北九州の覇権

古代から朝鮮・中国との玄関口となってきた九州の北部。
それは同時に、外敵に対する最前線も意味し、蒙古襲来では博多や松浦が戦場となった。
戦時には徹底的に敵を排除せねばならない、という風潮が根付くようになったこの地は
戦国争乱の時代において、領主が独立を堅持し、侵略者を断固として倒すために
あらゆる方面で戦闘が続けられるようになっていたのである。
互いに覇を競い、戦いに明け暮れる九州北部の戦国大名とは。


少弐氏と大内氏 〜 北九州の対立
鎌倉時代、元寇に備えた武藤資能という人物を紹介したのを覚えておられようか。
大宰府を守る役目を与えられた武藤氏は代々太宰少弐(だざいしょうに)の官位を世襲し、
その慣習は室町時代を過ぎ、戦国時代となっても変わらなかった。そのため、いつしか
武藤氏は少弐氏と改姓するようになり、筑肥地方を領有する古豪として勢力を維持した。
一方、中国地方の雄・大内氏は筑前および豊前(共に現在の福岡県)守護の職も兼ねており、
北九州に足がかりを持っていたのである。当然この両者は戦国時代になると
領土の奪い合いを始め、本州から九州へと勢力を広げたい大内氏が侵攻し
それを阻止したい少弐氏が撃退の軍をぶつける事が茶飯事となっていった。
1497年、数で勝る大内軍は少弐軍を打ち負かし、少弐氏は衰退。しかし1530年8月には
田手畷(たてなわて)の合戦で少弐軍が大内軍に大打撃を与えて撃破する。
この田手畷の合戦で活躍したのが少弐配下の将である馬場氏、龍造寺(りゅうぞうじ)氏
それに龍造寺家臣である鍋島氏の軍勢であった。煮え湯を飲まされた大内氏は、
政略を含めて少弐氏を圧倒すべく画策。太宰大弐(だざいだいに)の官位を得て
名目的に少弐氏の上を行く存在である事をアピールしたり(←子供の喧嘩か…)、
少弐家中随一の軍事力を誇る龍造寺氏を篭絡し、少弐軍の統制を乱して
ようやく1536年9月、少弐氏を打ち破ったのだった。以後、少弐氏は没落していく。

龍造寺氏の台頭 〜 一族全滅からの再興
大内方に寝返り少弐氏没落の原因を作った龍造寺氏。
次第に肥前国(現在の長崎県・佐賀県)の実権は少弐氏から龍造寺氏に移って行く。
これを許し難い裏切りと見た馬場氏は、1540年に龍造寺氏の本拠である
水ヶ江城を攻め取り、龍造寺一族のほとんどを殺害した。残されたのは
龍造寺氏の最長老である龍造寺家兼(いえかね)とごくわずかの者。
城を失い、親族を失った家兼は馬場氏に対する復讐を誓い雌伏する事5年。
1545年3月に御家再興の兵を挙げて水ヶ江城を奪還すると共に、馬場氏を滅ぼした。
これにて肥前国は完全に龍造寺氏が治める国となり、北九州に新たな戦国大名が
誕生したのである。しかし翌1546年、家兼は没し(93歳という高齢だったと言われる)
その家督を巡り龍造寺の家は2つに割れた。家兼の曾孫である胤信(たねのぶ)
家兼の孫・鑑兼(あきかね)を推すグループに分裂したのだ。
嫡流と呼べるのは胤信であったが、鑑兼は豊後国(大分県)大名の大友氏を味方につけ
その強力な軍事力を背景に当主の座を狙う。一方の胤信は、これに対抗すべく
大内義隆の支持を取り付け、義隆から一字を拝領しその名も隆信(たかのぶ)と改めた。
ところがその直後、大内義隆は陶隆房のクーデターに遭い死亡。後ろ盾が消えた隆信は
鑑兼方に攻められ、命からがらに筑後国の蒲池鑑盛(かまちあきもり)を頼って脱出した。
こうして龍造寺の家督は、鑑兼のものになったかに見えた。しかし曽祖父・家兼同様に
雌伏した隆信は、粘りに粘って1554年、鑑兼打倒の兵を挙げたのである。
この時、龍造寺の家臣団は大友氏を頼る鑑兼に反感を抱いており、あっさりと隆信を受け入れた。
蒲池鑑盛の軍事援助もあって鑑兼は敗北、ようやく隆信が龍造寺氏の家督を継承したのである。
以後隆信は肥前・筑前の平定を為すべく各地に戦い、1559年には少弐氏を完全に滅ぼし
さらに九州全土の覇権を狙うまでに成長していくのである。
“肥前の熊”と例えられる龍造寺隆信、「九州三強」と呼ばれる大大名の一人である。

