中央政界の混迷

一代で中央政権を握るまで成長した三好長慶は、
親族の相次ぐ不幸によって発狂死のような悲惨な最期を遂げた。
残された三好家の勢力を動かすようになったのは
稀代の梟雄・松永弾正少忠久秀である。陰謀を巡らす久秀により、
京都の将軍はかつてない弑逆に襲われ、奈良の都は炎上する。


足利義輝vs松永久秀 〜 抜刀将軍、室町御所に散る
三好家の政務を執るようになった松永久秀と三好三人衆。
彼らにとって、最も目障りなのが誰あろう将軍・義輝であった。
かつて、細川政元が足利義澄、細川高国が足利義稙を担ぎ上げて実権を握ったように
政権を動かすようなった久秀や三人衆にとって“将軍は飾り物”であれば良かったのだが
豪気な13代将軍・義輝は飾り物などとは全く違う、行動力豊かな将軍であったからだ。
全国の戦国大名に覇を唱え、足利幕府の復権を目指し、「力ある将軍」として政務に励む義輝。
もとより、六角氏と組んで1558年に上洛作戦を行ったときは優秀な指揮能力を発揮して
三好長逸・松永久秀らの軍勢を撃破しており、政治でも軍事でも才気溢れる逸材であった。
こんな将軍が居たのでは、政権を思いのままに操る事はできない。
中央政権を手にしようとしていた久秀・三好三人衆は、煙たい存在の義輝を排除し
自分たちの傀儡となる「名目だけの将軍」を擁立しようと画策する。
一方、義輝としても“成り上がりの謀略家”である久秀なぞが政界に進出する事は面白くない。
将軍たる自分こそが政務を執ってこそ、幕府のあるべき姿であるとの信念を抱いていた。
幕府再興に懸ける義輝、政権を掌握したい久秀ら、両者の対立は瞬く間に激しくなり
1565年、悲劇は訪れた。5月19日に京の将軍御所を久秀と三好三人衆の兵が急襲して
義輝を暗殺。義輝の弟である鹿苑院の僧・周嵩(しゅうこう周高ともや、
義輝の子を身ごもっていた小侍従までも殺害され、義輝のもう1人の弟で
興福寺一乗院門跡の僧侶・覚慶(かくけい)は久秀らの手によって幽閉される。
権力欲に駆られた久秀は、まるで当然のように将軍一族に刃を向けたのだった。
これほどまでの弑逆はかつてなく、下剋上の極みである。
暗殺と言う異常事態で空位となった将軍職。中央政界は、泥沼の混迷に陥っていく。

★この時代の城郭 ――― 二条御所
細川晴元と足利将軍家との対立過程において就任した13代将軍・義輝。
細川家、三好家との打ち続く騒動に直面し、しばしば京を逃れ近江へ落ちる事もあった。
武家の棟梁たる将軍と言えど、戦国争乱の中では頼りになる者などなく、
自らの身は自分で守らねば生きていけない時代であったのだ。
そのため、高貴な家柄にも関わらず義輝は若い頃から剣術に没頭。
当時の剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)に剣の手ほどきを受けた。ちなみに卜伝は、
天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を発展させて
新当流(しんとうりゅう)を興した剣術家として名高い。香取神道流は、その名の通り
香取神宮(千葉県佐原市)の神官・卜部(うらべ)家から伝わる剣術流派で、
体系化された剣術としては最も古く、“日本剣術の始祖”と呼べるものだ。
この香取神道流に創意を加え、さらに進化させた
新当流を編出した卜伝に教えを受けた義輝は剣豪将軍として名を馳せる。
より一層、剣技に磨きを懸けるべく励む彼は、卜伝に続き
上泉信綱(かみいずみのぶつな)にも教えを請うた。信綱は元々上州の土豪であったが、
陰流(かげりゅう)や念流(ねんりゅう)剣術の使い手でもあり、
後に武者修業の旅に出て技を向上させ新たな流派、新陰流(しんかげりゅう)を開いた剣聖。
この当時、最強の剣豪と謳われた武人である。新陰流は、九州へ伝わり新陰タイ捨流、
柳生一門へと受け継がれてかの有名な柳生新陰流へと発展していく。
義輝は、信綱に師事して剣術を極め、新陰流免許皆伝の腕前にまで成長。
卜伝と信綱という二大剣豪から技を伝授され、まさに“最強の将軍”であった。
香取神宮
香取神宮(千葉県佐原市)

