戦国大名の登場

さて、中央政界では足利将軍・管領細川氏らが政権争いを繰り広げていたが
地方では、その土地で力ある者が、室町幕府体制とは異なる
独自の統治体制を敷くようになっていた。
先に書いた北条早雲などが良い例で、こうして実力を伸ばした大名を
戦国大名(せんごくだいみょう)と呼ぶ。中央政界が混乱で形骸化する中、
守護大名とは一線を画す戦国大名こそ、この時代の主役になっていた。


戦国大名の発生(1) 〜 その過程
応仁の乱以来、権威を落とした室町幕府の政治機構は弱体化し、
中央政権と言えども京都を中心とする畿内周辺のみを統治する力しかなく
それ以外の地方においては、各地の有力者が独自に支配を行うようになっていた。
このような者たちは、従来の幕府制度などとは関係なく支配力を行使し
今までの権威や法制度、社会習慣を無視した方法で君臨していく。
将軍が握っていた権力は、管領、守護、宗教権力、国人、一般庶民へと下降分散し
地位のない者でも力さえあれば上の者に取って代わり支配者へと成り上がる時代が来たのだ。
こうして、実力で一国を支配するようになった大名を戦国大名と言う。
守護大名と戦国大名は、幕府への対応も領国支配方法も全く違う。
室町幕府に任命された守護が領地支配を強化して成長した守護大名は、
幕府の被官であるため、総領決定権は将軍にあり(つまり、当主は将軍に選ばれる)
幕府制度に則って自国の支配を行っていたが、自力で成長する戦国大名は
幕府の意向とは関係なく統治権を確立。一族の処遇はもとより、自国の支配においても
独自に法度を整備するなど、室町幕府体制とは一線を隔した存在であった。
戦国大名が自国統治の為に定めた法を分国法(ぶんこくほう)という。
大名家
[主な領国]
法度名(別名)
読み方
成立年
後北条氏
[伊豆・相模・武蔵など]
早雲寺殿二十一箇条
そううんじどのにじゅういちかじょう
不明
朝倉氏
[越前・若狭]
朝倉孝景条々
(敏景十七箇条)
あさくらたかかげじょうじょう
(としかげじゅうななかじょう)
1479〜1481
相良氏
[南肥後]
相良氏法度
さがらしはっと
1493〜1555
大内氏
[周防・長門]
大内氏掟書
(大内家壁書)
おおうちしおきてがき
(おおうちけかべがき)
1495頃
大友氏
[豊後]
義長条々
よしながじょうじょう
1515
今川氏
[駿河・遠江など]
今川仮名目録
いまがわかなもくろく
1526
仮名目録追加
かなもくろくついか
1553
伊達氏
[南羽前・陸奥]
塵芥集
じんかいしゅう
1536
武田氏
[甲斐]
甲州法度之次第
(信玄家法)
こうしゅうはっとのしだい
(しんげんかほう)
1547
結城氏
[下総]
結城氏新法度
(結城家法度)
ゆうきししんはっと
(ゆうきけはっと)
1556
三好氏
[阿波・淡路など]
新加制式
しんかせいしき
1562〜1573
六角氏
[南近江]
六角氏式目
(義治式目)
ろっかくししきもく
(よしはるしきもく)
1567
長宗我部氏
[土佐]
長宗我部氏掟書
(長宗我部元親百箇条)
ちょうそかべしおきてがき
(ちょうそかべもとちかひゃくかじょう)
1596
代表的な分国法
赤枠は家訓として残されたもの
守護大名は幕府制度の中で任免され、三管四職のような要職に就く事で統治権を強化し
当然、旧来の法制度や権益に依存する事で支配力を固めていた。
故に、領国内には荘園が存続しており、時にこれらを奪い(半済令の項を参照)、時にこれらを利用して
自らの収益としていたのだ。また、守護大名は幕府のある京都に居住する事が多く
領国には支配代官として守護代(しゅごだい)を派遣し、実際の統治を任せていた。
ところが、戦国大名の統治方法は全く逆なのである。
自ら在地し治める土地が領国であり、その支配方法は直接的なものであり
幕府の威光や法制度などとは完全に独立した統治権を確立。
荘園制は完全に否定され、作物の収穫状況を把握するため(=土地を治めるため)に
独自に検地を実施、年貢の納税を確保した。また、鉱山開発や灌漑・治水政策も独力で行い
収益の増大に努めたのである。その最たるものは楽市楽座(らくいちらくざ)で、
旧来の商慣習である座(その町の中で組まれた商業組合のようなもの)を廃止し
誰もが自由に売買を行えるように城下町の規範を整備したのだった。
室町時代の古き商業形態では、その町で商いを行うには座の加入が義務とされ、
これによって商業発展が遅滞するようになっていたのだが、楽市楽座の施行で
商業が爆発的に発展し、それに伴って大名への商業納税が拡大するようになった。
分国法による直接統治、検地・鉱山開発・楽市の導入など、
戦国大名の支配力強化は旧態の室町体制を打破し、実力主義の世を勝ち抜く必須条件であった。

