南蛮文明との遭遇

タイミングが良いと言うべきか悪いと言うべきか、
日本が全国で争乱を繰り返していたこの時期に、それはやって来た。
轟音を発し、火柱を吹き、一瞬で遠方の敵を撃破する道具、鉄砲である。
それに遅れること数年、続いてやって来たのは西南蛮の異文化・キリスト教。
戦乱で荒廃した日本の人々に、新たな宗教と思想・学問は何をもたらすのか。
南九州の戦国大名を紹介すると共に、大航海時代と日本の関わりを解説する。


大航海時代と宗教改革 〜 この当時の世界情勢
唐突だが、日本を離れ世界に目を向けてみたい。
はるか古代から東洋と西洋を結んでいた陸路・シルクロードは、モンゴル帝国の崩壊と共に衰退。
中近東の物産や中国の商品を欲していたヨーロッパの商人は、新たな交易路の開拓が必要となり
海路でインドや中国へ向かうルートの研究をしはじめた。
これが15世紀末から16世紀にかけての事で、1487年にポルトガル人のバルトロメウ=ディアス
アフリカ大陸最南端の喜望峰を発見、1492年には有名なコロンブスがスペインの後援を受けて
アメリカ大陸方面の航路(西回り航路)を開拓したのである。さらに1498年、ポルトガルの
ヴァスコ=ダ=ガマがインドとの交易にかろうじて成功を収め、
1519年〜1522年にはマゼランの艦隊が世界一周航海を行った。
スペイン、ポルトガルといった欧州の国々はこぞって新航路の開発に力を注ぎ
西洋の船が東洋へ進出する準備が着々と進められていたのである。
この情勢を「大航海時代」と呼ぶ。大航海時代に開発されたさまざまな航路は、
商人たちの交易路として発達し、やがて欧州諸国が植民地を得るための進出路となる。
もう一つ、この時代のヨーロッパで特筆すべき事情がある。キリスト教の宗教改革だ。
本来、神を信仰し人々の罪を償い救済を行うべきキリスト教の聖職者達は、
15世紀頃には宗教的指導者の立場を悪用して支配階級制の頂点に君臨するようになり
挙句には異なる思想の者を「異端」とし破門・処刑するという由々しき事態を招いていた。
しかも、一般民衆には“これを持てば罪が許される”とする「免罪符(贖宥状)」を売りつけ
聖職者たる者が利益行為に走るという腐れた状況にまで堕落。
これを憂いた者たちが、悪しき習慣の廃絶を主張して新たなキリスト教の宗派を打ち立てた。
こうして行われたのが宗教改革であり、新宗派の代表として有名なのが
マルティン=ルターツヴィングリカルヴァンといった面々であり、
彼らが興した新宗派は総じてプロテスタントと呼ばれる。
一方、旧来の宗派(カソリック)の中でも反省を行い、プロテスタントとは異なる方法で
改革を行う者たちがいた。こうした行いは、宗教改革とは一線を隔した自己改革であったので
反宗教改革と呼ばれる。反宗教改革の実行者として有名なのがイグナティウス=ロヨラ率いる
イエズズ会のメンバーだ。イエズズ会はプロテスタントに対抗し、巻き返しを図るべく
新たな宗徒を増やそうと布教活動を展開。その一環として、新航路の先にある
まだ見ぬ地の人々を宗徒にしようと海外へ飛び出す者たちがいたのである。
交易を求める西欧の商人、布教活動を行うカソリックの聖職者、
そういった彼等は日本のすぐそばまで近づいていた。

鉄砲伝来! 〜 “種子島”の衝撃
1543年8月25日(1542年という説もある)、1隻の南蛮船が種子島に漂着した。
乗り組んでいたのはポルトガル人の商人と中国人の水夫らである。
中国との交易を目指して渡海する途中、嵐に遭遇して種子島へ流されたらしい。
今まで見たことも無いような異国の船が来航した事に、島民は騒然となり
すぐさま代官の西村織部丞(にしむらおりべのじょう)へ通報し、それを聞いた織部は
大船の姿を確認すると種子島領主・種子島時堯(たねがしまときたか)へと報告した。
知らせを受けた時堯は、すぐに彼等を引見し来航の経緯などを質問したのである。
この中で注目されたのが、彼等の持つ鉄の棒であった。それは何かと尋ねると
商人は立ち上がり、庭先に向かってその棒を構え、引き金を引く。その途端、
雷鳴のような轟音と共に鉄棒の先端から炎が噴き出し、遥か彼方にあった木の枝が吹き飛んだ。
異国の新兵器、火縄銃の威力である。この性能に注目した時堯は、即座に火縄銃の購入を決めた。
しかも、銃を2丁譲り受け、そのうちの1丁は複製品製造の研究用に充てたというのであるから
時堯の先進性には目を見張るものがある。時堯は、その研究用火縄銃を現地の鍛冶職人
八板金兵衛(やいたきんべえ)に与え、分解・研究をした上で複製品を作れと命じた。
さらに、家臣の笹川小四郎(ささがわこしろう)には火薬の調合を学ぶように申し付けており、
購入当初から鉄砲の生産と使用を視野に入れていた事がよくわかる。
伝来の地からその名も“種子島”の異名で呼ばれるようになった火縄銃は、
その脅威的な攻撃力で戦国時代後期には戦闘で欠かせぬ武器と珍重されるようになるが
種子島時堯、そこまで見越しての鉄砲入手であったのだろうか―――。

