海道一の弓取り

美濃に続いて紹介するのは、尾張を挟んだ反対側、
駿河国・遠江国(現在の静岡県)と三河国(愛知県東部)の情勢。
室町の名家・今川家の力は強大で、本拠地である駿河から
京都へ向かう上洛ルートを確保するべく西への拡大政策を展開。
その途上にある三河国は、守護勢力が空白で土豪が統治する国。
さらに西には尾張の織田氏が控える中、これらの国々はどうなっていたのか。


今川家の家督相続 〜 梅岳承芳の還俗
北条早雲の項で登場した今川氏親は、家中の統治体制を見直し、国内の検地を実行し、
1526年には分国法「今川仮名目録」を制定し戦国大名としての支配基盤を固めた人物である。
(検地については後頁にて解説)
もともと足利将軍家と縁戚にして豊潤な駿河国を領有した今川家は、この改革により
一層の発展を遂げる。駿河国(静岡県東部)を本拠としていた今川氏は、こうして
遠江国(静岡県西部)までも版図に納め、隣国・相模(神奈川県西部)の北条氏に負けず劣らず、
氏親は戦国時代初期の名将として名が高い。しかし、そんな氏親は1526年中に病死してしまい
跡を継いだ氏親の嫡男・氏輝(うじてる)も1536年に24歳の若さで没してしまった。
氏輝には子がなかったため、家督は3人の弟の中から選ばれる事になったが、
末弟の氏豊(うじとよ)は氏輝と同日に死去(←暗殺?と憶測される)したため
僧籍にあった2弟・玄広恵探(げんこうえたん)と3弟・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)
候補となった。このうち、梅岳承芳は氏親の正室から生まれた子であったため、
正当な家督継承者とされ、玄広恵深は廃された。還俗した梅岳承芳は、名を今川義元と改め
氏親・氏輝から継承された駿河・遠江の太守として戦国史に登場するのである。
武田氏や後北条氏の頁で度々紹介したように、義元は甲斐国(山梨県)や相模国との関係を
再優先の課題とせねばならなかった。武田や北条は苛烈な領土拡大政策を標榜しており、
今川家はこれに対抗する必要があったからである。しかし、太原雪斎の献策によって
甲相駿三国同盟が締結され、これら後顧の憂いがなくなったというのは先に述べた通りである。
ここで雪斎についても触れておこう。字(あざな)を崇孚(すうふ)と呼んだ雪斎は
臨済宗の禅僧で、仏法のみならず儒教や兵法にも通暁した俊才であった。
当時4歳だった義元の教育係に請われて今川家へ籍を置くようになり、義元が元服した後は
その政治・外交顧問として活躍。義元の政策は、ひとえにこの雪斎の後見あってこその物だった。
雪斎の知恵で武田・北条の脅威を除いた義元は、西へと、京へと目を向けるようになる。


★この時代の城郭 ――― 那古野城
中京地域の中心都市・名古屋。その空に燦然と輝く金の鯱鉾で有名なのが名古屋城だが
城の創建を遡ると1521年頃に今川氏親が築城したものだと言われている。
この当時は名古屋の字ではなく那古野と表記し、那古野城は柳ノ丸とも呼ばれていた。
氏親は末子・氏豊を那古野城主に据え、尾張国の抑えとした。という事は、
今川家の勢力は駿河・遠江を飛び越して遥か尾張国にまで及んでいたという事になる。
那古野の城は、今川家の威勢を誇る“尾張の橋頭堡”として重きを成していたのである。
しかし1532年3月(年代には諸説あり)、氏豊は織田信秀の奇襲に遭い那古野城を追われた。
連歌の会を催すとして那古野城に入りこんだ信秀自身が調略を行い、織田軍を城内に
引き入れたのである。客人であったはずの信秀が軍を呼び込むとは思いもよらなかったであろう。
この後、信秀は那古野城を赤ん坊の信長に与え、自身は古渡城を本拠とした。
信秀の覇業において、強敵・今川家から奪ってまで手にした那古野の城は
嫡男・信長を配する程に欠かせない拠点とされていたのである。
時は移り信長が成長してしばらく後、那古野城は廃された。が、江戸幕府が開かれると
尾張国は東海道の最重要地と認識され、御三家の一つ・尾張徳川家が入府するようになる。
この時、那古野城の跡地に新たな城郭が築き直され、これが名古屋城となったのである。
東海に威勢を張った今川氏に始まり、天下統一へと邁進した織田氏に引き継がれ、
徳川幕府の守りを固める要衝となった名古屋の城。戦国期における那古野城の歴史は
あまり知られていないが、今川・織田の境界として重要な地位を占めていたのである。


