土佐の出来人

阿波国(現在の徳島県)・讃岐国(香川県)は、三好一族の支配する地で
畿内との関わりが深く、中央政界と密接した動向にあった。
その反面、四国の西部・南部は“権力の空白地”のような状態になり
戦国の世では全くと言って良いほどまとまりのない情勢が続く。
こうした中、四国統一に歩み出す人物は土佐国(高知県)から現れる。


伊予守護・河野氏 〜 源平合戦から続く家柄
話は先ず伊予国(愛媛県)から。室町時代、守護として伊予を治めていたのは河野(こうの)氏。
河野氏はもともと伊予に土着する豪族で、瀬戸内海や豊後水道に面する土地柄から水軍を統率し
源平合戦の時代に、この水軍を用いて源氏方の勝利に貢献した経緯を持つ。
源平合戦の武功を認めた鎌倉幕府は、河野氏を御家人として取り立て伊予国を安堵した。
以来、北伊予地方は河野氏の支配地として歴史を積み重ねていく。
元寇の時には自慢の水軍を率いて博多に参陣し、南北朝の争乱においては北朝方へと参加。
当然、室町幕府からも伊予の統治権を認められ、河野氏は伊予守護の地位を勝ち取ったのである。
ところが、虎視眈々と伊予国を狙う勢力があった。四国の反対に位置する阿波国の守護
細川氏である。三管領の一つとして中央政界に食い込み、絶大な権勢を誇る細川氏は
阿波国のみならず、伊予国の領地も欲していたのだった。室町幕府が成立した直後、
まだ南北朝の動乱が続いていた時期であるが、細川氏は伊予方面へと軍を進める。
共に北朝を支持する勢力にありながら、南北朝戦乱のドサクサに紛れて河野氏の領地を
奪おうという魂胆だったのだろう。特に川之江(愛媛県四国中央市川之江町)周辺の領土を巡り
細川氏と河野氏はいつ果てるとも無い戦いを繰り広げるのであった。
戦国時代になると、河野氏の敵はさらに増えていく。瀬戸内海を隔てた対岸の大内氏、
豊後水道の向こうにいる大友氏までが渡海して伊予侵攻を窺い、
細川氏を追い落として阿波国主になった三好氏も、細川氏同様に伊予への進出を狙っていた。
これら数多くの敵を抱える河野氏は、その度に反撃の軍を出さねばならず疲弊していき
次第に支配力は低下、しまいには家中からも反乱の火が燃え上がる。
内に外に憂慮が絶えない河野氏。伝統ある家柄は、戦国の激動を乗り切れるのであろうか。

土佐国司・一条氏 〜 前関白、土佐へ下向す
応仁の乱が勃発した翌年の1468年、一人の公卿が土佐国へと下向した。
その人物の名は一条教房(いちじょうのりふさ)。五摂家の一つ、一条氏の名籍にして
前関白という高貴な人物である。教房は、戦乱で荒廃した京を逃れつつ、
自らの所領であった土佐国幡多地方の領土を確保するためにやって来たのだ。
武家政権の支配が続き、しかも時代は戦乱の世の中とあっては、公家の荘園など
武士の侵略を受ける格好の的であり、一条氏の所領もこうした侵食に蝕まれていたのだが、
意を決した教房は、自ら領地へ向かい支配権を回復しようとしたのである。
争乱に翻弄されるしかなかった公家衆の中にあって、教房の行動力は快挙と言えよう。
土佐国中村(高知県中村市)に居を構えた教房の下には、近隣の豪族達が参集。
さすが、前関白という要人だけあって影響力は大したものである。
これ以後、一条氏は土佐国司としての立場を以って中村に土着、土佐一条氏として
一大勢力を築くようになって行く。京都から下向した公家の才知によって
中村の町は商業都市として整備されるようになり、その華麗さと繁栄ぶりは
“小京都”と呼ばれるまでになった。周辺豪族を従えた事もあり、土佐一条氏は
没落公家の立場を脱却し、土佐西部に支配権を確立した戦国大名へと昇華したのである。
土佐一条氏はその後も成長を続け、1500年代初頭、教房の子・房家(ふさいえ)時代に
最も勢力を伸ばし、最盛期の繁栄を享受するまでになったのであった。

