川中島の戦い(2)

父を追放して家督を継いだ武田晴信は、その父による偏った治世を正すべく
富国強兵策を採用し領土拡張に熱意を注いだ。
兄を凌駕して家督に就いた長尾景虎は、父・兄の代から続く国内反乱を封じ
越後国内を安定した状態にするべく奮闘する。
戦に戦を重ね続ける両者は、いつしか勢力圏を接するまでに伸張し
いよいよ因縁の対決、川中島合戦への幕が上がるのである。


無敵の武田騎馬軍団 〜 「風林火山」の旗印
武田信虎によって育てられ、晴信の戦略によって開花した武田の騎馬軍団。
甲斐国内を平定し、信濃への侵攻を遂げていく武田軍は騎馬兵を中核としており
圧倒的な武威で次々と敵を降していく実力は「無敵の武田騎馬軍団」と評され
甲斐のみならず日本全国にその名を轟かせるようになって行く。
晴信の巧みな用兵術は、孫氏の兵法に学んだもので、孫氏兵法書の一節は
そのまま武田軍の旗印に用いられた。有名な「風林火山」の軍旗である。
「疾如風 静如林 侵掠如火 不動如山」と記された一文の意味は
速き事、風の如く(疾風のように速く攻め)
静かなる事、林の如く(林のように静かに潜み)
侵略する事、火の如く(業火のように激しく侵略し)
動かざる事、山の如し(山のようにしっかりと動かない)というもの。
風林火山の旗を見た者は、それだけで恐れおののき降伏したと言われるほど
武田軍は苛烈な侵略で戦い続けたのであった。

軍神・長尾景虎 〜 毘沙門天を奉じ義に生きる勇将
仏門に育ち、正義と秩序を信念に生きる長尾景虎は、成長し越後国主の立場になっても
その考えに変わりはなく、熱心に仏教を信仰した。景虎が心酔する天台宗は
平安時代から続く鎮護国家の名門宗派、国を護り天下を安寧に導くための教えである。
その大いなる力は我が身と一体になり、無秩序な戦国の世を鎮定するものであると信じた彼は
自らが毘沙門天(びしゃもんてん)の生まれ替わりであると思い込むようになっていた。
毘沙門天とは、四天王の一つにして仏法を守る守護神であり、即ち武威を以って
世界の安定を導き出す強大な者の事である。武神あるいは軍神とされる毘沙門天は
言わば「戦の神様」であり、戦において連戦連勝を重ねる景虎は自らの姿を重ね合わせたのだ。
よって、景虎の軍旗には毘沙門天の「毘」の字が記され、その武威を象徴した。
また、毘沙門天を信じる者は妻を娶る事を禁じられていたため、
景虎は一生涯独身を貫き、妻子を持たなかったのである。
幕府を心棒する権威主義、そして毘沙門天を信仰する神秘主義という精神は、
他人を追い落としてでも自分が勝ち残ろうとする戦国時代には極めて異色な
「義によって生きる」長尾景虎という人物を作り上げていったのであった。

戸石崩れ 〜 晴信の北信濃侵攻と村上氏の反撃
前頁でも記したが、1542年に諏訪領を獲得した晴信は続けざまに高遠領を入手、
1543年〜1547年にかけて伊那郡・佐久郡の攻略を行った。武田氏は信濃に少しずつ食い込み
筑摩郡を領有する信濃守護・小笠原長時(おがさわらながとき)
小県郡を守る強豪・村上義清(むらかみよしきよ)と勢力を接するようになっていく。
この両者は実質的に南信濃・北信濃の主と言え、小笠原氏・村上氏を倒せば
完全に信濃全域を手にする事が出来るようになるのだ。信濃制圧を目指す晴信は
1548年初頭、小県郡の上田原に進軍し村上軍との対決を挑んだ。
ところが、老練な義清は負け戦に見せかけて武田軍の深追いを誘い、
逆に包囲攻撃で一挙に勝利を演出する。村上勢に敗北した事で晴信の信濃攻略は足踏み。
この時、武田家中最古参の重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)が討死し
晴信に少なからず動揺を与えた。これを好機と見た小笠原長時は同年7月、
武田軍への逆襲を挑み決戦に及ぶが、さすがに精強な武田騎馬軍団は塩尻峠において
小笠原軍を破り、面目を保った。1550年7月、小笠原氏の本拠である林城を落城させ
晴信は南信濃の領有に成功。長時は落ち延び、村上家を頼って逃亡する。
斯くして、信濃の覇権は晴信と義清の両者対決へと委ねられる。
先の敗北で屈辱を味わった晴信は、必勝の覚悟で1550年10月に村上方の要衝・戸石城の
攻略に向かった。しかしまたもや義清の作戦が功を奏し、武田軍は大敗北を喫する。
戸石城を完全包囲した武田軍に対し、義清自らが投降した武将に化けて潜入し
機を見て蜂起に及び、武田軍を総崩れの壊滅的混乱に陥れて破ったのである。
晴信のこの敗北を「戸石崩れ」と呼び、力攻めでは村上軍に勝てぬ事を思い知らせた。

