混沌の北陸

中央政権と程近い場所にありながら、その影響力から一線を隔した北陸地方。
細川氏の政争、足利将軍家の流浪、六角氏の政治介入を目前に見ながら
琵琶湖の北には新たな勢力が基盤を築いていたのだ。
湖北の雄・浅井(あざい)氏の台頭と、それに盟する朝倉氏の勢力拡大、
加えて、管領家の名門を守りつつ外患を除いた能登畠山氏について。


湖北の驍将 〜 浅井亮政、京極氏から独立す
京都と目と鼻の先にある近江国は、室町体制において
北半分を京極氏、南半分を六角氏が領有し、それぞれが守護に任じられていた。
尼子氏の紹介にも記した通り、京極家は四職に数えられる名家で
その祖となるのは佐々木道誉、足利尊氏の幕府設立から従う将軍家直臣だ。
六角氏もこれまた同様、佐々木家を祖とする室町時代の名門。
両家は近江国を南北に分け、互いの領地を守るために様々な画策を行っていた。
特に六角氏は中央政界と関わりが深く、室町9代将軍・足利義尚の頃には
行き過ぎた領土政策を咎められ討伐を受けたり、その後の将軍位争奪戦においては
流浪する足利将軍の保護を行うなど、様々な事件に名の挙がる事が多かった。
さて、京極氏の被官で北近江に根付く土豪の浅井氏は、
4代(とされる。諸説あり)・亮政(すけまさ)の頃、戦国の風潮に乗り下剋上を開始した。
京極家の代官である上坂氏を討ち倒し領国を奪取、1524年頃(1516年という説もある)
浅井氏代々の居城となる小谷城(おだにじょう)を築き
京極氏の追討軍に備える体制を整えた。京極氏はこの時期、内訌を起こしており
亮政の下剋上は守護の支配力低下に突け込んだ見事な計画だったのである。
このため、京極氏の対応は遅れ六角氏に助力を依頼。京極・六角の連合軍を以って
ようやく亮政の討伐に取りかかった。これに対する浅井方は、越前を支配する
朝倉氏と同盟を結び、軍事力の増強を行う。常に守護・京極氏を出し抜く手を打ち
亮政は北近江における独立した勢力を築き上げていく。
なお朝倉との同盟は、浅井家の末代まで継承され、これが家名存続の大きな鍵にも、
足かせにもなっていくのであるが、それは後々の頁に載せる事にしたい。

小谷城の繁栄 〜 浅井亮政、六角氏とも競う
六角軍の助勢を受けた京極軍であったが、亮政が築いた小谷城は
天険と呼べる要害に構えられた難攻不落の城砦で、容易に落ちるものではなかった。
結局、京極軍は小谷城を落とせずに撤退。亮政は京極氏の支配を完全に脱したのである。
が、亮政の策はこれだけに終わらなかった。何と、小谷城に造営した一曲輪に京極丸と名付け
その曲輪に敵対する京極氏を招いたのである。浅井方の供応にすっかり気を良くした
京極一族は、そのまま懐柔されてしまう。ここに、北近江の支配者は亮政へと代わり
新進気鋭の戦国大名・浅井氏の統治体制が確立した。
しかし、亮政の伸張を認められない勢力もいた。京極氏と共に小谷城を攻めた
南近江の大名・六角氏である。すっかり北近江を乗っ取った亮政の実力を危険とし、
その影響が自領に拡大する事を懸念した六角方は、浅井氏を潰すべく競争を開始した。
1538年初頭、六角定頼(ろっかくさだより)は浅井領へ侵攻、小谷城下を蹂躙し
城下町を焼き払った。亮政の本拠を叩き、勢力を削ごうというのである。
されど、亮政はその程度で屈する者ではなかった。それどころか、
戦災を被った城下の民に対し徳政令を発し、納税を免除。
城下の復興を最優先とし、民の安寧を第一に慮ったのだ。
軍事や謀略のみならず、亮政の力量は政治面にも優れたもので、このように仁政を敷き
民心掌握を図った事で結果的には浅井氏の復活は滞りなく完了したのだった。

