美濃の蝮

この頁で紹介するのは、戦国史に欠かせない梟雄・斎藤道三(さいとうどうさん)。
しかし、謎に包まれた道三の経歴は今なお不明な点が多い。
油売りの行商人から身を興し、天賦の才を活かして美濃国(現在の岐阜県南部)を
乗っ取ったという事がよく知られているものの、近年の研究では
油売りをしていたのは道三の父親で、親子2代の力で大名へと立身したという説が
有力になっている。とは言え、これも確証のある話ではない。
とりあえずここでは、従来の「通説」とされてきた道三の経歴を掲載するので
あくまでも“伝記”としての道三像と理解して頂きたい。


破戒僧から油売りへ 〜 若き日の道三、華麗なる転身…?!
1494年に生まれたという道三は、若い頃に寺の坊主であったと言われる。
修行先は妙覚寺、当時の新興勢力として京・堺の町集に爆発的人気を誇った
法華宗の寺だ。道三はこの寺で修行に励んでいた…訳ではない。
どうにも手のつけられない聞かん坊だったようで、僧としての戒律を破りまくった挙句
とうとう寺を飛び出して出奔してしまった。
で、僧を辞めた彼が身を立てるために就いた職業は、油屋であった。
奈良屋庄五郎と名乗り、油の行商で瞬く間に財を成していくのだが、
庄五郎がそれほどまでに売り上げを伸ばしたのには訳がある。
一文銭の穴を通して油を注ぐという妙技で客の関心を誘い、ただの行商人ではなく
“大道芸人”的な売り方で話題を呼んだのだ。何とも器用な話だが、いつの世でも
商売繁盛の秘訣は客の心を掴む事が肝心、というものなのであろうか。
庄五郎という“曲芸商人”の噂は全国へと広がっていき、
槍を背負って売り歩く事を目印にしていた彼が通りかかれば、そこら中から
油売りを注文されるような人気者になっていた。畿内周辺に販売を続けた庄五郎は
ついには中部地方にまで足を伸ばすようになり、莫大な富を築いた。
しかし、行商人という立場は金儲けだけに終わるものではない。
諸国を渡り歩くのに何の不審も抱かれず、自由気ままに通行できる事を利用し
全国各地の状況を観察し、情報を仕入れ、庶民の暮らしぶりや
各国の石高・経済力・軍事力などをつぶさに確認していたのである。
自分の目や耳で入手したこれらの情報は、後の立身出世に大きな力となった。

庄五郎、美濃へ 〜 次々と名家に取り入る才覚
行商を続けた庄五郎は、美濃国へと辿り着く。美濃は中部地方の中核となる大国で、
尾張(愛知県西部)・信濃(長野県)・飛騨(岐阜県北部)からの道が集約する
交通の要衝。それらは美濃から琵琶湖方面、つまり京へと繋がるため、
都との往来も盛んであった。国力の豊かな美濃は、情報・経済拠点として
中央との繋がりも強かったのである。この美濃国守護は室町幕府の名族・土岐氏。
もうお分かりだと思うが、やはり土岐氏も家督争いが絶えず、せっかく美濃という
豊かな国を領していながら治世は安定していなかった。このような状況にある
美濃国は、庄五郎の国盗りに格好のターゲットだったと言えよう。
井之口(現在の岐阜市)にある常在寺の住職・日運(にちうん)は、庄五郎が僧侶だった頃、
弟弟子であった。これをつてに美濃へ定着。しかもこの日運、土岐氏の家老である
長井長弘(ながいながひろ)の実弟というのだから都合の良い事この上なし。
破戒僧だったとはいえ、僧侶時代の縁がこのように役立つというのだから妙なものである。
長井家に取り入り、西村勘九郎と名乗るようになった庄五郎は、土岐家臣の末端に加えられ
徐々に頭角を現していく。この当時、美濃守護は土岐政頼(ときまさより)であったが、
その弟・土岐頼芸(ときよりあき)が守護の座を狙っており、家中も2つに割れていた。
そこで勘九郎は弟の頼芸に近づき、1527年8月に独断で政頼を国外に追放する行動をおこし
頼芸を新守護に押し上げた。おかげで念願の守護になれた頼芸はすっかり勘九郎を信頼し
事あるごとに取り立てるようになる。が、これは勘九郎の狙い通りであった。
腑抜け守護を盛り立てて御機嫌を取り、自分が出世し、その隙に勢力を強めようとしたのだ。
勘九郎はこの後、長井家の家督を継いで長井規秀(ながいのりひで)となる。
“油売り”庄五郎を取り立てた長井家は、こうして乗っ取られたのであった。