晴信、念願の信濃制圧 〜 真田幸隆の登用・景虎との対決
力で押しても勝てぬ相手には、計略を用いるのが兵法というものである。義清打倒のため、
晴信はあらゆる手を模索した。そこで注目されたのが、真田幸隆(さなだゆきたか)の存在だ。
真田氏は平安時代から続く信濃の土豪であるが、小領主に過ぎぬ幸隆は義清の圧迫を受けていた。
しかしながら、鬼謀の将と評される幸隆はあらゆる兵略に通じる智将で
古くから信濃に根付く家柄は信濃国内における諸般の事情や人脈に明るかった。
晴信は幸隆を勢力に引き入れ、村上家を取り巻く謀略工作の任に当たらせたのである。
幸隆の活動によって早くも1551年5月、因縁の戸石城は落城。村上方はじわじわと弱められ
1553年4月、義清の本拠である葛尾(かつらお)城までも攻略されるに及んだ。
武田方の侵略に支えきれなくなった義清は、遂に国を捨てて逃亡。
既に小笠原長時は越後を支配する長尾景虎の下へ向かっており、義清も同じく
景虎を頼って越後へと亡命したのだった。3度目にしてようやく晴信は村上勢を打ち破った。
この後、1555年8月には木曽方面も制圧し、晴信は念願の信濃征服を完成させたのである。
一方、小笠原長時に続き村上義清までが逃げ込んで来た景虎は、晴信の行動に憤る。
(件の正義感で)弱きを挫き、他人の領土を奪い取るなど言語道断。
景虎を見込んで頼ってきた長時・義清の思いに応えるべく、武田軍の信濃撃退を決意した。
熱心な北上政策で領土拡張を図る甲斐の虎・武田晴信と
毘沙門天の化身を自認し義に生きる越後の龍・長尾景虎は、こうして相まみえる事となった。
両雄対決の舞台となった場所、それが川中島(現在の長野県長野市)である。