浅井・六角の代替わり 〜 浅井賢政、六角氏と断交
1542年に浅井亮政は没し、浅井家の家督は嫡子・久政(ひさまさ)に受け継がれた。
しかし久政は父・亮政とは異なり独力で勢力を維持する気概がなく、
長年戦ってきた六角氏に対する従属で家名を存続させようとした。
以後、浅井氏は六角氏の風下に立たされるようになる。
一方、六角氏も代が替わり、定頼の後を継いだのは義賢(よしかた)であった。
名門・六角の家名に絶対的な自信を誇る義賢は、足利将軍家の保護者として振舞い
国人出身の浅井氏に対して、かなり高圧的な態度で臨んだようだ。
これを嫌う浅井家臣団は結束し、六角との断交を望むようになって行く。
1560年、その時はやって来た。久政の嫡男は義賢から一字を貰い受け
賢政(かたまさ)と名付けられ、さらに義賢の配下武将・平井定武の娘を
妻に娶るよう強要されたのだが、一方的に元服名や妻をあてがわれるとは
浅井家の嫡男を見下した態度に他ならなかった。全ては、弱腰な久政の存念が原因である。
こうした六角氏の仕打ちに激怒した賢政と浅井家臣は、久政を隠居させ家督を譲らせた上
定武の娘を婚儀直後に離縁し、絶縁状と共に六角方へ送り返した。
義賢から受けた「賢」という片諱を嫌った賢政は名前も改め、六角氏と断交。
この対応に激怒した義賢は軍を発し、浅井領を侵犯するが
新当主を盛り立てる浅井の諸将は六角の軍を蹴散らし撃退した。
初陣にして名采配を振るい勝利した浅井の新当主、新たな名を浅井長政(ながまさ)という。
長政の下で一致団結した浅井家は、六角氏の打倒を第一の目標に定めつつ
再び北近江の支配権を確立し戦国大名としての勇躍へ歩を進めるのであった。
その戦略の先にあるものは、果たして何であろうか―――。

越前守護代・朝倉氏の伸張 〜 北陸の名家、戦国大名へ
では、亮政が同盟を組み交誼を結んだ朝倉氏とはどのような勢力であったのか。
越前国(現在の福井県東部)の守護は三管領に数えられる斯波氏であったが、
この斯波氏は尾張国(愛知県西部)や遠江国(静岡県西部)も領有しており
多数の国における守護職を兼ねる以上、実際の領国統治は守護代に委任するしかなかった。
この為、越前守護代に任じられたのが朝倉氏である。景行天皇の後裔を自称する
北陸の名族として名高い朝倉氏は、応仁の乱の頃には越前守護の地位を獲得しこれに参戦、
越前国全土の軍事的掌握を図った。戦乱の機運を上手く利用し、越前の豪族・甲斐氏や
主家であった斯波氏を倒したのである。この軍事行動を足がかりにして朝倉氏の越前支配が固まる。
足利9代将軍・義尚の頃に勃発した加賀国一揆では、加賀守護・富樫政親の救援を行うよう
義尚から直々の命令を受けた。将軍家までが、越前国主・朝倉氏の力を認めたのである。
その後、11代将軍・足利義澄の即位によって京を追放された10代将軍・足利義稙は
支援者を求めて全国を流浪、この最中に朝倉氏を頼って越前を訪れる事態にもなった。
1498年(明応7年)の事で、朝倉家3代目当主・朝倉貞景(さだかげ)は義稙一行を
朝倉氏累代の居城である一乗谷へ招き、丁重にもてなした。貞景のこうした行動は、
足利将軍家に対する忠誠の証として評価され、義稙の覚え目出度かった。
これにより朝倉家は将軍家直臣の身分を与えられるようになると同時に、
戦乱の京から一乗谷に疎開してくる公家衆らの増加も招来し、荒廃した都に代わり
一乗谷に京風文化をもたらし、より一層の繁栄を享受するきっかけともなったのである。
とは言え、力を持つ家柄こそ一族内から家督を狙う者が現れ、御家騒動になるのが戦国の常。
1503年(文亀3年)、朝倉一門にして敦賀郡司の職にあった朝倉景豊(かげとよ)
宗家に叛旗を翻し兵を起した。されど、この反乱は失敗に終わり、
景豊は貞景の追討を受け敗死。一門の内紛に蹴りをつけた貞景は、
逆にこれで家中の不穏分子を掃討する事になり、より強固な支配体制を築き上げるようになった。
こうして朝倉氏は越前国を領有する強大な戦国大名に成長したのである。