豊後国大名・大友氏 〜 これまた鎌倉時代から続く武家の名門
九州三強とは、肥前の龍造寺氏と薩摩の島津氏、それに豊後(大分県)の大友氏である。
先般からチラホラと名が出てきた大友氏とは、どんな勢力なのであろうか。
その起源を遡ると、島津氏同様に鎌倉時代にまでたどり着く。清和源氏の庶流である大友氏は
鎌倉幕府によって豊後守護の職を命じられ九州に入った名門中の名門武家。
もちろん、元寇では北九州防衛の賦役を請け負い、室町時代になってからも
豊後国守護たる地位を堅持して強大な軍事力を培ってきた武断の家柄である。
この軍事力を背景にして大友氏は九州各地の豪族を力で征服し、領土を拡大していく。
こうした軍事拡大政策は、豊後国内のみならず豊前国方面や筑後国方面にまで及び
大友氏の勢力は九州北部の大半を占めるほど大きなものになっていた。支配下に置かれた
各地の豪族は、独立の不満を抱きつつも強大な大友氏には抗えず、服従せざるを得なかった。
さて、北九州の盟主たる大友氏は、少弐氏と同様に大内氏の九州進出を阻むべく軍を展開し、
数度に渡って北伐の戦いを繰り広げるようになっていた。特に有名なのが
1534年4月に行われた勢場ヶ原(せばがはら)の合戦であろう。
大内義隆の命を受けた3000の軍勢が豊前国から豊後国へと侵入したのに対し、
大友軍は2800の兵力でこれを迎え撃った。兵力としてはほぼ拮抗である。
待ち伏せする大友軍。ところが大内軍はこの裏をかき、大友軍の側面から奇襲したのだ。
大混乱に陥った大友軍は、名だたる将を戦死させてしまう。それでも執念で反撃に転じ、
両軍とも凄まじい犠牲を払ってこの合戦を終了させたのであった。結局大内方は
大友領を犯す事が出来ず、大友軍は領土防衛の意地を見せつけた。
少弐氏、大友氏ともに頑として大内氏の九州進出を認めず、
家が倒れようと、大きな犠牲を払おうとその信念を曲げる事はなかったのである。

二階崩れの変 〜 大友氏の家督騒動
大内義隆は陶隆房の謀反に遭い落命、これにより大内氏の九州進出は勢いを失った。
一方、時を同じくして大友氏でも政変が発生した。大友氏第20代当主・義鑑(よしあき)には
嫡男の義鎮(よししげ)がいたが、若い頃の義鎮は病弱だったため、義鑑はこれを嫌い
老いてから為した3男・塩市丸(しおいちまる)を溺愛し、そちらに家督を継がせようと考えた。
塩市丸の母に家督をせがまれての事とも言われる(老いらくの恋は手が付けられん…)。
しかし、長幼の序を無視した行いに反発する家臣も多く、家中は義鎮派と塩市丸派に分裂してしまう。
何としても塩市丸に家督を継がせようと躍起になった義鑑は、義鎮に遠征を命じて
豊後府内(大友氏の本拠地)から遠ざけ、その隙に義鎮を推す家臣を処分しようと画策。
何と、義鎮派の家臣数名を手打ちにしてしまった。これに危機感を感じた残りの義鎮派家臣は
同日夜半“このまま殺られるならいっその事”とばかりに義鑑を襲撃。塩市丸とその母を斬殺し、
義鑑にも重傷を負わせたのであった。事態を耳にして急遽帰参した義鎮は、
家内の争乱を鎮撫し、これ以上の騒動が起こらぬように手配。これを見た義鑑は、
義鎮の器量を見誤っていた事を悔い、大友家の家督を譲った。数日とせずに義鑑も没し、
惨劇に血塗られながらも義鎮は大友氏の総領となったのである。
義鎮が家督を相続する際に起きたこの騒動は、居館の2階で就寝していた義鑑が襲撃された事から
二階崩れの変と呼ばれ、九州戦国史に一石を投じる大事件とされている。
大友義鎮、後に出家して大友宗麟となる人物こそ、島津義久・龍造寺隆信と九州の覇権を争い
「九州三強」の一角を為した名将である。義鎮は大友氏の領土を史上最大にまで広げる軍略と
南蛮文化に理解を示す開明性、中央政権との繋がりを上手く利用する外交能力など
多方面に渡る才能を持ち合わせた人物として名が知られている。