甲相駿三国同盟 〜 戦国史上名高い軍事同盟の一つ
晴信と景虎が戦う話の前に、重要な解説を記す事にしたい。
晴信が甲斐から信濃方面に軍を進めたのは、南の駿河にある今川氏や
東の相模に威を張る北条氏(後北条氏)の勢力が強大であるため、必然的に北へと
出口が絞られた為である。つまり武田氏は、今川や北条に背後を狙われるリスクを負いながら
信濃方面への侵攻を行っていた事になる。如何に武田軍が強力であっても、
信濃に出払っている隙に本国・甲斐を攻められては為す術がない。
この危険を回避するため、晴信は積極的に外交工作も行っていたのである。
信虎時代に晴信の姉が今川家へ嫁いでおり、駿河方面にはある程度の抑止力があったものの
この姉は武田氏と村上氏が係争している最中に病死してしまい、血縁関係が途切れてしまった。
信濃方面に集注したい晴信は、早急に新たな同盟の方策を立てる必要に迫られ
1552年、今川家当主・今川義元の娘を晴信の嫡男・義信(よしのぶ)のもとへ
輿入れさせる事に成功した。加えて、北条氏との関係も安定したものにしようと考えた晴信は
晴信の娘と北条家当主・北条氏康(ほうじょううじやす)の嫡男・氏政(うじまさ)の間に
婚儀の約定をとりつける。こうして武田家と今川家、武田家と北条家の間には同盟が成立し
晴信の後背を脅かす存在はなくなったのである。これに目をつけたのが今川家の軍師である
太原雪斎(たいげんせっさい)。雪斎は、武田家だけが恩恵をこうむる同盟ではなく
三者が相互に不可侵関係を築けるものにした方が有効であると考え、今川家と北条家の間にも
同盟関係を締結、氏康の娘を義元の嫡子・氏真(うじざね)と結婚させる約束を交わした。
これにより、晴信・氏康・義元の娘はそれぞれの嫡子に嫁ぐという関係が成立し
武田・北条・今川の三国はお互いに不戦の約定を締結した事になった。こうした三国同盟の場合、
もし一方が同盟を破棄した時には、他の二者が協力して同盟破棄した相手を倒すという
牽制策が成り立つので、二国間のみの同盟よりもより強固な関係が維持できるメリットがある。
1554年、晴信の娘と氏康の娘はそれぞれ北条家・今川家に嫁ぎ三国同盟が実効された。
富士・箱根の山を中心にしたこの三国同盟は、それぞれの領国(甲斐・相模・駿河)から
甲相駿三国同盟と呼ばれ、後顧の憂いを無くした三者は、己の敵とする相手に専念できるようになった。
即ち、北条氏は東へ向かい関東全域の制圧を、今川氏は西に向かい上洛ルートを確保。
そして武田氏は北の勇者・長尾景虎との戦いに集注するようになるのである。
なおこの後の1559年、晴信は出家し武田信玄という法名を名乗るようになった。

川中島の戦い 〜 善光寺を前にして龍虎干戈を交える
“信玄と謙信(晴信と景虎)の激突”として名高い川中島の戦いであるが、実は1回の戦いではなく
5回に渡る合戦の総称なのである。第1回目の対戦は、晴信が村上義清を倒した1553年のうちに
早くも行われており、第2回目は1555年、第3回目は1557年の事で、1561年に行われた第4戦が
最も激しいものだったと言われている。故に、以下この第4戦について記す事にしたい。
既に3回の戦いが行われ長尾勢との最前線となっていた川中島近辺には、武田方の海津城が築かれていた。
1561年の春、関東管領の職と山内上杉の名跡を継いだ長尾景虎改め上杉政虎(まさとら)
(景虎の関東管領継承については後頁に記載)武田軍との決着をつけるべく8月に出陣。
上杉軍の動きを察知した海津城主・高坂昌信(こうさかまさのぶ)は、すぐに狼煙を上げ
甲府の信玄へと急報。知らせを受けた武田軍は急ぎ出陣し、甲府から川中島へと向かった。
武田方は領国内に「信玄棒道」と呼ばれる軍事街道を整備しており、行軍を容易にしていたため
あっという間に川中島へと到着。武田・上杉軍は睨み合いになる。
海津城に入った武田軍は総勢2万、一方の上杉軍は1万3千の兵力で妻女山(さいじょさん)に陣を構えた。
第4次川中島合戦 9月9日夜半の動き第4次川中島合戦 9月9日夜半の動き
両軍が膠着状態になりつつあった9月9日、武田方の軍議が開かれ、この席上
信玄の軍師(と言われる。諸説あり)・山本勘助(やまもとかんすけ)が「キツツキ戦法」を献策した。
曰く、夜陰に乗じ軍を二手に分けて発し、本隊1万2千を上杉軍の対面にある
八幡原(はちまんばら)に待ち伏せさせ、別働隊8千が妻女山の裏手から奇襲攻撃する。
背面から受けた攻撃を避ける為に上杉軍が山を下りれば、本隊と別働隊で挟撃し
包囲殲滅できるという計画である。キツツキが木の中に潜む虫を捕える時、わざと裏側を叩き
虫を外に追いやる事になぞらえたこの作戦を信玄は採用し、実行に移された。
ところが、武田軍に動きありと見抜いた政虎は、その裏をかくべく早くも下山し
八幡原へと移動した。これにより、待ち伏せするのは武田軍ではなく上杉軍という形になる。
明けて10日の朝、霧深き八幡原で武田軍が見たものは、上杉の全軍であった。
ここに第4次川中島合戦の幕は切られ、大乱闘が始まったのである。
第4次川中島合戦 9月10日の布陣状況第4次川中島合戦 9月10日の布陣状況
妻女山に向かった武田別働隊はまんまとしてやられ、あわてて八幡原を目指すが
この時すでに血で血を洗う乱戦が繰り広げられていた。武田軍が構えたのは鶴翼の陣
(かくよくのじん、鶴が羽根を広げるような扇形で一列に並ぶ陣形)、対する上杉軍は
車掛りの陣(くるまがかりのじん、円形に並ぶ軍が回転しながら敵陣に突っ込む形態)。
車掛りの陣は、後方に退がる兵は一時的に休息でき、次々と新手を敵兵に繰り出す事が出来るという
利点があった。この陣形に突っ込まれた武田軍は大混乱に陥り、上杉軍の猛攻を食い止めるのが
精一杯という状況となる。この激戦で、武田方は信玄の実弟にして武田軍の副官、
「信玄の影武者」を演じてきたとされる武田信繁(のぶしげ)ら、重臣数名が戦死。
山本勘助も、作戦失敗の責任を感じて上杉軍に突入、討死した。
上杉軍優位の戦況において、政虎は単騎で武田軍へと突撃をかけた。敵陣を駈ける中、
信玄とおぼしき人物を発見、馬上から切りかかる。一方、信玄も軍配で太刀を受け
三太刀、七太刀と両者は切り結んだ。結局、お互いに討ち取る事は為らず政虎の退却となる。
この話は後世の創作とか、両者とも影武者同士であったとも言われるが
(総大将の一騎討ちなど戦国時代にはあり得ないのに)こうした伝説が残るほど、
第4次川中島合戦は乱戦であったのだ。
両雄一騎討ちの後、武田軍の別働隊が八幡原へと合流。これで形勢は逆転し、
今度は上杉軍が斬り込まれる戦況となり、政虎は全軍撤退の指示を出した。
川中島古戦場 三太刀七太刀の像
川中島古戦場(長野県長野市)

