中国地方の覇者(2)

安芸国吉田庄の小豪族・毛利氏。
近隣の諸勢力を従え、吉川氏・小早川氏に優秀な子供たちを送り込んで
「毛利両川」と呼ばれる支配体制に組み込んだが、
基本的には地方豪族としての規模を超えるほどの勢力拡大を為した訳ではない。
が、元就の勇躍はここからが本番である。
類稀なる謀略能力と、強運を呼び込む実力で危機を跳ね返し
圧倒的大勢力である大内氏・尼子氏を追い落としていくのだ。


陶晴賢の謀反 〜 毛利家最大の転機
高橋・熊谷・宍戸、それに吉川・小早川。周囲の国人衆を平らげた毛利家であったが
その運営は連合政権のようなもので、毛利家を頂点とする主従関係とまでは行かなかった。
こうした中、元就の家督擁立にも功績があった譜代の重臣・井上氏に対して
元就は徹底した粛清を行った。1550年7月の事である。毛利家中の中心たる重臣とは言え、
井上元兼(いのうえもとかね)は従来より専横の振舞いが多く、
元就の意向に従わない事が多々あったためだ。綱紀粛正を図る元就は井上氏を根絶やしに。
譜代の重臣が抹殺された事により毛利家臣団は再編され、これが契機となり
毛利家と家臣の主従関係が明確なものとなった。毛利氏は戦国大名としての体制を整えたのである。
一方、学問に傾倒する大内義隆は軍事をおろそかにし、国防の重要性を訴える重臣との溝が
日に日に大きくなっていた。武断派の筆頭であったのが周防守護代にして譜代の功臣である
陶隆房(すえたかふさ)。「西国無双の侍大将」と称される武巧者である。
しかし武芸を嫌う義隆は隆房を遠ざけ、
文治官吏の相良武任(さがらたけとう)ばかりを重用するようになる。
書物で戦には勝てぬ、と武任を目の仇にする隆房。その憤懣は募る一方で、
武任への怒りはいつしか主君・義隆への反感へと悪化して行った。
こうした状況を危惧し、義隆に諫言する者もいたが、義隆は一向に取り合わない。
彼等もまた、惰弱に溺れる義隆に見切りをつけ、隆房に同調するようになってしまった。
1551年8月、遂に隆房らは兵を挙げ義隆に謀反。当然、義隆は為す術なく敗れ、自刃。
隆房と犬猿の仲であった武任は逃亡したものの、捕縛され討たれた。
元就は大内義隆という大きな後ろ盾を失い、混迷の闇に突き落とされたのである。
隆房は翌1552年、豊後国(大分県)大友氏から大内家の新当主として
大内晴英(はるひで)を迎え入れ、自身は陶晴賢(はるかた)と改名した。
晴英から一字を拝領し、我こそが大内家の最高権力者である事を喧伝したのである。
(晴英は翌1553年に義長(よしなが)と改名している)
大内家の全権を掌握した陶晴賢。元就は、晴賢に従うか抗うか、究極の選択を迫られた。

