桶狭間の戦い

さて、ここまで全国各地の戦国大名を個別に紹介してきたが
これからはいよいよ、戦国の世を束ねる風雲児・織田信長を中心に話を進めていく。
尾張統一を成し、うつけから覇者へと変貌しつつある信長であったが
まだまだ他国の大勢力に比べれば赤子同然の小大名に過ぎなかった。
こうした中、東にそびえる大大名・今川義元が
上洛を目指して行軍を開始、信長の元へと迫ってくる。


義元、動く 〜 遥かなる京への道
明けて1560年。戦国動乱も急を告げる時期である。時の将軍は13代・義輝であったが
中央政権は三好・松永が牛耳り、足利幕府の官制は消滅しつつあった。
幕府権威を復活させたい将軍・義輝は各地の戦国大名に号令を出し、
彼らを味方につける事で勢力の回復を目指している。
太原雪斎亡き後、駿河・遠江・三河の舵取りを一手に引き受ける事となった今川義元は
「時は来たれり」と感じたに違いない。京の将軍は力ある大名を求めている。
駿遠三の領土を持つ我が今川氏は押しも押されぬ大国であり、その血筋は足利家に連なる名門。
駿府から京への途上にある強国といえば美濃だが、“蝮の道三”こと斎藤道三は
親子の戦いに敗れ没し、義元の上洛を阻む事ができる実力者は居なくなった。
背後の甲斐・武田氏や相模・後北条氏とは強固な同盟を結び、後顧の憂いはない。
駿河・遠江の兵を率い、三河松平家の将を配下に組み入れ、強大な軍を編成し上洛すれば
三好・松永を駆逐し、室町幕府の再興を果たし、将軍に認められる事が出来よう。
いや、自分は名門・今川家の当主。足利氏の血縁なれば、次の将軍職も夢ではない。
天下は必ずや我が物になるはずである!
義元の野心は実現へと動き出し、2万5000もの大軍を編成し1560年5月12日に駿府を出立。
同月16日、松平家の本拠である三河国岡崎に到着し、18日には尾張国沓掛へと進軍した。
西進して京へ、天下へ。義元の目には遥かなる王朝の都と輝かしい未来が映っていたに違いない。
今から通り抜ける尾張国の信長など、足元に転がる石よりも小さい存在でしかなかった。
今川義元像今川義元像

信長、動く 〜 深夜の軍議、早朝の出撃
一方、こちらは清洲城の織田信長。「今川軍西上す」の報に織田家中は騒然となっていた。
“尾張のうつけ”であった信長は同族であろうと果断に討ち果たし、遂に尾張一国を統一したが
北に強国・美濃の斎藤義龍を睨みつつ、今まさに東から怒涛の今川軍が迫ったとあっては
とても持ちこたえられる状況ではなかったのである。防備の為に丸根や鷲津、
鳴海(いずれも現在の愛知県名古屋市緑区)などの要所に砦や城を築いていたが
今川軍に太刀打ちできるはずもなく、籠城が賢明の策であろうと誰もが考えていた。
義元が沓掛に到着した18日の夜、清洲城では軍議が開かれ今後の方策を練ったが
2万5000の今川軍に対し織田軍はかき集めてもせいぜい5000、敗北は目に見えていた。
野戦などもってのほか、籠城に限るという意見が大勢を占め、
中には降伏するかという者まで現れる始末。今川軍をどう迎え撃つか、議論は決せぬまま
深夜にまで及んだが、肝心の信長は黙りこくったまま。遂には座を外し、独りで寝てしまう。
投げやりな信長の態度に、家臣たちは途方に暮れ「織田家もこれで終わりか」と覚悟した。
ところがそれから数刻後、まだ夜も明けぬ19日の早朝。突然起床した信長は
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり…」と敦盛を舞ったかと思えば
具足を身につけて単騎で出撃。夜明けの頃に熱田神宮へと入ったのである。
信長が城を出た事を聞いた兵たちは、あわてて熱田へと馳せ参じた。兵が集まったところで
信長は熱田の神に必勝を祈願し行動を開始する。この後、丹下砦や善照寺砦の兵を吸収し
今川軍との対決に向かって軍を進めたが、それでも手勢は3000ほど。
しかしこの3000は、必死で信長に追いついて来た“選りすぐりの3000”なのである。
非常召集に即応できる精兵を集めた信長の作戦とは、一世一代の奇襲―――。

