流転の中央政界(1)

応仁の乱以降、天下は麻の如く乱れた。足利将軍家にかつての権威はなく、
前頁に登場した北条早雲のような戦国大名が全国を割拠し、時代の主役となっていく。
だが、中央政権(室町幕府)が消えてなくなった訳ではない。
よく、歴史の教科書では「力を失った足利将軍家に代わり、
細川氏・三好氏・松永氏らが下剋上を繰り返し政権を奪い合った」とだけ書かれるが
その一文だけで全てが語られるほど、簡単なものではなかった。
むしろ、泥沼の政権争奪戦は紆余曲折を続けて複雑に混迷していたと言って良い。
ここからしばらくは、敢えて“教科書に載らない80年”について解説してみたい。


日野富子の死 〜 流転の将軍後嗣問題
足利義尚が陣中で病没し、義政も跡を追うように去っていった。
将軍家に残されたのは“財テクの女王”日野富子だけである。
義尚の後を継ぐ将軍候補とされたのは、足利義視の子・足利義稙(よしたね)
堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院(きょうごんいん)の僧籍にある
清晃(せいこう)であったが、富子の意向で義稙が10代将軍に決定し、1490年7月5日に就任した。
将軍家の妻・母として、そして何よりも幕府財政を牛耳る富子の勢力は
隠然たるものになっていたのだ。しかし、この人事に不満を唱える者もいた。
幕閣最大の実力者にして細川家当主である細川政元である。
義稙は(応仁の乱以来相変わらず戦闘を続けている)畠山政長と親密だったため、
幕府内における細川氏の勢力が衰える懸念があったためだ。
将軍就任後、政長支援を表明し畠山一族の内紛に介入しようとする義稙に対し、
当然、政元は反対の意見に回った。義尚が六角討伐に出陣した時も戦闘を嫌厭した政元は、
今回も畠山氏の争乱に幕府が手を下す事を良しとしなかったのである。
こうした戦闘に参加する事で、応仁の乱のような大乱を誘発しかねなかったからだ。
政元の危惧を他所に、河内国(現在の大阪府内陸部)へ出陣した義稙。
政界の動揺を省みず、専横の振舞いを見せる義稙を見かねて、富子も政元支持に回った。
こうなると孤立するのは将軍・義稙の方である。
1493年4月、政元はクーデターを決行し清晃を擁立。
義稙・政長は追われる立場になり、政元の指示を受けた赤松政則が追討の軍を発した。
これにより政長は自害し、囚われた義稙は龍安寺に幽閉され、後に京を追放された。
還俗した清晃は11代将軍・足利義澄(よしずみ)として即位。
1496年5月20日に富子が没したため、義澄を擁する政元が政権を握る時代がやって来た。

室町幕府将軍系図

室町幕府将軍系図 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係 数字は将軍継承順

政元の政権確立 〜 流転の山城国一揆
1485年以来、山城国南部は国一揆による自治が行われ“百姓の持ちたる国”惣国になっていた。
応仁の乱によって疲弊した室町幕府の力はこの反乱を鎮圧できず、
農民・国人(こくじん、在郷の野武士ら)による統治が数年に渡り続けられてきたが
政元が政権を掌握する時期になってからはとうとう追討が行われた。
細川氏による(将軍ではない所が鍵)中央集権体制が幕府の勢力を好転させた為だが
同時に、国一揆による統治体制に矛盾が発生した頃である事も注目すべき点だ。
そもそも、畠山氏や将軍家の支配に耐えかねて発生した山城国一揆であるが
国衆による自治体制も結局は支配・被支配の関係を構築してしまったのだ。
つまり、武士が農民を支配していた関係が、(選ばれた)農民が(他の)農民を支配する関係となり、
どちらにしても一般民衆が支配を受ける事に変わりはない状態になっていた。
このため、一揆の勢力は急激に衰退。生活が変わらないのなら、
一般の民は何もわざわざ幕府権力に反抗し敵対する必要がないからである。
また、自治の支配者となっていた行政機関内部でも意見の対立が発生。
幕府体制のような1人の守護による統治ではなく、合議による自治体制にあっては
国衆それぞれの利害が対立し、それをまとめるような指導者もいなかったため
惣国の運営が滞るようになっていたのだ。
こうして瓦解した一揆体制の隙を衝き、幕府軍が山城国へ侵攻。
もはや一揆に呼応する農民はほとんどおらず、山城自治衆はあっけなく討伐された。
時に1493年9月の事である。
8年に渡る山城国一揆が鎮圧された事で幕府権力はわずかながら向上し、
それと共に細川政元による権力掌握が確定する。

