流転の中央政界(2)

長年の流浪から復活した義稙と、その過程で権力を手にした高国。
しかし、彼らに追われた義澄・澄元は巻き返しを狙っていた。
将軍家・細川家がこうした対立関係にある中で、
重要な鍵を握っていた存在が西国の雄・大内義興であった。


船岡山の戦い 〜 流転する細川澄元
1509年10月、将軍・足利義稙の寝所を刺客が襲撃した。もちろん、義稙を狙う義澄が放ったのだが
長年の全国放浪で否応無しに護身術を身に着けていた義稙はこれを単身撃退してしまった。
暗殺に失敗した義澄は、今度は真っ向勝負を仕掛けようと各地の軍勢を募り準備した。
本拠地の阿波(現在の徳島県)へ帰国していた細川澄元や、それに味方する細川政賢、
淡路守護の細川尚春(ほそかわひさはる)、高国の専横から仲違いした畠山尚順、
澄元の庇護者であった山中為俊らが義澄方に参集し、1511年7月に京都侵攻作戦を開始。
政権の首班である高国の軍勢は押され気味で政賢軍に緒戦で敗れ、8月には京を明け渡し
義稙・高国の両名は丹波国(現在の京都府・兵庫県の内陸部)へ撤退した。
義澄派の軍は、政権を奪還するかの勢いを見せたのである。ところが、事態は急変。
連合軍の旗頭である義澄が、京都へ発つ直前の8月14日に近江で急逝したのだ。
総大将の訃報に、連合軍は動揺し浮き足立つ。それでも、政権の座を目指す澄元は
「義澄の弔い合戦」として京都の船岡山(ふなおかやま、京都府京都市北区)に布陣し
高国政権の完全排斥を狙う決戦に赴いた。しかし、ここで満を持して大内義興が参戦する。
義澄の死、そして義稙・高国軍と義興軍に挟撃される形になった連合軍は奮戦空しく敗退。
西国最大の軍事力を誇る大内軍に敵うものなく、
政賢と為俊は戦死し、その他の連合軍諸将は散り散りに逃走した。
船岡山の戦いで圧勝した義稙は将軍の位を堅持し
高国・義興による連合政権は猶も長期安定の政治を執るようになる。
一方、敗軍の将となった澄元は再び阿波へ落ちていき、ひたすら復権の時期を待つ事になった。

安芸国人一揆 〜 流転する大内義興
義稙・高国の政権を支える最大の実力者・大内義興。
1508年の上洛以来、義興は長期に渡って軍勢を京に留めていたが
それに追従させられていた安芸国人衆は不満を募らせていた。
本来は独立領主である国人らは、強大な大内氏に逆らえず従っているだけで
国元を離れて京都まで遠征するのは不本意な事だったのだ。しかも、安芸という国は
周防・長門の大内氏だけでなく、出雲・石見(現在の島根県)などを領する大名、
尼子(あまご)氏の脅威にも晒されており、また、国人同士でも利害関係が入り組み
自衛自尊の為には一時さえも油断ならない状況にあった。
このため、大内氏の意向を無視して独断で京都から帰国する者が続出。
さらに1512年、安芸国人衆は遂に立ち上がる。幾多の国人が連携し国人連合を結成。
将軍家や諸大名からの要請は全てこの連合の諮問に図り、結論を出す合議制を取り入れた。
これを安芸国人一揆という。他国に影響されず、独立を保とうとする国人衆の決意表明である。
この参集に「一揆」の単語を当てるが、庶民が施政に反抗して決起する暴動ではなく
国人らが「一致団結して揆に当たる」という意味だ。一揆とは本来そういう言葉であり、
誤った用法ではないので注意してもらいたい。
さて、安芸に国人一揆が成立した事により大内氏の勢力は大きく影響を受ける。
一揆に参加した国人らが必ずしも大内氏に従う訳ではなかったため、
京で政権を維持するばかりか領国の安定もおぼつかなくなった。
大内軍の動員兵力が減少した事で、上記の尼子氏らが大内氏の領国を脅かし始めたのだ。
かつて応仁の乱で父・政弘が苦悩したように、
義興も領国を離れて京に留まる事が危険になってきた。
安芸国人衆を再び従え、尼子氏の脅威に対抗する必要に迫られた義興は
1518年、とうとう京を離れ帰国。安芸国人衆の団結は、中央政界に一石を投じたのである。

