結を図ったのである。若き日の家康は、苦い経験を味わいながら
領国経営の術を身につけ、国内の権力基盤を確立したのだった。
三河武士の統制、領国民の掌握を完成させた家康は、今川家を打倒すべく東へと進軍して行く。

信玄の駿河進出 〜 甲相駿三国同盟の崩壊
話は東へ飛び、武田信玄の動きについて。甲斐から信濃へ領土を広げた信玄であったが
善光寺の北に立ちはだかる上杉謙信の軍事力は強大で、川中島から先には進めない。
これ以上の北伐は不可能と悟った信玄は、新たな領土拡大策を練る必要に迫られた。
西には将軍・義昭を擁した信長が居り、東には盟邦にして強国の北条氏康。
この両者に手を出す事はできない。となれば、残るは南である。
駿河・遠江の今川氏真は、父・義元戦死後の混乱から立ち直る事が出来ず、徐々に西から
徳川家康の侵食を受けていた。それどころか、自身は蹴鞠・和歌などの遊興に耽り
領土防衛、領国経営に何の手も打たぬままである。今川氏は、もはや信に足る盟友ではなく
信玄が意を決して攻め込めば容易く倒せる相手だった。加えて駿河国は、農水産物を生む
豊穣の地であり、南海に面する温暖の地でもある。海のない甲斐・信濃を領する信玄には
新たなる資源を手にし、何よりも京へ上洛する足がかりとなる土地であった。
とは言え、そう簡単に駿河国へと侵攻できる訳でもない。信玄の嫡男・義信には
今川家から嫁いだ“不戦の証”となる妻女がいる。また、三国同盟を一方的に破れば
今川だけでなく、北条までもが敵に回る事になる。この2点は、信玄の駿河侵攻計画において
大きな妨げとなる問題であった。ところが、信玄はこれに対する策を講じた。
まず第1点、義信の件。恐るべき事に、信玄は自分の息子である義信に謀反の疑いをかけ
1565年に廃嫡、幽閉。もともと、若く潔癖な義信は老練で狡猾な信玄の“毒をも含んだ”施策に
対立する事が多く、これが為に謀反の嫌疑をかけられたのであった。結局、1567年に
義信は自害し、今川家との血縁もこれで切れた。今川に対する遠慮はなくなったのである。
次の北条氏に対する備えだが、信玄は家康と密約を交わし、今川領のうち
遠江を徳川が、駿河を武田が同時侵犯する事にし、戦争の早期決着を図った。
挟み撃ちをする事で、氏康が対応する間もなく今川家を葬り去ろうという計画である。
斯くして1568年末、武田と徳川は一斉に攻撃を開始し、首尾良く目的を達した。
今川家臣の中には、自身が城主を務める城に籠もり頑強な抵抗をする者もいたが、
当主の氏真は反撃の間もなく敗走し、結局、氏康の居る小田原へ逃げ込む事になってしまった。
東海の名族・今川家はこうして国を失い、戦国史から姿を消すのである。

義将・上杉謙信 〜 “敵に塩を送る”
ここでちょっとした余談。海のない甲斐・信濃の民は、駿河との交易によって海産物を入手し
生計を立てていた。しかし信玄が駿河へ侵攻するに及び、国境は閉鎖され交易も途絶えてしまう。
特に、生活に欠かせない存在である塩の欠乏は深刻なものであった。
ところが、そんな甲斐・信濃の民に塩を調達する門戸を開放する者がいた。
信玄の宿敵にして北方の軍神、上杉謙信である。本来ならば、対立する武田の国が窮乏し
混乱する事はまたとないチャンスであり、敵として突け入る機会になるはずだ。
しかし謙信は、それまで封鎖していた信越国境を開き、日本海からの塩を
信玄の領国に供給した。曰く、信玄は倒すべき相手と云えども、領民には何の罪もない。
困窮する民に援助の手を差し伸べるのは国を治める者として当然の責務である、というのだ。
予想だにしなかった上杉方からの塩援助により、甲信の民は救われた。
この逸話が元になり、有名な「敵に塩を送る」という諺ができたのである。
敵味方を越えて温情をかける謙信の行動は、“義将”の名を一段と高めた。
また、長年の宿敵と言えども救援する謙信の度量に感じ入り、信玄もまた
「謙信こそ武将の中の武将、男の中の男」という思いを強くする。川中島で相対し、
互いの実力を認め合った2人は、今度は「信義」という言葉で結ばれたのである。

三増峠の戦い 〜 小田原城、今度は信玄を撃退す
信玄の怒涛の攻撃で、駿府は簡単に陥落。12月23日、家康に共同作戦成功の祝辞を送った事で
1568年の戦闘は終結した。ところが年が明けるや、北条方の援兵が大軍となって駿府に来攻。
恐れていた通り、三国同盟の破約に対して氏康は対抗手段を取ってきたのである。
この北条軍は1万を超える大兵力で、率いるのは氏康の嫡男にして次期北条家当主となる
氏政である。氏康が小田原で後詰めをし、嫡子たる氏政が駿府に切り込んで来るという事は、
北条氏が一族を挙げて信玄の行為を本気で非難している証であった。この時、氏康は
長年対立していた謙信と早急に盟約を結び(越相同盟)、後顧の憂いを絶っている。
あれほど敵対していた上杉氏に服してまで信玄を攻撃するという事は、北条氏が
不退転の決意で武田氏へ対抗する体制を整えたという意味だ。予想以上の速さと規模で
氏康の反撃を受けた信玄は、甲斐への退路を絶たれる危険を回避するため駿河から一時撤退。
もはや後に引く事は出来ず、北条氏を黙らせるには雌雄を決する程の徹底的な戦が必要であった。
そこで駿河制圧を後回しにし、信玄は小田原攻略を決定する。体制を整えた1569年10月、
北条・上杉の間を裂くようにし上野国(現在の群馬県)から北条領へ侵入した2万の武田軍は
かつて謙信が南征を行った時と同様に武蔵国・相模国へと南下、小田原城下に迫った。
これに対抗する氏康が取った戦法は、やはり謙信の来攻時と同じく籠城であった。
小田原城は、謙信の来襲から8年の時を経て、今度は信玄の攻撃を受けたのである。
そしてその結果は…やはり同じように、氏康が城を守りきったのだった。堅城・小田原城は
信玄にすら落とす事が出来ぬ強固な守り。何より、8年前よりも曲輪を拡張し防備を固めていた。
戦国屈指の名城・小田原城は、信玄・謙信という二大英雄を以ってしても落とせぬ城であった。