深芳野の下賜 〜 親子相克の遠因
美濃を放逐された政頼は、浅井・朝倉を頼り落ちていった。その政頼を受け入れた両家は
「不当に国を追われた政頼を復権させる」事を大義名分に掲げ、美濃侵攻を狙う。
度々に渡って浅井・朝倉連合軍が美濃へと来攻するものの、規秀に指揮された美濃軍は
これをあっさりと撃破し返り討ちにした。商才・政才のみならず、規秀は軍事にも
才能をあらわしたのである。度重なる功労を挙げ、忠勤に励む(ように見える)規秀に
感激した頼芸は、愛妾の深芳野(みよしの)を下賜した。
人間を物のように褒美として与えるというのは、現代の感覚からすると理解できない事だが
この当時としては、“自分の大切なものを与える”事に変わりないため、当然の慣習であった。
深芳野の下賜についてこんな逸話がある。規秀は頼芸と賭けをして、勝ったら深芳野を
貰い受ける、という事にしたらしい。その賭けというのは、ふすまの絵に描かれた虎の目に
規秀が長槍を一撃で通すというものだ。一般に長柄の槍は5mを越えるものと定義され
こんな長い槍でふすま絵の小さな的を突くのは至難の技である。しかし、一文銭に油を通す
曲芸を為せる規秀にかかっては、大した苦労もなく命中させる事ができたのだった。
芸は身を助けるとはこの事か?頼芸の愛妾を貰い受けた規秀は、
“国主の最も信頼する家臣”という意味を内外に強くアピールしたのである。
もはや美濃国内では長井規秀が最も大きな権勢を手にした事になる。
深芳野は規秀の下に嫁いだ後、男子を産んだ。規秀の嫡子となる男の子である。
しかし、出産は下賜からわずか7ヶ月後の事。単に早産だったのか、それとも…。
産まれた子の父親を巡り、この後に大騒動となるのだが、それは後記する事にしたい。