高国の独裁政権 〜 流転する将軍位
大内義興の帰国、それは中央政権にとって大打撃であった。強大な大内氏の軍事力によって
高国政権の安定は図られ、澄元ら反高国派の動きを封じていたからだ。
しかも、今までは義稙・高国・義興の三頭体制によって政権が保たれていたので
残された義稙・高国の2人は互いに主導権を握ろうと対立を始めた。
好機到来と早速動き出したのが澄元である。大内軍には敵わないとは言え、
四国の細川軍は精強であり、たちまち入京を果たして高国を京都から追い出した。
澄元軍の中核を担ったのが阿波守護代の三好之長(みよしゆきなが)だ。
三好氏は鎌倉時代末期から阿波に土着した地盤の固さで屈強な軍を擁していた。
1520年の事である。この時、高国と仲違いした義稙は澄元側へ身を投じ、
澄元を細川宗家家督、管領と任じた。高国は後ろ盾となる将軍も、京の都も失ったのだ。
しかし黙って済ます高国ではない。京都から近江国へ逃れ、
同国の守護・六角定頼(ろっかくさだより)の助力を取りつけて
翌1521年春、瞬く間に京都を奪還してしまった。澄元はもろくも敗退し、再び阿波へ落ちる。
しかも、澄元が頼りにした之長は不運にも戦死してしまい、義稙も淡路へ逃亡する嵌めになった。
義稙・澄元を追い出し、之長を死に追いやった高国は政権の維持に成功したのである。
とはいえ、将軍がいなくては幕府の体裁が整わない。苦肉の策として高国が講じたのは
かつての宿敵・足利義澄の遺児である足利義晴(あしかがよしはる)を担ぎ出す事だった。
義晴はこの時わずか11歳。しかも、義稙・高国らの追及を逃れるため
播磨国(現在の兵庫県南部)で守護・赤松義村(あかまつよしむら)に養育されていたが
政権維持のため義晴を必要とした高国は、播磨国へ兵を送り義村から義晴を奪い去ったのである。
こうして1521年12月25日、室町幕府12代将軍として義晴が即位した。
あまりにもえげつない手段で政権を確保した高国。当然、11歳の少年将軍・義晴に実権などなく
高国による独裁政権が誕生したのだった。

寧波の乱 〜 流転する勘合貿易
話題は一転し、勘合貿易について。幕府権威が衰徴してからも、日朝貿易は続いていた。
朝鮮には日本人が多数進出し、これが原因で1510年4月には在留邦人と朝鮮人の間に武力抗争が発生。
当時の対馬島主・宗義盛(そうよしもり)は日本人居留民保護の名目で出兵まで行い
外交問題に発展した経緯がある。この争乱を三浦の乱(さんぽのらん)といい、
朝鮮から日本人が締め出される事態にまで至った。
日朝貿易を最大の収入源としていた宗氏は外交努力を図り、
2年後の1512年に壬申(じんしん)条約を締結し復交を実現したが、こうした外交摩擦は
倭寇(わこう、東シナ海で海賊行為を行う日本人船団)の復活による治安悪化が大きな要因であった。
幕府の力が衰退し、倭寇の取り締まりが弱まった証である。
一方、日明貿易も細々と続いており、幕府権力を握った細川氏と大内氏が船を出すようになっていた。
細川高国と大内義興は共同歩調で政権を維持したパートナーで、これが故に勘合貿易を
両者が取り仕切る事になっていたのだ。しかし、1518年に義興が帰国してからその関係は冷却。
しかも、貿易という莫大な利益をもたらす問題となっては目の色が変わるというもので
次第に細川船と大内船は競争するようになっていく。
その背景には、大内氏と結ぶ博多商人・細川氏と所縁のある堺商人という
国内経済における利害関係も大きく関わっていた。
ついに1523年、明の寧波(ニンポー)に逗留していた細川船と大内船が衝突し
細川方の遣明正使が死亡するという事件が発生してしまう。この紛争で寧波の町は大混乱に陥り
焼き討ちされた細川船は沈没する。海外におけるこの戦闘を寧波の乱といい、
これ以後、勘合貿易は大内氏が独占して行うようになった。