朝倉の代替わり(1) 〜 名将・朝倉宗滴の活躍
戦国争乱で勇躍する越前朝倉氏は、初代・孝景(たかかげ)、2代・氏景(うじかげ)、3代・貞景と
勢力を拡大していき、4代・孝景(初代とは別人)の時期に最高潮を迎えた。
この発展の原動力となったのが戦国初期の名将として名高い朝倉宗滴(そうてき)の存在である。
本名を教景(のりかげ)、号を宗滴と称するこの人物は、初代孝景の末子で
朝倉家5代に渡り文武の要として活躍した。朝倉家が参加した数々の戦に名を連ね武功を挙げ、
上記した朝倉景豊の乱では貞景・景豊の両軍から援軍要請を受けるほどの剛勇。
宗滴の去就次第で、朝倉家の軍事バランスは左右されるのであった。
(もちろん、宗滴が貞景側に就いた為に景豊の乱は失敗したのである)
越前国の北側に接する加賀国は、1487年から国一揆が発生し一向宗による自治が行われていたが
一揆勢力の拡大に備える朝倉氏は度々加賀に対する介入を実行、出兵を繰り返していた。
こうした戦線においても宗滴の武名は轟く。さらに1525年、浅井氏との同盟締結でも貢献し
軍事のみならず外交においても宗滴の能力は発揮されたのである。
同盟後に浅井氏への援軍を率い、京極・六角軍と交戦したのが宗滴である事は言わずもがな。
朝倉氏の南進政策により、北近江の浅井氏への影響力を行使しつつ、
宗滴率いる朝倉軍は若狭国(現在の福井県若狭湾沿岸地区)へも出兵する。
越前の北に南に、そして国内に、武威の宗滴は縦横無尽の活躍をし、
外交という戦略面でも機敏に対応。こうした名将が支える事で、4代目当主・孝景は
越前国内で磐石な治世を展開する事が可能となり、北陸の雄として朝倉氏は名を馳せた。
朝倉氏が繁栄するほど、全国各地から(特に京都から)越前国へと人が集まり
政治・軍事・経済・文化の各方面において一乗谷は発展を遂げていったのである。

★この時代の城郭 ――― 戦国大名の山城(1)
前々頁において、戦国時代までの武士がどのように変化したかを記載した。
武士の生活が変わり、時代が変わり、戦術が変われば、当然に城郭も変化する。
では、武士の居館はどんな変遷を遂げたのであろうか。
平安時代〜鎌倉時代という武士草創期においては、農耕と兼務する生活習慣上、
武士の居館は耕作地に近い平野部に築かれる事が多かった。
建築技術もまだ未熟な時代であり、居館の周囲を木塀や用水路程度の濠で囲う事はあっても
大掛かりな石垣や深い堀、大規模な建造物、複雑な縄張り構成などはなく、
籠城戦を意図した構造ではない。農耕用の水利や田畑などの湿地が地形的防衛力として
機能したものの、基本的には「武士は仁義に従い野戦で戦うもの」とされ、
居館に敵が来攻するのは即ち、その武士の負けを意味するようなものであった。
鎌倉時代末期〜南北朝時代の城郭は、主に山中で戦うための山城であったが
これもまた天険の地形を利用するのが中心で、大規模な城郭構造物は作られない。
これらは戦時にゲリラ戦を展開する簡易な砦のような城郭で、必要なくなれば自焼自落する
「使い捨ての城」であり、平時においては以前と同様の武家居館で生活していた。
“城”というものは、戦の時にだけ臨時に造るものだったのである。
さらに、応仁の乱までの室町時代では、ほとんどの守護大名は京都に居を構えており、
本格的な城郭と呼べる防衛施設が構築される事は一部を除いてなかった。
戦国時代が到来するまでは、「武士の館」と「戦に用いる城郭」は
必ずしも一致するものではなかったのである。
では、戦国大名が各地に勢力を張り、実力で地域支配を行う時代においては
どのような城郭が築かれたのだろうか。
まず第一に挙げられるのが山城形態である。毎日戦乱に明け暮れ、
明日にも敵が襲いかかってくるかもしれない戦国の世にあって、
自らの身を守るには、攻めにくく守りやすい場所に篭る事が一番の方法であった。
急峻な傾斜で周囲と隔絶し、寄せ来る敵を谷底に叩き落すという
南北朝時代以来の基本戦術に沿った場所を選び、そこに城を築けば
自勢力の防衛は各段に行いやすい。そもそも、複雑な地形の山岳地は大軍の行動に無理があり
敵軍が容易に押し寄せる事自体が不可能となるのだ。これに叶う地に築かれたのが山城である。
南北朝時代の山城と異なる点は、防備のための建築物の設置や曲輪割りなどの縄張りを凝らし
「使い捨て」などではなく、恒久的に使用するための整備を行った事である。
しかし、領国経営を積極的に行い、農耕地開拓や商業発展により経済基盤を強化せねば
自軍の増強、ひいては自勢力の拡大は望めない。こうした面を考えると、
山深い山城は領国経営に不向きであり、大名の居館としては成り立たないのである。
故に、戦国大名の成立期において確立した山城形態とは、
平時においては山下の平野部に居を構え政務を行い、戦時に敵が来攻した時のみ
自軍の防衛に有利な山岳に築かれた山城で籠城して戦うという「二段構え」のものであった。
この場合、戦時に篭るための山城を特に「詰めの城」と呼ぶ。
詰めの城は、戦闘に特化された防衛施設であり、物見櫓や武器庫と言った
建造物が軒を連ねる反面、城主の御殿や家臣団の屋敷などが置かれた訳ではない。
つまり、設備は恒久的に維持されるものの、人が常時駐留するような場所ではないのだ。
朝倉氏が本拠を構えた一乗谷、それはまさにこうした形態の城郭であり
平野部となっている一乗谷の谷底に平時の居館を置き政務を執り、
戦時にはその裏山に築かれた詰めの城へ軍を結集し防衛するという構造になっていた。