松平家の受難 〜 “守山崩れ”に続き、竹千代も…
一方こちらは三河国。室町幕府管領の細川氏は、三河国細川郷の出自とされ、当然
三河守護職を継承していた。しかし、室町時代全般を通じて本拠地となったのは四国で、
結局、三河国は権力の空白地となっていた。こうなると、割拠するのは在地の土豪である。
この中で最も勢力を伸ばし、三河統一へと動き出したのが松平氏だ。
平城天皇の孫・在原業平(ありわらのなりひら)を祖先に持つといわれる松平氏は
三河国松平郷(愛知県豊田市)から領土を広げ、安祥(現在の安城市)・岡崎へと進出。
1524年、安祥城主・松平清康(まつだいらきよやす)は弱冠14歳にして叔父で岡崎城主の
松平信定(のぶさだ)との家督争いを征して戦国大名化に成功し、一躍三河国の有力者へと
踊り出た。信定に代わって岡崎城主となった清康は、各地の敵対勢力を次々と倒し
三河国内のほぼ全域を平定。その勢いで他国への進出に乗り出し、1529年には織田領の
尾張国東部を勝ち取った。清康はなおも活発に軍事行動を展開すると共に、
上州新田氏(新田義貞の新田姓)の家督継承を行って、松平氏の権威を高めた。
ところが1535年12月、織田信秀軍と対陣中の三河国守山で清康は家臣に誤殺されてしまう。
享年25歳。あまりに早過ぎる死は、三河全土に衝撃を与えた。この事件を守山崩れと呼び、
才気あふれる当主が没した事によって松平氏は衰退してしまう。清康の嫡男である
松平広忠(ひろただ)はまだ10歳、自力で家中を治められず駿河今川家への救援を請うた。
こうして、三河国は今川家の庇護下に置かれる事となったのである。
それでも織田方との抗争が止む訳ではなく、1540年には安祥城が信秀に奪われた。
信秀は長男の織田信広(のぶひろ、信長の庶兄を安祥城主に据え、更に三河進出を狙う。
国力の立て直しを図る広忠は、三河の中で松平氏に次ぐ有力者である水野氏から
於大(おだい)の方を嫁に迎え勢力の挽回を狙った。
1542年12月26日、2人の間には嫡男が生まれ竹千代(たけちよ)と名付けられる。
が、せっかく授かった子供も戦国の世では生き残る道具にするしかなかった。
1547年、広忠は竹千代を今川義元に人質として差し出して家名の安泰を狙ったのである。
ところが竹千代の護送役は裏切り、事もあろうに敵対する織田信秀の下へと送ってしまった。
“器用の仁”と呼ばれた信秀が人質を粗略にする事はなかったが、
幼い竹千代は独り、敵地で囲われる身となってしまったのである。

小豆坂の合戦 〜 織田・今川の「人質交換」
駿河へ来るはずの竹千代を奪われた事に激怒した義元は、1548年3月に軍を発し
織田信秀との交戦に及んだ。太原崇孚雪斎の巧みな用兵により、今川軍は大勝。
この小豆坂(あずきざか)の合戦で敗北した事により、信秀は美濃との同盟を結んだのである。
翌1549年3月6日、松平広忠も父・清康同様、家臣に殺害されてしまった。松平家の家督は
竹千代の身に委ねられるべきであったが、肝心の竹千代は信秀に囚われたままだ。
松平家の動揺を収拾するべく動いたのは、またも太原雪斎であった。今川軍を岡崎に派遣し
三河統治権を掌握。そのまま安祥城を攻略して落城せしめ、織田信広を捕らえたのである。
雪斎がわざわざ信広を虜囚としたのには訳があった。織田に奪われた竹千代と
人質の交換をするためである。庶子とはいえ、子供を見殺しにする訳にもいかない信秀は
この話を承諾、竹千代を義元の下へ送り返したのであった。またもや雪斎の計算により
義元の願いが叶えられたのである。こうして尾張を離れた竹千代は
駿府(静岡県静岡市、今川氏の本拠地)へと向かい、同地で松平家の家督を継いだ。
と言っても、人質としての処遇に変わりはなく、竹千代の受難は続く。
一方、竹千代を奪回した事により今川家は三河国を完全に掌握した。三河国主たる竹千代が
人質として駿河に居る限り、三河に残る松平家の家臣は義元に従うしかないからだ。
この後、1553年には今川仮名目録の改定を行った義元。この法律は「仮名目録追加」と呼ばれ
家臣団の統制をより強化した内容になっている。この起草も雪斎の発案と言われる。
駿河・遠江・三河を掌中にした義元。その強大さは“海道一の弓取り”と評された。