犀川と千曲川に挟まれた地域、川中島。
武田軍と上杉軍が数回に渡り干戈を交えた激戦の地は
長野の古刹・善光寺と目と鼻の先にある。度重なる戦火で
万が一、善光寺に被害が及ぶ事を恐れた信玄は
自らの居所・甲府に善光寺を移転・分祀した。
これが甲府にある甲斐善光寺の起源である。
写真は川中島古戦場にある三太刀七太刀の像。
序盤に上杉軍の猛攻を食らった武田軍の死者は約4000と言われる(諸説あり)。
一方、後半の追い上げを受けた上杉軍の死者は約3500程度。結局、勝負はつかず合戦は終了した。
武田軍は川中島を死守したものの、被害は甚大で上杉軍の追撃を行う余裕はなかった。
特に、信玄にとって弟・信繁の死は計り知れない損失であったであろう。
片や上杉軍も、あれだけの突撃を行っても武田軍を打ち倒す事が出来ず、
これ以上の戦闘継続は困難とみて、越後へと兵を引き上げたのである。
関東や北陸でも敵を抱える上杉軍は、信濃への長期遠征は他の敵を招来する恐れがあったのだ。
猛烈な勢いで信濃に領土を拡大した武田信玄、軍神と評される戦の天才・上杉政虎(謙信)、
あまりにも強大な両雄は、それゆえ互いに拮抗した勢力となり、相手の上を行く事ができなかった。
龍虎相まみえる川中島合戦は、1564年に第5回の対決を見るものの
この時も決着はつかず兵を引き上げている。戦国の名勝負を演じた好敵手は、
川中島を挟んで勢力を維持し、競い、狙い、お互いの存在を認め合ったのである。
ちなみに、上杉政虎はこの後に将軍・足利義輝から一字を拝領し上杉輝虎(てるとら)と改名、
さらに出家した後、法名の謙信を名乗るようになった。虎千代、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、
そして上杉謙信。とても憶えきれないが、戦国武将が名を変える事は珍しくない。