利根川を挟む対岸の鹿島神宮と並び、
剣術発生の聖地として名高い香取神宮。
香取・鹿島の両神宮は武術の神として崇められ
関東七流と呼ばれる剣術諸流派が隆盛した。
この義輝が、久秀らの軍勢に襲撃されたのである。
義輝の二条御所は、3代将軍義満が造った室町御所とは別のものだが、
基本的には同様の武家邸宅と考えて良い。夜半の攻撃に対して守る者は少なく、
強力な防衛設備もなく、久秀・三好三人衆の軍勢はなだれを打って邸内に押し寄せた。
“飾り物”の将軍ならば、ここで逃げ失せるか、捕まるかのどちらかである。
しかし“剣豪将軍”の義輝は違った。押し寄せる兵に対し、敢然と立ち向かったのだ。
雑兵如きに、尻尾を巻いて逃げるなど将軍の姿でない。
しかも、賊臣といえる松永・三好の手の者となれば、猶の事である。
義輝はそう考えたに違いない。屋敷にあった12振の名刀を抜き身にして縁側に突き刺し、
その中の1振を手にして敵兵を次々と斬り倒していく。やがて刀に脂が浮いて切れ味が落ちると
次の1振に替え、まだまだ敵を斬り伏せる。名もない雑兵など、義輝の敵ではなかった。
義輝の思わぬ抵抗に、久秀は焦った。ここで将軍を取り逃がしては、
全ての計画は露と消える。何としても義輝を殺したい久秀は、いったん兵を引き
全軍での総攻撃に転じた。たった1人に対し、全軍が総攻撃をかけるとは凄まじい話である。
さすがに剣豪将軍と言えど、1人で多勢を相手にする事はできない。
奮戦する義輝は、槍衾(やりぶすま)で全周から串刺しにされたとも、
邸内の畳を身体の上から山積みにされ、その上から刺殺されたとも言われる。
斯くして、抜刀将軍は久秀に暗殺されてしまった。
剣豪たる義輝が討たれたのは、決して弱かったからではない。
邸内に多数の敵兵を侵入させた事が敗因であり、それは同時に、平易な武家邸宅が
戦国乱世においては戦場として防衛する拠点にはなり得ない事を意味した。
(同様の事は、織田信長が討たれた本能寺の変においても言える)
将軍の居所たる二条御所、それは時代遅れの脆弱な武家邸宅に成り下がり
一国を治める大名・武将の身を守る為には、
重武装を施した城郭が必要だという事の証明になった。


一乗院覚慶、京都を脱出 〜 足利義秋、将軍レースに参加
義輝の一族でただ1人生き残った一乗院覚慶。しかし、久秀の厳重な監視下にある
囚われの身であった。久秀の野望を阻止せんとする義輝の遺臣は、覚慶の救出を決行。
細川晴元亡き後、細川一門のトップにあり義輝と義兄弟であった
細川藤孝(ほそかわふじたか)らは、1565年7月に覚慶を脱出させる事に成功。
近江国甲賀郡にある和田惟政(わだこれまさ)の館にかくまわれる。
藤孝、惟政らは足利将軍家復権の為に奔走した功臣と言える。
亡き兄の後を継ぎ、将軍就任を目指した覚慶は翌1566年2月に還俗し
足利義秋(あしかがよしあき)と改名、兄・義輝同様に力ある大名の助力を得ようとして
各地の諸大名に御内書(ごないしょ、将軍の手紙を意味する書状)を送った。京の都を占拠する
松永・三好の軍勢を倒すために、強力な軍勢を持つ後ろ盾を必要としたのだ。
越後の上杉氏、尾張の織田氏など、義秋は御内書を連発。同時にこの時期、
越前国金ヶ崎(現在の福井県敦賀市)へ向かった。越前は戦国大名・朝倉氏の支配地で
当時、戦乱に荒廃した京都よりも隆盛した地であったからだ。
朝倉氏の当主は5代目の朝倉義景(あさくらよしかげ)。父祖が戦乱を勝ち抜き
越前や若狭での領土を拡大していた朝倉氏にあって、義景はその遺領を受け継ぎつつも
“雅なる都”京への憧れに傾倒し、公家文化に執心する風雅の人であった。
その義景を頼りにして義秋が京から越前に下向して来たのであるから一大事。
“京の香り立つ将軍家の御曹司”に一目会いたい義景は、義秋を朝倉氏本拠の
一乗谷(いちじょうだに、現在の福井県福井市)へ招き寄せた。
これを受けて、義秋は1567年に一乗谷へ移動。北陸の雄、朝倉氏の支援を取り付けたとして
14代将軍の職を得るための行動を開始した。朝倉軍と共に入京すれば、
三好・松永を駆逐し、将軍職に就けると考えたのである。朝廷もこれを見て、
義秋を従五位下左馬頭に叙任。義秋の将軍職に対する意欲は並々ならぬものがあった。
しかし、義秋を保護する朝倉義景、彼の去就は後に義秋を失望させる結果を生む。

