関東諸勢力の対立

平安時代から武士の土地として開発され、鎌倉時代には武家政権が成立した関東地方。
古くから「武士の治める地」であった坂東には、土着の有力武士が多く
室町幕府の出先機関である鎌倉府が置かれた後も、関東には諸勢力が散在し続けた。
応仁の乱、古河公方・堀越公方・上杉氏の対立を経て
北条早雲が下剋上を為し関東に戦国の風を呼びこんだが、
こうした諸勢力は未だに健在であり、互いに協闘を繰り返していたのだ。
室町幕府体制の中で生き残りを図る古河公方・関東管領、各国の守護、
新興勢力で領土を拡大し続ける小田原後北条氏、それに土着の諸豪族。
様々な勢力が対立を繰り広げる中、関東地方はどのように変動していったのか。


小田原後北条氏の伸張 〜 伊豆から相模、そして武蔵へ
前にも記した通り、室町体制における古河公方・堀越公方・上杉家の対立という混乱を突いて
駿河今川家に寄宿していた北条早雲が伊豆に独立国を打ち立て、関東の戦国時代がスタートした。
早雲は伊豆の国侍に真っ当な権利を認め、領民に年貢減免などの善政を敷き支持を集め
さらには小田原城を奪取、相模国(神奈川県西部)までも支配下に置いたという所まで説明した。
早雲の施政・戦略は室町旧体制のそれとは全く異なる革新的なものであり、
先見性に優れた的確な方策によって小田原後北条氏は爆発的な伸張を遂げるのである。
当然、旧体制に属する者たちは危機感を募らせる。特に後北条氏が攻略を仕掛けた
武蔵国(東京都・埼玉県と神奈川県北東部)を領有する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は
その最たる者であった。早雲の跡を継ぎ、相模から北上していく北条氏綱は
武蔵国の諸城を次々と攻略、扇谷上杉氏は徐々に圧迫されていくが
これに対する有効な打開策はなかなか見つからない。硬軟取り混ぜた氏綱の戦略により
1524年、高輪原(たかなわはら、高縄原とも)における合戦で扇谷上杉軍は大敗、
江戸城を守る扇谷上杉方の重臣・太田資高(おおたすけたか)資貞(すけさだ)兄弟までが
北条方へ寝返ってしまった。これにより、後北条氏は江戸周辺も領有するに至り
江戸湾(現在の東京湾)の海上利権を巡り房総半島方面も視野に入れる戦略を展開していく。
ちなみに、資高・資貞は太田道灌の孫。道灌の活躍で勢力を広げた扇谷上杉氏は
その孫の離反によって海上交易権を失い、没落の階段を転げ落ちていくのである。
江戸という拠点を奪われた扇谷上杉氏の当主・朝興(ともおき)は、本拠を河越(今の川越)に移し
後北条氏への徹底抗戦を決意。房総の里見氏、甲斐の武田氏に協力を求め、安房(千葉県南部)
甲斐、武蔵の3方面から後北条氏の封じ込めを狙った。しかし、1526年12月に海路から鎌倉へ侵攻した
里見水軍は後北条氏の防備に敢え無く撃退され、朝興自身も1535年に入間川で後北条氏との
戦いに臨んだものの、大敗。結局、武田氏の脅威のみが氏綱を苦しめたが、
里見や扇谷上杉の軍事力は氏綱に叶うものではなく、扇谷上杉の勢力は弱まる一方であった。
入間川の戦いから2年後の1537年、河越にて失意のうちに上杉朝興は没する。

氏綱の戦い 〜 今川との決別と第1次国府台合戦
1537年2月、甲斐の武田信虎は駿河の今川義元と同盟を締結し、信虎の娘が義元に嫁いだ。
武田氏は扇谷上杉氏と連携して後北条氏に対立する勢力であるが、一方の今川氏は
早雲時代から後北条氏の“主家筋”に当たる家柄である。よってこの同盟は、
氏綱にとって「今川家が北条家を裏切り、武田家に迎合した」事になる。
この同盟を承服するわけにいかない氏綱は、今川家との断交に及び
駿河東部へと侵攻、交戦状態に入った。と言っても、本格的戦闘というものではなく
後北条氏として遺憾の意を表明するデモンストレーション的な意味合いであった。
むしろ、従来の「今川氏の被官」という立場を脱却し「後北条氏は独立した戦国大名」として
