奥羽の乱脈

中央政界は足利将軍家・管領細川家・配下の三好家・その家宰松永家が争い錯綜し、
地方では血で血を洗うような大乱世が繰り広げられる戦国時代に在って、
未だその災厄と関わりを持たず、室町旧体制の蔓延する地域が残っていた。
都から遠く離れた最果ての地、奥州である。
では何故東北地方が群雄割拠の下剋上と縁遠かったかと言えば、
ほとんどの氏族が平安時代〜鎌倉時代の間に(遅くとも室町時代初頭に)土着し
しかもそれらが互いに政略結婚で血縁関係を結び、複雑極まりない系譜を繋いでいたからだ。
“乱脈”という言葉でしか言い表せないこの血縁は、古来から続く家を永らえさせ
それ故、旧体制のまま“家名の威光”で統治を存続させる事が可能となっていた。
と言っても、それはそれで新たな争乱の芽を生み出すもの。
多岐に分かれ、複雑に絡む系図の中では、一族内での争いが絶えず
奥州の戦国時代は家督相続に端を発する戦闘からスタートする。


葛西氏と大崎氏 〜 奥州総奉行と奥州探題
まず初めに解説するのが葛西氏。桓武平氏の流れを組む葛西氏は、その名の通り
関東の下総国葛西庄(現在の東京都江戸川区葛西)を領有していた勢力で
源頼朝が平氏打倒の旗揚げをした時からこれに付き従い軍功を挙げ、
鎌倉幕府成立後、奥州総奉行の役職を与えられたのである。
鎌倉時代の間、葛西氏は鎌倉に在住し実際に奥州へ下った事はなかったようだが
南北朝争乱の前後に在地支配を開始し、南朝の北畠顕家と連動して働き
奥州に一大勢力を築くようになっていった。その支配地域は現在の宮城県北部にあたり
ここが葛西氏代々の領地として戦国時代を迎えたのだった。
一方、南北朝期に北朝方の勢力として奥州に在ったのが大崎氏。元々は斯波氏の一門で、
鎌倉時代中期に奥州へ下向、南北朝争乱の時代に大崎と改姓したようだ。
北朝、つまり室町幕府は東北地方の支配体制を確立するため、奥州探題の職を制定し
現地の有力氏族4家をこの職にあたらせ、世襲させた。大崎氏はこのうちの1家で、
奥州探題という高い職位を以って陸奥国各地の豪族を統制する権利を得たのであった。
室町幕府成立の頃は、斯波氏の縁者である大崎氏が奥州における最高家格であったと言えよう。
大崎氏は宮城県南部に領土を展開。南朝の葛西氏と北朝の大崎氏は反目しつつ、
互いに“奥州総奉行””奥州探題”という役職で周辺諸勢力を従えようとしたのである。
いずれにせよ、こうした肩書きに頼る家柄は、次第に没落していく運命であるのだが…。

南部氏の伸張 〜 いくつもの分家が立つ強豪
大崎氏・葛西氏の北に位置したのが南部氏だ。甲斐源氏から分流した南部氏は、
源頼朝の奥州征伐に従軍し功績を挙げ、そのまま同地に封を得る。
以来、一族はこの地で領土を増やし現在の青森県・岩手県境付近一帯を領有した。
と同時に、南部氏は多くの分家を生み出し、一戸南部氏・三戸南部氏・四戸南部氏
七戸南部氏・八戸南部氏・九戸南部氏・久慈南部氏・北氏・南氏など、
多岐に渡る系図を紡いでいく。この中で嫡流とされたのが八戸南部氏で、
南北朝時代には南朝方に味方し参戦、南部師行(もろゆき)ははるばる畿内まで出陣し
和泉国石津(大阪府堺市)で戦死している。その後、南朝方は劣勢になっていき
八戸南部氏も衰退、南部氏宗家の立場は三戸南部氏に取って代わられた。
この過程で北朝方へと帰順、室町幕府体制の中でも南部氏は北陸奥の領有を認められる。
南部一門は屈強な騎馬兵による戦術を得意とし、戦国の世に在ってはこの戦力を駆使して
爆発的に領土を拡大させていった。津軽地方(青森県西部)へ進出し、久慈南部氏の
久慈光信(くじみつのぶ)を統治にあたらせた。光信は同地で大浦に改姓し、
津軽での統治基盤を確立していく。その一方で南部氏は南下政策も推進し、
南部氏24代・南部晴政(はるまさ)の頃には岩手県のほぼ全域を制圧し、
南部氏全体としての領土は青森県・岩手県全体にまたがる広大なものになっていた。
三日月の 丸くなるまで 南部領
南部氏の領土拡大を詠んだ歌である。もともと三日月ほどしかなかったものが
満月のように大きく広がったという例えで、南部氏の急成長ぶりがよく分かる。
が、その内部事情はそれほど簡単な話ではない。
「南部氏全体としての領土は」大きくなったのだが、いくつもの分家が立つ事で
各家ごとに覇権を競い、相手の領土を狙い、内部での集合離散を繰り返していたのである。
特に晴政には嫡子がいなかったため、その後継者争いは熾烈なものとなり
南部氏の内情は全くまとまりのない状態であった。