規秀の下剋上 〜 土岐頼芸も美濃を追われる
規秀はこの後、美濃守護代・斎藤家の門跡を継ぐ。斎藤氏は、藤原摂関家の庶流が
美濃目代として下向した事により成立した家系で、そのまま室町時代には守護代となった。
当時、斎藤家は跡取がなく絶家した状態だったので、規秀が後嗣に入り家督を相続、
斎藤利政(さいとうとしまさ)と名乗るようになった。美濃守護・土岐氏は
室町幕府成立によって入国した家系であるから、美濃土着の家柄としては最高格の家を
利政が相続した事になる。これにより、利政が美濃国主となる事に何の不都合もなくなった。
機は熟した1542年、利政は守護・土岐頼芸を美濃から追放。もともと頼芸は無能な君主で
利政が今まで働いていたからこそ国の安定が図れただけの事だった。それに奢って遊興三昧、
国政は利政に任せっきりで、しかも今まで権力掌握のためにおだて上げられていたという事にも
気付かない頼芸とあっては、下剋上されても当然であろう。
名実共に美濃国主となった利政は、同時に出家して道三と改名。僧侶・商人・武士と職を変え
今また出家の身に戻った事で、「三つの道を巡った人生」という意味で付けた法名だ。
利用できるものは何でも利用し、邪魔になれば抹殺する事で出世し、遂に美濃国主となった
道三のやり口は、良くも悪くも辛辣というもので、これにより彼は“美濃の蝮”と評された。
しかし、そんな道三が安定した治世を為す事によって、元々豊かな美濃国は更に発展していく。
苛烈な刑罰を定めて治安を引き締める一方、楽市楽座(らくいちらくざ)を実践し
国内の商業基盤も強化。室町時代の商慣習においては、商売を行う者は“座”と呼ばれる
一種の業者組合組織に加入せねばならず、市場での出店も規制されるという悪制があったが
道三はこれら特権規制を排除し、誰でも自由に商売が出来るような制度を整えた。
これが楽市楽座である。楽市楽座の導入により、美濃には商売人が集まるようになり
経済力は飛躍的に向上、それにつれて当然、戦国大名たる道三の収益も上がり
引いては国力の向上へと繋がっていったのだ。かつて行商人だった頃、市場のしくみを
肌で実感し、忌むべき悪習は排除すべしと考えた道三ならではの知恵と言えるだろう。
これに倣った全国各地の戦国大名は同様の楽市楽座制度を自国に導入し、
経済を活性化させる政策を執るようになっていく。

尾張国主・織田信秀 〜 守護代の一族から実力者へ
さて、美濃を追われた土岐頼芸が頼ったのは、尾張国の実力者・織田信秀であった。
ここで、信秀の経歴を紹介せねばなるまい。室町体制において、尾張国は斯波氏が守護を務める
国であった。朝倉氏の頁で記した通り、越前国(福井県北部)や遠江国(静岡県西部)の守護を
兼ねていた、あの斯波氏である。しかし戦国時代になると、斯波氏は急激に没落し、
これらの国々では在地の守護代や国人が台頭し、あるいは他国の侵略を受け
斯波氏の守護としての地位は名目的なものに過ぎなくなっていった。こうした中で、尾張国では
守護代の織田氏が斯波氏を凌駕して実力を伸ばし、一族で尾張国内を分割支配していたのである。
その中で、清州城の守護代・織田達勝(一般に大和守と呼ばれる)は尾張国下四郡を領有し、
大和守配下の三奉行によって統治実務が進められた。その三奉行のうちの一人が信秀である。
信秀はやがて他の二奉行や主家である大和守さえも打倒し、尾張国最大の実力者へと成長。
尾張国新進気鋭の戦国大名として、尾張国内はもちろん他国へも打って出る勢いであった。
信秀は、守護代のそのまた家来という立場から国主と呼べるまでの地位に伸張したのである。
この信秀の下に、頼芸が転がり込んだ。浅井・朝倉同様に、「国を追われた守護を救う」という
大義名分を手にした信秀は、美濃攻略を目論み道三に対して戦いを挑む。
1544年9月、信秀は朝倉孝景と図り「土岐兄弟の復権」の名目で美濃へ侵攻。
越前と尾張からの挟撃であったが、道三は霍乱作戦を展開してこの侵略を蹴散らした。
1547年9月、再び信秀は美濃への侵攻を行い、道三が居城としていた稲葉山城まで進軍。
戦いは数に勝る信秀有利に進み、稲葉山の城下町は焼き払われたが、日暮れにより
信秀軍が撤収しようとした隙を見て道三が城から出撃する。油断を突かれた信秀方は
多いに態勢を崩し、加納口で大敗した。信秀は、見事“蝮の道三”の毒に当てられたのである。
加納口の合戦で破れた信秀は、直後に尾張国内での反乱にも直面し、
事後処理に奔走せねばならなくなった。尾張の中では日の出の勢いであった信秀であるが、
道三にはどうしても勝てない。反乱も続く状態ではまず国内を固め、戦国大名として
権力基盤を整えなければならないと悟る。何より、智謀に長けた道三を敵に回すのは
厄介な事だという事実に気付いた信秀は、新たな外交策を考えねばならなかった。

