美濃攻略

今川の大軍を撃破し、見事に義元の首を取った信長。
東方の脅威は元康に任せ、いよいよ美濃攻略へと戦略を展開しはじめる。
内乱の尾張を征し、豊穣の大国・美濃をその手に掴めば
織田家は全国でも屈指の大大名へと躍進する事になるのだ。
しかし、道三が居城にした稲葉山城は天下の堅城にして、
美濃の武将たちも一筋縄では行かない強敵揃い。
難敵である斎藤氏を倒すために、そして稲葉山の城を落とすために
信長の檄が次々と発せられる。


信長、小牧へ 〜 美濃攻略本格化
義父・道三が討たれた際に援軍を率いて以来、信長は美濃との敵対姿勢をとり続け
道三の後を継いだ斎藤義龍と一進一退の攻防を繰り広げていた。元々、信秀時代から
織田家は美濃攻略を主眼においており、斎藤家もそれを防ぐために尾張への牽制を
展開していたのである。信長が尾張平定後、桶狭間に義元を迎え撃つという多忙の隙を突き
義龍は信長配下にあった織田信清(のぶきよ)を調略、これを寝返らせる。
信清は犬山城主にして尾張北辺を束ねる有力者であり、信長にとっては大きな損失であった。
ところが1561年5月11日、義龍は持病の癩病を悪化させて急死してしまう。
これを好機とした信長は即座に出兵を決断、13日には美濃へと攻め入った。
美濃西部を席巻し、井之口(稲葉山城下町、現在の岐阜市)まで突入する織田軍。
しかし、斎藤家の武将たちは義龍の弔い合戦とばかりに迎撃体制を整え
信長の攻勢を撃退する。結果として、この戦いで信長が領土を拡大する事はなかった。
美濃の武将達はみな強者で、彼らが結束している以上そう簡単には斎藤家を倒せなかったのだ。
性急な攻撃では美濃を落とせぬと知ってか、これ以後の信長は慎重に事を進めるようになり
手始めに1563年、居城を清洲城から小牧城へと移す。小牧は清洲より北に位置する商業都市で
美濃の動向を窺うと同時に、尾張北部に睨みを効かせるのに好都合な場所であったからだ。
この間、元康と清洲同盟を結んで背後を固めている。
また、犬山城も焼き討ちして反逆者・信清を追放。尾張国の地固めに配意し、国内を安定させた。
美濃攻略に本腰を入れた信長は敗戦の教訓から、焦らずに、計画的に事を進めようとしていた。


★この時代の城郭 ――― 信長の居城移転
一般に、信長以前の戦国大名は居城を移さないと言われる。
例えば武田信玄は甲斐から信濃へ領土を拡大し、駿河までも併呑(後記)するが
常に居城は甲府にある躑躅ヶ崎館のままだった。毛利元就も中国地方の大半を手にしたが
吉田郡山城が本拠地とされ、城の拡張こそ行ったものの、移転する事はなかった。
新たな城に移るという事は、新たな築城、新たな防衛策、新たな統治基盤の整備が必要となり
そのリスクはかなり大きなものであったからだと考えられる。特に、従来の室町体制が崩壊し
独力で統治基盤を確立せねばならない戦国大名にとって、新たな場所に居所を移す事は
自分の影響力が薄い場所に一から支配力を浸透させて行かねばならない事を意味し
万が一、この施策が失敗したならばその土地での大規模な反抗までも惹起する原因ともなる。
居城を移すという事は、大名の存亡をも視野に入れねばならない危険性を孕んでいたのだ。
しかし信長はそれら戦国大名の常識とは一線を画し、頻繁に居城を移したのである。
尾張統一の過程で那古野城から清洲城へと移り、美濃攻略の為に小牧城へ移転し、
美濃を手にすると岐阜城が居城となり、西へ進んで行くと安土城を築城。
仮に本能寺の変で斃れなかったならば、大坂築城を計画していたとも言われる。
信長は常に自分が最前線へと進み出て、新たな戦略を練っていた。
新たな城に入る事で、新たな領国統治体制が開けるようになっていたのである。
これが他の戦国大名とは異なる、信長の「城に対する先見性」と言えよう。
信長に倣ったのか、家康は岡崎城から浜松城へと拠点を移したし、
もう少し時代が下り天下騒乱も終わりに近づくと、他の大名たちも
領国統治に適した場所を選び直し、新城を築く事に必要性を感じるようになった。
毛利氏の広島築城や、南部氏の盛岡築城がその好例である。
戦略に応じ、治世に応じ、時節に応じ、地域に応じ、城の必要性は少しずつ変化して
中世城郭から近世城郭へと変貌を遂げていくのだが、
信長の居城移転は、そうした変貌における一つの要因となっていたとも考えられよう。
ちなみに、小牧城の縄張りは安土城と似通った部分が多々ある事から、
天下人となっていく信長が、城の構築に関して一定の法則を見い出し
小牧城の時点から“覇業の為の城郭”を考案していったという説もある。


