川中島の戦い(1)

続いて挙げるのは、戦国大名の代名詞とも呼べる2人の名将。
甲斐の虎・武田信玄(たけだしんげん)と、
越後の龍・上杉謙信(うえすぎけんしん)である。
この名前を聞いた事のない者などいないだろう。
元就が小豪族から成長したのに対し、信玄は守護大名の出身、
謙信は守護代から力を伸ばした経歴を持つ。
東国の「名族」は、どのように戦国大名へと勇躍したのであろうか。


越後長尾家の蛮勇 〜 謙信の父・長尾為景
時代はかなり遡り、北条早雲が相模制覇に向けて上杉氏と係争していた頃の事。
北条氏に圧迫されつつあった上杉氏のうち、関東管領を襲職していた山内(やまのうち)上杉氏は
上野国(現在の群馬県)を本拠としていた。この上野国から山ひとつ越えた北の地が
越後国、現在の新潟県である。越後国守護は山内上杉氏の一族が分家した越後上杉氏で、
本家に当たる山内上杉氏と密接な血縁関係にあり、それに伴って相互援助の状態にあった。
そんな越後国の統治実務を任せられた守護代の家系が長尾氏。長尾氏は越後上杉氏に代わり
辣腕を以って越後国内の支配を行い、勢力基盤を築いていったのである。
ところが、越後という国は国人衆の独立志向が高く、それに加え守護・越後上杉氏は
「関東管領の血縁」という名門意識が強かったため、守護と国人衆の関係は穏やかならず
守護代である長尾氏の任務も難しいものを要求されていた。
応仁の乱後、実力を失いながらも権威だけ行使する上杉氏の態度に業を煮やした長尾氏は
下剋上の風潮に乗り、遂に決起する。長尾為景(ながおためかげ)が国人衆と図り反乱、
越後守護・上杉房能(うえすぎふさよし)を攻め殺したのである。為景の謀反は徹底したもので、
討たれた房能の一族郎党は数百人の規模に及んだという。時に1507年8月の事で、
御丁寧にも、房能の養子である上杉定実(さだざね)を後継守護に据える周到さ。
傀儡となる定実を名目上の守護に立てる事で、守護代・長尾氏が全ての実権を握ると同時に
あくまでも「守護家を尊重する」という体裁を整えたのである。
強大な軍事力で大量殺戮を行いながら、形式を重んじるかのように見せかけるしたたかさ。
長尾為景の下剋上は、苛烈な蛮勇と綿密な計算に基づくクーデターから始まった。
恐ろしいまでの力を以って戦国乱世に踊り出た長尾為景、この人物こそ上杉謙信の父である。

長尾為景の越後制圧 〜 戦乱を呼ぶ為景の武勇
越後上杉氏が討たれた事に激怒したのは越後国内の勢力ではなく、隣国・上野に在る
山内上杉氏であった。関東管領・山内上杉顕定は守護代・長尾氏の無礼許すまじと、1509年に
1万にも及ぶ兵力を結集して越後へ侵攻。為景追討を狙った。この顕定、房能の実兄である。
関東管領直々の出陣とあっては、流石に越後国内の諸勢力もこれに従い為景は立場を失う。
越後を捨てて佐渡にまで逃亡する嵌めになった為景であったが、下剋上の申し子たる為景は
これだけで終わらない。粘り強く反攻の準備を行い、一度は顕定に従った越後国人衆を
次々と調略し、寝返らせる事に成功したのだ。こうなると、立場を危うくしたのは顕定の方で
佐渡から越後に返り咲いた為景の軍に圧され、形勢不利に陥っていく。
戦況の悪化を悟った顕定は上野への撤退を余儀なくされるが、為景はこれを見逃さず攻勢をかけ
1510年6月、顕定が討死する事態に及んだ。房能に続きその兄である顕定も為景に殺られたのだ。
関東管領が地方守護代に討たれるという事件は、関東の戦国化を一気に加速化させると共に
新興勢力である為景の軍事能力が旧来の伝統権力を上回った事を意味していた。
これ以後、四半世紀に渡り為景は越後国内の鎮圧を目標に行動する。時に幕府や朝廷に接近し
足利義晴や細川高国、後奈良天皇らから越後国主の認知を取りつける政治工作も行ったが
為景の基本路線は強大な軍事力を背景にした武力統一の方法であり、
反抗的な国人衆や一向宗勢力などと激烈な攻防を繰り返した。1530年代半ばには
長尾氏の下で越後国内はほぼ統一されるが、その実態は為景の武威に裏付けられた
国人衆の軍事制圧という「力わざ」だったのである。