信長の家督相続 〜 信秀の死、弟の反抗、守役の自害…
1551年3月、織田信秀が病没した。これまで西に東に戦い続け、領土を拡大してきた大名の死に
尾張国内、そして織田家中は少なからず動揺した。しかし、それ以上に動揺を呼んだのが
信秀の嫡子にして織田家を継ぐ立場にある信長の立ち振る舞いである。葬儀の席上、
喪主であるはずの信長は姿を現さない。式の半ばを過ぎた頃ようやく登場した信長は
腰帯ではなく荒縄で衣服を縛り、もちろん袴など着けず、まるで夜盗のようないでたち。
いきなり位牌の前に進み出るや、右手いっぱいに抹香を握り締めて位牌へと叩きつけた。
そのまま寺を飛び出していずこかヘ消え去った信長。葬儀とは思えぬ非常識な行動である。
これを見た家臣一同は驚愕し「うつけもうつけ、織田家の行く末もこれまでか」と悲観する。
もともと信長の奇行に反感を持っていた老臣たちは、この一件でさらに信長への反対を強め
信長と同じく土田御前から産まれた弟・信行(のぶゆき)を家督とすべき、という論に傾いた。
信行もまた、信長のようなうつけの兄よりも自分の方が当主に相応しい、という自負があり
織田家の中は信行擁立派が大勢を占めていく。信長は、家中で孤立していった。
1553年閏1月、信長の守役・平手政秀が自害した。政秀は信秀の家老として長年織田家に仕えた
宿老中の宿老である。信秀が今川氏豊の那古野城を奪取した際、攻撃軍の隠密行動を指揮し
斎藤道三との美濃・尾張同盟においては織田側の外交担当者として積極的に道三と会談、
難渋する交渉をまとめあげた。この功臣を信長の守役とする事は、それだけ信秀が信長に
期待していたという意味であろう。ところが、信秀が没しても信長は相変わらずの大うつけぶりで、
もはや政秀にも手がつけられぬ有様。死を以って信長に諫言するつもりだったのだろう。
しかし―――信長はうつけのふりをしていただけなのである。城外へと飛び出し、山野をうろつき、
町中で同好の士と遊び歩くという事は、領内を視察し、民の暮らしぶりを確認し
信頼に足る同志を募る行動であった。何より、勉強は嫌いと言っても武芸の鍛錬は怠らず
新兵器・鉄砲の用法にも興味を示し、武将としての素養は磨かれていた。
うつけを演じていたのは、敵の油断を誘い、味方の忠誠ぶりを見極める行為に他ならなかった。
信長がうつけでも忠誠を誓う者、いや、信長がうつけのふりをしている事を見抜ける家臣を
必要とし、彼の大いなる野望に役立つスタッフを厳選していたのだった。
政秀が死した後、信長は政秀寺(せいしゅうじ)という寺を建立し、篤く政秀の菩提を弔った。
そしていよいよ、尾張統一への足固めを開始するのである。