竹中半兵衛のクーデター 〜 美濃攻略への確信
義龍の嫡子・虎福丸は、父親の死によって斎藤家を相続し元服、
斎藤龍興(さいとうたつおき)と名乗り新たな美濃国主となった。
が、「身上を潰す三代目」の格言よろしく、龍興は父祖の遺した財産に驕る暗愚の大将で
国の守りに気を払うことなく、放蕩な生活に堕落し、家臣の統率を疎かにする人物であった。
こうした最中に事件は起こる。1564年、天才軍師の呼び声高い竹中半兵衛重治によって
難攻不落の堅城・稲葉山城が乗っ取られたのである。事件のあらましは以下の通り。
美濃斎藤家の家臣であった半兵衛は、信長の侵攻が危惧されるにも関わらず
何ら手を打たない龍興に対し上申、戦に対する備えを拡充すべしと訴えた。
ところが愚凡の龍興は、そんな賢臣の意見を聞かぬどころか、煩わしいとさえ感じ
半兵衛に出仕差し止めを命じてしまう。半兵衛は病弱だったため、龍興は日頃から
彼の言動を軽んじ、真剣に受け止める事がなかったらしいのだ。
しかしそんな半兵衛は、腑抜けた龍興の目を覚まさせるべく行動を起こした。
たった16人の手勢を伴って稲葉山城に入城、鬼謀の限りを尽くして城内を混乱に陥れ
一晩でこの堅城を乗っ取り、城主・龍興を放逐したのである。
(半兵衛の兵は17人という説もあり判然としないが、やや誇張も入っているのでは?)
これには異説もあり、国防を唱えて謹慎させられたのは半兵衛の義父である
安藤守就(あんどうもりなり)で、その名誉を挽回するため、
半兵衛が起ちあがったという話もある。ともあれ、半兵衛のクーデターは美濃の内外に
激しい動揺を与えた。あの名城・稲葉山城がもろくも10数名の兵で陥落したという事実に加え
斎藤家の家臣団が龍興の統治に必ずしも納得していないという状況が露呈したのだ。
道三の頃にはその智謀と軍略で鉄壁の防御を示していた美濃国は、
父を倒して国を奪い取った義龍の早世によってぐらつき始め、暗愚の大将・龍興により
家臣団の離散へと進んでいく。何よりも、「稲葉山城を落とせる」という事が証明された今
信長の美濃攻略は確信のものとなり、具体化への道を歩み始めたのである。

木下藤吉郎の登場 〜 美濃国衆、次々と帰順
稲葉山城を欲していた信長は即座に半兵衛の下へと降誘の使いを送った。
この天才軍師を家臣とし、美濃国ごと貰い受けようという考えであろう。
しかし半兵衛は、信長の誘いを断った。それどころか、「他国のためにした事ではない」と
稲葉山城を龍興へと返してしまい、自身は斎藤家の家臣を辞して隠遁してしまう。
信長の目論見は外れ、やはり自軍を以って斎藤家を倒さねば美濃国を手にする事は
できないという境遇に立たされた。このため信長は新たな手を次々と打っていく。
ここで頭角を現したのが配下の木下藤吉郎である。不浪人同然の身から信長に取り立てられ
織田家の末席に加えられていた藤吉郎は、愛嬌のある風体と明晰な才知で身を興し
織田家の財務改革や情報収集にひと役買い、信長の信を得るようになっていた。
素性の知れない事から、織田家の旧臣の中には藤吉郎をいぶかる者もいたが
彼は道化に徹して巧みに反感を逸らし、ひたすら立身出世に励んでいた。
そんな藤吉郎は信長の美濃攻略作戦において、主に斎藤家家臣の懐柔を行う。
1564年〜1565年にかけて東美濃地域の諸城主に対して調略を行い、信長に帰順させたのだ。
この調略には織田家の重臣・丹羽長秀(にわながひで)も加わり、硬軟取り混ぜた方法で
東美濃を制圧。斎藤家を倒すには、まずその家臣を押さえ、じわじわと稲葉山城の首を絞めていく。
さらに藤吉郎は半兵衛にも接触。稲葉山城を退去した後、世を捨てて隠棲した半兵衛は
もはや龍興にも、信長にも仕える気はなかった。ただ美濃国を憂い、血生臭い戦国の世情から離れ
静かに行く末を見守るつもりであったのだろう。しかしそんな半兵衛は、藤吉郎と会い
頑なな心を開いていく。貧民出身の藤吉郎もまた国を憂い、戦国の騒乱を終わらせ
太平の世を作る事を目的としていたのだ。数度に渡る会見で藤吉郎の人柄に感服した半兵衛は
織田家ではなく、藤吉郎の配下に加わる事を決心した。こうして藤吉郎は天才軍師を手にし
その後の行く末に大きな力を得る事になった。また、形はどうあれ信長も半兵衛を押さえ
美濃国に対する戦略を大きく前進させる事が出来たのである。