桶狭間の合戦 〜 歴史的奇襲攻撃の成功
19日、今川軍は織田軍に一斉攻撃をかけていた。沓掛から出た義元は軍勢をいくつかに分け
それぞれ丸根砦や鷲津砦などの攻略に向かわせていたのである。また、松平元康には
兵糧の運搬を命じ、丸根砦の南にある大高城へと物資搬入を行わせた。
さらに露払いの先遣隊を出し、織田本領への突入体制を準備させる。後方で構える義元は
織田方の各砦が次々と落ちていく報告を聞きながら余裕の行軍を洒落込んでいたのだ。
旧暦5月といえば季節は初夏の蒸し暑さ。重い鎧兜は暑苦しいと脱ぎ捨て、
行軍の途上、田楽狭間の地で休憩を取る義元。周辺の農民は「戦勝祝い」と称して
義元の隊列に酒樽を献上し、すっかり気を良くした彼はその場で酒宴まで開く。
梅雨時の空は一転にわかに掻き曇り、急な雷雨に見舞われたものの
「雨天の酒宴も風流なり」とばかり、降雨に涼を求めて御満悦に浸っていた。
しかしこの行動は、全て信長に伝えられていたのである。
信長配下の簗田政綱(やなだまさつな)が「敵は田楽狭間で休憩中」と伝えるや
信長は勝利を確信した。谷あいの田楽狭間では軍勢が展開できず長く間延びし
如何に大軍であろうとも防備が手薄になる。しかも軍を分けているとあれば
今川勢2万5000と言えど、義元の周囲を守る兵は激減しているはずだからだ。
早速、信長の手勢3000は田楽狭間の裏にある太子ヶ根へと移動。
折からの雷雨で騎馬兵の動きが今川方に悟られる事はなかった。加えて信長は
これから始まる戦いに際し「敵の首級は討ち捨てにし、ただ義元一人を狙うべし」と厳命する。
速攻で勝負を決める事が何よりも重要としたのである。
雨が止んだその刹那、信長は突撃を開始した。義元の直衛軍はわずかに500程度、
しかも雨を避けるために四散していたのだが、縦に伸びた隊列の側面からいきなり
奇襲攻撃を食らったとあればひとたまりもなかった。そもそも、よもや昼の真っ昼間から
劣勢の織田軍が攻撃してくるとは想像だにしておらず、備えも何もなかったのである。
兵卒たちが対応する間もない大混乱の中、義元は織田軍に捕捉された。
織田方の兵・服部小平太が義元を発見、長槍を突き出す。これに対して義元は
その槍を切り倒し、小平太の膝に切りつけた。逆襲を受けた小平太は転倒したが
同じく織田の兵・毛利新助が加勢に駆けつけ、小平太の脇から義元に跳びかかる。
泥だらけになって転がり組み討ちする新助と義元。しかし遂には義元が力尽き、
その首が討たれた。新助も左手の人差し指を喰いちぎられる手傷を負っていた。
総大将を失った今川軍は壊滅し、残存兵は散り散りになって逃走。
信長は見事に義元を討ち倒し、奇跡的な勝利を手にして尾張国を守りきったのである。
義元軍の動向には諸説あるものの、桶狭間の合戦と呼ばれるこの戦いは
日本史に特記すべき重大事件として後世に語り継がれるようになる。
今川の大軍を撃退し、実力を見せつけた信長。もはや“うつけ”と呼ぶ者は誰もいなかった。
熱田神宮 信長塀
熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)

武人の神とされる熱田社に戦勝祈願した甲斐あってか
桶狭間(正しくは田楽狭間)で奇跡的な勝利を遂げた信長。
神の加護を受けた御礼として、戦いの後に
熱田神宮の神域を守る築地塀を寄進した。
この塀は「信長塀」と呼ばれて現存している(写真)。

なお桶狭間合戦の次第については近年再検証され
現在では奇襲説ではなく正面突破説が主流となっているが
この頁では分かり易いように従来から一般的であった
迂回強襲説で掲載した事を補記しておく。