長宗我部氏の悲劇 〜 土佐の七大名
室町幕府体制の中にあって、土佐国は細川氏が守護を務める国であった。
しかし三管領の家柄である細川氏は中央政権に参画するあまり土佐国の治世を置き去りにし
その細川氏も執事の三好氏が台頭する事で力を失い、三好氏も中央政権への進出を志向した為
土佐国は完全に室町体制から脱落するようになっていく。一条氏が国司として統括するものの
その下層では、結果として在地の豪族たちが割拠するという状況になっていた。
これら土豪の中で特に有力であった7家は「土佐の七大名」と呼ばれる。
長宗我部(ちょうそかべ)、香宗我部(こうそかべ)、本山、吉良、
大平、津野、安芸の7勢力がそれである。この中でも長宗我部氏は細川氏に接近し
それを後ろ盾として土佐国内に威勢を張ったものの、細川氏が中央政界の政変で凋落すると
連動して勢力を失い、他の国人衆から標的とされた。反長宗我部連合を結成した
本山氏・吉良氏・大平氏・山田氏は1509年に長宗我部兼序(かねつぐ)を敗死させ
長宗我部家を断絶させたのである。兼序の嫡子・千王丸はかろうじて落ち延び、
一条房家のもとに身を寄せた。これ以後、土佐国内では本山氏が勢力を伸ばしていき
山地の本拠・本山城(高知県長岡郡本山町)から進出、土佐湾の海岸線までも領土とする。
一方、逃げ延びた千王丸は成長し長宗我部国親(くにちか)と名乗るようになった。
国親は房家の後援を受け、長宗我部氏の本拠・岡豊(おこう)城(高知県南国市)を回復。
長宗我部の家を再興し、仇敵・本山氏との対決に向けて着々と力を蓄えていた。
(余裕で長宗我部氏復活の支援が行えた一条氏の繁栄ぶりにも注目したい)
御家断絶から再起した国親。宿敵・本山氏を倒し、土佐を手にする戦いが始まろうとしていた。

長宗我部氏の伸張 〜 次々と他家を降す
長宗我部氏の起源は、大和時代に登場する秦(はた)氏であると言われる。
恐らくは平安時代末期に土佐国へと土着して宗我部氏を名乗るようになり、その後
長岡郡の「長」宗我部氏と香美(かみ)郡の「香」宗我部氏に分かれたらしい(異説あり)。
土佐国司一条氏の力を背景に実力を養った国親は、この長岡郡における諸豪族を従え、
香宗我部氏までも傘下に納めていった。毛利元就が吉川氏・小早川氏を抑えたのと同様に
国親は3男の親泰(ちかやす)を香宗我部氏の養子に入れ、家督を継がせたのである。
香宗我部親泰は政治感覚に優れた良将として有名で、これ以後長宗我部家の外交を担当し
長宗我部氏が四国の覇者へと成長する一翼を担っていった。
さて、長岡郡と香美郡を手中に納め仁政を敷き、支配体制を固めて御家再興を目指す国親は、
次第に岡豊城から西方へと領地を広げ、約30年の歳月をかけて本山氏の勢力と接するようになる。
長宗我部領と本山領の境界となったのが浦戸湾、現在は高知県随一の観光地として有名な
桂浜の海岸線だ。浦戸湾を挟んで東側が長宗我部氏の勢力圏、西側が本山氏の領土という構図は
当然この湾岸が両者の最前線と言え、お互いに城を築いて相手の出方を伺うようになっていく。
長宗我部氏は種崎城(高知県高知市種崎)、本山氏は浦戸城(高知県高知市浦戸)が拠点となり
両者は睨み合いを続けた。そうした中の1555年、本山氏の総領・本山茂宗(もとやましげむね)
没した事で、事態は動き始める。国親が西方への進出作戦を開始し、本山氏の支城を攻略したのだ。
これに対し、茂宗の嫡子で本山氏の跡を継いだ茂辰(しげたつ)は防戦態勢を整える。
各地で長宗我部軍と本山軍の戦闘が頻発し、両者の緊張状態はピークを迎えていた。
1560年、長宗我部方の輸送する兵糧が本山氏に奪われる事件が発生。
これを口実に国親は茂辰への総攻撃を開始する。長浜表(ながはまおもて)合戦の開始である。