今川とのしがらみを断ち切る格好の契機となったと理解する方が順当であり、氏綱にしてみれば
甲斐駿河同盟はそれなりに支配体制の強化へと利用できる材料になったと言えよう。
簡単に言えば「今川家と手を切る丁度良い機会」だった訳である。
さて、西の今川氏に対する関係を改める一方、氏綱の主眼はやはり東であった。
江戸城を手にし、房総方面も考慮するようになった後北条氏は
宿敵・扇谷上杉氏の動向を警戒しつつ、下総国(現在の千葉県北部)にも対応するようになるが
ここでクローズアップしなくてはならないのが、古河公方・足利氏の状況である。
ちょうどこの頃、古河足利氏は当主・晴氏(はるうじ)とその伯父・義明(よしあき)が対立、
下総国古河(茨城県古河市)に本拠を構える晴氏に対し、義明は上総国(千葉県中部)の
小弓(おゆみ、こゆみとも。千葉県千葉市)に勢力を張り、晴氏の地位を脅かそうと画策していた。
幼少時には鎌倉雪ノ下・八正寺の僧籍にあり、還俗してからは諸国を流浪した義明は、
剛勇を鳴らした無頼漢。これを見こんだ上総守護・武田氏は、足利氏という名族にして
武勇の誉れ高い義明を招聘し、小弓に居館を与えたのである。よって、義明は小弓公方と称される。
しかしそれに飽き足らない義明は、次第に武田家中を乗っ取り、とうとう武田氏に対して叛旗を翻した。
後北条氏と同盟関係であった武田氏は、氏綱に救援を依頼。義明と対立する晴氏もこれに同調し
北条氏綱の軍と足利晴氏の軍は共同して義明打倒の戦を開始した。一方、上総制圧を果たした義明は
房総南部の里見氏を巻き込み、これに対抗。氏綱・晴氏の武田救援軍と、
里見義堯(さとみよしたか)を援軍にした義明の軍は1538年10月7日、
下総国の国府台(こうのだい、千葉県市川市)で激突する。
この戦いを第1次国府台合戦と呼び、結果は氏綱・晴氏連合の大勝利であった。
義明は戦死し、義堯はあっさりと戦線を離脱し領国へ引き上げた。
もともと義堯は本気で義明を助けるつもりはなく、わざと見殺しにしたとも言われる。
上総に支配権を行使する義明が居なくなれば、里見氏が上総へ進出しやすくなるからだ。
ともあれ、氏綱はこの勝利で下総方面への憂いを無くし、晴氏との友好関係も築いた。
それは即ち、関東管領上杉氏に代わり後北条氏が古河公方家の庇護者となった事を意味し
周辺の諸豪族に少なからず影響を与える事になった。形式上、関東の支配者である
足利氏を守護する“名”と、剛勇の義明を打ち倒す軍事力を有した“実”の両方を兼ね備えた事で
古くからの権威を重んじながら自立を図ろうとする武蔵・上総・下総周辺の諸豪族が
後北条氏へ服属するようになっていくのである。第1次国府台合戦は、後北条氏にとって、
そして関東の諸勢力にとって、その後の命運を左右する重要な局面となった。

北条の代替わり 〜 戦国の名将・氏康の登場
晴氏はその後、氏綱の娘を娶り後北条氏との関係を強化した。伸張激しい後北条氏の縁戚となり、
長い抗争で北関東に追いやられた古河公方の権威を向上させようとしたのだろう。
それは氏綱にとっても同じ事…いや、それよりうわ手であった。足利氏の名跡を利用する事で、
関東に散在する古風な諸豪族を従わせ後北条氏の領土を拡大しようという魂胆だったのだ。
つまり、晴氏は切実に氏綱の力が必要だったが、氏綱は晴氏の名前だけあれば
十分戦略に役立つと考えていた。氏綱のこの読みは正解で、江戸や国府台付近を領有した
後北条氏は、さらなる北進政策を推し進めていき、その侵攻路にはびこる土豪らは
次々と氏綱へ帰順。武蔵国の大半は後北条氏の領土になった。
さて1541年7月、長きに渡り後北条氏の頭領を務めた氏綱が没した。
家督を継いだのはその嫡子・氏康である。戦国屈指の名将として名高い氏康の活躍は
これから記していくが、氏康も父・氏綱同様に北進政策を進め武蔵国の完全制覇を狙っていく。
祖父・早雲、父・氏綱の2代で培われた支配体制や軍事力は堅実なもので
3代目の氏康が当主になった事で勢いが止まる訳でもなく、更なる充実が図られていったのだ。