政元の独裁政権 〜 流転の前将軍・義稙
畠山氏を幕府から切り捨て、山城国一揆の平定を為し、女帝・日野富子も没した今、
意のままに将軍を挿げ替えるほどの力を持つ政元が幕府第一の実力者になった。
三管領家として代々幕政を司り、畿内・四国という京に隣接する要地を領国とする細川家。
応仁の乱以後権威を失墜させた将軍家よりも、政元個人の方が強力な力を持っていたのだ。
中央政界は、独裁者とも言える政元によって運営された。しかし、この政元に抗う者もいた。
政元によって更迭され、京を追放された前将軍・義稙である。
畠山氏の庇護を求め北陸地方を転々としつつ、政元に対する反抗の機会を覗っていたが
強権の政元は警戒を怠らない。政元の専横を嫌った比叡山延暦寺の僧侶は義稙に同調し
細川氏打倒の兵を挙げるべく計画を立てたが、これを察知した政元は1499年7月に先制攻撃を加え
延暦寺は根本中堂や大講堂など、多数の寺堂に火を掛けられて焼失してしまった。
義稙を擁護する畠山氏の影響下にあった大和国(奈良県)にも政元軍が進駐、
大和国の国人衆は抑圧される事になる。さらに畠山氏の分国・越中国(富山県)で一揆を煽動し
義稙を支持する畠山氏の勢力を弱体化させたと言われる。徹底した“義稙いじめ”である。
延暦寺、大和国人衆、越中畠山氏など、義稙に味方する者たちは次々と政元に攻められ
流浪の前将軍・義稙は京都へ入るタイミングをことごとく逸していたのだ。
こうして京を制し独裁政権を維持した政元だが、その人格はやや異常とも言えるものだった。
女嫌いで、修験道に傾倒し、オカルト染みた思考で政局を動かしていたのだ。
延暦寺を焼き討ちしたのは、修験道に没頭するあまり他宗派を攻撃する宗教弾圧の意味もあった。
異様な性癖で政局を動かす独裁者・政元。されど、彼の死はこうした性格が災いして訪れる。

政元の後継者争い 〜 流転の細川家
女嫌いの政元は、当然実子がいない。とかく権力者は色を好むが、政元はその逆で
女性を寄せつけずひたすら修験道にばかり傾倒し、彼独自の社会観で政治を動かしていた。
とはいえ、名門・細川氏の血を絶やすわけにはいかぬので、
1491年に摂関家から澄之(すみゆき)を養子に迎えていた。しかし細川家中はこれに動揺する。
一族には分家が多数あり、政元の後継者はその中からいくらでも選ぶ事ができるのに
血縁の無い摂関家からわざわざ養子を迎える事に抵抗があったのだ。
武家ではない公家から養子を取るのに反対する重臣らの意見に押し切られ、
1503年に分家の阿波細川家から2人目の養子・澄元(すみもと)を迎えた政元。
たまらないのは澄之の方である。政元に請われて摂関家から出されたのに
今更家督を解かれ、澄元に地位を奪われたのだ。斯くして、澄之を擁立する一派と
澄元を担ぐ派閥に分裂し、細川家はますます混乱の渦中に陥ってしまった。
政界の黒幕・政元の後継者争いが激化する事で、各地の守護大名らも影響を受ける。
中でも復権を狙う前将軍・義稙は好機到来と動き出した。
こうした中で事件は起こった。1507年6月23日の夜、政元が自宅で暗殺されたのである。
家督を外された澄之を支援する細川家臣・香西元長(こうざいもとなが)の手の者が犯人で
政元殺害の翌朝には澄元へも襲撃が加えられた。家督奪還を狙い、澄之が強行手段に出たのだ。
黒魔術師・政元の異常な性格とそれによる家督争いは最悪の結果を生み出したのである。
しかし間一髪、澄元は難を逃れ近江国甲賀郡へ脱出し、
現地の将・山中為俊(やまなかためとし)に保護された。
巻き返しを図る澄元は為俊や一族の細川政賢(ほそかわまさかた)高国(たかくに)らの支援を受け
澄之派への攻撃を仕掛ける。軍勢の確保に成功した澄元派はこの戦いに勝利し、
澄之・元長らは敗死した。結果として、政元の後継には澄元が立ったのだが
幕政における細川氏の勢力は衰退してしまう。しかも、細川家中の実権を握るようになったのは
澄元よりも、澄之討伐の軍勢を指揮した高国であった。