市姫の縁組 〜 政略結婚ながら戦国一の夫婦へ
これに平行して進められたのが、北近江に勢力を張る浅井家との同盟である。
信長が美濃を攻めるのならば、他の国からも加勢が欲しい。例え直接的な援軍を請えなくても
他国から美濃を牽制さえして貰えれば、信長の北進は格段に行い易くなるのだ。
先に述べた通り、浅井長政は六角氏からの独立を決断し、近江国に覇を唱える
新進気鋭の若き戦国大名である。この長政と信長が手を組めば、南と西から美濃を挟撃できる。
信長は是が非でも長政を味方につけ、同盟を結ぶ必要があった。このように、
近くの国(美濃)を攻める為に遠くの国(近江)と結ぶ同盟策を遠交近攻と言う。
一方、長政にとってもこの同盟は歓迎すべきものだった。浅井家の領国は
北に父祖伝来の同盟を結ぶ朝倉氏が居て磐石。当面の敵は南の六角氏であったが、
唯一の不安要素は東側の美濃国。斎藤家の動向が不安定だと、六角攻めに集中できないのだ。
この美濃国を信長が請け負ってくれるのならば、これに越した事はなく
さらに将来的には六角攻めも織田軍と共同して行う事を期待できる。こうして、
信長と長政の思惑は一致し、両家に不戦同盟が結ばれた。その証として、信長の妹にして
絶世の美女と名高い市姫が長政に嫁ぐ事となる。一般に「お市の方」と呼ばれる市姫は
1564年2月(1567年などの異説あり)、織田家から浅井家に輿入れし、長政の正室となった。
不戦同盟の道具として政略結婚した市姫であったが、長政は大変に厚遇し、二人の仲は
非常に睦まじいものになっていく。その間柄は戦国一の夫婦と称され、愛情に恵まれた市姫は
後年、長政の娘を3人産んだ。織田家と浅井家は強固に結ばれたのである。
加えて信長はこの同盟の翌年、甲斐・信濃の太守となった武田信玄とも誼を通じ、
尾張・近江・信濃の三方から美濃を包囲する対斎藤家同盟網を展開。
5年ほど後、信玄は信長を脅かす“最強の敵”となって立ちはだかる事から
一般的に武田氏と織田氏は犬猿の仲と知られるが、この時には美濃に対する戦略に基づき
両者は盟約を結ぶほど安定した関係だったのである。