甲斐守護家の格闘 〜 信玄の父・武田信虎
今度は一転、甲斐国(山梨県)を治めた武田氏の話。武田氏の始祖は平安時代に遡り
甲斐源氏・新羅三郎義光に突き当たる。義光が甲斐に土着したのが甲斐源氏の起こりで
その嫡流が武田に改姓し、室町時代にまで家柄が続いたものなのである。
(一時常陸国(茨城県)武田郷に拠って武田と改姓、後に甲斐へ移ったとも言われる)
源氏の名族である武田氏は、室町幕府によって任じられた甲斐守護職を代々受け継ぎ
父祖伝来の地を守ってきた。しかし応仁の乱前後には下剋上の風潮が甲斐にも到来し
甲斐国内の豪族が蜂起、一時国を追われる事態となる。この後勢力を回復し、
甲斐守護職に返り咲いたものの、今度は一族内での内紛が発生。国人衆の動向も定まらず
近隣の信濃国(長野県)諸豪族や相模国(神奈川県西部)の北条氏、駿河国(静岡県東部)
守護職の今川氏までが甲斐への進出を狙い、内憂外患の状況が続いた。
が、かつて国を追われる苦渋を舐めた武田氏はそれに負けるほど脆弱ではなかった。
武田信昌(のぶまさ)信縄(のぶつな)信虎(のぶとら)と続く武田宗家は、
これらの争乱を打ち破り、甲斐守護家の存在を内外に強くアピール。即ち、一族の反乱を抑え
国人衆の制圧を為し、他国に突け入られないような軍事力を培ったのである。
とは言え、戦国の世に安寧などという文字は存在しない。更なる支配力強化が必要とされ、
信虎の代においては、1537年に駿河今川家へ娘を嫁がせて同盟を図り、背後からの侵略を防いだ。
駿河方面の憂慮を除いた信虎は、より強力な軍政を敷くべく軍事拡大政策を採用し
相模・信濃を牽制しつつ、国内国人衆の完全制圧に動き出した。
こうして精強な武田騎馬軍団が育てられ、信虎の甲斐統治が推し進められていくのである。
勝利こそ全てとばかりに甲斐の内外で戦い続ける武田信虎、この人物こそ武田信玄の父である。

武田晴信の家督継承 〜 武田信虎、追放される
積極的な軍政を敷き戦い続ける武田信虎であったが、武田家の支配基盤が固まる一方で
内政を省みない軍事一辺倒の方針は国内を疲弊させる害悪ももたらした。
武田家の家臣団も、甲斐の領民も、信虎の強引な政策を嫌い次第に見限るようになって行く。
丁度その頃、今川家に嫁いだ娘に面会しようと信虎は駿河への旅に出た。
甲斐の留守を託されたのは信虎の嫡男である武田晴信(はるのぶ)。しかし晴信は、家臣や
今川家と共謀し、甲斐を離れた父・信虎をそのまま追放し甲斐・駿河国境を封鎖した。
こうして1541年6月、実力行使によって武田家の家督を奪取した晴信こそ後の信玄である。
新たな甲斐国主となった晴信は、父・信虎の育てた軍事力を維持しつつ内政も行う
富国強兵政策によって甲斐治世を為そうと計画する。されど、晴信にとって内政と軍事は
表裏一体の不可分なもので、領土拡張という軍事展開がそのまま国を富ませる策であった。
また、国内の反乱を抑える為には敢えて外敵を作り、そちらに家臣の目を向けさせる必要がある。
このため先ずさし当たって行われたのが、武田家累代の宿敵・諏訪氏の打倒だ。
信濃国諏訪地方の領主である諏訪氏は、領土を巡って長きに渡り
甲斐武田家と抗争を繰り返していたが、信虎の時代、今川家同様に婚姻関係を結び
和平が成立していた。晴信はこの状況を打破し一気に諏訪氏の殲滅を狙ったのである。
信虎の娘、つまり晴信の妹を妻に娶っていた諏訪氏当主・諏訪頼重(すわよりしげ)
よもや義理の兄である晴信から攻められると思っておらず、武田軍の来攻に対処できなかった。
1542年7月、敗北した頼重は囚われ甲府に幽閉され、しばらく後に自刃を促される。
武田氏歴代の宿願である諏訪氏の滅亡を成し遂げた晴信の声望は高まり、
諏訪領や高遠領までも手中にした武田氏は信濃侵攻の足がかりを得た。
若き当主・晴信の領土拡大策、即ち富国強兵策は順調に滑り出し、先代信虎のような
“戦バカ”とは異なる成果をもたらした事で武田家臣団や甲斐領民の信頼を得るようになる。

