細川氏と三好氏

父・澄元以来の仇敵であった高国を葬った晴元。
しかし、彼の政権は三好元長の軍事力によって維持されていると言って過言ではない。
元長が四国へ退去した事が原因で村宗・高国軍の来襲を招いたのだから
晴元政権は元長の動き次第で転変する脆弱さがあった。


細川晴元の策略 〜 細川晴元vs三好元長
高国を倒し、ようやく政権を掴んだ晴元が独力で政治を執り行うには、
今度は政権内の邪魔者を排除する必要があった。ここで目の仇にされたのが元長である。
元長の軍事力によって政権の座に就いたものの、高国という最大の敵が消えた今となっては
その強大な存在は晴元の権力基盤を脅かす以外の何者でもなかった。
次第に、晴元と元長の関係は冷たくなっていく。
さて、1530年頃から河内国で争乱が起きていた。守護の畠山義宣(はたけやまよしのぶ)
守護代の木沢長政(きざわながまさ)が所領問題で対立したのだ。
勢力的に劣る長政は、義宣を打倒するために晴元の援助を求めた。
対する義宣は、元長へ助力を依頼。晴元はこれを利用して、元長の粛清を図った。
畠山対木沢の争いを名目として、元長を晴元から離反させるように仕向けたのである。
斯くして、晴元と元長の対立が確定的なものになり、晴元側は
“主君・細川家に歯向かう阿波守護代・三好元長を討伐する”という大義名分を得た。
また、三好一族を分裂させ、三好政長(みよしまさなが)を味方に引き入れる。
孤立した元長は見事に嵌められたのである。
ここで晴元は、強大な軍事力を持つ元長を倒すために本願寺派の参戦を取りつけた。
親鸞の開宗以後、いくつかの派閥に分かれていた浄土真宗は、室町時代中期に
蓮如(れんにょ)の活動によって本願寺派、即ち一向宗が強大な勢力を持つようになり、
この一向宗は全国各地で一向一揆(いっこういっき、宗教闘争の一揆)を起こすなど、
軍事的にも絶大な力を発揮していたのである。一向門徒は「死ねば極楽」と信じており
戦って死ぬ事など微塵も恐れていなかった。こうして、細川・木沢・本願寺連合軍は
畠山・三好の軍勢を粉砕し、1532年6月17日に畠山義宣が自刃。
三好元長も同月20日に畿内へ進出していた一族もろとも自害して果てた。
晴元は元長が代官を務めていた幕府料所河内17ヶ所の所領を長政に与え
畿内における元長の勢力を完全に消滅させた。

足利義晴の帰京 〜 細川晴元vs足利義維
この後晴元は、本願寺派の伸張を防ぐ事を狙い、今度は法華宗(日蓮宗)と手を組み
山科本願寺(京都にあった本願寺派の大寺で、現在の東西京都本願寺とは異なる)を焼き討ちし
一向宗の拠点を叩いた。高国を倒すために元長を利用し、元長を倒すため一向宗を利用し、
そのいずれも用済みになると消してしまう、晴元一流の策略である。
この結果、一向宗は本拠を石山本願寺(大坂)へ移さざるを得なくなり、京周辺から撤退。
京都の自治は法華宗に委ねられるようになった。三好元長、次いで本願寺一向宗と、
政権内の巨大勢力を粛清した晴元、次のターゲットは堺公方・足利義維であった。
晴元対元長の戦いにおいて、義維は元長支持に回っており晴元との軋轢が高まっていた。
高国政権の崩壊以来、堺公方府が実質的な幕府機能を運営し、その象徴が義維であったが
“将軍・義晴を追放して政権を簒奪した”“正式な将軍でもないのに幕府頂点に立つ”など、
一般民衆からは支持を得ていなかったのである。この義維を政権から引き摺り下ろし
近江へ逃れた悲哀の将軍・義晴の帰京を実現すれば、晴元の声望は一気に高まると計算したのだ。
身の危険を感じた義維は、いち早く堺を抜けて阿波へ逃亡。晴元は戦わずして義維降ろしを遂げ
義晴との講和、帰京への段取りに専念する事ができた。
1534年9月、遂にに義晴は京都へ帰参。近江国坂本へ退去して以来、7年ぶりの帰京であった。
こうして将軍の帰還を支援した晴元の功績は高まり、磐石の政権基盤を打ち立てる事に成功した。
これは、義維・義晴と、将軍権威が晴元の意のままに操られる事を意味したのである。
晴元による政権掌握は、畿内全般を細川氏によって統治できる程の大規模な影響力を持つに至った。