北九州諸豪族の動向 〜 国際貿易港・博多を巡る利権
現在の福岡県西部、特に博多周辺は立花氏・秋月氏・筑紫氏・高橋氏といった諸豪族がひしめき
その去就は定かでなかった。古くから独立心の強い九州の諸豪族は、
強大な隣国に服従するそぶりを見せながら、その度に離反し、また別の勢力に参集し…という事を
繰り返していたのである。伝統的に少弐氏が北九州を統括する立場にあった頃は少弐氏に従い、
少弐氏が衰退すると今度は大友氏に従い、龍造寺氏の動きを観察しつつ
それでも独立の機会を窺う、という感じだったのだ。
これに突け込んだのが本州から北九州を狙う大内氏であった。少弐氏や大友氏の配下にあった
これら北九州諸豪族をそそのかし、反乱を起こさせ、混乱している隙に
大内氏が九州上陸を進めようという魂胆だったのである。大内氏が滅亡してしまうと、
その遺領を引き継いだ毛利氏もまた同様に北九州の豪族へ調略の手を伸ばし、
進出の機を狙うようになった。では、少弐氏・大友氏・大内氏・龍造寺氏・毛利氏らは
なにゆえこの地を欲していたのであろうか。答えは簡単、国際貿易港である博多の利権である。
勘合貿易、次いで南蛮貿易の拠点となった博多は堺に並ぶ巨大港湾都市であり
そこから上がる貿易収入、交易品といった利潤はかけがえのないものだった。
よって、北九州に覇を唱える大名は博多の地とそれに隣接する所領を得て
自国の経済基盤を確保しようとしていたのだ。
少弐氏の衰退後、博多周辺の諸豪族は大友氏の庇護下に入り命脈を保った。
つまり、博多近辺の利権は大友氏のものになったのである。
ちょうどこの時期に大内氏も滅亡した為、邪魔者のいない今こそ好機とばかりに
大友氏は半ば強引な吸収策を講じて諸豪族を従えたのであった。
しかし、大友氏による力攻めの支配に満足した訳ではない彼等は、常に不満を募らせていた。
1559年、大内氏滅亡後の混乱を収束させた毛利氏が門司に侵攻。これを機に
北九州の諸豪族は続々と反大友の烽火を上げるようになる。筑紫氏の反乱を契機として
秋月氏、さらには大友一門であった立花氏までが決起。無論、彼等は毛利元就に焚きつけられ
大友義鎮への挙兵を行ったのだ。特に立花氏の反乱は複雑なもので、1度は義鎮に許されながら
再び叛旗を翻す。激怒した大友氏は立花氏を攻め滅ぼし立花城(立花氏の本拠)を手にするが、
そこへ毛利軍が来攻して立花城を奪い取った。これに対抗する大友氏は、大内輝弘に兵を与え
山口への侵攻作戦を展開した、というのは毛利氏の紹介で記述した通りである。
結果、毛利軍は大友氏との停戦を結ぶに至り、再び大友氏が北九州の領有を勝ち取ったのである。
力攻め・謀略・反乱・陽動作戦など、あらゆる戦術が飛び交いながら博多の利権は変動し
1570年代、ようやく本州勢を排除した大友氏が磐石の支配体制を打ち立てるに至った。
ここに大友宗麟は大友氏最大の版図を築き上げ、絶頂期を迎えるのである。

今山の合戦 〜 名将・鍋島直茂の鬼策
肥前国主となった龍造寺隆信。少弐氏を滅ぼし、戦に戦を重ね、激戦を勝ち抜いていった彼は
着実に勢力を伸ばし、筑前・筑後方面に進軍して行く。当然、その先に控えるのは
博多を手にした大友氏であった。大友氏の方でも、ようやく毛利氏を除いて博多を抑えたのだから
今度は西から龍造寺氏が迫ってはたまらない、という感じで警戒感を募らせていた。
事ここに至り、大友宗麟は「毛利氏の去った今こそ、博多支配を完全なものにする」として
西側の脅威である龍造寺隆信の排除を決断。1570年3月、3万もの大軍を発した大友軍は
大友親貞(ちかさだ)を総大将として徐々に龍造寺領へ侵攻、
8月には5000足らずの兵しかいない隆信の居城・佐嘉(佐賀)城を包囲したのである。
大友の大軍に囲まれ、将兵は疲労し、落城は時間の問題。
さしもの龍造寺軍も大友氏には叶わず、もはやこれまでかと思われたその時
逆襲の作戦を提示した武将がいた。龍造寺家臣、鍋島直茂(なべしまなおしげ)である。
智略の将・直茂は、城を包囲した事で大友軍が慢心している今こそ奇襲の好機であると主張。
しかし籠城に疲れた他の武将は、この策を取り上げようとしなかった。が、この策を支持する
有力者が城中にいた。隆信の母・慶ァ(けいぎん)だ。
慶ァは直茂の父・鍋島清房(きよふさ)と再婚しており、隆信と直茂は義兄弟の間柄であった。
このため、慶ァは義理の息子である直茂の意見を重んじ、隆信に採用を迫ったのである。
こうして直茂の策は実行に移され、親貞の陣に夜襲がかけられた。結果、親貞は討ち取られ
奇襲は大成功を収める。勢いに乗った龍造寺軍は大友軍を追い出し、隆信と宗麟の間には
不戦の和議が結ばれるようになるのであった。この戦いを今山の合戦と呼び
大友氏の脅威を跳ね除けた龍造寺氏は、さらに領国支配体制を強固なものにする。

