★この時代の城郭 ――― 観音寺城
滋賀県蒲生郡安土町にある観音寺城。すぐ隣にはあまりにも有名な安土城跡があり
一般の人に観音寺城の名が知られる事は少ない。ましてや六角軍が籠城もせず
あっさりと城を捨てたと言われると、まるで観音寺城が役立たずのような感じであるが
それは六角氏の勢力が衰退していたからであり、決して観音寺城の評価が低い訳ではない。
むしろ観音寺城は当時の技術水準において最先端の装備を施した名城として知られている。
標高435m、麓からの比高330m、観音寺城のあった繖山(きぬがさやま)には
古来から観音正寺が置かれた事でも知られる。社寺が置かれる山は山岳信仰の場であり、
それは俗世から乖離した天険の地である事を意味し、簡単に人を寄せ付けない要害なのだ。
南北朝動乱期に後醍醐天皇が籠もった笠置山(笠置寺がある)に見られるように
山岳修行の場である山上の社寺は、そのまま城としての防衛機能を有するのである。
そんな繖山、つまり観音寺山に築かれた観音寺城は大小1000(!)もの曲輪が啓開され
城主の屋敷のみならず、戦国大名六角氏の集約統治力を示すべく家臣団の屋敷までも内包。
しかも主要部はほとんどが堅牢な石垣で組まれている、正に“戦国山城”そのものであった。
曲輪の多さは、城の防御力の高さを示すだけでなく、大規模な土木工事を行えるという
六角氏の勢力をも示している。言うまでもなく、領民を大量に動員する力と財源がなくては、
これだけの数の曲輪は築けない。1549年、六角定頼が石寺の町(観音寺城の城下町)に
楽市令を発布したのが全国初の楽市楽座であり、これにより六角氏は莫大な収入と
城下町の隆盛(つまり動員人口の増大)を手にしていたのである。
守護・六角氏の権勢が強まるにつれ、国内の豪族はこれに従う事となり
有力家臣は観音寺城の中に屋敷を構えるようになった。裏を返せば、城内に居る者は
城主・六角氏の管理下に置かれるという統制に組み込まれるのだ。また、城主の屋敷自体が
山城である観音寺城の頂にあるので、家臣・領民は視覚的に「お殿様を見上げる」、
つまり「城主の権威に従う」事を意識付けられる。これは社会学的に見ても重要な要素だ。
加えて城主が城に常駐する事で、戦時の即応体制も万全という効果があった。
最後に石垣について。室町後期、田畑の土留め程度に石垣を使う事は一般的になってきて
その技法を城郭へ適用し、部分的に簡単な石組みが用いられる事例もあったものの、
観音寺城の石垣はそれよりも遥かに高く大掛かりな石塁で、しかもほぼ全山が石組みという
桁外れな規模を誇っている。現代、観光地化された城郭には「天守と石垣」がありふれていて
“城に石垣は常識”という感覚があるが、石垣の構築は寺社の建立に用いられるのが
室町時代までの概念であり、城に使われる事はあり得ず、当時ほとんどの城郭は
まだ土塁造りの城に過ぎない。当然、大規模な石組み技術は寺社が保有する独自の権益であり、
門外不出の秘伝とされていたのだ。そんな高石垣を城に使うという事は、六角氏の権威が
寺社勢力をも従わせ秘術である石垣技法を供出させたという結論が導き出せる。観音寺城とは、
政治・経済・権威の全てにおいて六角氏の強さを体現して築かれた軍事要塞だったのだ。
信長はこの城を見て、統治と国防を両立させる城の姿を発想したに違いない。
そしてその理想を実現すべく、観音寺城の隣に自らの栄華を示す城、
今までの全てを凌駕する近世城郭のルーツ・安土城を築城するのである。
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