一方、代替わりしても磐石な後北条氏の勢力に、より一層の危機感を持ったのが
扇谷・山内の両上杉氏であった。特に扇谷上杉氏は南からの突き上げを食らい
江戸城に代わる本拠と定めていた河越(現在の川越)城も1537年に失っており
朝興の嫡子にして新たな扇谷上杉氏の当主であった朝定(ともさだ)
何とかして後北条氏に反撃しようという念に燃えていた。
また、後北条氏と縁戚関係を結んだ足利晴氏も、この同盟は後北条氏にのみ利がある約定で
足利氏にとっては何の役得にもならない事にようやく気が付いた。もともと、古い政治体制で
支配力を維持していた古河公方と、それを破壊して勢力を拡大してきた後北条氏の関係は
相容れないものであったと言える。斯くして、晴氏は後北条氏と対立するようになっていき、
古河公方足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏という室町旧体制で権益を保持していたグループは、
共同して新興勢力・後北条氏と抗争するようになる。
上野国(群馬県)の山内上杉氏、武蔵国の扇谷上杉氏、下総国の足利氏と、
三方が敵になってしまった北条氏康は、家督相続間もなくにして困難な局面に立たされた。

河越夜戦 〜 日本三大夜戦のひとつ
今まで散々対立を繰り返していた山内上杉氏・扇谷上杉氏・古河公方足利氏は、ここに来て
ようやく共同戦線を張る事に合意。そのターゲットとなったのが河越城である。
氏康の義兄弟にして北条家中随一の戦上手と言われる北条綱成(つなしげ)が城主となっていた
河越城は、扇谷上杉氏の本拠だった城であり、上杉朝定はこの城の奪還を悲願としていたのだ。
まず関東管領の職にある山内上杉憲政が、甲斐の武田氏と駿河今川氏に檄を飛ばし
後北条氏を背面から攻撃するように命令。小田原の氏康が西からの攻撃に忙殺されている間に
両上杉と足利の軍が河越城を包囲し、武蔵国の領地を奪還しようとしたのである。
この計画により1545年末、手始めに武田晴信と今川義元が相模侵攻を窺わせる陽動作戦を展開。
当然、氏康は国境の防備を固めてこれに対応した。一方、綱成の守る河越城には
8万もの大軍で足利・両上杉の連合軍が押し寄せた。城に篭る兵力はわずか3000程度である。
戦に長けた綱成は冷静に状況を分析し、単独での防衛は不可能と悟り
すぐさま氏康に援軍を要請した。氏康も綱成の窮地に即応し、武田・今川との対決は無駄と判断、
晴信と和睦を図り、義元には北条氏の持つ駿河領を割譲するという思い切った提案を出し
西側の脅威を一気に解決してしまった。押すべきは押し、引くべきは引く。
その頃合を的確に心得てこそ名将である。これで河越の戦闘に専念できるようになった氏康は
翌1546年にすぐさま軍勢を整えて出陣。とは言え、緊急に召集できた兵力は8000に過ぎず
河越城を包囲する8万もの大軍には程遠い戦力であった。しかし、これで怖気づく氏康ではない。
数で勝てぬ相手なら、謀略で勝つのが戦の常道。河越に到着した氏康は、わざと陣を動かさず
即座に連合軍への和平を打診した。この提案に気を大きくした連合軍の諸将は
「氏康は軟弱、戦う気もない臆病者」と思い込み油断する。無論、これが氏康の作戦なのである。
日中は散々和睦をせがみ敵の警戒心を緩め、時間を稼いだ北条軍は
日が沈みあたりが闇に閉ざされた夜半、作戦行動を開始した。
4月20日夜、史上名高い河越夜戦の開始である。迅速な行動を要求される奇襲なので
北条軍はわざと鎧兜を着用せず、身軽な格好で戦闘に臨んだ。また、少しでも
時間を無駄にせぬよう、倒した敵の首級を挙げる事は厳禁とされ、徹底した隠密行動を目指した。
さらに、闇夜での同士討ちを避ける為、身体には白い紙片で目印をつける念の入れよう。
こうして昼間の気弱な態度から一変、北条軍は暗闇の狼さながらに両上杉軍へ襲いかかったのである。
この襲撃で両上杉軍は大混乱に陥った。あれだけ降参する雰囲気だった北条方が
よもや夜襲をかけてくるとは想像だにしておらず、満足な備えもないまま