耳川の合戦 〜 島津氏の北上(1)
1570年代になると、毛利氏の九州上陸を阻止した大友氏は筑前・豊前・豊後を手にし、
その大友氏と拮抗する勢力になった龍造寺氏は肥前・筑後を治めるようになった。
福岡県・大分県は大友氏の領土、長崎県・佐賀県は龍造寺氏のもの、と言えば分かりやすい。
こうした状況の中、南九州から迫るもう一つの勢力があった。島津氏である。
薩摩・大隅(鹿児島県)を固め、日向国(宮崎県)の伊東氏を追い出した島津氏は
順調に北上政策を推進してきたのである。国を追われた伊東氏が大友宗麟に泣き付いた事で
大友氏が次に戦わねばならない相手は島津氏と定まった。当然、島津氏にとっても同様で
日向から北へと侵攻する以上、大友氏とは干戈を交えねばならない。
1578年、6万もの大軍を編成して大友軍は島津領への侵攻を開始した。この頃、宗麟は
キリスト教に改宗しており、日向国を平定してキリスト教の国を打ち立てるつもりでいたのだ。
“神の使者”を標榜する宗麟は、進軍途上にある寺社仏閣を次々と破壊。キリスト教の国には
日本古来の宗教を祭るものなど不要である、と言わんばかりの行為であった。
すっかり十字軍となった大友軍。宗麟は、島津氏の打倒と共に自らの政治色を喧伝するために
この軍を発したのである。大友軍の蛮行に恐れおののいた日向の諸豪族は、
大友勢が近づくや城を明け渡して次々と降伏していく。島津氏の軍勢と対陣するまでは
宗麟にとってこれほど容易い進軍はなかったに違いない。気を良くした大友軍は
ためらう事なく南への路を進み、いつしか島津領の奥深くまで入り込んでいた。
また、宗麟自身はキリスト教国の建設に没頭し、日向国内に逗留。同地で宗教に傾倒した
内政ばかりを行うようになり、南進する大友軍に対しては後方から漠然と指示を出すに留まった。
この油断が命取りとなった。土地勘の無い場所にも関わらず慢心し、
しかも大将である宗麟の指揮が明確でない状況の大友軍は
島津氏の将・山田有信(やまだありのぶ)の守る新納院高城(にいろいんたかじょう)を
攻略する際、満足な統制も取らず、周囲の地形にも気を配らずに布陣してしまう。
高城は周囲を耳川(宮崎県日向市の南を流れる大河)に囲まれた要害の地。
この城を攻めようとした大友軍は、逆に島津軍本隊4万の来攻に包囲され不意打ちを受け
11月12日、大敗北を喫した。大友軍の死者は2万人にものぼると言われる。
耳川の合戦における敗戦で、大友氏の領土拡大は頓挫し、今度は凋落するようになっていく。
一方の島津氏は難敵・大友氏をねじ伏せた事により、豊後方面への北上が可能となった。
こうして、宗麟の“日向キリスト教国化計画”は挫折。島津氏に日向国の支配権を奪われた上
本領である豊後国もその脅威に晒されるようになっていくのである。