羽後領主・安東氏 〜 安倍氏の末裔、蝦夷地にまで進出
羽後国、すなわち秋田県の代表的な大名が安東氏だ。羽後国内は浅利氏・由利氏・仁賀保氏など
雑多な国人衆が割拠していたが、その中にあって安東氏は安倍氏の末裔という家柄で
一歩抜きん出た勢力を築いていた。前九年の役で登場した、あの安倍氏である。
奥州に古来から根付く伝統ある家名。しかし、御多分に漏れず一族内での争いがあった。
安東氏は元来津軽地方の豪族であり、十三湊(津軽半島の十三湖に置かれた港)の交易で
日本海側各地へ勢力を広げた家であり、その範囲は羽後国・津軽地方のみならず
蝦夷地南部(北海道檜山支庁・渡島支庁)にまで及んだが、各地に広がった安東一門衆は
それぞれの家を立てていく。このうち有力な2家が湊安東氏と檜山安東氏だ。
津軽から南下し、土崎湊(秋田県秋田市)に本拠を移したのが湊安東氏。
一方、室町時代に南部氏の攻略を受け、先祖伝来の津軽領を失い蝦夷地に逃れ
その後、羽後国檜山地方(秋田県能代市桧山)に帰り着いた勢力が檜山安東氏である。
この2家はそれぞれ南部氏・浅利氏などの外敵と戦いつつ、お互いの利権も奪おうとして
戦う間柄であった。戦国時代後期になると、湊安東氏の嫡流が絶えたため
檜山安東氏の安東愛季(あんどうちかすえ)が両家の家督を相続し、ようやく一族内の
対立に終止符を打つ事になるが、それまでの長い間、両家は反目していたのである。
愛季は安東氏の合一により勢力基盤を固め秋田氏と改姓、羽後国の戦国大名としての地位を得た。
しかし愛季の子・秋田実季(あきたさねすえ)の代には、湊安東氏の一族・遺臣が
反乱を起こすなど、まだまだ安定した状態とは言えなかった。
結局、秋田(安東)氏が安定した統治を行うようになるのは、この反乱を鎮圧した実季が
家臣団を再編し、近世大名としての体裁を整えた後になるのであった。

最上氏の内訌 〜 出羽按察使、山形に居を構える
羽前国(山形県)の有力大名は最上氏。大崎氏と繋がりのある斯波兼頼(しばかねより)
1356年に出羽按察使として山形に入府し、以後最上氏を名乗るようになったのが始まりである。
最上氏は羽前国内各地に子息を配し、一門による統治権を確固としたものにしていく。
代表的なものが天童氏・楯岡氏・中野氏などだ。これらの分家は最上宗家の家臣団として
編成され、羽前国内における最上氏の領土を拡張していくのだが、
戦国時代になると、これまた各家が互いに干渉し、独立していく傾向を見せた。
一方、越後国に隣接した羽前国沿岸部は武藤氏の支配する地であった。
少弐氏の項目で解説した、あの武藤氏である。羽前国における武藤氏は
大宝寺(だいほうじ)姓を名乗るようになり、霊場として名高い羽黒山の別当を兼ねる事で
権威を高めていった一族であった。この大宝寺氏は室町時代全般を通じて最上氏と争い、
戦国時代になってもその状況に変わりはなかった。
内外に憂慮を抱える最上氏。最上氏の代替わりには騒動がつきもので、その中で
最大の波乱と呼べるのが、11代・最上義光(もがみよしあき)の家督相続問題であろう。
最上氏10代・義守(よしもり)の嫡男として生まれた義光であったが、父に疎まれ
弟の義時(よしとき)に地位を脅かされていた。最上家重臣・氏家定直(うじいえさだなお)
調停により新当主は義光と定まったものの、家中騒乱の原因を除く必要に迫られた義光は
謀略を以って反対勢力を粛清、実の弟である義時でさえも暗殺した。これ以後、戦国大名として
支配力の強化を図る義光は、謀反の煽動や邪魔者の暗殺など、鬼謀の限りを尽くして
敵対者を抹殺していき、羽前国内の平定を進めた。旧来のような最上家中連合体制ではなく
義光を頂点とする主従関係への脱却によって一門を統制、逆らう者は皆殺しである。
最上氏が義光によって強大になっていくと周辺の諸豪族も臣従するようになり、大宝寺氏は
劣勢になって国を追われた。羽前国主は最上氏と定まり、他国の軍勢とも干戈を交えるようになる。