次々と諸将は討たれていく。中には北条軍ではなく味方が裏切ったと思う者まで現れ
北条軍は労せずに大戦果を勝ち取った。また、氏康軍が攻撃を開始したのに呼応し
城内の綱成も出撃し、足利晴氏の軍に打撃を与えた。城を囲まれていた側にも関わらず
機を逃さず討って出るとは、戦巧者の綱成ならではの芸当である。
結局、氏康は10倍する敵を打ち破り河越城を守りきった。その上、連合軍の総大将とも言える
扇谷上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。武蔵国は完全に後北条氏の支配下に納まり
上野国まで脅かされるようになった山内上杉氏は瀕死の危機に陥り、憲政は窮地に立たされた。
古河公方足利晴氏は領国へ逃げ帰り、後に後北条氏の軟禁を受ける事となったのである。
河越夜戦の勝利は、北条氏康が南関東の大半に確実な支配力を行使する結果を生み出した。

関東管領の戦い 〜 山内上杉氏、越後長尾氏を頼る
四面楚歌の状況を打ち破り、全ての敵を撃破した氏康。その勢いは留まる所を知らなかった。
2本の杉のうち扇谷上杉は倒れ、残るは山内上杉のみであり、氏康はその攻略に力を注ぐ。
すでに武蔵松山城の上田朝直(うえだともなお)、滝山城の大石定久(おおいしさだひさ)
天神山城の藤田邦房(ふじたくにふさ)ら、上杉氏の旧臣はことごとく氏康に降伏しており
上野国への進出を阻む者はいなくなっていた。河越の勝利で武蔵国は完全に手中に収め、
北条軍は難なく上野国へと進撃する事が出来るようになったのである。
1551年、居城・平井城は北条軍に攻撃され、それを逃れてなお厩橋城、白井城へと
落ちては攻められる事を繰り返す上杉憲政。もはや自力では防衛できないと観念した彼は、
明けて1552年の3月に越後国(新潟県)の長尾氏を頼った。前の頁で記した通り、
山内上杉氏は越後上杉氏との縁戚関係から越後国に少なからず影響力を及ぼしていたため
このような結果になったのである。憲政を迎え入れたのはあの長尾景虎、後の上杉謙信だ。
武田氏に攻められた信濃の豪族を保護した如く、後北条氏に圧迫された憲政を
景虎が手厚くもてなした事は言うまでもない。持ち前の正義感から
「関東管領に歯向かう無法者・北条氏康許すまじ」といきり立った景虎は、
これ以後、川中島で武田氏と戦いつつ氏康討伐の兵を挙げて関東方面にも進軍するようになる。
憲政を追った氏康は、結果として景虎の来攻を招いたのであった。
斯くして、名将・北条氏康と軍神・長尾景虎は、上野国の覇権を賭けて相争うようになり
甲斐の武田晴信、越後の長尾景虎、相模の北条氏康という3人の大名は
互いの領国を接する所で果てしない戦いを続ける「英雄同士の激闘」を歴史に刻んでいく。
関東勢力地図1560年頃の関東勢力地図
主に上野国で対立を繰り返していた北条軍と長尾軍であったが、1561年の初旬
「氏康打倒」を堅く決心した景虎が大軍を発し、北条領への侵攻を開始した。
長尾軍は北条氏の心臓部を直撃すべく、相模国まで進軍し氏康の居城・小田原城を包囲する。
関東管領を補佐する景虎の勇姿は、その大義名分と相俟って反北条勢力に与する者達を集め
大兵力となって小田原城を取り囲んだのである。
一方、攻められた側の氏康は優雅なものであった。既に甲斐の武田氏・駿河の今川氏とは
同盟を結び(甲相駿三国同盟)後顧の憂いはなく、何より氏康が構える小田原の城は
この当時の日本で最大規模の防衛設備を整えた「戦国最強の城」であったからだ。
兵糧の備蓄は数年分を保有し、堅固な城砦は敵兵を寄せ付けず、
北条氏の善政に育まれた領民は一致団結して氏康の為に戦う。景虎の軍が如何に攻めようとも
氏康の安全が脅かされる事はなく、何も心配する必要はなかったのである。
むしろ、長期戦になれば補給が保たない長尾軍の方が不利になる事を理解していたため
氏康は「放っておけば勝手に撤退する」と城中でのんびり囲碁を打っていたと言う。
