★この時代の城郭 ――― 二条御所
細川晴元と足利将軍家との対立過程において就任した13代将軍・義輝。
細川家、三好家との打ち続く騒動に直面し、しばしば京を逃れ近江へ落ちる事もあった。
武家の棟梁たる将軍と言えど、戦国争乱の中では頼りになる者などなく、
自らの身は自分で守らねば生きていけない時代であったのだ。
そのため、高貴な家柄にも関わらず義輝は若い頃から剣術に没頭。
当時の剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)に剣の手ほどきを受けた。ちなみに卜伝は、
天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を発展させて
新当流(しんとうりゅう)を興した剣術家として名高い。香取神道流は、その名の通り
香取神宮(千葉県佐原市)の神官・卜部(うらべ)家から伝わる剣術流派で、
体系化された剣術としては最も古く、“日本剣術の始祖”と呼べるものだ。
この香取神道流に創意を加え、さらに進化させた
新当流を編出した卜伝に教えを受けた義輝は剣豪将軍として名を馳せる。
より一層、剣技に磨きを懸けるべく励む彼は、卜伝に続き
上泉信綱(かみいずみのぶつな)にも教えを請うた。信綱は元々上州の土豪であったが、
陰流(かげりゅう)や念流(ねんりゅう)剣術の使い手でもあり、
後に武者修業の旅に出て技を向上させ新たな流派、新陰流(しんかげりゅう)を開いた剣聖。
この当時、最強の剣豪と謳われた武人である。新陰流は、九州へ伝わり新陰タイ捨流、
柳生一門へと受け継がれてかの有名な柳生新陰流へと発展していく。
義輝は、信綱に師事して剣術を極め、新陰流免許皆伝の腕前にまで成長。
卜伝と信綱という二大剣豪から技を伝授され、まさに“最強の将軍”であった。

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香取神宮(千葉県佐原市)
利根川を挟む対岸の鹿島神宮と並び、
剣術発生の聖地として名高い香取神宮。
香取・鹿島の両神宮は武術の神として崇められ
関東七流と呼ばれる剣術諸流派が隆盛した。
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この義輝が、久秀らの軍勢に襲撃されたのである。
義輝の二条御所は、3代将軍義満が造った室町御所とは別のものだが、
基本的には同様の武家邸宅と考えて良い。夜半の攻撃に対して守る者は少なく、
強力な防衛設備もなく、久秀・三好三人衆の軍勢はなだれを打って邸内に押し寄せた。
“飾り物”の将軍ならば、ここで逃げ失せるか、捕まるかのどちらかである。
しかし“剣豪将軍”の義輝は違った。押し寄せる兵に対し、敢然と立ち向かったのだ。
雑兵如きに、尻尾を巻いて逃げるなど将軍の姿でない。
しかも、賊臣といえる松永・三好の手の者となれば、猶の事である。
義輝はそう考えたに違いない。屋敷にあった12振の名刀を抜き身にして縁側に突き刺し、
その中の1振を手にして敵兵を次々と斬り倒していく。やがて刀に脂が浮いて切れ味が落ちると
次の1振に替え、まだまだ敵を斬り伏せる。名もない雑兵など、義輝の敵ではなかった。
義輝の思わぬ抵抗に、久秀は焦った。ここで将軍を取り逃がしては、
全ての計画は露と消える。何としても義輝を殺したい久秀は、いったん兵を引き
全軍での総攻撃に転じた。たった1人に対し、全軍が総攻撃をかけるとは凄まじい話である。
さすがに剣豪将軍と言えど、1人で多勢を相手にする事はできない。
奮戦する義輝は、槍衾(やりぶすま)で全周から串刺しにされたとも、
邸内の畳を身体の上から山積みにされ、その上から刺殺されたとも言われる。
斯くして、抜刀将軍は久秀に暗殺されてしまった。
剣豪たる義輝が討たれたのは、決して弱かったからではない。
邸内に多数の敵兵を侵入させた事が敗因であり、それは同時に、平易な武家邸宅が
戦国乱世においては戦場として防衛する拠点にはなり得ない事を意味した。
(同様の事は、織田信長が討たれた本能寺の変においても言える)
将軍の居所たる二条御所、それは時代遅れの脆弱な武家邸宅に成り下がり
一国を治める大名・武将の身を守る為には、
重武装を施した城郭が必要だという事の証明になった。
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