藤吉郎の墨俣築城 〜 織田軍の木曽川制圧前線基地
次に着手したのが、西美濃の攻略。しかし尾張から西美濃へ進出するには大きな障害があった。
長良川・木曽川・揖斐川の木曽三川である。尾張軍がこの川を渡る際、美濃の防衛軍が待ち構え
その先へと進めないのだ。西美濃へと出るには、木曽三川を制する前線基地が必要であった。
信長が目を着けたのが墨俣(すのまた)の地。木曽川の中洲にあるここへ城を築けば
美濃軍の妨害に負ける事なく尾張軍が西美濃へと進出できるようになる。
しかし墨俣に築城する事は大変な難題であった。川の中州で工事する不便に加え、
織田軍の動きを察知した美濃の兵が押し寄せ、完成する前に破壊されてしまうのである。
織田家の筆頭家老である柴田勝家や、家督相続時から信長を支持した股肱の重臣である
佐久間信盛(さくまのぶもり)など、名だたる武将が数千という大兵力を用いてこの難問に挑むが
美濃軍の妨害は激しく、成し遂げる者はいなかった。
ところが、信長の求めに応えたのはまたもや藤吉郎であった。1566年9月、わずか500ほどの兵で
しかも一夜と言う短期間で城を構築してしまったのである。勿論、かなりの誇張も入っていようが
この伝承により墨俣城は一夜城の別名で有名なのは周知の如くである。
藤吉郎の作戦は周到であった。数千もの大軍を動かすから、美濃軍に察知される。ならば、
最低限の人夫を効率的に運用すれば、美濃方に悟られる事なく築城できよう。また、川の中州なら
その川を最大限に利用して築城工事を進めれば良い。こうした考えにより、藤吉郎はまず
川並衆と呼ばれる美濃周辺の土豪集団を味方につけた。蜂須賀小六正勝を頭目とする川並衆は
斎藤家にも、織田家にも属さない独立勢力で、云わば野武士の集団であったが、この小六は
流浪時代から藤吉郎とは懇意であり、今回の墨俣築城に協力。地元の豪族である川並衆ならば、
周囲の地勢も熟知している。さらに万が一、斎藤軍に見つかっても野武士である川並衆の風貌なら
地元の木こりの作業と偽装する事ができる。斯くして、川並衆は木曽川上流で木材を切り出し、
それを筏(いかだ)に組んで川を下り、墨俣の中州で筏をそのまま城の柵として埋め込んだ。
息の合った川並衆のチームワーク、流れ作業化した行程、木材パーツの簡易的活用により
築城工期は大幅に短縮でき、美濃方にも察知される事なく城を完成させたのである。
以後、小六配下の川並衆は藤吉郎の部下となり、半兵衛同様に藤吉郎の出世へと
大きな戦力となっていく。類まれなる才知と人を魅了する愛嬌で仲間を増やす木下藤吉郎。
後の天下人、豊臣秀吉その人である。

天下布武 〜 岐阜城にて“天下統一宣言”
藤吉郎の活躍はまだまだ続く。東美濃衆や半兵衛に続き、1567年に入ると
西美濃衆をも調略、信長への帰順を約束させた。こうした西美濃衆の中でも
特に大きな勢力を持ち、重きを為していたのが稲葉一鉄(いなばいってつ)、安藤守就、
氏家卜全(うじいえぼくぜん)の3人。彼らは美濃三人衆と呼ばれ、斎藤家臣団の
中核をなす重鎮であった。この3人までもが、藤吉郎の誘いに従って斎藤家を離反、
信長に就く事を約束したのである。もはや斎藤家の臣は愚将・龍興を見限り
美濃の新たな主として信長を選んだのだ。
西美濃も信長の手に落ち、完全に孤立した稲葉山城。
事ここに至り、斎藤家打倒の機は熟したと判断した信長は、遂に総攻撃を開始した。
1567年8月下旬、小牧山城を出陣した信長の軍は、一路稲葉山城を目指して北上。
斎藤家の主だった将は既に信長へ帰順しており、怒涛の勢いで稲葉山城を取り囲んだ織田方は
9月、龍興の籠もる城へと総攻撃を仕掛けた。守るべき家臣が居なくては、
如何なる堅城も用を為さず、とうとう稲葉山城は落城。
龍興は辛くも脱出したものの再起は叶わず、そのままいずこかへと消えていった。
稲葉山城、そして美濃国は遂に信長のものとなったのである。
信長はそのまま小牧山城から稲葉山城を居城とした。そして井之口という町の名を改称、
沢彦(たくげん)禅師の進言により“岐阜”と改める。古代中国、周王朝の文王が
岐山によって天下を平定したのに因んだ命名で、即ち“天下のもとになる町”という意味だ。
更に信長は、岐阜平定を機に新たな印判を用いるようになった。そこに記された文言は
「天下布武(てんかふぶ)」―――武力を以って天下を平定する、という事。
事実上、信長の天下統一宣言である。
大国・美濃と尾張を併呑した信長は、一気に大大名へと躍進したが、果たして
天下布武の理想は実現できるのか。敵も味方も、誰もが信長を注目するようになっていた。




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