検証・上杉謙信 〜 戦国大名の行軍能力
と、ここまで敢えて“一般的に語られる信玄・謙信像”を紹介した。特に謙信については
(昨今の歴女ブームの影響で)「正義を重んじる義の武将」という点を美談化している事が多い。
事実、“敵に塩を送る”という説話や“信玄の遺言”など(詳しくは後記)謙信が人としての道を
重んじたという事例は認められる。このあたり、確かに寺育ちの高潔漢なのだろう。
だがしかし、謙信の出征が「他国に頼まれ出兵し、領土を欲しはしなかった」と定義される点は
必ずしも正しい話ではない。この裏には、戦国大名の行軍能力という面が隠れている。
戦国の軍団と言うと、勇猛な騎馬兵が突撃し、大勢の足軽が槍を繰り出し、鉄砲玉が右左に
飛び交う戦闘シーンが劇画で描かれるわけだが、それだけで軍が完成しているのではない。
兵站(へいたん、食料調達や物資輸送)を行う徒歩(かち)組、軍勢の武威を示す旗持ち、
正規の武士(一般の足軽兵は大半が農兵や臨時調達の傭兵で、正規兵はごく少数)に従う
郎党小者など、多種多様な人員が混成されて組織されているのだ。この中でも特に重要なのが
徒歩組、あるいは小荷駄と呼ばれる兵站担当。「腹が減っては戦ができぬ」の言葉通り
食料を用意しない軍勢は十分な働きができないのである。よって、どこの大名でも
(国によって多少の編成比率の差異はあるものの)兵站担当の要員が相当数確保されている。
これらは大名が命じた軍役帳・参陣督促状を見れば容易に検証可能で、例えば甲斐武田氏の場合
槍持46.3%・騎馬12.3%・鉄砲10.3%・弓10.3%・兵站3.2%となっている。武田と言えば
騎馬隊のイメージがあるが、鉄砲隊や弓隊とほとんど変わらない編成率であり、実は武田軍が
(鉄砲を含めて!)装備のバランスを重んじていた点が伺える。また、小田原後北条氏の場合
槍持35.2%・騎馬21.1%・鉄砲11.0%・弓7.5%・兵站6.5%。評価としては武田軍と同様に
バランスを守った編成と言えよう。兵站要員は武田軍の倍を用意しており、後北条軍がいかに
輸送部隊を重要視していたかが窺える。それでは、上杉軍の構成比率はどうであろうか?
槍持65.4%・騎馬10.3%・鉄砲5.7%・弓0.1%。武田や後北条に比べると極端にバランスの
悪い編成である。槍持に偏り、鉄砲や弓はほとんど用いられていない。しかも、機動力を
必要とする謙信の用兵術に対して騎馬軍はわずか10.3%。
これが意味するものは、いったい何か?
要するに、謙信の行軍は“足の遅い連中は置いてきぼり”なのである。さらに、兵站担当の兵は
上杉軍の編成上“その他大勢”の中に混入され、どの程度機能したのか不明瞭なのだ。しかし、
謙信は越後から長駆、関東の奥深くや信州の山の中へ出兵している。こうなると、兵站を
どう処理するかが問題なのだが、結果としてそれは出兵を要請してきた同盟軍に頼るしかない。
早い話、“他人の飯を当てにしている”訳だ。となれば、遠征先の土地を奪い自領として
占領するような真似はできない。もしそれをやれば同盟者の信頼を失い、次回の戦いでは
食料のあてがなくなってしまう。これが傍目には“領土欲の無い戦い”に見える訳だが、
実際にはもっとシビアな軍事・外交バランスの上にこうした駆け引きが為されていたに過ぎない。
あまり知られていない事だが、上杉軍も侵攻した敵地内では放火略奪、人身売買、
刈田狼藉(収穫前の食料を奪取したり破棄して使えなくしてしまう事)などを平然と行っている。
また、1563年2月、援軍として向かっていた武蔵松山城(埼玉県)がひと足早く落城し救援が
間に合わなかった際には、帰り際、腹いせに何の関係も無い騎西城(同じく埼玉県)へ攻撃を
かけて凄惨な殺戮を行っている。謙信が義の人、という評価は必ずしも正しくは無いのだ。
その影には、生きるか死ぬかをくぐり抜ける戦国非情の荒波が在ったのである。
謙信をことさら悪く言うつもりはないが、俗説として語られる虚像などではなく
検証に基づいた現実を確認する事こそ、歴史を学ぶ意義だと言えよう。




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