沖田畷の合戦 〜 島津氏の北上(2)
日向・豊後方面への侵攻ルートを確保した島津軍。となれば、次のターゲットは
西九州の雄・龍造寺氏である。この頃までに龍造寺隆信は肥前・筑後と肥後北部を平らげ
五州二島の太守と呼ばれる程にまで成長していた。苛烈な侵略で伸張する軍事大国だ。
肥後南部の古豪・相良(さがら)氏を降した島津氏は、いよいよ龍造寺氏と領土を接し
両者の間に緊張状態が生じる。こうした最中の1582年冬、龍造寺氏に服従していた
島原地方の領主・有馬晴信(ありまはるのぶ)は島津氏と図って反乱を起こした。
隆信は軍勢を派遣して有馬氏の鎮圧を進めようとしたが、なかなか上手くいかない。
痺れを切らした隆信は自ら2万5000もの軍を率いて有馬攻略に趣いた。1584年の事である。
龍造寺軍の総大将が出陣するという大ごとにまで発展したこの騒動に対し、晴信は
救援を島津氏に依頼する。これを受けた島津義久は、わずか3000ながら援軍を派遣。
しかしこの3000の兵が勝敗を決する重要な活躍を演じるのである。
3月下旬、森岳城に篭る有馬勢に対し、北側から龍造寺軍が迫った。一方、島津軍は
圧倒的に数が少ない兵を有効に活用すべく、布陣に工夫をこらした。部隊の一部を船に乗せ
海上から砲撃するように準備し、残りの兵を沼地の端に展開した。こうすると、
島津軍を攻める龍造寺軍は沼地を越えて突撃しなくてはならなくなるのだ。
力攻めを得意とする隆信は、この策に嵌った。島津軍の囮部隊に釣られ、
足場の悪い沼地へ入りこむ隆信。そこへ海上から鉄砲の一斉射撃が加えられたのだ。
何と、この銃撃で龍造寺軍総大将の隆信が戦死してしまう。もちろん、龍造寺軍は敗退。
1584年3月24日、沖田畷(おきたなわて)の合戦で敗れ、当主までも失った龍造寺氏は
以後、急激に衰退していく。家の柱となる大名が討死したのだから当然であろう。
「九州三強」の一人・龍造寺隆信は戦死し、もう一人の大友宗麟も耳川敗戦以後勢力を弱めた。
残る一人である島津義久が一人勝ちの状況となった九州地方。強敵を下した島津氏は、
九州統一の野望を現実のものにするため、さらに北へと進出していくのであった。

天正遣欧少年使節 〜 キリシタン大名、遠くヨーロッパに少年を送る
さて、ここで話題を変えよう。ザビエルが伝えたキリスト教は徐々に信者を増やし、
大名の中にも改宗する者が現れた。これらの大名をキリシタン大名と呼び
大友宗麟などはその代表格と言える。この後、織田信長が西欧人を保護したため
畿内の武将にもキリシタンは増えていくが、それを除くとやはり九州の大名にその傾向は顕著だ。
宗麟の他、有馬晴信もそうだし、晴信の弟で大村領主・大村家に養子入りした
大村純忠(おおむらすみただ)、平戸領主でイスパニア(スペイン)との交易を開いた
松浦隆信(まつらたかのぶ)、対馬島主の宗義智(そうよしとも)などが挙げられよう。
1579年に来日したイエズズ会の巡察師(総長に代わりアジア布教の指導に当たる宣教師の長)
アレッサンドロ=バリニャーニ(バリニャーノともは、日本布教のための体制を整える傍ら、
日本人をヨーロッパに招き、西欧文明への理解を進め、キリスト教の素晴らしさを広めようと考え
九州のキリシタン大名に使節を募った。大友宗麟・有馬晴信・大村純忠はこれに賛同し
3大名の代理という形で少年4名が選ばれる。正使は伊東マンショ千々石(ちぢわ)ミゲル
副使は原マルチノ中浦ジュリアン。この時、原は15歳、他の3名はいずれも13歳の少年で、
多感な年頃の少年に欧州の新鮮な感動を与え、帰国後には日本国内のキリスト教指導者へと
養成しようという企画であった。1582年1月28日に長崎を出港した彼等は、2年以上の航海を経て
1584年秋にリスボンへ入港、10月12日にマドリードでスペイン国王・フェリペ2世に会い
1585年3月、ローマに到着。そして6月、ローマ法王・グレゴリウス13世に謁見するのである。
(中浦ジュリアンは病気のため非公式会見に留まった)
礼儀正しい日本人少年の姿に感動したローマ法王は、一行にローマ市民権を与え
欧州各地でははるばる極東の島国からやって来た少年使節を見ようと熱烈な歓迎ぶり。
1586年になりようやくリスボンから帰国の途についたのであった。
しかし彼らが日本に帰国した1590年、日本国内のキリスト教事情は一変しており(後頁で解説)
大友宗麟も大村純忠も既にこの世の人ではなかった。帰国後の使節は冷遇されたのである。
1582年に出発したこの使節は、当時の元号から天正遣欧少年使節と呼ぶ。
蛇足ながら正使の伊東マンショ、伊東という姓からわかるように
前頁で登場した日向領主伊東義祐の孫、伊東祐益(すけます)の事である。




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