会津領主・蘆名氏 〜 相模の名族、奥州に大封を得る
今度は南へ目を向けて、会津地方の蘆名氏について。蘆名氏は鎌倉幕府の重鎮・三浦一族が
源頼朝の奥州征伐で功を挙げ、会津に封を得た事が起源とされる。「蘆名」の姓は
相模国の地名から採られた事からも、三浦氏が奥州へ渡った事情を確認できよう。
鎌倉時代・南北朝時代・室町時代を通じ、蘆名氏は会津に勢力を根付かせた。
しかし、現在の福島県地方にはさまざまな豪族が存在しており、さらに室町幕府からは
畠山氏が二本松地方へ派遣され、これまた大きな勢力を張るようになっていた。
こうした豪族をいくつか例に挙げると、田村氏、岩城氏、白川氏、二階堂氏、猪苗代氏、
それに石川氏など、いずれも小粒ながら強力に領地を守る豪族であり
さらに浜通り(福島県沿岸地域)には屈強な騎馬軍団を擁する相馬氏が他家の侵入を頑なに
拒んでいた。畠山氏もまた、地名から二本松氏と改姓、三管領である幕府の名家として
南奥州における覇権を確立しようとしていたのである。福島県内は、諸氏がひしめき合い
そう簡単に領土拡張を望めるような場所ではなかったのだ。しかしこのような状況下でも
蘆名氏は“会津守護(実際にはそんな役職はないのだが)”を宣して権力基盤を固め、
他氏よりも一歩抜きん出た封土を領有する事に成功。猪苗代氏を配下に吸収し、
二階堂氏・石川氏らとは同盟を結び他国からの侵入に備えたのであった。
蘆名氏の名君とされるのが16代当主の蘆名盛氏(あしなもりうじ)であろう。
盛氏の治世において蘆名家は戦国大名としての体制が確立し、他国と覇権を競うまでに成長。
二本松(畠山)氏をも影響下に納め、磐石な支配力を手にして統治を行ったのである。
しかし、盛氏の嫡男・盛興(もりおき)は家督相続後間もなく早世。
この後、蘆名氏の当主は若死にする事が相次ぎ、事態は急変していく。
大封を有する蘆名の家督を狙い、周辺勢力が四方から干渉するようになっていくのだ。

伊達氏の伸張
さて、いよいよ真打登場。奥州の大名家として最も有名な伊達氏である。
伊達といえば仙台…というイメージが強いが、戦国時代は米沢に本拠を構える家柄であった。
平安時代の藤原摂関家庶流が武士となり、源頼朝の奥州征伐に参加して(こればっか…)
陸奥国伊達郡を与えられたのが伊達氏の始まりである。この伊達郡というのは、現在も
福島県の行政区分に残る伊達郡であり、米沢までは間に信夫郡(現在の福島市)を挟んでいて
かなりの距離がある。という事は、鎌倉時代・南北朝時代・室町時代を通じて
伊達氏は積極的な領土拡大を行っていたという様子が窺えよう。実際、南北朝時代には
南朝方の最有力武将として名を馳せ、頃合を図り北朝方へ帰順し、そのまま領土を安堵された。
伊達家の強大な軍事力は、南北朝時代を過ぎても維持されたのである。
さらには領内から産出される砂金を財源にし、室町幕府への度重なる政治工作を行い
陸奥国内における領主権の向上に努めていたのだった。武力・政策の両面で攻勢をかけ
伊達氏は確実に勢力を拡大していく。こうした努力により、1522年には幕府から
伊達氏14代当主・伊達稙宗(だてたねむね)が陸奥守護職に任じられた。元来、陸奥国には
守護が設置されず、大崎氏の項で記載した奥州探題が幕府の統治役職であったが
伊達氏の政治工作により守護職が新設され、奥州探題に代わる新たな統治職制となったのだ。
これにより、伊達氏は名目上陸奥国における最高家格とされ、伊達氏の行動は
幕府公認の行動として施行される(もちろん、軍事行動を含む)事となった。
政・軍にかけて数々の行動を為した事で、伊達氏は奥州屈強の地位を手にし、
領土の拡大、統治基盤の拡充、支配体制の強化を成功させ、戦国大名へと成長する。
その結果、伊達郡・信夫郡から米沢を含む置賜郡までの大封を得るようになったのだった。