大内義興の入京 〜 流転の将軍家(1)
“細川家の騒動”に全国の諸大名は色めき立った。独裁者・政元の政権が不安定になる事で
あわよくば自分が細川氏に代わり中央政界へ進出し、実権を握ろうと目論んだのだ。
今まで細川氏にしてやられていた畠山氏は、紀伊国(現在の和歌山県と三重県の一部)・大和国で
勢力回復の行動を開始。その影にいるのは、前将軍・義稙であった。
義稙自身は、さらに強力な勢力を味方に付けるべく、今まで流浪していた北陸から
1499年に中国地方へ移動、1507年に安芸国(広島県)へ入った。周防・長門(共に山口県)を領有し、
応仁の乱以来絶大な軍事力を維持した大内氏と連携したのだ。大内氏としても、
「政元によって不当に更迭された前将軍を支援する」という名目は望むところだった。
義稙を推し立て京へ乗りこむため、と称して安芸国を支配下に収めようとしたのである。
安芸国は武田氏が守護を務める国であったが、この武田氏は応仁の乱で衰退。
この頃の安芸国内は有力国人衆が割拠し、小国が互いに独立するような状態であったため
大内氏がこれらの国人衆をまとめて制し、安芸国全体をを属国にしようと画策。
安芸の国人衆は、強大な隣国の大内氏に逆らえるはずもなく
前将軍擁護という大義名分があっては、従うしか道はなかった。
こうして、周防・長門に加え安芸の国人衆を従えて、1508年に大内氏当主の
大内義興(おおうちよしおき)が義稙を伴って京都へ進出した。
同様に、今まで義稙と協調していた畠山氏も中央政界へ踊り出る。
1507年に政元が暗殺された事により、翌年には義稙が念願の復権を果たしたのだ。

高国政権の成立 〜 流転の将軍家(2)
細川宗家の家督は澄元が相続したものの、主導権は高国が握っていた。
この状況下で大内義興と足利義稙が京へ上って来たのだが、政権を独裁していた細川氏は
当然、これを阻止しようと考えた。しかし、澄元と高国が争う中で統制が取れるはずもなく
本来の家督である澄元は高国を疑った。というのも、高国の姉は宿敵・畠山氏当主の
畠山尚順(はたけやまひさのぶ)に嫁いでいたからだ。
高国が大内氏・畠山氏を京へ引き入れたと逆恨みする澄元。そんな澄元に対抗するため、
高国は本当に大内氏・畠山氏と手を組み、義稙支持に回ってしまった。
強力な軍勢を率いる大内義興、権威の象徴である足利義稙、
三管領家として細川氏に対抗する畠山尚順の3者に、細川家中から高国が同調するとなっては
権力基盤の弱い澄元と現将軍・足利義澄のコンビは圧倒的不利な情勢に追いこまれた。
こうして、澄元と義澄は京を追われる憂き目を見る。
両名は近江国(滋賀県)へ逃れ、将軍職には義稙が復職した。
高国は義稙によって細川宗家の家督と管領職を与えられ、ここに高国政権が成立する。
長年に渡る放浪から返り咲いた将軍・義稙、西国最強の軍勢を擁する義興、
北陸・大和・紀伊などの大領地を有する尚順、政権を独占し続けた細川氏を代表する高国。
4者の提携は、応仁の乱以降最も安定した政権を作り上げるに至った。
しかし、かつて義稙が政元に京を追放された如く
義澄と澄元は近江で再起を狙っており、中央政界を巡る争乱はまだまだ終わらないのだった。



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