長浜表の合戦 〜 “姫若子”転じて“鬼若子”となる
1560年5月26日の夜、長宗我部軍が本山軍に夜襲をかけた。この攻撃で本山方の支城
長浜城(高知県高知市長浜)が陥落。これを受けた茂辰は2000の兵力で出陣し
翌27日の朝、長浜表で決戦を挑んだのである。対する長宗我部軍は1000余の兵力。
国親は劣勢ながら巧みな采配を振るい、本山軍の虚を突いて撃退に成功、合戦に勝利した。
この合戦で最も武功を挙げたのが国親の嫡男・長宗我部元親(もとちか)である。
元親は幼い頃から人見知りする内気な少年で、見るからに軟弱そうな風貌から
“姫若子(ひめわこ)”と陰口を叩かれていた。「姫君のようなか弱い若様」という意味である。
長宗我部家中から資質を疑われ、戦国大名の嫡子でありながら戦場に出る事がなく
今回の長浜表合戦がようやく初陣、この時22歳という実に遅い初参戦であった元親。
ところが、いったん戦場に出るや大化けし、獅子奮迅の大活躍を演じたのである。
卓越した名指揮官ぶりを発揮し、寄せ来る敵を打ち倒すその姿に“姫若子”の面影はなく
誰もが“鬼若子(鬼のように強い若様)”と称賛、長宗我部軍勝利の原動力となった。
長浜表の合戦から数日後の6月15日、国親は急病を発して死去した。しかし国親に
末期の憂いはなかったであろう。あれほど先行きを心配した元親が、これほどまでに
屈強な若武者に成長したのだから。その思いの通り、長宗我部氏の悲願である
本山氏打倒の志は、しっかりと元親に引き継がれる。元親は本山氏に対する攻撃の手を緩めず、
1563年には茂辰の本拠である朝倉城を奪い、現在の高知市一帯を手中に収めた。
この勝利によって長宗我部氏は本山氏に味方していた周辺豪族を服属させる事にも成功。
国親の代から続き、元親は確実に土佐国内の支配権を増大させていったのである。
この後、本山氏は茂辰の子・親茂(ちかしげ)の代に替わるが、
元親からの圧迫は如何ともし難く、1568年に降伏。兼序の敗死から約60年にして、
長宗我部氏は本山氏に対する復讐を成し遂げたのであった。
先祖の悲願を達成した元親。次の目標は、権力の空白地として乱れた土佐国の統一である。

一領具足 〜 長宗我部氏独自の軍制
国親時代から引き継がれた長宗我部氏独自の軍制が一領具足である。
戦国時代と言えども、軍組織の中心となる歩兵=足軽は古来から続く半農半士の生活を送り
自分の土地で耕作を行いつつ、戦の時だけ武装して参加するという環境に変わりはなかった。
となると、土地に縛られる足軽は、農耕をおろそかにはできない為に長期遠征が不可能であり
必然的に行軍範囲も限られるものになっていく。つまり半農半士の民兵を、何時でも
何処にでも軍事動員するなどと言うことは出来ないのだ。“戦国時代”と言うと、いかにも
毎日のように戦っていたように思えるが、やたらに戦争を起こすという事は無理な話で、
実は多大な制約の下で、極めて限られた範囲で合戦が行われていたのである。
これは全国どの大名の軍組織でもほぼ同様の状況であったと言える。
戦国大名にとって、兵員の確保は想像以上に難しいものだった。
ところが長宗我部氏は、この半農半士を積極的に活用した。農耕の生産性を維持しつつ
軍備も為すにはこれしかないとばかりに、民兵をそのまま軍団の編成に織り込んだのだ。
これらの半農半士階級を地域別に組織して部隊を編成、武功を挙げれば正規兵に取り立て
年貢の減免措置も講じて士気の高揚を図った。この軍制度が一領具足と呼ばれるものだ。
一領具足の展開によって、長宗我部軍は農耕と軍拡を見事に両立させ、
兵員の増強を成す事に成功した。宿敵・本山氏を倒した長宗我部氏は土佐国中央部を制し
ますます一領具足の制度を拡充していく。軍備に抜きん出た長宗我部氏は、
1560年代後半に土佐国東部の土豪・安芸氏をも滅ぼし、土佐国の大半を掌中にする。
元親の土佐統一は、夢から現実へと変わりつつあった。