正徳寺の会見 〜 道三、信長の大器を見抜く
1553年4月、斎藤道三は織田信長との会見を用意した。信秀亡き後、尾張を束ねるに足る者か
自分自身の目で見て娘婿・信長の値踏みをしようとしたのだろう。会見の場所となったのは
尾張・美濃国境付近にある正徳寺(しょうとくじ)であった。が、稲葉山城を出た道三は
正徳寺を通りすぎ、街道沿いのとある民家に忍び込む。ここに隠れて、やって来る信長の姿を
観察しようとしたのである。ほどなく軍勢を引きつれた信長が通りかかったが、驚くべきは
その陣容であった。鉄砲隊300名、長槍隊500名…いずれも美濃勢以上の最新軍備で固められ
特に鉄砲300丁というのは破格の大量装備である。織田軍侮り難し、と思った道三であるが
信長の格好を見て更に驚いた。一国の大名たる者が、乱れ髪に浴衣を羽織るだけの姿で馬に乗り、
噂通りの“うつけ”な素振りで無防備に闊歩していたのである。これほどの軍を率いながら
大将とも思えぬ行動で恥を晒すとは、信長やはり大馬鹿者であったかと落胆した道三は、
会見の席に略服姿で趣く事にした。あのようなたわけ者に会う為に、礼を尽くす必要はないと
たかをくくったのである。ところが、正徳寺に現れた信長は髪を整え、正装に身を固め、
誰よりも威儀を正した堂々たる若武者ぶりであった。「こちらが道三公でございます」との
紹介に対しても「で、あるか(あ、そう。それで?)」という一言で応対。少々不遜ではあるが、
“蝮の道三”と恐れられる人物を前にして、全く動じない肝の座りようである。
これは只者ではない、うつけどころか底知れぬ大器だと直感した道三は、
以後、娘婿たる信長を信頼する同盟者として扱うようになった。
会見後、家臣に「やはり信長はうつけ者でしたな」と問われた道三は
「残念ながら、わしの子や孫はあの者の門前に馬を繋ぐ事になるだろう」と答えた。
自分が亡き後、斎藤家は信長に敗北するという事を、この時すでに道三は見抜いたのである。
翌1555年4月、信長は尾張国内で敵対する織田信友(のぶとも)を倒し、清州城を手にした。
道三が感じた通り、信長はうつけを脱し、亡父・信秀の跡を継ぐ名将への片鱗を
覗かせるようになっていく。尾張統一へと進む信長は、武将として確実に成長していた。

今川義元を巡る人間模様
その1555年4月、今川家の人質となっている松平竹千代が元服した。義元の片諱を受け、
初名は松平元信(もとのぶ)、すぐに改名し松平元康(もとやす)と名乗るようになる。
元服した事により、元康は松平家の正式な当主となり三河国主の地位を継承した。とは言え、
人質の立場では帰国する事もならず、実質的には義元の配下として扱われる状態であった。
三河松平家の苦難は、まだまだ続くのである。しかし、逆境にめげない元康は
それに負ける事なくあの太原雪斎に養育され、武将として必要な様々な学識を身につけていた。
若き日の苦労と経験、それに雪斎直伝の学問は、元康を大物武将へと成長させていくのである。
ところが同年閏10月、その太原崇孚雪斎が死去。享年60歳。偉大なる名軍師の死は、
今川家に大きなショックを与えたに違いない。軍事・謀略から民政に至るまで
義元の治世を上手にコントロールした雪斎は、領民にも弔われたという。
その義元とはどんな人物だったかと言えば、“海道一の弓取り”と評された通り
駿遠三の3国を治める太守に相応しい豪気な武将であった。その一方、足利将軍家に連なる
今川家という家に生まれた環境ゆえ、名門意識が高く風雅を好む性格でもあった。
駿河に生まれ、遠江も併合し、三河をも支配下に納めた今川家。西へ西へと拡大する領土は
その先にある遥かなる地・京都を意識させ、義元は公家文化へと傾倒していく。
次第に、自身も公家と同じ振舞いをするようになり、烏帽子姿に御歯黒、化粧を施すようになった。
京風文化に憧れる戦国大名というと、どこかで聞いた話である。山口で学問を好んだ大内義隆、
越前・一乗谷で雅な生活に明け暮れる朝倉義景、それに駿河の大大名・今川義元。
この三者に共通する事といえば…言わずともお分かりであろう。

