★この時代の城郭 ――― 信長の居城移転
一般に、信長以前の戦国大名は居城を移さないと言われる。
例えば武田信玄は甲斐から信濃へ領土を拡大し、駿河までも併呑(後記)するが
常に居城は甲府にある躑躅ヶ崎館のままだった。毛利元就も中国地方の大半を手にしたが
吉田郡山城が本拠地とされ、城の拡張こそ行ったものの、移転する事はなかった。
新たな城に移るという事は、新たな築城、新たな防衛策、新たな統治基盤の整備が必要となり
そのリスクはかなり大きなものであったからだと考えられる。特に、従来の室町体制が崩壊し
独力で統治基盤を確立せねばならない戦国大名にとって、新たな場所に居所を移す事は
自分の影響力が薄い場所に一から支配力を浸透させて行かねばならない事を意味し
万が一、この施策が失敗したならばその土地での大規模な反抗までも惹起する原因ともなる。
居城を移すという事は、大名の存亡をも視野に入れねばならない危険性を孕んでいたのだ。
しかし信長はそれら戦国大名の常識とは一線を画し、頻繁に居城を移したのである。
尾張統一の過程で那古野城から清洲城へと移り、美濃攻略の為に小牧城へ移転し、
美濃を手にすると岐阜城が居城となり、西へ進んで行くと安土城を築城。
仮に本能寺の変で斃れなかったならば、大坂築城を計画していたとも言われる。
信長は常に自分が最前線へと進み出て、新たな戦略を練っていた。
新たな城に入る事で、新たな領国統治体制が開けるようになっていたのである。
これが他の戦国大名とは異なる、信長の「城に対する先見性」と言えよう。
信長に倣ったのか、家康は岡崎城から浜松城へと拠点を移したし、
もう少し時代が下り天下騒乱も終わりに近づくと、他の大名たちも
領国統治に適した場所を選び直し、新城を築く事に必要性を感じるようになった。
毛利氏の広島築城や、南部氏の盛岡築城がその好例である。
戦略に応じ、治世に応じ、時節に応じ、地域に応じ、城の必要性は少しずつ変化して
中世城郭から近世城郭へと変貌を遂げていくのだが、
信長の居城移転は、そうした変貌における一つの要因となっていたとも考えられよう。
ちなみに、小牧城の縄張りは安土城と似通った部分が多々ある事から、
天下人となっていく信長が、城の構築に関して一定の法則を見い出し
小牧城の時点から“覇業の為の城郭”を考案していったという説もある。
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