中国地方の覇者(1)

ここからしばらくは、代表的な戦国大名の経歴をいくつか紹介していく。
(内容に応じて年代が前後するのを御容赦願いたい)
先ず最初に挙げるのは、一介の国人から中国地方を制圧するまでに成長した
毛利元就(もうりもとなり)の動向について。
南に名門・大内家、北に精鋭・尼子(あまご)氏が控え、両者の挟間で苦悩する小領主は
齢50を過ぎた時に人生の転機を迎え、苦境を好機に転換した。
「三本の矢」とされる子供たちに支えられ、元就は如何に戦ったのか。


安芸国人・毛利家の苦難 〜 翻弄される小領主
鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元。
その子孫は相模国毛利荘(現在の神奈川県厚木市毛利台)に領地を与えられたため、
毛利氏と改姓。後に安芸国(広島県)吉田庄へと国替えとなったが、由緒ある毛利の姓は守り
同地の地頭として土着した。が、その所領はわずか3000貫に過ぎぬ弱小の土豪。
戦国時代初期の安芸国はこのような小豪族が多数林立する状況で、
しかも守護である武田氏は名目的なものに過ぎなかったため、国人衆をまとめ上げる指導者も
豪族乱立を征服するような実力者もいないという不安定な地帯であった。
しかし、南には周防・長門(山口県)などを領有する名門・大内家が大勢力を誇り、
北には出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)などを平らげた軍事大国・尼子氏がいて
両者に挟まれた安芸国は常に戦乱の脅威に晒されていた。
吉川(きっかわ)・小早川(こばやかわ)・熊谷・高橋・野間といった安芸豪族たちは
大内と尼子の挟間に揺れ、時に応じて大内につき、あるいは尼子につき、自主独立もしつつ
家名を存続させる事に腐心していたのだ。もちろん、毛利家も同様。
大内と尼子が覇権を争うたびに、安芸国人衆は翻弄されたのである。

山陰太守・尼子氏 〜 武略と謀略の鬼・尼子経久
山陽の大内氏は、先般より書き続けたあの大内氏である。
南北朝動乱期から足利幕府に貢献し、応仁の乱では絶大な軍事力を誇り、
管領・細川家の内紛にも度々介入しその実力を天下に轟かせていた。
では、山陰の太守・尼子氏とは如何なる勢力であろうか。
尼子氏の系図を遡ると名門・京極氏にあたり、京極氏を遡ると佐々木氏に繋がる。
南北朝時代の“ばさら大名”として名が出た佐々木道誉である。
道誉の孫の代に佐々木氏は京極氏と改姓、室町幕府における四職の家格を得た。
この時に分家として成立したのが尼子氏であり、京極家の領地である近江国に居住。
後に京極家は出雲国守護の職も得たため、守護代として尼子氏が派遣されたのだ。
通常、守護代は現地の有力者が選ばれる。地縁・血縁に強くなければ職務を果たせないからだ。
しかし、近江から出雲へ移された尼子一党は、この苦境を難なく跳ね除けた。
応仁の乱後、戦国動乱の世を迎えた出雲国において、尼子氏は一層の勇躍を遂げる。
好機到来とばかりに敵対勢力を一掃、他国への侵略も開始したのだ。
この時の尼子氏当主・経久(つねひさ)の本領発揮である。
しかし、経久は一時期道を見誤る。守護代の制約から脱却するため、
守護たる京極氏に謀叛まで起こした。これには尼子氏に従った出雲国人衆が納得せず
経久は居城・月山富田(がっさんとだ)城を追われ、領地を失う浮浪人になってしまった。
が、これで終わる経久ではなかった。2年後、配下の兵を蓄えた彼は
元旦の祝宴に乗じて月山富田城へ侵入、殺戮戦を為して城の奪還を果たす。
勢力を回復した経久は、さらに領地を拡大すると共に領国経営も積極的に行い
山陰地方の大半を治める大規模な戦国大名へと成長していく。
強大な軍事力と神算鬼謀の計略を縦横に駆使し、領土拡大を続ける尼子経久は
山陽の雄・大内氏との対決を繰り返すようになっていたのであった。