鉄砲の国産化 〜 堺・根来・国友へ
偶然にも、種子島は砂鉄の生産地であり、古くから製鉄技術は高かった。このため、
金兵衛は比較的容易に鉄砲を作る事ができたようだ。しかし、難問が一つあった。
砲身の銃底側を塞ごうとして加熱・溶接すると、砲身自体が熱で変形してしまい
狙い通りに弾が飛んでいかないという問題が発生したのだ。
この問題がどうしても解決できない金兵衛。思案の末、南蛮人に教えを請うため
自分の愛娘を彼らの妾として差し出したという悲話が伝えられている。
その解決法とは、ネジ止めだったのである。当時の日本にはネジの技術が無かったので
加熱する事なく「回して締める」という画期的な方法に驚愕したという。
ともあれ、最後の難関を解決した金兵衛は、見事に国産初の鉄砲を完成させた。
しばらく後、火縄銃の存在と製法を聞きつけた堺の商人・橘屋又三郎が、
鉄砲を求めその製法を学び本土へと伝えた。同じく、時堯と懇意であった
津田監物丞算長(つだけんもつのじょうかずなが)により、紀州根来(ねごろ)へも鉄砲は伝わる。
算長の弟が根来寺の杉坊明算(すぎのぼうみょうさん)であった事に由来する。
さらに、鉄砲製造技術は近江国(滋賀県)国友村へも伝播。堺・根来・国友は
日本国内における鉄砲の一大生産地となり、全国にこの新兵器を普及させていく。
然るに鉄砲の全国普及は、それまでの合戦術・築城方法を一変させるのだが
そのきっかけとなり、鉄砲の有効性を証明する戦いが起きるには、あと30余年
1575年の長篠・設楽原合戦まで待たねばならなかった。それと言うのも、伝来当初は
鉄砲を効果的に使用する戦法がまだ確立せず、その価値がなかなか認められなかったからだ。
かなり前に記した、1562年の久米田合戦で三好義賢が鉄砲の銃撃で戦死するという
“火縄銃の戦果”もあったが、基本的に当時の砲術は「大音響で敵を威嚇する」というもので
直接的に鉄砲の殺傷能力を利用するものではなかったらしい。
(久米田で義賢を討った根来衆は、伝来から関わりのある筋金入りの鉄砲武装集団と言える)
また、「飛び道具は武士道に反する」として鉄砲を嫌った大名も多くいた。
鉄砲の生産が軌道に乗るまで金兵衛が苦労したように、
鉄砲の威力が認められるまでも紆余曲折があったのである。

薩摩国大名・島津氏 〜 鎌倉時代から続く武家の名門
さて、ここで話題を変えて九州の戦国大名を紹介していこう。まず最初に挙げるのが
薩摩国(鹿児島県西部)の島津氏。島津氏は鎌倉時代から薩摩国主と認められる名門で
戦国時代になろうともその立場に変わりは無かった。が、この頃の島津家はいくつもの分家が立ち
なかなか家中がまとまらなかった。当然、島津家の支配力にも陰りが見えるようになる。
しかしそんな中で、島津家を救う名将が現れた。分家の伊作家から本家に養子入りし、
島津家第15代当主となった島津貴久(しまづたかひさ)とその実父・忠良(ただよし)だ。
政・戦・智の全てに優れた忠良・貴久父子は対立する一門を次々と倒し、服属させ
麻のように乱れた島津家中を再び統一する事に成功。こうして守護大名から戦国大名への転換を
果たした島津氏は、近隣の諸勢力に対する征服事業へも乗り出していく。
薩摩国の隣国と言えば大隅国(鹿児島県東部)、大隅を支配する豪族は肝付氏。
という事で、必然的に島津氏が対決したのが肝付氏である。もともと島津氏と肝付氏は
犬猿の仲と呼べる対立関係にあり、薩摩・大隅守護の立場にある島津氏が
肝付氏を成敗するという形で攻撃を進めていく。この渦中で1549年、肝付側が
火縄銃を初めて合戦に投入、これが日本における鉄砲の初実戦使用と言われている。
もっとも、この時使用された火縄銃はごく少数で、効果は全く無かった。
やはりまだ鉄砲戦術は未熟だったと言えよう。結局、肝付氏は劣勢に立たされるようになり
逆に島津側も鉄砲を使用するようになって行き、最終的に肝付氏は敗北、滅亡する。