天文の大乱(1) 〜 伊達稙宗の野望
伊達稙宗といえば、1536年に分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」を制定し
領国を法治主義で統制する基盤を築いた良将として高名である。武断の軍事力を持ちながら
幕府権威を利用し大義名分を備え、分国法で安定した統治を行う稙宗は、戦国初期の宰相として
非常に大きな存在であった。その稙宗は、武辺に頼るだけではなく、外交工作も多用して
他国の勢力を積極的に自らの味方へ引き入れる事を行っていた。簡単に言えば、政略結婚や
養子縁組を次々と成立させ、血縁関係で他国の大名を服従させようとしたのである。
稙宗には子供(特に女子)が多く、例を挙げると大崎氏・桑折(こおり)氏・葛西氏
村田氏・亘理氏と養子縁組を行い、娘を相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・田村氏などに嫁がせた。
政略結婚で娘を嫁がせれば、その家とは血縁が結ばれ不戦の証となるし、
相手の大名を義父としての立場から統制下に置くことが出来る。
息子を養子として出せば、上手くいくとその相手方の家を乗っ取れるというのは
毛利元就が吉川家・小早川家に対して行った手法として紹介した通りである。
しかしその反面、養子として出した子は相手の家の人質として扱われる危険性もある。
乗っ取り策か、人質としての弱みか。同じ行動でも、結果に出るこの差は非常に大きい。
稙宗はそれでも、血縁工作を止めなかった。越後上杉氏の上杉定実(長尾氏の項で登場)に
3男の実元(さねもと)を養子とし、その近習として伊達家の精兵100名を付けて
送り出そうとしたのだ。更に、娘の嫁ぎ先である相馬氏に誼を通じるべく、
相馬郡(相馬氏の本領)に隣接した伊達家の領土を割譲しようと計画。
稙宗の血縁拡大政策は、奥羽では飽き足らず越後にまで及ぼうとしていた。

天文の大乱(2) 〜 伊達父子の相克、奥州全土を巻き込む
これに真っ向から反対したのが稙宗の嫡男伊達晴宗(はるむね)であった。
実元が人質として扱われ、しかも精兵100名を失い、相馬氏へ領土まで明け渡すとなれば、
相手の乗っ取りどころか自国の防衛に障害を来たしかねない。
この政策を断固として認めぬ晴宗は、1542年に伊達家臣団と同調して稙宗の退陣を迫った。
一方、稙宗は義理の息子にあたる相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・田村氏や
他家に養子として出した大崎氏・葛西氏などを糾合し、これに対抗。
奥州の大身・伊達家中に起きた騒動は、稙宗vs晴宗という対立のみならず
奥州諸大名連合vs伊達家臣団という大規模な争乱へと拡大してしまう。
天文(てんぶん)年間、全国各地で戦国争乱の戦いが急激に加速した事から
この時期の争いを天文の大乱と呼ぶが、その中で最大の騒動とされるのが
上記した伊達家の御家騒動である。奥州を二分する大乱となった親子対立は6年にも及び
1548年、稙宗の隠居・晴宗の家中掌握という形でようやく決着した。
(この時、伊達氏の本拠が米沢とされた)
実元の養子差出は白紙撤回され、争乱は落ちついたが、この無益な騒動で
伊達家は一時的に勢力を弱めてしまい、しかも晴宗が家督を相続したため
奥州諸大名は一斉に伊達家への対決姿勢を示すようになった。
特に相馬氏は晴宗以降の伊達氏とは犬猿の仲になり、その敵対状況は
江戸時代を迎えるまで改善される事がなかったのである。