高国、遂に追われる 〜 流転する細川高国
高国に破れた澄元は、失意のうちに1520年阿波で没した。こうして、高国に対する反抗は
澄元の子・晴元(はるもと)に引き継がれる。粘り強く雌伏する晴元は四国の諸将を味方につけ
之長の孫・三好元長(みよしもとなが)ら、阿波国人衆の動員を可能にした。
また、高国が担ぐ将軍・義晴に対抗すべく、義晴の弟である義維(よしつな)を取り込む。
晴元による高国追撃の準備は着々と進行していった。
一方、長きに渡り政権を独裁した高国は、ここに来て小さなミスを犯した。
1526年、一族の細川尹賢(ほそかわただかた)が細川家重臣の香西元盛(こうざいもともり)を殺害、
これを高国が擁護したため、元盛の兄弟である波多野稙通(はたのたねみち)
柳本賢治(やなぎもとかたはる)が離反したのだ。稙通・賢治は晴元へと寝返り、
待ちに待ったチャンスに乗って晴元・元長・義維が四国から堺へ進出する。
政権の維持が難しくなった高国は将軍・義晴を連れて近江国へ逃亡。
1527年、朝廷が義維を従五位下左馬頭(さまのかみ)に任じたため
実質的な幕府権力は堺に居を構える晴元のものになった。
「堺公方」を名乗る義維と晴元の政権は元長の軍事力によって支えられ、
これに敵わない高国は支持者を求めて全国を流浪する嵌めになる。
今まで邪魔者を排除してきた高国が追われる番になったのだ。

天王寺の戦い 〜 流転する三好家
遂に父・澄元以来の悲願を達成し、実権を掴んだ細川晴元。されど、その政権は一枚岩ではなかった。
晴元政権の後ろ盾となる三好元長は、幕府の権威を復活させるべく
近江へ逃れた将軍・足利義晴との和睦を主張した。一方、晴元や柳本賢治は和議を認めず
生き残りを図る高国一派は殲滅すべしとの強硬論であった。意見の相違に辟易した元長は
1529年8月、晴元・義維を残して堺から阿波へ帰国してしまった。
慌てたのは晴元らである。精強な三好軍がいなくなっては、堺公方府の防衛はおぼつかない。
この機を逃さず、高国は復活の行動を起こした。備前国(岡山県東部)の大名
浦上村宗(うらがみむらむね)の助勢を得て1530年に京都へ進軍を開始する。
西から迫る村宗・高国の軍勢を迎え撃つため、まず柳本賢治の軍が出陣するものの
高国の勢いに圧され敗北。賢治は討死した。
さらに晴元方へ与する摂津国(大阪府北部)の諸城が攻略を受け窮地に陥る。
1531年1月、堺から急行した晴元の軍が村宗・高国の軍と対決するが、これも破られた。
2月に伊丹、3月には池田が陥落。堺公方府は風前の灯火となるが、
ここで細川氏の本拠・四国から阿波細川家の細川持隆(ほそかわもちたか持高とも軍が
晴元救援に駆けつけた。同時に、三好元長も晴元方へ復帰する。
意見の対立はあっても、堺公方府そのものが倒れる事は望まぬ所だったので
一度は隠棲した元長も晴元の支援軍を出したのだった。
さらに、播磨国から赤松政村(あかまつまさむら)も晴元加勢に参陣。
これで形勢は逆転し、晴元・義維・持隆・元長・政村の軍によって村宗・高国軍は包囲される事になった。
6月4日、天王寺に布陣する村宗・高国軍へ総攻撃が仕掛けられる。この合戦で村宗は討死、
高国は単身逃亡を図った。が、晴元方の探索を逃れる事ができず
尼崎の藍染屋で大瓶に身を隠している所を発見され捕縛された。
6月8日、尼崎大物(だいもつ)の広徳寺で切腹。享年48歳。
独裁を敷き中央政界を握り続けた高国の最期は、あまりに惨めなものであった。



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