道三の敗死 〜 信長、大きな後ろ盾を失う
さて、斎藤道三には数名の男子が居たが、その中で嫡子とされたのが深芳野の産んだ長男
斎藤義龍(よしたつ)であった。が、例の早産で出生の謎を秘めた義龍は
実の父親が土岐頼芸ではないかと疑われ続けて成長した。道三もそれを知ってか知らずか、
その疑念を利用する事すらあり、土岐氏の旧臣たちが道三に反対の姿勢を取った際に
「義龍は頼芸の子ゆえ美濃の正当な国主であり、義龍の養育者である道三も同様である」として
彼等を丸め込んだという経緯があった。義龍は、道三の道具として使われる存在だったのだ。
しかも、道三はいずれ義龍を廃嫡(嫡子から外す事)し、義龍の弟に家督を譲るつもりだったとも
言われている。利用価値のある間だけ嫡子とし、用済みになったら抹殺されるという危惧を抱いた
義龍は道三との確執を深めていき、1555年末、弟達を殺害した上に打倒道三の兵を挙げた。
深芳野の早産から始まった親子の相克は、遂に兵乱にまで発展したのである。
“美濃守護・土岐頼芸の子である義龍”の挙兵とあって、美濃国内の諸将はこぞって参集、
その数は1万7000にも上った。一方、逆賊とされた道三が動員できた兵力はわずか2700程度。
戦いは年明けへ継続され、1556年4月に長良川河畔で決戦が行われたのだが、
さすがに“蝮の道三”と言えど圧倒的劣勢は覆す事が出来ず、敗死した。
この時、信長は舅の救援を名目に美濃国内へ出陣しようとしたが間に合わなかった。
(実は本気で救援するつもりはなく、美濃国内が混乱する事を期待したとも言われる)
道三は死に際して「美濃国は娘婿の信長に相続させる」という遺言を残したとされ、
これが為に義龍は信長と敵対するようになる。大いなる後ろ盾である道三が没した事は
信長にとって痛恨の損失であると共に、美濃・尾張同盟の消滅を意味した。
三河方面からは今川氏が勢力を伸ばし、今また美濃との関係が悪化。
信長は信秀同様、2方面の敵に悩まされる事となってしまったのである。

信長の尾張統一 〜 弟・信行の粛清、守護代・信安の追放
信長の敵はそれだけではなかった。依然として織田家中は信行を擁立する一派が強く
反乱の芽が絶えなかったのである。また、清州城を手にしたとは言え信長の勢力範囲は
尾張国の南半分に過ぎず、北半分は守護代・織田信安(のぶやす)の支配下にあり
尾張国内の統一もままならなかったのだ。当面、信長はこの課題から片付けねばならなかった。
織田家の中で古参の家臣である林通勝(はやしみちかつ、本名は秀貞)柴田勝家らは
上記の通りかねてから信長の奇行を嫌い、信行を支持していた。信行もまた、彼ら重臣に
支持されていた事から自信を強め、1556年に共同して信長追放の兵を挙げたのである。
しかし信長はこれに負けず、反乱軍を打ち倒した。林・柴田らはようやく信長の将器に気付き、
以後、信長へ服従するようになる。ところが信行は兄に対する対抗心を捨てず、翌1557年
今度は信安と図って再び反抗。先年の反乱は母・土田御前の取り成しによって許した信長も
2度目は許さなかった。「信長が急病に倒れた」と偽って信行が清州城へ見舞いに行くよう仕向け、
まんまと誘いに乗って顔を出した所を討ったのである。信行が殺害された事により、
織田家中は信長が全権を掌握。続けざまに1558年、織田信安と交戦に及んだ信長は
明けて1559年には信安を国外へと追放する事に成功した。こうして信長は家中の騒乱を鎮め、
敵対する勢力を倒して尾張国の統一を成し遂げたのである。
亡父・信秀でさえ完成する事が出来なかった尾張統一を達成した信長は、勢いに乗って上洛し
時の将軍・足利義輝に拝謁。将軍家から「尾張国大名」として認められ、
尾張国内支配の正当性を勝ち取ったのだ。“尾張のうつけ”から“尾張の覇者”へ。
されど、これで信長の戦いが終わった訳ではない。尾張一国を手にしたとは言え、
まだまだ他国に比べれば国力不足。未だ“うつけ”とあざけられる事もあり、その上
美濃との同盟が切れた憂慮を抱えた状態のまま、強大な敵は東から迫りつつあった。




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る