長尾景虎の家督継承 〜 長尾晴景、当主を辞す
さて、長尾為景には2人の男子がいた。
嫡男である長男は1512年生まれの長尾晴景(はるかげ)
次男は1530年生まれの虎千代(とらちよ)。実に18歳も年の違う兄弟である。
虎千代は幼い頃から春日山城(長尾氏本拠の城)に程近い林泉寺に預けられ、
仏門の教えに従って養育されていた。
こうした中の1536年、為景は病に倒れ死去。長尾家の家督は晴景が継承する事になった。
しかし晴景は為景ほどの器量になく、しかも病弱であったため政務に支障を来たす事がしばしば。
もちろん、戦に参陣するのは控えられ、次第に長尾家の中では晴景への失望感が広がっていく。
無論、越後国内の国人衆は為景の重圧が解かれた事で再び胎動を始め、
長尾家に対する反乱の芽が芽生えてきた事は言うまでもない。
一方、成長した虎千代は元服して長尾景虎と改名。仏門で育った景虎は道理と正義を重んじ、
そのために必要な武芸武略を寺の修行で叩きこんでいた。武将として旗揚げした景虎は
晴景とは打って変わって戦場の猛者とも言うべき武力絶倫の働きを挙げていく。
晴景の足元を見て叛旗を翻した越後の国人達は、景虎の槍働きで鎮圧されるようになり
長尾家の家臣たちは「景虎こそ為景の跡を継ぎ長尾家を背負う者だ」と期待し始めた。
当然、晴景は景虎の活躍が面白くない。晴景と景虎の間には深い溝ができ、
すわ兄弟間の内戦か、という状況まで悪化していくが、長尾家の家臣らは
(名目上とは言え長尾家の主家筋に当たる)越後守護職・上杉定実に講和の斡旋を依頼、
これを受けた定実は晴景を説得し、景虎への家督移譲を認めさせた。
斯くして1548年、晴景は当主を辞して隠退、家臣に請われた景虎が長尾家の跡を継いだ。
戦の天才と謳われる長尾景虎、後の上杉謙信が越後国主になった瞬間である。

武田晴信の領国統治 〜 分国法の制定、治水事業、民心掌握…
諏訪攻略を為した晴信。駿河の今川、相模の北条はいずれも強豪で、
武田氏の領土拡張は必然的に信濃方面へと向けられる事になったのだが、
1543年〜1547年にかけて晴信の軍勢は信濃国の佐久郡・伊那郡へと侵攻、
確実に領土を増やしていく。晴信の的確な采配により、武田氏は甲斐のみならず
信濃の東部も手中にしたのだ。が、戦ばかりが晴信の才能ではなかった。
獲得した領地を上手く治めなければ、次の攻略に取りかかる事など出来る筈もないからだ。
1547年、戦国大名の分国法における代名詞とされる「甲州法度之次第」を制定、
領内において厳格な法治体制を確立する。戦国の荒れた世なればこそ、厳しい規範を守らせ
揺るがぬ国家を樹立せねばならない。家臣はもとより、領民に至るまで法を遵守させる事で
武田氏の統治をより強固なものにしたのである。その内容は“喧嘩両成敗”“談合の禁止”
“年貢完納”“土地売買の禁止”など、後の江戸幕府法制にまで影響を与えるものであった。
1550年代になると、甲斐領内を流れる釜無川の治水工事に着手。
駒ヶ岳を源流とする釜無川は南へ下り富士川となる大河で、古来から氾濫を起こし
甲斐国に水害をもたらす暴れ川であった。晴信はこの川に独特の工夫を凝らした堤防を作り
治水を行い、国内の農業生産力を向上させようとしたのだ。この工事は約20年にも及ぶ
大事業となったが、完成した堤防により水害は激減し甲斐国に安定をもたらした。
晴信(信玄)の造った堤防は「信玄堤(しんげんづつみ)」と呼ばれ、昭和初期まで
有効に機能したという。晴信の内政は、「国家百年の大計」と呼ぶに相応しいものであった。
着実な領土拡張、緻密な法治主義、治水・農政の充実、農工業生産力の向上など、
晴信の領国統治によって甲斐国は富み、それに伴って民心も安んじられるようになっていく。