厳島の合戦 〜 謀略戦の勝利
1551年9月、晴賢謀反の混乱を鎮める為、元就は反晴賢勢力の鎮圧を行った。
1553年10月にも、晴賢から尼子方へ寝返った国人・江田氏の討伐を行う。
ところが、晴賢はその戦後処理に介入し元就の功績を認めなかった。
傲慢な晴賢に、元就のみならず毛利家中全てが憤る。同月、石見国津和野領主である
吉見正頼(よしみまさより)が晴賢の横暴に憤慨し、反陶の兵を挙げた。
正頼は元就に救援を要請。意見が一致した元就は、遂に晴賢との対決を決意した。
元就を手駒として扱おうとしていた晴賢は、のこのこと翌1554年の正月に
吉見軍の討伐を毛利家に命じたが、当然、元就はこれを黙殺。
同年5月から、毛利軍は陶勢力の諸城に対して攻略を開始した。
しかし、山陽の大国・大内氏を預る陶の軍勢と、安芸の小豪族である毛利家では
天と地の差があり、まともに戦っては全く歯が立たない。となれば、謀略戦である。
まず第一に、晴賢の家老・江良房栄(えらふさひで)を抹殺した。
房栄は知勇兼備の優秀な人物で、陶方に彼がいては元就に勝ち目はない。
元就は「房栄反逆」の偽情報を流し、晴賢自身に房栄を殺させてしまった。
第二に、決戦場を厳島に定めた。陶軍(大内軍)は2万の大軍、毛利軍はせいぜい4000。
狭い厳島に大軍を誘き寄せ、行動不能に陥れようとしたのである。このため、元就は
厳島の中に宮尾城を建築し決戦に備えた。しかし、肝心の陶軍が厳島に目を向けなくては
この作戦は意味を為さない。またもや元就は情報で撹乱し、晴賢に
「厳島に兵力を割いたのは失敗だと元就が悔やんでいる」と信じ込ませる。
その上、毛利家重臣の桂元澄(かつらもとずみ)
「晴賢が厳島を攻めれば、同時に謀反を起こし元就を挟撃する」という書状を送らせた。
元澄の父は元就が家督を相続する際、元綱に加担したとして処刑されており
これを知る晴賢もさすがに元澄謀反の書状を信じずにはいられなかった。
こうして厳島決戦に向けて動き出した両軍。そこで第三の手として元就が打ったのは
伊予村上水軍の協力を取り付ける事である。海に浮かぶ島で戦をするのであれば、
海路の確保は最重要事項。もちろん晴賢もそれは承知しており、同じく村上水軍を頼るが
元就と晴賢はアプローチが違った。驕慢になっている晴賢は出兵を「命じ」
必勝を祈願する元就は出兵を「求めた」のである。斯くして、村上水軍は元就に味方した。
1555年9月21日、決戦に臨む陶軍は2万の大軍で厳島に上陸、宮尾城を包囲した。
同月30日、暴風雨が吹き荒れる夜に毛利軍も厳島に渡る。その数は3500と言われる。
暴風雨の夜に渡海するとは思っていなかった陶軍は、明けた10月1日に毛利軍の総攻撃を受け
為す術なく壊滅に陥る。脱出を図る晴賢軍主力であったが、船を出そうとする浜の沖には
小早川の水軍が包囲しており、その道は閉ざされた。
事ここに至り、己の最期を悟った晴賢は自害。
元就の目論見通りに戦は進み、厳島を舞台にした謀略戦は勝利に終わった。

大内氏平定 〜 元就、山陽の太守へ
平安時代から神域とされた厳島で決戦を行った元就は、その償いとして
厳島神社の改修を行い、武門の神への信仰を新たにした。
その甲斐あってか、安芸の小領主に過ぎなかった元就は、安芸のみならず
備後国(広島県東部と岡山県の一部)まで手中にする大大名に成長。
晴賢を倒した余勢を駆って、大内義長の討伐に乗り出した。
もともと義長は晴賢に祭り上げられた傀儡君主に過ぎず、大内家当主と言っても
名目的なものに過ぎなかった。安芸から西に兵を向け、周防・長門へと進む元就。
義長に満足な抵抗など出来るはずもなく、大内方の城は次々と陥落していく。
追い詰められた義長は1557年に自害、北九州における大内領も吸収して
毛利家の領土は備後・安芸・周防・長門・筑前にまで広がった。
かつて大内家の版図であった国は、そのまま毛利家のものになったのである。
次に狙うは石見国。そして、尼子氏の本拠である出雲国だ。