元親の土佐統一 〜 “土佐の出来人”、一条氏を倒す
国親、元親という有能な当主に率いられ伸張甚だしい長宗我部氏。それに対し、
土佐一条氏は衰退の道を辿っていた。一条氏の最盛期を築いた房家が没した後は
才覚有る当主に恵まれず、次第に配下の国人衆も一条氏の支配を離脱していったのだ。
戦国の争乱期にあっては、“名門”の名だけでは生きて行けない。実力が伴ってこそ
配下の武将も従うのであって、名前ばかりで力のない当主とあっては離反されて当然である。
房家の孫・房基(ふさもと)は、家臣に軽んじられる風潮に耐えきれず、心を病んで自害したという。
跡を継いだ房基の子・兼定(かねさだ)はさらに酷い状況を作り出す。名門意識に溺れ、
実力もないのに国司気取りで家臣に高圧的態度を取り、放蕩生活を繰り広げる毎日の兼定。
これを諌めようとした重臣・土居宗珊(どいそうさん)に激怒し、何と彼を斬り捨ててしまったのだ。
1573年の事である。忠義の家臣を処刑した無能な君主とあっては、いよいよ配下の国人衆は
反発の度を深め、遂に兼定は中村の地を追放され、兼定の子である内政(ただまさ)
一条氏の新たな当主に据えられた。とはいえ、無能な一条氏にこれ以上統治を
任せる訳にはいかないと考えた家臣団は、内政の後見に長宗我部元親を指名し援助を求めた。
結果として一条氏の権力は剥奪され、実権は元親が握るようになったのである。
一方、国を追われた兼定は豊後国の大友宗麟を頼った。兼定の妻は宗麟の娘で、
兼定にとって宗麟は義理の父に当たる人物だったのだ。宗麟に感化された兼定は、
宗麟同様にキリスト教へ改宗。大友氏の援助を受けて1575年に土佐へ帰国し
領地の回復とキリスト教国の建国を目指して挙兵したのであった。
さすがに旧国主の帰還、それも大友氏の支援を受けているとあっては周辺豪族も色めきたち
兼定の兵は3500にも膨れ上がった。もちろん、目指すは中村の城。
元親に奪われた城を取り返し、土佐国をキリシタンの国にしようと目論んだのである。
(壮大な夢…というか無謀で荒唐無稽な話なのだが)
四万十川古戦場
四万十川古戦場(高知県中村市)

写真中、橋梁の向こう側が
元親軍と兼定軍が対陣した場所にあたる。
最も右にある緑の山が中村城の跡。
兼定の居城であったが、元親の手に落ち
この合戦では長宗我部軍の基地となった城である。
中村城を目指して西から進軍する兼定軍。一方、これに対する長宗我部軍も防戦態勢を整えた。
中村城のすぐ麓を流れる四万十川を挟み、両軍は対陣したのである。
川の西岸にある栗本城に本拠を構えた上、河原へ布陣し長宗我部軍を誘い込もうとした兼定軍は
水辺に乱杭を設置して長宗我部軍の来攻に備えた。中村城を出撃した元親軍の足を止め
そこに攻撃を加えようという算段である。が、この程度の計略は百戦錬磨の元親にとって
罠とも呼べない稚拙なもの。中村城を出た長宗我部軍はわざと川の上流に遡って渡河し
兼定軍を包囲して攻撃を開始したのであった。もちろん、結果は元親軍の大勝。
栗本城に逃げ込もうとする兼定軍を追撃し、200名以上の兵を討ったという。
もともと寄せ集めの兼定軍であるから、満足な統制が取れなかったのも敗因であろう。
(所詮、兼定が「無能なバカ殿」という事が全ての原因なのである)
その栗本城も3日で攻略され、兵を失った一条兼定は南伊予へと逃亡。
長宗我部氏にとっては大恩のある一条氏であったが、既に実力が伴わぬのに
元親と対決する愚を犯し滅亡への道を辿った。兼定の敗退によって土佐国内は
長宗我部氏に逆らえる者がいなくなり、ここに元親の土佐統一が完成したのである。
“姫若子”元親は、本山氏・安芸氏・一条氏など土佐の諸勢力を討ち倒し
ついに“土佐の出来人(英雄)”にまで大成したのであった。
戦乱で荒廃した土佐を統一した元親は、更なる大目標に向かって動き出す。
その目標とは―――そう、四国全土の統一である。
国内で争い続けていた土佐の軍勢は、元親という名将に指揮されていよいよ他国へ打って出る。
土佐湾という鉄壁の防御壁を背後にし、東は阿波国、西は伊予国へと進出を開始した。
なお、伊予に逃げた兼定が再び挙兵せぬよう元親は後顧の憂いを絶つべく刺客を放つ。
殺害するまでには至らなかったが、重傷を負った兼定は傷癒える事なく
不自由な身体になってしまったという。結局1585年、兼定は無能無力のまま没した。
こうして土佐一条氏は歴史から消えていったのである。




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