三好氏と松永氏

兄弟の力を合わせ下剋上を為し、晴元から政権を奪った長慶。
されど全ての政敵が排除された訳ではない。
細川氏、足利氏、その他の諸大名…。
まだまだ戦い続けねばならない三好一族の裏に、不気味な影が暗躍する。


将軍義輝の動き 〜 長慶との対立と融和
四国から進出し摂津に本拠を移した長慶にとって、最も重大な関心事は
将軍・義藤の存在であった。天下の将軍をないがしろにしては政権維持が難しい。
特に畿内の国人衆はまだまだ(落ちぶれたとは言え)将軍の権威を重んじており、
こうした国人らを従えるためにも将軍家を手の内に収める必要があったのだ。
とは言え、義藤に政権を譲るのではなく、実権は自らの手に留め置かなければならない。
義藤にしても、その考えは同じである。政権の所在地たる京都に居てこそ将軍。
されど、陪臣の長慶に屈服し、その風下に立つわけにはいかない。
両者は、互いに和平を模索しつつも相手の上を狙うという微妙な関係にあった。
その為この頃、和睦と対立を繰り返すようになっていた。
長慶入京により近江国坂本へ逃れた義藤は、復権を狙い細川晴元や南近江の大名
六角定頼らと連合軍を結成し三好軍と対決。しかしこれは敗戦に終わり
1550年11月、結局また近江へと落ち延びる。1551年は戦乱に明け暮れ、
1552年1月、定頼の調停により長慶と義藤は和睦。義藤の帰京が叶ったのだが
この時に長慶は細川氏綱を(名目的な)管領に据えて室町幕府体制の復興を喧伝し
自分は将軍の御供衆の立場になって実質的に幕政を操る。ちなみに、氏綱は最後の管領。
将軍・義藤も、管領・氏綱も、全ては長慶の掌で踊らされる傀儡だった。
よって、この和平は長く続かず翌1553年に義藤は細川晴元方へ走り戦闘が勃発。
三好軍は摂津からまたも京都へ侵攻し義藤を近江国朽木(くつき)へ追いやった。
この時、義藤は改名し足利義輝(よしてる)と名乗るようになる。剣豪の13代将軍、
足利義輝の誕生である。これ以後数年、摂津・河内を拠点にした長慶による独裁政権が成立。
一方、落ち延びた義輝も再起を図り近江で着々と力を蓄えていた。
実力がなくては、長慶に対する勝負の土俵にすら立てないと考えたのであろう。
5年の歳月が過ぎ、1558年に六角義賢(ろっかくよしかた)らと上洛軍を興した義輝は
ようやく精強な三好軍に拮抗する兵力を有するようになり、三好方の主力である
松永久秀・三好長逸(みよしながゆき)らの迎撃を蹴散らした。
義輝の思わぬ復活ぶりに戦略の立て直しを余儀なくされた長慶は、
将軍との対立路線を改め、積極的な融和を図る。
こうして1558年末、長慶と義輝の間に本格的な和睦が成立。
長慶は義輝に京を明け渡し、形の上では長慶が義輝に譲るようなものだったが、
実質的には義輝との抗争が一段落した事によって長慶の安定した政権が樹立されたのである。
それは同時に、足利義輝にとっても将軍権威向上の契機を掴む恩恵を享受した事になった。
1562年、長慶は義輝の相伴衆(しょうばんしゅう)に取り立てられ、
将軍・義輝とその側近・長慶という図式によって政治が運営されるようになる。

細川持隆の暗殺 〜 三好義賢、阿波支配権を確立
さて、長慶に政権の座を追われた細川晴元は、復権を狙い様々な活動を行っていた。
上に書いた通り、時に足利義輝と組んで長慶に戦いを挑み、
あるいは各地を転々として勢力を蓄え盟友を募る事もあった。
しかしこれらは成功せず、晴元は流浪の生活を続けるばかり。
とは言え、かつて政権に君臨し管領・細川氏京兆家の名門たる人物であるため、
その底力は侮れるものではなく、三好軍に対する圧力は大きなものである。
一方、晴元とは別に阿波細川家の細川持隆(持高)も三好一族と対立を深めていた。
三好氏は元々、阿波守護代の家系であり阿波守護細川家の被官といえる立場であった。
しかし、時は戦国乱世。名目だけの守護は落ちぶれていき、実権を握るのは実務を執る守護代である。
特に三好氏は中央政界に進出する日の出の勢い。持隆は三好氏から権勢を奪還しようと考え
足利義維の子・義親(よしちか)を将軍に就け、新たな政権を樹立する計画を立てた。
当然、阿波守護代の三好義賢がこれに反発。持隆と義賢の対立は決定的なものになり
1553年6月、義賢が持隆を殺害する事態に至った。
長慶が晴元を追い落としたように、義賢は主君筋にあたる持隆を暗殺したのだ。
三好氏の実力は、管領細川一門をものともしない程に成長していたと言える。
以後、義賢は持隆の子・真之(さねゆき)を形だけの守護に据え
阿波の支配権を決定的なものにした。義賢が領国・阿波を固めていたからこそ
長慶は心置きなく畿内で政務に当たる事ができたのである。
持隆暗殺により、細川氏の権勢は衰退の一途を辿り、晴元の動きも封じられていく。
政治の中心である京も、経済の中心である堺も既に失った晴元は、1561年5月
遂に長慶へ降伏し摂津国富田(大阪府高槻市)の普門寺に蟄居させられ、2年後の
1563年3月1日、失意のうちに没した。細川氏は、三好氏によって完全に屠られたのである。