新宮党粛清 〜 晴久、元就に嵌められる
陶と毛利が対決している最中の1554年10月、事件は起きていた。
尼子晴久が伯父にあたる尼子国久(くにひさ)と、その子・誠久(まさひさ)
討ち滅ぼしたのである。国久・誠久の一族は月山富田城下の新宮谷に居館を構え
尼子軍最強の機動部隊「新宮党」を組織していたが、かねてから新宮党の存在を
排除したかった元就は、長年に渡って謀略工作を行っていたのだ。
国久は尼子宗家に忠実であったが、誠久は新宮党の武威を誇り、
事あるごとに他の武将と対立を繰り返す。
そこに目をつけた元就は、「新宮党は武功に驕り謀反を企んでいる」と流言した。
当初は耳を貸さぬ晴久だったが、執拗なまでの謀略宣伝に心動かされ
大内義隆が重臣・陶晴賢に討たれた事もあり、自分も新宮党に背かれるのか?という
疑念に苛まれ、とうとう国久・誠久父子を滅してしまったのだ。
元就にしてみれば、願ったり叶ったりというところであろう。
陶軍との対決に臨む重要な時期に、背後の尼子氏は勝手に内紛を起こして自滅し
しかも尼子軍の中枢となる新宮党が消え去ったのだから、これほど嬉しい事はない。
新宮党粛清により、毛利氏は陶軍への戦略に専念する事が可能となり
後々予想される尼子氏との戦いにおいても、優位な軍略を展開できるようになろう。
晴久は元就の姦計に嵌り、自ら手足をもぎ取った。
元就の計略術は、達人と呼べるまでに円熟していた。

元就の石見攻略 〜 大森銀山の獲得
新宮党が粛清され、陶晴賢が倒され、大内氏の残党制圧にも目途が付いた頃、
元就の目標はいよいよ尼子氏との直接対決が残されるのみとなった。
まず手始めに行われた攻略が、石見国の大森銀山を手にする事である。
銀山を獲得できれば、毛利の経済力は飛躍的に向上しよう。
1556年から石見攻略に着手した毛利軍は、剛勇で鳴らす吉川元春を先鋒に軍を進め始めた。
この頃までに毛利の軍制は、山陽方面に海戦を得意とする小早川隆景、
山陰方面に陸戦の強者である吉川元春を充てるようになっていた。
大森銀山を守る尼子方の豪族・本城常光(ほんじょうつねみつ)
開戦当初は頑強な抵抗を見せて毛利軍をてこずらせたが、次第に落ち目の尼子を見限り
元就の勧誘になびき降伏。1562年に大森銀山を明け渡した。強力な武力を有する常光の帰順は
同時に、いつまた尼子方へ寝返るかわからない危険性を孕んでいた。このため、常光の存在は
将来に害ありと判断した元就は、彼を謀殺し後顧の憂いを無くした。
大国を預る大名たる者、先々を見据えて時に冷徹な処断を下さねばならぬ事を知っていたからこそ
元就の勢力はここまで大きくなれたのである。一方、尼子方は1560年12月に
当主・晴久が病没しており、晴久の嫡男・義久(よしひさ)が跡を継いでいたが
彼は優柔不断な性格で、物事の処断を下せない悪癖で家中を混乱させていた。
的確な判断で進撃する毛利方に対し、不覚な当主に翻弄される尼子方は守勢一方になっていった。

月山富田城陥落 〜 軍事大国・尼子氏の最期
石見国を服属させた直後の1563年、元就に思わぬ不幸が訪れる。
将来を嘱望した嫡男・隆元が急逝したのだ。されど、ここで動揺しては尼子方の思う壺。
悲嘆に暮れる間もなく、隆元の嫡子・輝元(てるもと)を新当主に定め
自分の存命中に何としても尼子との決着をつける誓いを立てた元就。
石見制圧から休む間もなく、毛利・吉川・小早川の全軍を以って
尼子氏の本拠地・出雲国への進撃を開始した。この戦いは、隆元の弔い合戦でもあった。
必勝の体制で怒涛の行軍を為す毛利軍に恐れを為し、出雲の豪族は戦わずして降伏、
あっという間に月山富田城は完全包囲された。支城で散発的に抵抗する尼子方もいたが
これも元就の攻撃には敵うはずもなく打ち破られていく。しかし、尼子の本城である
月山富田城の守りは固かった。かつて、大内義隆が数万の兵で力攻めしても落ちなかった城である。
元就はこの時の経験を活かし、無謀な攻撃は控えた。
既に富田城は蟻の這い出る隙もなく囲まれているのだから、
城の兵糧が尽き、尼子の兵が飢えるまで待ち続ければ良いのである。
新宮党を滅し機動力を失い、城を包囲され食料調達も成らない尼子軍は耐えるしかなかった。
この籠城は実に3年余りにも及ぶ長期戦となったが、飢餓と疑念の地獄と化した富田城は
ついに力尽き、1566年に落城。囚われた尼子義久とその弟2人は元就によって幽閉され、
山陰の軍事大国として名を馳せた尼子氏は、ここに滅亡したのである。
大内・尼子の全てを平らげた毛利氏は、安芸吉田の地方豪族から
中国地方全土を領有する巨大大名にまで勝ち上がったのだった。