★この時代の城郭 ――― 戦国大名の平城
戦国大名の居城形態として挙げられる2番目の事例は、平城である。
以前より何度か書いた通り、武士草創期の居館は耕作地に近い平野部に築かれており
その武装を厳重にし、堀や土塁などによって地形効果を上げ城郭化すれば平城となる。
つまり平城とは、武士の居館が“あるべき姿”のまま進化した形態と言えよう。
しかし、戦国の暴力吹き荒れる世相の中で、平坦な場所に築かれた館では
あっという間に敵軍の蹂躙を受けてしまうだろう。山城のような、高低差を戦術に
利用する城郭でない以上、様々に趣向を凝らして敵を撃退するようにせねばならない。
斯くして、戦国大名の平城は高度な防衛設備を多設する城郭として進化していく。
基本中の基本と言えるのが、縄張りの複雑さ。平坦な地形を逆手に取れば
城郭の敷地をいくらでも拡張できるという事なので、大きな面積を有するようにした上、
その内部をいくつもの曲輪に分割し、しかも迷路のように分岐させ
侵入しようとする敵兵を疲弊させ、惑わせる。もちろん、曲輪の周囲には大規模な
堀や土塁・石垣を巡らせ、そもそも敵兵を侵入させないようにするのが大原則。
これは、城の内部を外部から容易に視認させないようにする効果も狙っての事だ。
その上で城郭防衛上必要な建造物、即ち塀・櫓・門などを多数建築し、
城を囲う敵兵に対する迎撃態勢を整える。この中でも特筆すべきなのが門建築。
曲輪の出入口を固め敵兵の侵入を妨げるため、虎口と呼ばれる桝形構造が発達し
相手に付け入る隙を与えないような城門が開発されていったのである。
(虎口、桝形などの詳細は未申小天守の頁を参照して頂きたい)
当然、平地での視界を確保するために櫓建築も大型で高層のものへと発展していく。
立地は同じでも、鎌倉武士の平易な居館とは比べものにならない
高度な防衛力を有したもの、それが“戦国大名の平城”なのである。
こうして、曲輪構成・建築物の多様化によって平城の防備は厳重なものになった。
逆に考えれば、平城を守る手段の必要性から、城郭の縄張り理論や
重層建築を可能とする建築技術が否応無しに向上していったとも言える。
このようにして開発された石垣工法・虎口構造・建築技法などが、戦国大名の城郭を
より一層堅固なものへと進化させ、後世の近世城郭建築へと応用されていくのだった。
さらに付け加えると、平城は領国経営の拠点ともなる場所なので
周囲には城下町が形成される。戦国大名は、この城下町も防衛施設として活用した。
町の街路は城さながらに複雑な屈曲を為し、時に道幅を変化させ、方向感覚を狂わせ、
敵軍の侵入を阻むように設計されていた。こうした町割の痕跡は、城がなくなった現代でも
全国各地の旧城下町に残されている事はよくご存知であろう。戦国期の築城術は、
単に城だけでなく周囲の町民地の策定をも含んで考えられた「都市計画」だったのである。
伊達氏の米沢城、最上氏の山形城などが、こうした“戦国大名の平城”の好例である。

南奥州全域にまたがる対立の構図を生み出した伊達氏。晴宗は、失われた
伊達氏の勢力を回復するために蘆名氏・相馬氏・大崎氏らと戦わねばならなくなった。
しかし、複雑に絡まった奥州の血縁関係は、諸勢力の同盟と対立を誘引し
晴宗が相手を倒そうにも、一筋縄で勝てるような状況にはならなかった。
伊達氏が攻勢を強めれば強める程、相手も同盟を募って対抗力を増大させたのだ。
その戦いは、晴宗の嫡子・輝宗(てるむね)の代までも引き継がれる。
稙宗の野望から火がついた南奥州の戦乱は、伊達氏3代に及ぶ禍根を残したのである。
東北地方群雄割拠図
東北地方群雄割拠図

戦国時代の奥羽における主な勢力を示した。
赤字で表記したのは天文の大乱以後、反伊達勢力となった家。
青字で表記したのは天文の大乱以後も親伊達勢力として残った家。
稙宗の野望は、これだけ広範囲で影響を及ぼしていたのである。

大浦氏は南部氏の被官、蛎崎氏は安東氏の被官にあたる家柄。
両家は戦国末期に自立を果たし、それが中央政権に認知され
独立した大名としての支配体制を確立する。



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