キリスト教伝来 〜 “南蛮貿易”のはじまり
さらに話題を変えていく。種子島に鉄砲が伝来して6年後の1549年8月15日、
南蛮船が鹿児島に入港した。この船に乗っていたのはイエズズ会の宣教師、かの有名な
メステレ=フランシスコ=ザビエルとその従者の日本人・弥次郎(やじろうあんじろうとも
ポルトガルを出発し、東洋人にキリスト教の教えを広め、信者を増やすためにやって来たザビエルは
マラッカで弥次郎に出会った。弥次郎は些細な事で殺人を犯してしまい、国を捨てて
遥か南方のマラッカまでやってきたのである。罪を悔いる弥次郎に対し、ザビエルは教義を説いて
キリスト教に改宗させ(これが日本人初のクリスチャンである)、さらに弥次郎の故郷である
鹿児島へ渡り日本人にキリスト教を布教するべく渡洋してきたのであった。
南蛮船の入港を聞き、島津貴久は鉄砲の取引に来た商人の存在を期待した。
しかし乗員は宣教師であると分かると、やや落胆。それでも、ザビエルらを優遇すれば
南蛮商人らが来訪し、鉄砲や南蛮の物産品を輸入できるのではないかと考えて
貴久はキリスト教の布教許可を与えた。さすが名うての戦国大名、異国の宗教までも
富国強兵に役立てようとは大した計算である。
さて布教許可を貰ったザビエルは、早速鹿児島の地でキリスト教の布教を開始した。
手始めに弥次郎の家族を改宗させ、一般の民にも路傍で教義を説く一行。
時に貧しき民に救いの手を差し伸べ、病人には西洋医学を施して治療したりもして
西洋への理解とキリスト教の信仰を勧めようと考えたのである。しかし一方では
日本古来の伝統習俗や宗教を否定する事に繋がるその行いが、保守的な者の反感を買った。
その際たる者が仏教の僧侶たちである。キリストなる罪人を拝む異教徒など、
神の教えどころか悪魔の宗教だとしてザビエル一行の迫害を行い始めた。
鹿児島に来訪して約1年後、ザビエルの布教は思うように進まず、仏教徒との対立は激化し
期待した南蛮船も来航しなかった事から、島津貴久は布教許可を取り消した。
ザビエルの日本布教計画は見直しを図らねばならなくなり、次なる布教地を求めて
鹿児島を後にする。ところが、この後になって九州各地には南蛮船が来航。
ザビエルがイエズズ会本部に宛てて出した手紙の情報を元に、南蛮商人が
日本という新たな市場を求めて渡海してきたのである。皮肉な事にも、
ザビエルが去った後にその成果が現れ、鹿児島・平戸・長崎・豊後府内・博多といった
九州の各港は南蛮貿易の特需に潤っていくのであった。