尼子氏系図

尼子氏系図  ―は親子関係

布部山の合戦 〜 戦国の巨星・元就の最晩年
元就は既に70歳という高齢を迎えていた。もはや、戦場に出て野を駆け回る歳ではない。
それでも、元就の戦いは終わらなかった。大内や尼子の残党が、常に毛利の転覆を狙うからだ。
出雲平定後、毛利家の敵となったのは九州の大友氏である。
大内氏の旧領は北九州にまで及び、これを毛利家が継承していたのだが、
豊後守護である大友氏は大内時代から九州内における本州勢力の駆逐を標榜しており、
毛利氏が新たな北九州の統治者となっても、同様に攻撃を仕掛けてきたのだ。
九州島内で大友軍と毛利軍の攻防が激化し、戦闘や謀略が飛び交う中、
大友氏は毛利軍の背後を突く陽動作戦まで展開。大内氏の一族である
大内輝弘(てるひろ)に兵を与え瀬戸内海を渡洋、いきなり山口まで攻め上がらせた。
毛利軍は関門海峡を挟む北九州と、防府・山口周辺の周防国内という2正面作戦を強いられ
苦境に陥る。しかし、憂慮はこれだけに終わらなかった。
尼子遺臣の山中鹿之助(やまなかしかのすけ)は、尼子氏の復活を賭けて同志を募り、
京都・東福寺で僧になっていた尼子勝久(かつひさ)を迎え入れて
海路から出雲に上陸したのだ。勝久は、かつて元就に謀殺された新宮党・誠久の遺児である。
1569年6月に島根半島から出雲に入国した鹿之助一行は、3000の軍勢に膨れ上がり
尼子の本拠・月山富田城の奪還を目指す。一方、富田城を預る毛利の将・天野隆重
尼子残党の到来に備え、城を固く守った。鹿之助らはかつての居城である富田城の堅さに敵わず
方策を変更、富田城を後回しにして出雲国内の平定に軍を回した。
3方向で敵を抱える事になった毛利軍だが、毛利両川の動きは素早かった。
九州における戦闘は和議を結び停戦を勝ち取る。返す刀で山口を攻略、10月に輝弘を討ち滅ぼし
その後、積雪の始まった厳冬を押して陸海から出雲平定の軍を差し向けた。
毛利の援軍が予想以上に早く、しかも真冬に到来すると思わなかった尼子軍は慌て、
出雲平定の計画は頓挫した。翌1570年2月、布部山(ふべやま)に陣取る鹿之助に対し
毛利軍は総攻撃を開始、これを打ち破った。夢破れし勝久・鹿之助主従は敗走し、海路隠岐に逃亡。
毛利の来援前に月山富田城を奪えなかった事が最大の敗因である。
勇猛の元春、智謀の隆景に支えられ、孫の輝元の行く末も安泰と見届けたのであろう、
1571年6月、稀代の智将・毛利元就は病没。享年75歳。
しかし、勝久と鹿之助はまだまだ復活を狙い、九州の大友氏や山陽の諸豪族も
毛利と対決する姿勢を崩していない。元就亡き後、輝元の力量が問われる時代がやって来る。
毛利元就像毛利元就像



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