長尾景虎の領国統治 〜 仏門育ち潔癖漢の苦悩
百戦錬磨の武闘派・長尾為景は、下剋上で成り上がり武力で越後国内を鎮圧した。
晴景の後継によりその不満は一気に噴出、各地の豪族は一斉に叛旗を翻したが
景虎がどのようにこれを鎮めたかというと…やはり武力制圧であった。世俗を離れ仏門で育った彼は
甚だ世情に疎く、「駆け引き」という政治的妥協を知る人間ではなかったのだ。
秩序を無視する反乱は断固討伐あるのみ、国人の身勝手な蜂起は片っ端から叩き潰すという具合で
(領土欲の為景と違い、景虎の原動力は「正義の戦い」なのである)
軍を率いる景虎は越後国内を西へ東へ奔走するという日々が続いた。
1550年、越後守護・上杉定実が没すると越後上杉家は絶家となり、名実共に景虎が越後国主となるが
国人衆や家臣の不穏な動きは止まない。しかも長尾譜代の家臣と守護上杉家の旧臣らが
対立する事態にまで及び、その都度、景虎が力づくで解決に当たるという事が繰り返されたのである。
景虎の求心力は「無類の武巧者」という一点のみにあり、長尾家の家臣団は景虎の強さで
国内を平定する事だけを期待していたのであった。その結果として、常に独立心を持っていた
越後の国人衆は長尾氏の武力には勝てないので景虎に従う、という状況となる。
景虎の国内統治は、政治的方法に拠らず、武力威圧によって成し遂げられていたのだ。
1551年、為景の縁者で景虎と対立関係にあった長尾政景(まさかげ)とその一族が
服属を申し出た事で、越後国内の争乱はようやく沈静化に向かった。政略に長じた政景が
景虎の配下となる事は、越後国内で長尾政権に抗える者がいなくなった事を意味し
他の国人衆もこれに追随したのだった。されど、皆が景虎に心服した訳ではない。
武力制圧しか有効策がなく、家臣や国人の団結は期待できぬと悩んだ景虎は
1555年の冬、突如出奔して寺堂に篭ってしまった。
家臣の争いに嫌気がさし、再び世俗を捨てて仏門に安らぎを求めようとしたのだろう。
流石に長尾家の家臣もこれには慌てふためいた。一国の大名が遁世するなど前代未聞、
強力な武威を誇る景虎なくては越後の安定はおぼつかず、他国に侵略の隙を与えてしまう。
懇願する家臣一同の復帰要請を受け、やっと家中の安定を得た景虎は政務に戻るが
この事件は、軍事政権たる長尾政権が国内統治に悩んでいた様子を如実に現している。

長尾景虎の関東出兵 〜 幕府権威の忠実なる崇拝者
では、武力に長じた景虎はどのように政治力を高めようとしていたのか。
一言で言えば、幕府権力の活用である。父・為景は下剋上の実践者で
言わば「幕府権力をぶち壊した張本人」なのだが、景虎は素直に幕府権威を尊重した。
これもまた、規律を重んじる仏門での修行によって生成された景虎の性格から来るものであろう。
為景に倒された上杉顕定の跡を継ぎ、関東管領の職を引き継いだ山内上杉憲政(のりまさ)
小田原から伸張する北条氏(後北条氏)の武力に圧され、所領を削られるのみならず
関東における政治的指導力までも失いつつあった。「関東管領」が関東で主導権を失っては
これ以上不本意な事はないだろう。南からの押し上げを食らい、本拠地である上野国は風前の灯。
北条氏に抗し切れなくなった山内上杉氏は、景虎の武勇を頼った。1552年の事である。
(顕定を殺した為景の息子である景虎に泣きつかねばならないのが時代の無常さである)
憲政の支援要請を受けた景虎は、純朴な正義感に火が点いた。関東管領に歯向かう者は、
将軍に歯向かうのも同じ事、秩序を無視する反逆者には正義の鉄槌を下さねばならない。
景虎はそう考えたのである。この後、景虎はたびたび関東に出兵し
“反逆者(と勝手に決めつけている)”小田原北条氏の討伐に着手するようになった。
関東管領を補佐する事で、自分こそ正当な施政者であると喧伝し、政治権威を上げようとしたのだ。
この傾向は京の将軍家に対しても同様で、1558年に従五位下弾正少弼に任じられた返礼として
翌1559年に上洛、13代将軍・足利義輝に拝謁する。戦乱の最中、一国の大名という超重要人物が
越後国からはるばる京を目指し遠距離の移動をするという事は
とてつもなく危険で無謀なものであったが、景虎はそれを省みず上洛を決行したのである。
しかし「京の将軍に面会し、その信を得た」とあれば、景虎の権威は否応なく向上する。
落ちぶれて実力のない幕府ではあったが、礼節を重んじ返礼の上洛をする事は
景虎の政治的立場の浮揚には役立ったのである。関東管領の補佐、京の将軍との接見など、
旧来の幕府権威を崇拝する事で、景虎の越後支配体制に新たな展望が開けてきたのであった。
左:武田信玄像 右:上杉謙信像
左:武田信玄像
右:上杉謙信像




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