河越夜戦と同様、計算し尽くされた氏康の戦法は“余裕の籠城”を決め込んでいた。
その狙い通り、痺れを切らした景虎は小田原城の包囲を解き、鎌倉へ撤退。
憲政から託された、悲願の北条打倒は成らなかったのである。
とは言え、自らの利を追う事なく数年来関東管領に尽くしてきた景虎の姿に感銘した憲政は、
かねてから予定していた通り、景虎に山内上杉氏の名籍を譲り、関東管領の職も受け渡した。
ここに長尾景虎は、憲政から諱(いみな)を一字拝領し
関東管領・上杉政虎へと生まれ変わったのである。3月16日、武家政権発祥の地である
鎌倉・鶴岡八幡宮で関東管領を襲職した政虎は、信濃の略奪者・武田信玄と
関東の無法者・北条氏康(と決めつけている)の撃破に新たな決意で臨むのであった。

氏康の戦い 〜 第2次国府台合戦の辛勝
政虎の攻撃を凌いだ氏康は、上野国において上杉方の動きに警戒しつつ
新たな領土拡大政策として下総方面への攻略に着手した。政虎来攻に先立つ1552年、
古河公方・足利晴氏を恫喝して隠退を強要、晴氏の嫡子・義氏(よしうじ)に足利家の
家督を譲らせていた氏康。義氏の母は北条家の出身であり、古河公方家を傀儡とするには
義氏の存在が欠かせぬものであったのだ。1554年には晴氏を捕らえ幽閉すると共に、
義氏を鎌倉へと移転させ監視下に置き、古河公方の権力を無力化した。
こうした下準備を整えていた氏康が、満を持して下総へと手を伸ばしたのである。
しかし、これと時を同じくして下総へと勢力を拡大しつつある存在が現れた。
南総の雄、里見氏である。氏綱時代に敗北した経験があるとは言え、里見氏は
優れた水軍や武勇に秀でた武将を多数抱える屈強な軍事集団であり、その力は
房総半島の南部を平定し下総方面へと北上、後北条氏と対決する勢いを見せていた。
里見氏は代々一族内での内紛が絶えず、家督を奪いあう事が常であったが
それも里見氏の勢力が強いからこそ、総領の地位を欲するものであったと言える。
氏康が下総へ勢力拡大を狙ったこの時期は、南総の里見氏も内訌に蹴りをつけた
里見義弘(さとみよしひろ、義堯の子が下総への領土拡大を標榜し、
遂に後北条氏と国境を接するようになったのだ。1564年1月、安房・上総の太守である
里見義弘は、下総の覇権を賭けて北条氏康との決戦を決意し6000の大兵力で出陣した。
これに呼応し、岩槻城主・太田資正(すけまさ)も2000の援兵を率いて合流。
資正は資高・資貞と同じく太田一族であるが、後北条氏に反する立場を貫いていた剛直の士。
この資正が岩槻で後北条氏と対立していたため、氏康の東関東進出が滞っていたのだ。
義弘と資正の連合軍が兵を挙げた事に対し、氏康も腹を決めて戦いに挑んだ。
東関東の命運を巡り、激突する北条軍vs里見・太田軍。
彼等の決戦場と言えばそう、因縁の地・国府台である。
北条氏康像北条氏康像
2万もの大軍を自ら率い戦場に到着した北条氏康に対し、先に布陣した里見軍の位置は
国府台台地の中腹であった。こうすれば、北条軍は平地から攻め上がらねばならず
上手から迎撃する里見軍が敵を足場の悪い場所に追い込む事が可能となる。
この計略に掛った北条方の将・遠山綱景(とおやまつなかげ)は、
先鋒の功を焦り猛然と里見軍への突撃を敢行したものの身動きが取れなくなり敗北、
綱景とその子・直景(なおかげ)ら多数の将が討死する事態に至った。
里見軍の狙いは見事に敵中したのである。
配下の将が次々と敗死した事に激怒した氏康は、反撃作戦を計画。
北条綱成の発案により、陽差しが逆光となる夕刻になるのを待って
別働隊を側面攻撃に当たらせたのであった。この奇襲で今度は里見軍が大混乱に陥り
攻守の立場が逆転する。こうなれば数に勝る北条軍の押せ押せ状態になり
里見義弘は領国へと敗走していった。結局、この第2次国府台合戦は
北条方が辛くも勝利を収める事になり、里見氏の下総進出が頓挫する。
房総の諸将は北条氏に抗う事が無理と悟り、次々と服属するようになっていき
氏康は東関東進出の第一歩として下総へ侵攻する事を成功させたのである。