毛利元就の家督継承 〜 大内と尼子の圧力
こうした世情の中、1497年に元就は誕生した。父は毛利弘元(ひろもと)
弘元には既に嫡男・興元(おきもと)がおり、次男坊の元就は家督を継ぐ地位になかった。
弘元が隠居するにあたり、兄である興元が毛利家を相続し、毛利家の本城である
吉田郡山城を継承、弘元と元就は支城である猿掛(さるがけ)城へ居を移す。
元就5歳の時に母が死に、10歳の時に弘元も死去。孤独な身の上になった元就は
兄・興元を慕いつつも一人猿掛城で成長していく。
この頃、大内氏は細川氏の騒動に介入し京都へ出兵しており、弱小豪族である毛利家は
それに追従させられ、興元は遠く京の都まで遠征。留守を預った元就はこの大役を果たしたが
帰国して間もなく、興元は亡くなってしまった。長期行軍の過労に加え、
父も兄も酒豪であったため、酒毒で体調を崩したようだ。この教訓から、元就は生涯酒を控えた。
武将の健康状態は、そのまま御家の存亡に関わる重大事なのであるから当然であろう。
当主不在となった毛利家にあって、興元の遺児・幸松丸(こうまつまるこうしょうまるとも
家督継承権を持っていたが、幼少にて政務はとうてい不可能。このため、20歳の元就が補佐役となり
毛利家の運営に当たるようになった。時おりしも安芸守護・武田元繁(たけだもとしげ)
尼子経久の謀略に乗せられて大内氏へ宣戦布告、交戦状態に入った頃である。
大内氏からの援軍要請を受け、毛利軍は武田軍と戦闘を行う。これが元就の初陣となるが
何とこの戦いで元就の軍が元繁の首を討ち取った。毛利軍は圧倒的劣勢であったにも関わらず、
しかも初陣にして大金星の成果であり、元就の声望はにわかに高まった。

毛利氏系図

毛利氏系図 (赤字は女性) ―は親子関係 は養子関係 =は婚姻関係
大内氏当主・大内義興は、元就の活躍に驚喜。
その一方、元就の名将ぶりを称賛する者がいれば危険視する者もいた。
尼子経久である。“捨て駒”とは云え、経久が操った元繁があっさりと倒され、
大内と毛利が良好な関係に転じたとあれば、黙ってはいられない。
元就の伸張を阻止すべく、毛利家臣の数名に対して調略工作を始めた。
元就の異母弟・元綱(もとつな)に荷担し、元就の立場を崩そうというのである。
ちょうどこの頃、幸松丸が死去。毛利家の家督は元就と元綱のどちらかに委ねられる事になる。
経久の息がかかった毛利家臣は、尼子氏の武力を後ろ盾として毛利家を安泰にしようと考え、
元綱へ家督を継がせようと画策。一方、譜代の重臣らは元就の器量こそ毛利家拡大の鍵とし
元綱派の封じ込めに奔走した。結局1523年に元就が家督を継ぎ吉田郡山城主となったが、
元綱と尼子氏の介入は捨て置く事が出来ぬほど憂慮すべき事態に陥り、
1525年、元就は元綱を攻め滅ぼさねばならなくなり、元綱に加担した家臣も処罰。
かねてから大内・尼子の両方に対面を繕ってきた毛利家は、これによって尼子氏と断交し
大内氏の庇護下に入って勢力を維持していく結論に達した。