朝倉の代替わり(2) 〜 宗滴の死と優柔不断の義景
朝倉家4代当主・孝景は卓越した政治手腕と戦略眼をして越前国の経営を舵取りし
名将・朝倉宗滴の活躍はそれを実現する原動力となり、戦国大名・朝倉氏は発展した。
京に匹敵する一乗谷の繁栄、浅井氏との同盟、加賀一向一揆の拡大阻止、
越前朝倉氏の勇名は全国へと轟くようになったのである。
ところが1546年、孝景の死によって状況は微妙に変化して行く。
孝景の跡を継いだ5代・義景は京風文化に憧れる文弱の将で、一国の経営を為す器になかった。
彼は先祖伝来の勢力に守られる事で戦国乱世の状況を自覚せず、居城である一乗谷城を
京の都と同じように華やかで優雅に彩る事ばかりに没頭したのである。
殺伐とした戦国の世ゆえに諸大名が華やかな京都に憧れ、公家文化を保護する事は珍しくないが
義景のそれは度を越したもので、次第に朝倉氏の勢力に陰りが見えていく。
当然、朝倉軍を束ねる宗滴は義景の遊興に諫言を繰り返すものの効果はなく
そうこうしている間に1555年9月、宗滴までが病に倒れ帰らぬ人となった。享年79歳。
朝倉氏の命運は義景の双肩に委ねられるようになったのである。
こうした状況の中、13代将軍・足利義輝が暗殺され、その弟・足利義秋が難を逃れ
繁栄の都・一乗谷に転がり込んできた。次期将軍の位を得るため、北陸の大身にして
将軍家直臣の地位にある朝倉氏の助力を得ようとしてきたのだ。
ところが義景は、京風文化の享受を目的に義秋を保護しただけで、
将軍レースも中央政権への進出も興味なし。義秋を擁して京都に向かえば
越前のみならず中央政権も握る事が出来るようになるというのに、
義景の優柔不断さはそれを決心できずに時間だけが過ぎていったのである。
軍事動員を求める義秋の意向などそっちのけで、ひたすら風雅に没頭する義景。
義昭と名を改めた義秋が、次第に義景を見限るようになったのは先述の通りであり
それは朝倉氏5代の繁栄が義景によって消えていく事を表していた。