北条氏綱は第1次国府台合戦で武蔵・下総の諸豪族を従わせ、氏康が第2次国府台合戦で
下総・上総方面の諸将を従属させる結果を生み出した。以後、里見氏は安房・上総から
下総へと北上する余裕を失い、太田資正は常陸国(茨城県)へと落ちていった。
逆に北条氏は武蔵の支配を磐石なものとし、下総への足がかりを掴んだのだ。
第1次の時と同様に、第2次国府台合戦は北条氏の、東関東諸豪族の命運を左右した。
その下総の向こうに見えるのは、霞ヶ浦の先に広がる常陸国である。

佐竹氏の常陸支配 〜 小田氏との戦い、失地回復とその後の発展
常陸国の戦国大名と言えば、佐竹氏が有名である。甲斐武田氏と同じく
新羅三郎義光を祖とする源氏の名門・佐竹氏は、鎌倉時代から常陸北部の支配権を認められ
長きに渡って父祖の地を守ってきた。室町時代に入ると、佐竹氏は正式に常陸守護とされ
そのまま守護大名となり利権を確保してきた経緯がある。
一方、常陸南部の領主だったのが小田氏。これまた鎌倉幕府に守護権を認められ、
南北朝時代には北畠親房を庇護した、例の小田氏である。
常陸国の覇権を巡り、お互いに名門を誇る佐竹氏と小田氏は常に対立関係を作り出し、
時代が変わろうと、状況が変わろうと、その対立だけは変わらなかった。
北畠親房の件でも分かる通り、南北朝時代に小田氏は南朝方へ与し、
源氏の血縁で足利氏と近しい佐竹氏は、当然の如く北朝方の勢力。
室町時代になってからも、南朝に従った事を咎められて足利将軍家から領土を削られ、
守護職を失い弱体化しつつも小田氏は佐竹氏と争い、その小田氏を抑えた功績で
守護職を得た佐竹氏もまた小田氏を潰そうと盛んに画策していた。
ところが戦国時代、下剋上の世になると、優位にあった佐竹氏にも災いが訪れる。
1490年、一族の山入(やまいり)氏が反乱を起こして佐竹氏の居城・常陸太田城を
乗っ取ったのである。城を失った佐竹氏は流浪の身になり、親族や周辺豪族を味方にして
1504年にようやく太田城を奪還した。実に14年にも及ぶ災難であった。
この経験から、失地を回復した佐竹氏は戦国大名として支配力の強化に乗り出す。
片や小田氏は、権威を取り戻そうと古河公方家から養子を迎え当主に据えるが
威勢は振るわず、周辺諸豪族との抗争を繰り返していたのだった。
こうした状況の中、南から後北条氏が勢力を広げてきたのである。
戦国大名化し、支配力を強めて領土を広げる佐竹氏は徐々に南下し、常陸全土の掌握を狙う。
その佐竹氏に圧迫された上、下野国(栃木県)や下総国の豪族にも囲まれ
絶体絶命の危機に陥りつつあった小田氏。後北条氏に備える両者の対応はやはり対照的であった。
独立自尊を保ち、常陸国制覇を目標にする佐竹氏は後北条氏に真っ向から対立した。
1561年に長尾景虎(上杉政虎)が小田原城を包囲した時も、これに参陣した程である。
共に後北条氏を敵とする上杉氏・佐竹氏は、共助関係を築くようになっていたのだ。
他方、小田氏は後北条氏の庇護を受けて勢力挽回を目指した。そのため小田氏と後北条氏の間には
同盟関係が結ばれたのである。とは言え、圧倒的な実力差のある小田と北条である。
この同盟は事実上、小田氏が後北条氏に服属した事を意味していた。
里見氏を黙らせ、主眼を東関東にシフトさせつつあった後北条氏にとって
最後の難敵として立ちはだかった佐竹氏。甲斐の武田氏、越後の上杉氏を含めて考えると
武田・北条の勢力と、上杉・佐竹の勢力は、川中島・上野国・常陸国という3方面で
覇権を争う対戦を繰り返すようになってきたと言えよう。
相模国から南関東を制覇した小田原後北条氏、古くからの権威を守る越後・上野の上杉氏、
房総半島南端を固める里見氏、常陸国全土制圧を目指し躍進する佐竹氏。
関東の戦乱は、これらの大勢力を中心としつつその周辺の諸勢力を巻き込み
戦国時代の終盤まで激闘を繰り返していくのであった。




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