ザビエル、山口へ 〜 キリスト教の日本伝播
鹿児島を追われたザビエル一行が向かった先は京都であった。日本で布教を行うには、
日本の元首・天皇から許可を得るのが最も手っ取り早いと考えたのである。
同時に、日本の宗教情勢を知らねば、また迫害を受ける危険があるため、
天皇の御所があり、室町幕府の将軍が居り、仏教・神道の中枢である京都へ趣いたのだ。
鹿児島を発した彼等は、平戸・博多・山口を経由して京都へ到着。しかし
応仁の乱後の混乱が続く京の町は荒廃し、天皇も将軍も実権などありはしなかった。
これでは布教許可どころの話ではない。考えあぐねた一行は、山口へと引き返した。
当時、山口は大内義隆が本拠とする大都市で、中国地方の中心地となっていたその隆盛ぶりは
京都を凌ぐほどであったからだ。義隆に面会したザビエルは、南蛮からの舶来品や
インド総督からの手紙を献上し、布教許可を求めた。これに対し、学芸好きの義隆は
西洋文明の珍品に一も二もなく飛び付き、布教を許可。ザビエルらを手厚く保護した。
この時、山口には大道寺が築かれる。名前は寺だが、日本初の教会だ。
こうして、ザビエルの布教は山口を中心に行われるようになったのである。
続いてザビエルが向かったのは豊後国の府内。現在の大分市である。
豊後国の領主は大友義鎮(おおともよししげ)、後に入道し宗麟(そうりん)と改名する
強大な戦国大名である。この大友宗麟に接近したザビエルは、豊後国でも布教を展開し
次第に宗麟は南蛮文化への造詣を深めていく。鹿児島では思うような成果が出なかったが
山口、豊後府内では多数の信者を獲得し、西欧諸国にも日本の名を知らしめたザビエル。
戦国時代で乱れた日本の状況では、これ以上の布教が難しいと悟った彼は
中国大陸での布教を優先すべきとし、1551年に日本を発ちいったんインドまで引き返した。
しばらく後に中国・広東省でザビエルは没するが、彼によってもたらされた日本の情報を受け
次々と宣教師が来日するようになる。1556年に来日したガズパル=ヴィレイラ
将軍・足利義輝との面会を成し遂げ、畿内での布教許可を獲得した。ヴィレイラが記した
「耶蘇会士日本通信(やそかいしにほんつうしん)」には堺の状況を記した書簡があり
これまた日本を世界に知らせる効果を生み出し、次なる宣教師を来日させるようになっていく。
西日本を中心にキリスト教は信者を増やしていくと同時に、日本を世界に結びつけていき
宣教師の来日は南蛮文明の浸透とヨーロッパ商人の招来を継続させていったのである。

南九州・名門同士の戦い 〜 伊東氏vs島津氏
さて、薩摩を固め大隅を手にした島津氏はさらに日向国(宮崎県)へも侵攻して行く。
日向国の実質的支配者は土豪の伊東氏。この伊東氏も、鎌倉幕府設立に功があり
源頼朝から日向国の地頭職を任じられた経緯を持つ武家の名門である。
その後、伊東氏は代々日向国に土着し、足利尊氏の九州下向の時にも与力して
室町幕府からも日向国の支配権を認められていた。しかし日向の守護職は島津氏とされ、
これが為に昔から伊東氏と島津氏は対立を続けていたのである。
島津氏が最初に伊東領へ侵攻したのは1369年の事で(戦国時代どころか南北朝時代である)
以来、200年近くに渡っていがみ合う間柄。もちろん、伊東氏も負けてはおらず
1568年には島津氏の持ち城であった飫肥城(おびじょう、宮崎県日南市)が
伊東氏当主・伊東義祐(いとうよしすけ)によって落とされた。
以後、飫肥城は伊東氏の本拠として整備されていく。
伊東氏に対する新たな戦略拠点を必要とした島津氏は、加久藤(かくとう、宮崎県えびの市)に
新城を構築。すでに貴久の代は終わり、島津家第16代当主には貴久の嫡男である
義久(よしひさ)が就いていたが、この義久も貴久に負けず劣らず優秀な戦国大名であり
武略・計略に秀でた弟達を縦横に活動させて島津氏の勢力を広げていった人物である。
義祐と義久、因縁の対決は1572年5月4日の事。目障りな加久藤城を落とそうと、
義祐はこの城を包囲した。しかし戦況は膠着しており、川辺で休息を取る伊東軍。
その虚を突いて、義久の弟にして島津家第一の武勇を誇る島津義弘(よしひろ)の軍が
来攻したのである。あわてた伊東軍は、木崎原(きざきばる)に退いて戦うが惨敗。
伊東軍は名だたる将をほとんど戦死させる大失態を演じ、島津氏に抗う力を失った。
この木崎原の合戦で領土を激減させた伊東氏は、以後島津氏に侵食され続け
1577年12月、島津義弘の軍勢が日向国へとなだれ込んだ事を契機に
義祐は国を捨てて豊後国へと逃亡した。義祐が頼ったのは、上記のキリシタン大名
大友宗麟だ。日向国の利権を巡る争いは、伊東氏から大友氏に引き継がれ、
島津氏vs大友氏という新たな構図を作り出していくのであった。
大隅の肝付氏、日向の伊東氏を降した薩摩島津氏は、更に北上政策を続け
南九州の大半を手にする大大名へと成長していくが、その先に立ちはだかる者は―――。




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