能登畠山氏 〜 天険・七尾城下の勃興
話は変わって、能登国(石川県北部)に移る。能登国守護は三管領の一家に数えられる畠山氏で、
室町幕府体制に近い存在であった故に、中央政権に左右される脆弱さも抱えていた。
このため、10代将軍・義稙と11代将軍・義澄が政権争いを繰り広げた頃、
能登畠山氏も義稙派と義澄派が守護職を交代するようになってしまっていた。
足利義澄に与した畠山慶致(よしむね)が務めていた能登守護職は、
義澄の凋落と義稙の将軍復帰に伴い交代となり、義稙派の畠山義元に引き継がれたのだ。
ところが、能登国内の国人衆はこれに反感を抱き各地で反乱。
義元は鎮撫の軍を出すが反抗の火の手は一向に収まる気配がなく、守護による支配力が
低下して行くかに思われた。が、これを助けたのが慶致の子・義総(よしふさ)である。
慶致以来、能登国人衆に多大な影響力を持った義総は能登の内戦を懸念、
義元に助力し国人衆の統制に当たったのであった。とかく反発する事の多い
新旧守護の関係にあって、義総の行動は珍しいものである。義総の協力に感謝した義元は
これまた潔く守護職を移譲、能登国政は義総に委ねられるようになった。
極めて平和的に能登守護を継承した義総は名君と呼ぶに相応しい人物で、
内政においては経済の拡充に努め、交易港でもあった畠山氏の本拠・七尾の町は
飛躍的な発展を遂げていく。諸勢力が対立する能登国人衆も、義総の統治によってまとまり
能登畠山氏の家中は安泰。外交でも辣腕を振るう義総は硬軟織り交ぜた策により
他国からの侵略を防ぎ、その治世約30年の間は能登国内が争乱に巻き込まれる事はなかった。
斯くして、能登畠山氏は義総の統治により大きな実力を育み、戦国大名化に成功する。
乱世の最中ながら平和を享受した商業都市・七尾には、畿内から程良い距離があった事もあり
(京と無縁というほど遠くなく、中央の戦乱に巻き込まれるほど近くもないため)
一乗谷と同様に都落ちしてきた公家らが多数集まり、一大文化圏を築いた。
京風文化花開く七尾は、近畿と一線を隔しつつもそれに匹敵する繁栄を手にしたのである。
このようにして類稀な指導力を発揮した義総の下、畠山氏の家臣団は一致団結し
能登国は戦国乱世を乗り切るようになる。しかし1545年に義総が没すると
後嗣である義続(よしつぐ)には義総ほどの才覚がなかったため
次第に畠山氏の治世に陰りが見えるようになってくる。周辺諸国も実力を増し、
能登の安寧がおぼつかなくなってきた頃、国人衆と畠山氏重臣らに再び反乱の火が灯る。

★この時代の城郭 ――― 戦国大名の山城(2)
上に書いたように、戦国大名の中には平時に平野部の居館で生活し、
戦の時だけ山上に築いた城郭へ篭って敵を退けるという備えをする者がいたが
よくよく考えてみると、居館と城郭を別々に構えるのは手間も経費もかかるものである。
また、居館と山城が遠く離れていては戦闘に即応する事が難しい。
防衛施設としての山城が必要不可欠な存在であるとすると、平時の居住空間も
山城の中に内包してしまう事ができれば、城郭だけで事足りるようになる。
こうして、戦国期には居住空間を兼備した山城が作られるようになっていくのである。
城主の御殿や家臣屋敷をも内包するという壮大な戦国期山城の登場だ。
(現実の用法としては、山下の居館と山上の山城を密接させる、という事例が多い)
しかし、「統治の本拠たる政庁」「大名の住居である生活空間」「戦時の防衛施設」という
全ての要件を兼ね備える城郭となるこうした山城を築くには、様々な条件が必要となる。
・政庁機能→城下町に近く、支配力の行使が容易である場所
・居住空間→山地にありながら、多数の生活建築物や備蓄倉庫を建てられる空間
・防衛施設→敵兵を寄せ付けず、高度な防御力を維持できる要害の地
これらの条件が整わないと、「大名の居城となる山城」は成立しないのだ。
浅井氏の本拠である小谷城や、能登畠山氏の居城である七尾城は
こうした条件を満たす好条件の立地に建てられた山城であった。
特に七尾城は、その名の通り「七つの尾根にまたがる山城」で、
山頂から全周に対して延びる尾根を開平した事により広大な城域を確保し
その周囲は断崖絶壁で防御、しかも本丸から城下町と港湾を見渡せるという
戦国屈指の名城に数えられる城郭であった。畠山氏の繁栄は、
この堅城によって支えられていたと言っても過言ではない。
こうした政軍一体の山城は、戦国前期の強大な戦国大名の居城に多く、六角氏の観音寺城や
毛利氏の吉田郡山城、後記する長尾(上杉)氏の春日山城などがその代表格である。

長政の登場で戦国に一石を投じた湖北の浅井氏、父祖が強大な勢力を築いた朝倉氏の義景、
堅城・七尾城に雑多な家臣を抱える畠山氏。三者三様にありながら、北陸の大名家は
畿内との距離を保ちつつ勢力の維持に気を払う状況であった。
加えて、国一揆の自治で権力の空白となっている加賀国。
一向宗の動向も、もはや無視できない強力なものになっていたのである。
北陸地方は、各国で権力基盤を固める大勢力が確立しながらも混沌とした様相になっていた。
左:浅井長政像 右:朝倉義景像
左:浅井長政像
右:朝倉義景像




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