★この時代の城郭 ――― 那古野城
中京地域の中心都市・名古屋。その空に燦然と輝く金の鯱鉾で有名なのが名古屋城だが
城の創建を遡ると1521年頃に今川氏親が築城したものだと言われている。
この当時は名古屋の字ではなく那古野と表記し、那古野城は柳ノ丸とも呼ばれていた。
氏親は末子・氏豊を那古野城主に据え、尾張国の抑えとした。という事は、
今川家の勢力は駿河・遠江を飛び越して遥か尾張国にまで及んでいたという事になる。
那古野の城は、今川家の威勢を誇る“尾張の橋頭堡”として重きを成していたのである。
しかし1532年3月(年代には諸説あり)、氏豊は織田信秀の奇襲に遭い那古野城を追われた。
連歌の会を催すとして那古野城に入りこんだ信秀自身が調略を行い、織田軍を城内に
引き入れたのである。客人であったはずの信秀が軍を呼び込むとは思いもよらなかったであろう。
この後、信秀は那古野城を赤ん坊の信長に与え、自身は古渡城を本拠とした。
信秀の覇業において、強敵・今川家から奪ってまで手にした那古野の城は
嫡男・信長を配する程に欠かせない拠点とされていたのである。
時は移り信長が成長してしばらく後、那古野城は廃された。が、江戸幕府が開かれると
尾張国は東海道の最重要地と認識され、御三家の一つ・尾張徳川家が入府するようになる。
この時、那古野城の跡地に新たな城郭が築き直され、これが名古屋城となったのである。
東海に威勢を張った今川氏に始まり、天下統一へと邁進した織田氏に引き継がれ、
徳川幕府の守りを固める要衝となった名古屋の城。戦国期における那古野城の歴史は
あまり知られていないが、今川・織田の境界として重要な地位を占めていたのである。
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