動乱の京都 〜 細川晴元vs法華一揆
1536年2月、京の自治を行う法華宗と鎮護国家の総本山・比叡山延暦寺の間に衝突が起きた。
延暦寺の学僧と法華宗の宗徒が宗論を交わした事が発端となり、瞬く間に宗教対立に発展したのだ。
もともと、京の自治を取り仕切る法華宗の動向は延暦寺など旧仏教派にとって認め難い事であり
旧体制の権益を維持したい公家や寺社も延暦寺の意見に同調した。
ここに、法華一揆対延暦寺・公家衆・多数派寺社連合という新たな争乱が勃発したのである。
足利義晴らが調停に臨むものの事態は好転せず、細川晴元は法華宗が攻められる事を黙認した。
またも晴元は今まで利用し用済みになった勢力を切り捨てる作戦に出たのであった。
同年7月、延暦寺は法華宗に対し武力攻撃をかけ、京都市街は各所で焼き討ちの火災が発生。
この兵乱を、当時の元号から天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)と言う。
本願寺と同じく、法華宗も京都の地盤を失い凋落。堺へ本拠を移すことになった。
晴元は政権を維持するため、まるで使い捨てのように支持勢力を変えていったのだ。
一方この頃、晴元の天下を脅かす存在が四国で力をつけていた。
三好長慶(みよしちょうけいながよしともである。
長慶は亡き元長の遺児で、わずか10歳の時に父の横死によって三好家の家督を相続、
表面上は晴元への臣従を装いながらも、本拠地の四国で雌伏を続け勢力を蓄えていたのだ。
1539年、17歳に成長した長慶は満を持して2500もの兵を率い京へ進出。
晴元に対して父・元長の遺領である河内17ヶ所の代官職を返還するよう要求したのである。
この要求を晴元は拒絶。ここに、細川晴元と三好長慶の対立が始まった。
将軍・義晴が仲を取り持つものの、両者の関係は改善せず、晴元の政権に新たな火種が灯された。
政治的解決が図れないと悟り、長慶は周囲の状況を見極めながら武力攻撃を開始。
まず手始めに1542年、父の領地を奪った木沢長政を攻撃し河内大平寺で敗死させた。
続いて晴元に対して計略を練る長慶。父の遺恨を晴らす敵討ちが今、開始されたのである。

長慶、時節を覗う 〜 細川晴元vs足利義晴
元長、義維、本願寺、法華宗と、次々に味方を切り捨てる晴元。
その上、長慶との和解を図ろうともしない晴元の態度に義晴は反発する。
1543年に高国の遺児・氏綱(うじつな)が反晴元の兵を挙げ
義晴は氏綱の支持を表明したのだ。これにより氏綱・義晴の両者は晴元打倒で提携。
しかし、強大な勢力を保持したのは晴元であり、氏綱の兵はなかなか晴元を脅かす事ができない。
軍事の要となる長慶も、この時はまだ晴元と事を構えるのは時期尚早と踏んだのか、
氏綱を攻め、晴元との協調関係を維持した。このため、将軍・義晴は自分の地位が危うくなり、
晴元とは武力衝突を避け、政争において化かし合いを繰り広げた。
こうして1546年12月、義晴は将軍位を嫡子・義藤(よしふじ)に譲った。
晴元によって将軍の位を挿げ替えられる前に先手を打ったのである。
即位して間もない1547年7月、義藤に対して晴元が攻勢をかけた。
またもや長慶は晴元に協力、三好軍の実力で義晴・義藤親子を京から追放し近江坂本へ落とす。
三好軍は返す刀で摂津へ出陣し、晴元と対立する細川氏綱・畠山政国(はたけやままさくに)
遊佐長教(ゆさながのり)らの連合軍を叩く。三好軍によるこの軍事行動は、
長慶の勢力を畿内に浸透させるのが狙いであった。あせらず、晴元が疲弊する時を待つ長慶。
氏綱らの敗北により、将軍・義藤は晴元と和睦し帰京。晴元としても、いたずらに将軍家と争うのは
得策ではなかった。斯くして、晴元政権は再び安定に向かったが、しかしこの時既に
将軍家も細川氏も長慶の存在を無視できるような状態ではなくなっていた。