戦国大名の発生(2) 〜 その出自
さて、こうして登場していく戦国大名であるが、その出自には様々な形態がある。
まず最初に挙げられる例は、守護大名が戦国大名に転化したもの。
旧来から強い勢力を保持した守護大名。
このうち、領国に在住し、時代に即応した支配体制を築く事が出来た者は
比較的容易に、そのまま戦国大名への転身に成功した。逆に言えば、大勢力を維持した
守護大名といえども、時代への対応を誤り、領国経営を疎んじた者は凋落して行ったのだ。
守護から戦国大名へと成長した勢力には、甲斐国の武田氏や薩摩国の島津氏などがいる。
次に挙げられるのは、守護代(しゅごだい)やその一族から戦国大名になった例。
守護から領国経営の実務を託され、守護に代わって実際に任国での実効支配を行った者を
守護代と呼ぶ。彼等は、名目的立場の守護とは違い、領国における現実的な統治を為したため
領国の実態を把握し、その実状に即した対応を執る事が可能な者たちであった。
在国する守護代やその一族は、領国に確固とした支配基盤を確立して戦国大名化していき
それに伴い、本来は支配者であるはずの守護は力を失い、守護代に立場を奪われ没落した。
守護代から戦国大名化した例には、前頁に記した越前国朝倉氏や越後国長尾氏などがおり、
尾張国から天下統一に邁進した織田信長は守護代の一族から伸張した例である。
3つめの事例は、国人(こくじん)から戦国大名に進化した者。
守護や守護代のように元々権力を持っていた者ではなく、古くからその土地に根差し
独自の統治力を以って生活していた豪族を国人(あるいは土豪)と呼び、
応仁の乱以後、室町体制が消滅していくにつれて彼等が力をつけて守護支配を圧倒、
戦国大名へと成長していく例が多数あった。有名なものに近江国の浅井(あざい)氏、
安芸国の毛利氏、備前国の宇喜多(うきた)氏などがいる。
戦国争乱に勝ち残り、江戸に幕府を開いた徳川氏も、元は三河国の土豪であった。
最後に挙げる例は…出自不明の戦国大名。
先に記した北条早雲は、前半生の経歴は全く不明とされてきたが近年の研究により幕府の政所に
名を連ねる伊勢氏の系統と判明しつつある。しかし、手にした伊豆・相模とは縁も所縁もない。
三好家の執事として勢力を拡大した松永久秀も、謎めいた出自から畿内を掌握するまでになる。
“蝮の道三”こと、美濃国を手中に収めた斎藤道三(さいとうどうさん)も詳しい履歴は不明。
早雲・久秀・道三はいずれも「梟雄」という言葉で称される謀略家たちだが、
そうした優れた知能があってこそ、国持ちの大名にまで昇れた事もまた事実である。
旧来の権益から脱皮した者、在地の勢力を伸ばして力をつけた者、己の才覚を武器に出世した者、
いずれの場合においても、時代の変化に柔軟な対応をした名将である事に変わりはない。
守護が転化した例
守護代やその一族
国人が戦国大名へ
出自が不明の大名
最上氏[羽前]
今川氏[駿河・遠江]
武田氏[甲斐・信濃]
佐竹氏[常陸]
大内氏[周防・長門]
大友氏[豊後]
島津氏[薩摩]
長尾氏[越後]
織田氏[尾張]
朝倉氏[越前]
尼子氏[出雲]
三好氏[阿波]
伊達氏[陸奥]
徳川氏[三河]
浅井氏[近江]
宇喜多氏[備前]
毛利氏[安芸]
長宗我部氏[土佐]
龍造寺氏[肥前]
北条氏[伊豆・相模]
斎藤氏[美濃]
松永氏[大和]
戦国大名の出自
群雄割拠の時代1550年頃の主な戦国大名
天下統一への道1580年頃の主な戦国大名


★この時代の城郭 ――― 武士の転身
平安時代中期から発生した武士たち。その成立期、彼等は
荘園制における在地管理者としての立場や、自ら開墾した土地を治める領主として
外敵の侵入を阻止し、領土拡大抗争に勝利するため武装化した者たちであった。
よって、平時においては武芸の鍛錬を行いつつも、農民と同じように
田畑を耕し、野山に分け入って生活の糧を手に入れる生活を営んでいた。
やがて武士は一族や配下を組織化し武士団を形成。その規模は大小様々なものであったが
最も代表的なものとして平氏や源氏が挙げられよう。鎌倉幕府成立の過程において
全国の武士団は源氏(=鎌倉幕府)の指揮下へ統合されるようになった。
しかし、鎌倉幕府が弱体化すると独立行動を取る武士団が増加。
主に野武士の集団が幕府と反した動きを見せ、時に略奪のような犯罪行為を、
時に自尊自衛の為の戦いを頻繁に行うようになった。彼らのような集団を悪党と言い、
代表格とされるのが楠木正成である。悪党は自分たちの集落で
半農半士的な独立した生活をおくるのが日常であった。
室町幕府の成立により、上級武士と下級武士の間に大きな隔たりが生じる。
幕府から守護などの役職を受けた上級武士は、国主として政務を執るようになり
土地や領民の上に君臨する支配者の地位を確立。戦時には軍事指揮官であり、
平時には施政者としての職務を行った。武士が農耕を行うのを止め
朝廷・幕府に従う被官ではあるものの、独自の地位を築き上げるようになったのだ。
一方、下級武士は相変わらずの半農半士。特に、応仁の乱以後に活躍した
足軽(あしがる)と呼ばれる動員兵は、戦に駆り出されて働くだけの武士であり
定まった主君も持たず、戦況次第で簡単に寝返る有様であった。
室町時代後期では、一口に「武士」と言っても様々な様態があったのである。
このような変遷を経てきた武士が、戦国の世になると上記のような戦国大名と
それに従う配下武将、さらにその下で働く下級武士へと再編されるようになっていく。




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