奈良炎上 〜 松永久秀vs三好三人衆
一方、京の都ではまた新たな争乱が起きていた。共に義輝を倒した久秀と三好三人衆が
仲違いを始めたのだ。政権確立のために邪魔だった義輝を消すまでは同じ目的であったが、
三好家を乗っ取ろうとする久秀と、三好家独自の政権を立てようとする三人衆の関係であれば
両者の破綻は当然の事と言える。1565年後半から久秀と三人衆は戦闘を起こすようになり
1566年には三好軍が松永軍を追討する形勢になっていく。
戦況不利に立たされた久秀。しかし、この謀略家がタダで負けるはずがない。
それまで三人衆の側に付いて久秀と対立していた三好家当主・義継を弄絡し
1567年2月に和睦を図ったのだ。これにより、義継は三人衆と断交する事になり
三好三人衆vs三好義継・松永久秀連合という構図に転換。形勢は五分に戻った。
久秀の跳梁を潰したい三人衆は、松永軍の本拠である大和国への侵攻を計画。
1567年10月、鎮護国家の要たる南都・奈良で両軍が激突する。
10月10日、三人衆の軍勢を撃退するために久秀は世にも恐ろしい謀略に及んだ。
東大寺近辺に布陣する三人衆の軍勢に対し、寺ごと巻き込んでの焼き討ちを開始したのだ。
この放火によって東大寺全域が延焼、大仏殿は炎に包まれ、その熱風で大仏の首は熔け落ちた。
聖武天皇の発案で築かれた大仏は平清盛の軍に破壊され、
復元された大仏もまた久秀の手によって灰燼に帰したのである。常識では考えられない非道ぶり。
神仏を怖れぬ久秀によるよもやの行動で、三人衆の軍は敗退。
その後も久秀と三人衆の戦いは延々と続いていく。
義輝亡き後、三好・松永に担ぎ出されて14代将軍の位に就く予定だった足利義親は
1566年に足利義栄(あしかがよしひで)と改名し、その時節を狙っていたが
両者の不和によって将軍就任に待ったがかかる。将軍職は相変わらず空位のままだった。

足利義栄、将軍就任 〜 足利義昭、再び落ちる
中央政界は、三好三人衆と松永久秀によって泥沼状態に陥っていた。
久秀は大和国を押さえ、同国の屈強な国人衆を揮下に組み入れていたが
(細川政元が大和制圧を必要としたように、大和国人衆は座視できぬ強力な存在であった)
経済の中心地・堺を三好三人衆に奪われており、独力で政権を維持できる程の勢力ではない。
奈良で久秀に破れたとは言え、三好一族の本拠たる四国と摂津国、その間にある海上交通権、
それに何よりも経済拠点である堺を押さえた三好三人衆が、わずかに勝る状態であった。
とは言え、久秀も三人衆も状況は似たり寄ったりである。
さて、かつて堺公方・足利義維は阿波へ落ち延びたが、その子・義栄は四国と堺を支配していた
三好三人衆と提携。義維所縁の地と中央政権に食い込む軍事力を有する事は
義栄にとって近しい存在と映ったのかもしれない。こうして、三好三人衆は久秀抜きで義栄を後援し
半ば強引ながら、14代将軍に就任させた。1568年2月8日の事である。
もっとも、義栄は実権などない傀儡将軍で(その為に義輝を殺したのである)
新将軍を戴く三好三人衆が中央政権の主だという事をアピールする為の行動でしかなかった。
三好一族の長逸・政康、それに三好家筆頭家臣の岩成友通による三好三人衆政権の誕生だが
状況は予断を許すものではない。久秀は義継と組んで三人衆への攻撃を続けていたし、
義輝を暗殺した事で京の民衆は三人衆に対して反感を募らせていた。
もとより、長慶の時代に比べて三好家の勢力は圧倒的に弱体化していたので
義栄を擁立した所で、形勢を一気に覆すという程の効果はなかった。
三人衆と久秀の対立は、まだまだ続くのである。
一乗谷城跡
一乗谷城跡(福井県福井市)

朝倉氏の居城であった一乗谷城。
朝倉氏は応仁の乱以降、北陸に領土を拡張し
足利将軍家も一目置く列強の一つになっていたが
5代目当主・義景は文弱の将で決断力に乏しく
京都の雅にあこがれるばかりの生活を送っていた。
一方、越前の義秋は義栄に負けた事になる。兄・義輝の将軍位を義栄にさらわれ
自分が継ぐと信じていた足利将軍家の家督を失ったのだ。
1568年4月、義秋は元服し義昭(よしあき)と改名。14代将軍には就けなかったが、
義栄や三好氏を倒して15代将軍になる事を新たな目標として執念を燃やした。
しかし、義昭を庇護するはずの義景は全く動かない。朝倉氏の領国・越前国は
一向一揆が支配する加賀国に隣接していたため、京都への軍事動員が難しかった事が
理由の一つだが、それ以上に義景という人物に問題があった。公家文化に傾倒する義景は
風雅の道にばかり思いを募らせ、軍事的な事を忌避する性格だったのだ。
戦国大名にあるまじき惰弱な義景は、朝倉氏が4代かけて培った越前・若狭の領土を広げるどころか
その遺産にあぐらをかいて放蕩生活に耽っていたのである。義昭がいくら催促しても
義景は一向に腰を上げようとしない。権謀渦巻く中央政界に関わり、
越前から京都まで進軍するなど、義景にとっては想像だにできない無謀な事であった。
義昭を義景の元に呼び込んだのは、ただ単に京都の文化を伝えて欲しかったからだけである。
将軍レースを勝ち抜く目的で朝倉氏の助力を求めた義昭にとっては、
そんな事は何の意味もなく、京へ動く決断の出来ない義景などに、もはや用はなかった。
京から落ち延びた義昭は、政治・軍事に長けた強力な支援者を求め
越前から次の地へと移ろうと考え始めた。



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