久米田の戦い 〜 長慶の片腕、義賢戦死す!
長慶の敵は細川氏だけではない。同じく三管領の1つ、畠山氏も三好氏と敵対。
河内守護畠山氏は、1558年頃に守護代の安見直政(やすみなおまさ)と対立し
三好氏に頼み込んで直政征伐の軍を出してもらった事があった。ところが、直政が降伏したため
長慶に連絡なく独自に講和を締結。三好軍だけが踊らされ、これに激怒した長慶が1560年に
畠山氏への攻撃を行う遺恨があった。その後も紀伊などを領有した
畠山高政(はたけやまたかまさ)は、長慶の支配地と隣接し緊張を深めていたのだ。
もともと、高政は畠山氏の名門意識が高く、“たかが阿波守護代の”三好氏が
中央政界に進出する事を快く思っていなかったようである。
長慶が義輝を京に迎え入れ、安定した政権を築いた事は高政の反感をさらに大きくし
1561年、反長慶の兵を挙げた。“鬼十河”の異名で武勇を誇った三弟・十河一存はこの年没しており、
三好方は河内国高屋城(たかやじょう)にいた義賢を総大将にして出陣。
一方、高政軍は長慶の支配に反感を抱く畿内国人衆を多数糾合した上、
紀伊の根来衆(ねごろしゅう)をも味方に加えていた。根来衆は、当時伝来した最新兵器
鉄砲を操る武闘集団である。(鉄砲伝来については後頁にて記載)
1562年3月5日、両軍は和泉国久米田(くめだ、大阪府岸和田市)で対戦。
何とこの開戦直後、鉄砲の銃撃により三好方総大将の義賢が討死してしまったのだ。
指揮官クラスの武将が鉄砲により射殺されたのは、これが初めてと言われている。
勿論、この戦いは三好軍の敗北に終わり長慶の覇業に暗雲が立ち込めるようになる。
畠山氏に呼応して近江国の六角義賢も京へ侵攻。足利将軍家の庇護者たる自負がある六角氏も、
三好氏が政権を動かす事に不満を抱いていたのだ。
紀伊・近江から挟撃された三好氏の勢力は衰退を始めた。
長慶は、将軍・義輝を擁して山崎八幡へ撤退を余儀なくされる。
久米田合戦図久米田合戦当時の畿内勢力図

長慶の政権復帰 〜 足利義輝、権威を回復
畠山・六角連合軍の挟み撃ちに遭い、一時撤退をせねばならなかった三好長慶。
同年5月20日、三好軍は畠山高政を打ち破ったが、六角義賢とは6月に和議を結んだ。
力攻めだけでは事態を打開できないと考えたのであろう。
中央政界に復権した長慶、これ以後は武闘路線から融和政策へと転換した。
これは、十河一存や三好義賢の死による影響が大きかった。
信頼する弟を2人も亡くした事で、長慶の政治的熱意は次第に失われていったのだ。
三好一族の空洞化にあって、家中で勢力を伸ばしていたのが松永久秀である。
久秀は堺から大和国(奈良県)方面への攻略を担当しており、
1559年〜1561年にかけて大和国北部を制圧。1559年に信貴山城、1560年には多聞山城を築いた。
当時の大和国は有力国人の筒井氏や宗教諸勢力が競合しており、この争乱に乗じて
久秀が大和侵攻を成し遂げたのである。畠山高政を敗北させたのも久秀の軍勢であり、
三好政権は久秀の力によって左右されるようになっていく。
一存・義賢の死、長慶の政治忌避と相俟って、久秀は影で三好政権を操りつつあった。
なお、信貴山には真言宗の朝護孫子寺があり、古来より信仰の山として崇められていた
由緒ある霊場。多聞山城は何と聖武天皇陵に築かれた城であり、
こうした場所に城を構えるとは、仏罰も恐れぬ久秀の強引なやり口が覗える。