元就、安芸国を固める 〜 諸勢力の挟間に生きる
1529年5月、元就は高橋弘厚(たかはしひろあつ)興光(おきみつ)親子を滅ぼした。
高橋氏は毛利氏の近隣豪族で、元就の兄・興元の妻は高橋氏の出身であったが
毛利は親大内、高橋は親尼子と敵対し、軋轢が高まっていたのである。
大内氏から高橋氏討伐の命を受けた毛利軍が攻撃を開始し、戦闘が勃発。
敵対勢力とは言え、よもや縁戚の毛利から攻められると思わぬ油断から高橋氏は敗退、
その領地は毛利家のものとなったのである。
次いで1533年、元就は有力豪族の熊谷(くまがい)氏を味方に取り込む事を成功させた。
熊谷信直の娘を、次男・元春(もとはる)の妻として嫁がせ、縁戚関係を結んだのである。
信直の娘は、近隣諸国に響く程の“醜き容姿”であったと言われ
これを妻女に貰い受ける事で熊谷氏が恩義を感じ、忠節を尽くすと踏んだのである。
その狙い通り、以後熊谷氏は毛利氏の配下として奉公に励むようになった。
元就一流の人心掌握術である。
さて、大内氏の当主・義興が没し、その跡を継いだのは大内義隆(よしたか)であった。
義隆は生来学問好きの人物で、有職故実から南蛮文化まで熱心な興味を示した。
1537年、元就の長男・隆元が元服する際、この義隆に烏帽子親を頼み
そのまま人質として奉公させるように計らった。学識を重んじる義隆は
隆元を大内家に出仕させるよう願い出た元就の配慮に理解を示し、
また、誠実に近侍する隆元の人柄にも感心、事々に毛利家を引き立てるようになる。
大国・大内家を味方につける事ができれば、毛利家の基盤は磐石なものになるのだ。
高橋氏を降し、熊谷氏を押さえ、長男を人質にしてまで大内氏の後援を取り付ける。
元就の安芸国掌握は、じっくりと、かつ確実に浸透しつつあった。

吉田郡山城籠城戦 〜 尼子氏との戦い
着実に勢力基盤を固める毛利家に対し、遂に尼子氏が牙を剥いた。
既に高齢の経久は第一線を退き、当主は孫の晴久(はるひさ)に交代。
毛利家潰しを狙うこの晴久が1540年6月に兵を差し向けたのである。ところが、
地の利を活かす毛利軍はゲリラ戦でこの軍勢を弄び、尼子軍は毛利領に近づけぬまま撤退。
怒った晴久は3万もの大軍を編成し、同年8月に再度毛利領へ侵攻した。
対する毛利軍の兵力は2400。圧倒的不利な兵力差である。この時元就は籠城策を採用したが
兵士のみならず、全ての領民を郡山城に入れて戦った。城内には8000人が立て篭もり、
吉田庄は無人のゴーストタウンに。この戦術に尼子軍は困惑する。
確かに、戦国期の城郭は戦時において領民の避難場所となる存在であり
戦闘員だけでなく、農民などの非戦闘員も城内に収容するものであった。
顕著な例では、戦国末期に豊臣軍が後北条氏の岩付(岩槻)城(埼玉県)を攻めた折
攻城軍が城内に突入したところ、中に居たのは町人・百姓や妻子ばかりであったという。
(豊臣氏と後北条氏の戦いについては後頁にて解説)
本来、領民全てを守る事が領主の務めなのである。とは言え、圧倒的劣勢の中8000人もの
人員が城内に詰めるというのは異例の話。しかもこの当時の吉田郡山城はさほど大きな
城ではない。後年、毛利氏が勢力を広げるに応じて郡山城の規模も拡大されていったが
まだ一地方領主に過ぎぬ頃の話、小城でしかなかった郡山城に8000人が籠城したのだから
内部は人で溢れかえっていたに違いない。明らかに勝ち目のない戦いの場合、領内の庶民は
城に入るよりも、戦禍を避けて逃散(ちょうさん、土地を捨てて逃亡する事)するのが
当然の策であった。にも関わらず、吉田郡山の民はそれをせず城に留まったのである。
尼子方にしてみれば、領民が居ない場所での進駐は多々不便を生じる。
すなわち、昂ぶった軍勢の不満のはけ口となる乱暴狼藉を働く対象が居ない。
(いつの世も、戦いで虐げられるのは名も無き庶民なのである)
また、戦時調達の常である略奪ができないので兵糧や金品を収奪できない。加えて
わざわざ非戦闘員まで城に呼び寄せる(つまりは備蓄兵糧を浪費する)という
不気味な籠城戦術の裏には何か策があるのではないか、という疑心暗鬼を呼んだ。
この虚を突いて、毛利軍はまたもやゲリラ戦を展開。攻められている側が
兵を小出しにして攻めてくるのだから、尼子軍はいよいよ戦意消失に。
謀略も交えつつ籠城は3ヶ月以上に及び、尼子軍を翻弄。
ここで待ちに待った大内氏の援軍が到着し、形勢逆転。毛利・大内連合軍は攻勢をかけ
年が明けた1541年1月に尼子軍は多数の死者を出して敗走、元就は見事に城を守りきった。
山陰太守として名を轟かせた尼子氏は、地方の一豪族を倒せず敗退し
それに伴い元就はまたもや声望を高いものにしていったのである。
この直後の1541年11月に経久は世を去る。
新当主・晴久の力量は尼子氏の先行きに暗雲を呼びつつあった。