★この時代の城郭 ――― 戦国大名の平山城
戦国大名の居城形態として挙げられる3番目の事例は、平山城である。
山城は、険峻な地形による防御力は高いものの、地形制約がマイナスにも働き
城下町の開拓や、領国経営の政庁としてはいささか不利である。逆に平城は、
大規模な開発が行いやすい反面、防衛拠点としての機能は後回しにされてしまう。
この両者の欠点を克服できる城郭、それが平山城だ。
平野部に面した丘陵を城地として選択し、山上から裾野にかけて曲輪を構成。
その周囲の平野部は城下町(商工業地)や田畑(農地)として広く利用する。
こうする事により、山城としての防御性と平城としての開発性を両立し
大名の支配を固める集約拠点、まさに「首府」と呼ぶに相応しい大城郭都市を造れるのだ。
しかし、逆に言えばそれだけの城と都市を用意するには、強大な実力がなくてはならない。
丘陵を全て要塞としての城郭に造り替え、周囲に計画都市を造成するという事は
土木技術力、経済力、そして人員動員という全ての面で高いレベルを要するからだ。
よって、こうした城郭を築ける者は数少ない。地方の小豪族などでは不可能な話で、
戦国時代後期、その地方を広く制圧できた大大名だけが、自分の権威を喧伝し
中央集権体制を構築する拠点として作る事を許される城郭と言えた。
こうした平山城で有名なものが小田原城、安土城、姫路城などで、いずれも現代まで
その名を残す名城中の名城ばかりである。特に小田原の城は、箱根山塊が背後を固め
前には相模湾と酒匂川が天然の濠として機能するという、絶好の環境にある城郭。
平野部に突出した箱根外縁部の丘陵を全て城郭として改造し、その周囲に広がる土地が
農業・商業・港湾として使用される一大城下町となった。室町中期から使われた小田原城は
戦国の戦いが最も激しくなる時期において発展を続け、謙信・信玄という両雄の軍を撃退。
見事にその防衛力を見せつけたのだが、それにもかかわらず北条氏はまだまだ城を拡張、
整備していく。戦国後期には城下町をも囲繞する総構え、つまり大外郭の塹壕まで構築し
遂に小田原城は「城下町までも囲い込む」という戦国最大の城郭へと成長するのである。
その規模は外周およそ9km。東は酒匂川河口、西は早川口までに達し、
現在の小田原市中心街が全て収まる程の巨大さであった。

小田原を後にし、甲府へと引き揚げる武田軍。しかし、戦いの本番はこれからであった。
信玄の目的は、北条に武田の強さを見せ付けて氏康を黙らせる事なのだ。一方、氏康には
撤兵する武田軍を追撃すれば、陣形の背後から切りかかり壊滅的打撃を与え得る可能性があった。
信玄も、氏康も、互いに決戦を欲していたのである。地の利を活かそうとする北条方は、
決戦の舞台を三増峠(みませとうげ、神奈川県愛甲郡愛川町三増)に設定。
相模から甲斐へと抜ける途中、必ず通らねばならない難所であり、北条方の出城である
津久井城の直下にある要所だ。津久井城主にして氏康の次男、北条氏照(うじてる)は、
北条軍きっての好戦的な武将であり、勇猛果敢な戦いぶりで知られていた。
津久井城の氏照軍2万と、小田原から進発した氏康の軍1万で、武田勢を挟み撃ちにする作戦を
三増峠で展開しようとしたのであった。
しかし信玄も百戦錬磨の巧将である。津久井城での待ち伏せを読み、
全軍に攻撃態勢を取らせつつ進み、氏康本隊が到着する前に三増峠を突破しようと
頃合いを見計らっていた。1569年10月8日、信玄の軍と氏照の軍が三増の地で激突。
緒戦は待ち伏せ側の氏照が圧したものの、用兵術に勝った信玄が峠への側面攻撃を展開、
北条方を撃破した。氏康の本隊も間に合わなかったので挟撃作戦は成就せず、
武田軍は峠を突破し甲府へと帰還したのであった。
この結果、氏康と氏照は信玄の絶妙な用兵を痛感して沈黙。以後、武田氏との直接対決は避けた。
最終的に信玄の戦略目標は達成される事になり、北条氏からの攻勢は回避されたのである。
小田原の氏康から駿河侵攻の黙認を勝ち取った信玄は、翌1570年4月に駿府へと再出兵。
1571年10月までの期間を要し、駿河国内の平定を為して領国化に成功したのであった。




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