★この時代の城郭 ――― 多聞山城
久秀が大和制圧の為に築いた多聞山城は、城郭史において特筆すべき城である。
戦国期〜近世城郭において、塁(もしくは石垣)上で長屋状に細長く連なる櫓が
単なる塀を上回る防衛力を発揮する設備として、
あるいは居住空間や備蓄容積を確保する建造物として
盛んに建てられるようになるが、この形式の櫓を「多聞櫓」と呼ぶ。
その名の由来は、久秀の築いた多聞山城にあるとされ、
この城で初めてこうした櫓が設置されたため、と言われている(異説あり)。
堅牢な防衛施設として、そして効率良い居住建築・収納倉庫として
多聞櫓の概念は多くの城に取り入れられており、
代表的なものに江戸城の伏見櫓、姫路城の西ノ丸多聞櫓などがある。
多聞櫓の形式多聞櫓の形式

他方、足利将軍家の復権を目指す義輝は、三好氏の力をバックに活発な政治活動を行った。
1558年に長慶と和睦して以来、越後の龍・長尾景虎(ながおかげとら)
尾張新興勢力の織田信長など、強豪の戦国大名を次々に謁見。
中国地方の毛利隆元(もうりたかもと)、九州の大友宗麟(おおともそうりん)らを
守護職として任命し、さらには甲斐の武田氏・越後長尾氏の講和、九州における
島津氏・伊東氏・大友氏の講和、関東地方の武田氏・後北条氏・上杉氏の調停など
各地の諸大名を統制し、足利幕府の臣下に組み入れる政策を実行していった。
実力ある戦国大名を従え、再び幕府の力を盛り返そうとしたのだ。
畿内のみならず全国に展開する義輝の政策は、失墜していた室町幕府の権威を向上させていく。
義輝は、数十年来“飾り物”の地位に落ちぶれていた将軍とは全く違う
“天下に覇を唱える将軍”としての堂々たる威風に溢れていた。

長慶の死 〜 松永久秀の暗躍
義輝が室町将軍家の権威を回復しつつある一方で、長慶は政治への意欲が薄れていた。
そんな中、更なる悲劇が長慶を襲う。1563年、長慶の嫡子であり、将来を嘱望されていた
三好義興(みよしよしおき)が急死したのである。あまりに早い息子の死は、
長慶を悲嘆に暮れさせた。信頼する弟の一存・義賢に続き、義興まで失った彼は、
この頃から心身に異常を来たし始めるようになる。言動や生活に支障を発した長慶。
義興の急死は、三好家乗っ取りを図る久秀の毒殺ではないかと言われるが、
そんな報告も長慶の耳には届かない。経済都市・堺に加え、
強力な軍事力を持つ大和国人を従えた久秀は、自らの欲望を実現すべく、
主家である三好氏の政権を奪う行動に出たのだが、もはや心身耗弱に陥った長慶は
何もかもが上の空、まともに政務を執れる状態ではなかったのだ。
さらに陰謀を巡らせる久秀。三好兄弟のうち最後に残った安宅冬康の抹殺に動き、
長慶に「冬康が謀叛を企んでいる」と讒言したのである。正常な判断力を失った長慶は
この話を真に受けて、1564年5月9日に冬康を謀殺してしまった。
最後まで残った肉親を自身の手で討ってしまった長慶は、その後重体に陥り
同年7月4日、わずか43歳でこの世を去る。長慶の死についても、久秀が手を下したと言われる。
父・元長の敵討ちから始まった彼の人生は、兄弟の力を合わせて
細川晴元を倒し政権を握るに至ったが、松永久秀によって翻弄され命を落としたのである。
三好家の家督は十河一存の子で長慶の養子になっていた
三好義継(みよしよしつぐ)が継いだが、義継に長慶ほどの器量はなく
三好家の政務は義継の後見人である三好長逸・三好政康(みよしまさやす)
岩成友通(いわなりともみち)の三好三人衆と松永久秀が執るようになった。
久秀による下剋上が成功したのだ。名目だけの当主・義継に実権はほとんどなく、
久秀が影で全てを操るようになった三好政権は、歴史の歯車を狂わせていく。



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