★この時代の城郭 ――― 戦国大名の山城(1)
前々頁において、戦国時代までの武士がどのように変化したかを記載した。
武士の生活が変わり、時代が変わり、戦術が変われば、当然に城郭も変化する。
では、武士の居館はどんな変遷を遂げたのであろうか。
平安時代〜鎌倉時代という武士草創期においては、農耕と兼務する生活習慣上、
武士の居館は耕作地に近い平野部に築かれる事が多かった。
建築技術もまだ未熟な時代であり、居館の周囲を木塀や用水路程度の濠で囲う事はあっても
大掛かりな石垣や深い堀、大規模な建造物、複雑な縄張り構成などはなく、
籠城戦を意図した構造ではない。農耕用の水利や田畑などの湿地が地形的防衛力として
機能したものの、基本的には「武士は仁義に従い野戦で戦うもの」とされ、
居館に敵が来攻するのは即ち、その武士の負けを意味するようなものであった。
鎌倉時代末期〜南北朝時代の城郭は、主に山中で戦うための山城であったが
これもまた天険の地形を利用するのが中心で、大規模な城郭構造物は作られない。
これらは戦時にゲリラ戦を展開する簡易な砦のような城郭で、必要なくなれば自焼自落する
「使い捨ての城」であり、平時においては以前と同様の武家居館で生活していた。
“城”というものは、戦の時にだけ臨時に造るものだったのである。
さらに、応仁の乱までの室町時代では、ほとんどの守護大名は京都に居を構えており、
本格的な城郭と呼べる防衛施設が構築される事は一部を除いてなかった。
戦国時代が到来するまでは、「武士の館」と「戦に用いる城郭」は
必ずしも一致するものではなかったのである。
では、戦国大名が各地に勢力を張り、実力で地域支配を行う時代においては
どのような城郭が築かれたのだろうか。
まず第一に挙げられるのが山城形態である。毎日戦乱に明け暮れ、
明日にも敵が襲いかかってくるかもしれない戦国の世にあって、
自らの身を守るには、攻めにくく守りやすい場所に篭る事が一番の方法であった。
急峻な傾斜で周囲と隔絶し、寄せ来る敵を谷底に叩き落すという
南北朝時代以来の基本戦術に沿った場所を選び、そこに城を築けば
自勢力の防衛は各段に行いやすい。そもそも、複雑な地形の山岳地は大軍の行動に無理があり
敵軍が容易に押し寄せる事自体が不可能となるのだ。これに叶う地に築かれたのが山城である。
南北朝時代の山城と異なる点は、防備のための建築物の設置や曲輪割りなどの縄張りを凝らし
「使い捨て」などではなく、恒久的に使用するための整備を行った事である。
しかし、領国経営を積極的に行い、農耕地開拓や商業発展により経済基盤を強化せねば
自軍の増強、ひいては自勢力の拡大は望めない。こうした面を考えると、
山深い山城は領国経営に不向きであり、大名の居館としては成り立たないのである。
故に、戦国大名の成立期において確立した山城形態とは、
平時においては山下の平野部に居を構え政務を行い、戦時に敵が来攻した時のみ
自軍の防衛に有利な山岳に築かれた山城で籠城して戦うという「二段構え」のものであった。
この場合、戦時に篭るための山城を特に「詰めの城」と呼ぶ。
詰めの城は、戦闘に特化された防衛施設であり、物見櫓や武器庫と言った
建造物が軒を連ねる反面、城主の御殿や家臣団の屋敷などが置かれた訳ではない。
つまり、設備は恒久的に維持されるものの、人が常時駐留するような場所ではないのだ。
朝倉氏が本拠を構えた一乗谷、それはまさにこうした形態の城郭であり
平野部となっている一乗谷の谷底に平時の居館を置き政務を執り、
戦時にはその裏山に築かれた詰めの城へ軍を結集し防衛するという構造になっていた。
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