★この時代の城郭 ――― 稲葉山城
現在の岐阜県岐阜市、道三の支配する時代には井之口(井ノ口とも)と呼ばれた町に
戦国有数の名城・稲葉山城(現在の岐阜城)がある。海抜329mの金華山に築かれたこの城は
もともと鎌倉時代に砦が築かれていたものを戦国時代に改修され、道三の居城となった。
稲葉山城は、岐阜市内に単独で屹立する金華山の山頂に築かれた城であり、
周囲は断崖絶壁で隔絶され、麓には長良川が流れて天然の濠を為していた。
山頂の本丸に至る道は凄まじく急峻な坂道で、現在ではロープウェイが敷設されているものの
そうした文明の利器がない時代には容易に攻め上がる事など出来ない代物だ。
よって、数ある戦国時代の名城の中でも関東後北条氏の小田原城と並び評される程の堅城で
全国で一二を争う難攻不落ぶりを誇っていた。道三という名将がこの城を抑えている限り
武勇を誇る信秀といえど攻め落とす事など出来ず、城下町を焼き払う程度で終わったのだ。
現在は観光地として整備され、濃尾平野を一望し名古屋市内まで臨む事ができる岐阜城は
稲葉山城の名で呼ばれた時代、戦国屈指の名城であったとして特筆しておかねばならない。


信長・帰蝶の結婚 〜 “身の終わり”同盟
話は少し遡るが、信秀とその正室・土田(どた)御前の間で1534年5月12日に産まれた嫡男は
吉法師(きっぽうし)と名付けられた。産まれたのは清州城とも那古野城とも言われるが
信秀は産まれたばかりの赤ん坊である吉法師をそのまま那古野城主にしてしまったのだから
大した話だ。(那古野城については次頁に記載)しかし成長した吉法師は、城主どころか
下賎民のような風体で山野を遊び回り、町娘をからかいながら瓜をかじり歩くという
“うつけ者(馬鹿者)”の振舞いを見せていた。勉強は嫌いで、館で大人しくする事などなく、
気分次第で城外に飛び出してしまい、髪も衣服も乱れた様のまま。守役に任じられた
平手政秀(ひらてまさひで)がいくら諭しても、全く言う事を聞かなかった。
13歳で元服(成人)した吉法師こそ、戦国の覇王・織田信長その人である。
加納口の合戦で破れ、駿河国(現在の静岡県)守護・今川氏とも戦っていた信秀は
美濃と駿河の両方を敵に回す事は無理と判断し、1548年に道三との講和を図った。
ちょうどこの頃、美濃国内にも反乱の兆しがあったため、道三としても和平は渡りに船だった。
斯くして、内憂の美濃・外患の尾張は和議という結論に達し、その証として
道三自慢の娘・帰蝶(きちょう)姫が信長に嫁入りする事となった。
帰蝶が嫁ぐ時のエピソードは有名であろう。輿入れ前、帰蝶と対面した道三は懐剣を渡し
「信長が真のうつけなら、この刀で刺し殺せ」と命ず。それに対して帰蝶は
「この刀が父上に向くやもしれませぬぞ」と返した。信長が大物ならば、道三さえも
討ち果たすという宣言を、まだ嫁入り前の帰蝶が代弁したのである。
さすがに道三の娘、肝が据わっている。
“尾張の大うつけ”と“蝮の娘”の結婚に、周辺国は嘲笑した。苦し紛れの政略結婚、
しかもバカ殿に娘をくれてやるとは、道三も無駄な事をする―――美濃・尾張同盟は、
“身の終わり”同盟と揶揄された。しかし、道三と信秀にとっては敵を減らす最善の策であり
何よりも若き信長にとって“蝮の道三”を舅として味方に付けた事は大きな後ろ盾となった。




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