元康の帰郷 〜 苦難の三河松平家、ここに復活
輝かしい勝利を手にした織田方に対し、義元を失った今川家の命運は暗かった。
駿府を守るはずであった義元の嫡子・氏真(うじざね)は、義元以上に京の公家文化を好み
戦国の世を理解しない浮世離れした性格であった。このため、父が戦死したとあっても
国の守りを固める事なく、何ら行動を起さず事態をただ傍観するに過ぎなかった。
桶狭間の戦いで運命が変わった人物はもう一人いた。三河松平家の御曹司、元康である。
兵糧貯蔵基地となる大高城に入拠した所で義元討死の急報を受けた元康は
慎重に情報を分析、壊滅した今川本隊のように闇雲な逃亡をする事なく
5月19日の深夜、織田方に悟られぬよう大高城を退去し東へと撤退。しかし駿府には戻らず
松平氏の本拠、三河国岡崎へと帰郷したのである。統制の取れなくなった今川家の状況を判断し
5月23日に悲願の岡崎城入城を果たした元康であるが、それでも軽挙は慎み
今川家の新当主となる氏真に義元の敵討ちを勧め、表面上は今川家への忠節を装った。
これは元康一流の情報操作で、氏真の出方を探りつつ自身の去就を決めようとしたのである。
案の定、惰弱な氏真は元康の勧めを決断することができずに混迷。
事ここに至り、もはや今川家にかつての実力なしと判断した元康は
駿府に残していた妻子を密かに奪還した上で今川家と断交、独立を果たし
三河国の統治権を回復した。以後、松平家は三河から東へと勢力を伸ばし
今川家の領土であった遠江国を領土に加えていく。一方、防戦の将となった氏真であるが
文弱の彼に軍事の才幹は乏しく、元康の侵攻を食い止める事が出来ない有様。
東海の大大名・今川家は、急速に瓦解へのカウントダウンを始めていくのである。

清洲同盟 〜 信長と家康、生涯の盟約
父・信秀の代から宿敵であった今川義元を葬り去った信長は、
今度は舅の仇となる斎藤義龍を倒し、美濃国を制覇する事を目標に定めた。
しかし今川家が消え去った訳ではなく、東方からの脅威が残っていては美濃攻略もおぼつかない。
そんな中で起きた元康の独立劇は、信長にとって渡りに船であったろう。
元康は竹千代と呼ばれていた幼年期、織田家に囲われており、信長と元康、すなわち
吉法師・竹千代は実の兄弟のように遊び語らった事がある。その元康が尾張の東にある
三河国の新たな君主となったのだ。信長は1562年の正月、旧知の仲である元康を
年賀の挨拶と称して清洲城に招き会見に及ぶ。会見の目的は織田・松平間の同盟締結だ。
両者が不戦の誓いを成せば、尾張と三河を境にして織田は西へ、松平は東へと勢力を拡大できる。
弱体化する今川家を倒そうとしていた元康にとっても、この同盟は利益の大きなものであった。
背後の尾張を気にすることなく遠州平定に専念できるのだ。義兄弟と言える二人の思惑は一致し
1562年1月15日、不戦同盟が締結された。この同盟を清洲同盟と呼び
(紆余曲折はあったものの)信長が死するまで有効に機能し続けた。
戦国の世で、実に20年にも及ぶ不戦同盟が保たれた事はかなり特異な事例である。
この同盟以後、信長は天下に最も近い所にまで登り詰め、元康は東海の太守として成長し
天下人としての資質を磨いていくのだ。1566年、松平元康は姓も名も改める。
新たな名は徳川家康。江戸に幕府を開き、戦国最後の勝利者となった家康である。
清洲同盟は、2人の天下人を強固に結びつける非常に重大な同盟であった。
尾張から駆け出した信長と三河で旗揚げしたばかりの元康、
未だ弱小大名に過ぎなかったこの時は、片や大国の美濃に戦いを挑み、
もう一方は今川・武田という強大な敵に立ち向かうという無謀な立場であったはずなのだが
それでも同盟相手として不足なしと考えたのは、互いの将来を予見していたのであろうか―――。




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る