三矢の訓 〜 毛利両川体制の確立
1542年、大内氏は逆襲に転じ尼子領への侵攻作戦を発動。これに元就も参陣し
大内氏や安芸諸豪族の連合軍は月山富田城を包囲したが、学識の将・義隆の采配は
思うように奮わず、尼子氏の打倒は成らなかった。大内方は敗退し、
義隆の嫡男・晴持(はるもち)は撤退に失敗して死亡、さらには安芸国人の要である
吉川興経(きっかわおきつね)が尼子方に寝返る始末。手ひどい敗北を受けた義隆は
これ以後、戦闘を忌避するようになり文弱に溺れていく。
さて元就だが、1544年に3男・徳寿丸(とくじゅまる)を竹原小早川氏の養子に出す。
小早川氏は瀬戸内水軍を擁する海の豪族で竹原家は分家筋に当たるが、この竹原家は
1541年に当主・興景(おきかげ)が没して以来、後継者が決まらずにいたのだった。
竹原小早川家の当主に納まった徳寿丸は、小早川隆景(たかかげ)と名乗り水軍を掌握。
1550年には本家である沼田(ぬた)小早川家も相続し、
竹原・沼田の両小早川家は全て隆景の指揮下に入った。
一方、大内を裏切った吉川興経はそのまま尼子氏の元へ遁走、吉川領に残された家臣は
当主不在という異常事態に陥っていた。この状況に鑑み、元就が義隆に取り成しをして
興経の帰国と吉川家の存続を取り計らう。要するに、吉川家に恩を売ったのである。
こうして晴久の元から旧領に帰参した興経であったが、家臣を見捨てて出奔したツケは大きく
興経と吉川家臣との間には軋轢が生じてしまう。これも元就の思う壺で、1550年
この騒動に乗じて次男・元春を吉川家の養子に送り込んだ。つまりは乗っ取り工作だ。
大恩ある毛利家から新当主を迎える事に吉川家臣団は歓迎の意を示し、
進退極まった興経は隠居する事になる。吉川家は石見国(島根県西部)への影響力を持ち
軍事力も強大で、ここに元春を送り込んで征服した効果は非常に大きい。
その後、興経は元就の策謀によって幽閉され、実子共々殺害された。
元就は戦わずして小早川・吉川両家を手にしたのだ。
また、長年の宿敵であった宍戸氏には長女を嫁がせ、関係を修復。
時に柔和、時に苛烈な方法で、元就は安芸諸豪族の服属を成功させていった。
毛利本家は長男の隆元が継承し、それを吉川元春・小早川隆景の“両川(りょうせん)”が固める。
「毛利両川体制」と呼ばれる3兄弟の活動はこの時に始まり、
毛利家を中国地方の覇者に押し上げていくのだった。
「一本の矢は容易く折れるが、三本束ねるとそうはいかない」という“三矢の訓”は
戦国期には珍しく固い信頼で結ばれた毛利3兄弟の結束から生まれたものなのである。



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