長慶、晴元を追い落とす 〜 細川晴元vs三好長慶
1548年、長慶による次の敵討ちが開始された。狙うは三好政長。父・元長が討たれた際、
三好一族の中で晴元へ迎合し、安泰を図った相手である。政長との交戦は翌年まで続くのだが、
この時、晴元は当然ながら政長へ与した。長慶は政長と晴元の両者と戦いを開始する事になる。
こうなると、長慶は晴元の配下を離脱し、今まで敵対していた氏綱との同盟を結んだ。
1548年10月、長慶軍は遊佐長教軍と連合し三好政長との戦端を開く。戦いは半年以上にも及び
翌1549年6月24日、とうとう政長が敗死した。また1人、長慶の仇討ちは達成されたのだ。
この日の戦いでは、晴元軍も大損害を被った。畿内の情勢は圧倒的に晴元不利へと傾き、
同月28日、京から将軍・足利義藤を連れ出した晴元は近江国坂本へ落ち延びた。
17年続いた晴元政権はここに幕を閉じ、長慶の敵討ちが完成したのである。
7月、晴元に代わって京を制圧した長慶は、実質的に中央政権の支配者になった。
応仁の乱以来、将軍から管領に権力が渡り、細川氏が一族内で争い政権を奪い合っていたが
義藤・晴元が京を追われ、長慶が首班となった今となっては、将軍でも管領でもない者が
権力の頂点に立った事を意味した。故に、長慶が主君であった晴元を追い落とした事は
中央政界における大規模な下剋上と認識されている。
また、これ以後の長慶政権は室町幕府体制を活用しながらも、自らはその機構に入る事なく
一定の距離を置いて政治をコントロールしたために、従来の幕府体制とは異なるものと区別される。
畿内という幕府体制の中心にいながら、その勢力基盤はあくまでも本拠地・四国に依存していたのだ。
よって、三好長慶は“中央政界を握った戦国大名”として特筆できよう。

三好兄弟の結束 〜 執事松永久秀の台頭
さて、三好長慶の強さとはどこから来るものであったか。長慶には弟が数名おり、
それぞれが独立した軍団を編成し、各自の領国で確固たる勢力基盤を築いていた。
長慶の次弟・三好義賢(みよしよしかた)は守護代として本拠地の阿波(徳島県)を守り、
三弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)は淡路水軍の名跡・安宅氏の養子になり
淡路島とその周囲一帯の海域を支配下に収めていた。末弟・十河一存(そごうかずなが)
冬康同様に讃岐(香川県)の名門・十河氏の家督を継ぎ、同地の支配権を確立。
阿波・讃岐という四国東半分と、瀬戸内海・熊野灘の制海権を握る淡路を手中にしていた事は
陸路・海路ともに畿内制圧への進軍ルートと兵站基地を確保したようなもので、
“総司令官”長慶の指示により義賢・冬康・一存の軍は縦横無尽の活動が行えたのである。
父・元長の遺恨を晴らす兄弟は戦乱の世に珍しく鉄壁の結束で固まり、
長子・長慶の戦略を実現し得る強大な政治力と軍事力を保持したのだ。
また、畿内進出を果たした長慶の経済的基盤を支えたのが堺の町である。
政治の中心が京都ならば、堺は経済の中心と言えた。国内の流通は勿論の事、
勘合貿易などの対外貿易活動も行った港町であり、商人による自由な自治が敷かれたため
経済活動を妨げる事なく発展を続ける巨大商業都市だった。この堺を勢力下に置いたため
長慶政権は畿内で磐石の権力基盤を築く事ができたのだった。
堺の統治を任されたのが三好家の家宰・松永久秀(まつながひさひで)
類稀なる計略家である久秀は政治感覚に優れ、堺の町を足がかりにして
三好家の、そして中央政権の事務一切を取り仕切るまでに伸張。されど、その出自は定かでなく
「三好家の執事」として歴史の表舞台に出るまでの経歴は全く不明である。
彼もまた、戦国乱世を利用して成り上がった風雲児と言えた。
こうして次第に三好家を動かすまでに実力を蓄える久秀。貪欲な野心家である久秀を
長慶が腹心と恃み堺の町を任せた事は、実は重大な危険性を孕んでいたのである。

三好氏系図

三好氏系図(異説あり) ―は親子関係 は養子関係




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